50.影
「――そう、私は“野ねずみ”。やはりと言うべきか、あなたの心の目に映る私は、あの頃のままなのですね。ただ、どうしてでしょう、私の目に映るあなたもまた、幼い頃のお姿のようですが……」
“野ねずみ”が意味深げに答えたとき、僕は驚きのあまり、声を上げそうになった。というのは、“野ねずみ”の声が、先刻耳にしたばかりの女性の声と、全く同じだったからだ。
僕はベッドを降りて“野ねずみ”に近づき、遠慮がちにその顔を眺めてみたが、彼はどこからどう見ても、瘦せっぽちの少年である。
それで僕はすっかり混乱していたが、不可解な点はほかにもあった。
そもそも、“野ねずみ”とは一体何者なのか、見当さえついていなかったのである。
彼の姿を見た瞬間、“野ねずみ”という名を、反射的に口にしていた。
ただそれだけのことだった。
“野ねずみ”とは以前、どこかで出会っていたのだろう――それくらいは想像がついたが、ほかのことは何一つとして分からなかった。
「君はあの頃のままで、僕は幼い姿――これは一体、どういう意味なんだろう?」
率直に疑問をぶつけると、“野ねずみ”は不意に大きく瞳を見開いた。
次いで、微かに震える声で、「私の言っていることが、分からないのですか?」と訊ねてきた。
「……僕に分かるのは、君の名前だけ。ほかは何も思い出せないんだ。実を言えば、自分自身が何者なのかさえ、よく分かっていない」
幾ばくかの躊躇いはあったものの、僕は正直に答えた――と、そのとき、背を向けていた“顔のない男”が、ゆっくりとこちらに向き直ったのが、視界の隅に映った。
“野ねずみ”もそれに気づいたらしく、“顔のない男”に注意深く視線を向けながら、僕を庇うように前へ出た。
「……そうでしたか。では、覚えていないでしょうけれど、私はあなたという人に、一度ならず、この命を救っていただいたのです」
こちらに背を向けたまま、“野ねずみ”がおもむろに口を開いた。
「そして何より、かつて暗闇にあった私の生きる道を、明るく照らし出してくれたのが、ほかでもないあなたでした。だから今度は、私があなたの道を照らす番。そのために、私はここへ参りました」
言い終えると、“野ねずみ”は腰の鞘から銀色の剣を引き抜き、正面に構えた。剣の切先は、少し離れた位置に立っている、“顔のない男”のほうに向けられている。
そしてまた、“顔のない男”も、靄の向こうに存在しているであろう一対の目で、“野ねずみ”を睨み据えていた。
「――聖剣“ラングレス”。また厄介なものを……」
“顔のない男”が不快げに呟いたが、“野ねずみ”は一切の反応を示さず、僕に向かって話を続けた。
「――聞いてください。あなたに一つ、とても大切なお願いがあります」
“野ねずみ”はこちらに首を向け、射抜くように僕の顔を見た。
「自分が何者であったのか、思い出していただきたいのです。あなたは、自分自身を取り戻さなくてはなりません」
「……自分自身を、取り戻す?」
訊き返すと同時に、“顔のない男”が狙い澄ましたように口火を切った。
「――少年よ、“野ねずみ”の話に耳を傾けてはならぬ。何があろうと、己の正体を探ってはならぬのだ」
「……黙りなさいッ!!」
“野ねずみ”が間髪入れずに反論し、僕は黙ってうつむいた。
(僕が、自分自身を取り戻すべきか否か――なぜ二人が、それを巡って対立しなくてはならないのだろう?)
まるで理由が呑み込めず、僕は途端に疑心暗鬼に駆られていた。
「……思い出したまえ、少年よ。そもそも君は、己の過去、延いては己自身から遠ざかるために、自らこの地へ足を運んだのだ」
短い沈黙ののち、“顔のない男”が再び口を開いた。
「私はその手助けこそしたが、それを望んだのはあくまでも、君自身にほかならぬ。……にもかかわらず、この“野ねずみ”とやらは、君の願いを妨げようとしている。よって断言しよう。此奴こそ、我々に仇なす怨敵であるとッ!!」
「――聞くに堪えない詭弁ね」
“野ねずみ”が怒気を含んだ声で返すと、“顔のない男”は乾いた笑い声を立てた。
「……“野ねずみ”よ、兎にも角にも、お前の思惑通りに事は運ばせぬ」
言いながら、“顔のない男”がぱちりと指を鳴らす――と、次の瞬間、我知らず、僕は悲鳴を上げていた。
いつの間にか、十余名に及ぶ首のない少年たちが、“野ねずみ”と僕の周りを、ぐるりと取り囲んでいたのである。
首のない少年たちは、皆一様に粗末な鎧を身につけ、めいめい武器を手に提げている。
加うるに、彼らの首の切断面から、生々しい鮮血が滴り落ちていた――。
「――大丈夫よ、落ち着いてッ!! 私があなたを守るからッ!!」
“野ねずみ”が力強く声をかけてきたが、もはや落ち着いてなどいられなかった。
なぜなら、僕の脳裏には、幼い少年兵たちが、一人また一人と、禍々しき屍兵の手にかかって死んでゆく光景が、鮮明に映し出されていたのである。
ある者は心臓を貫かれ、またある者は首を斬り落とされ、ほんの刹那の間に、物言わぬ骸へと変わり果ててゆく。
中には、真っ青な顔で泣きべそをかきながら、裂けた腹部から飛び出した腸を、体内に収めようと必死でもがいている少年も含まれていた。
“あの日”、と僕は思った。
「――“あの日”、君にとって無二の仲間だった少年兵たちは、皆死んだ。そして君は、彼らを助けることができなかった。誰一人としてッ!! これほど凄惨な過去を、君は取り戻したいというのかねッ!?」
“顔のない男”が問うてきた瞬間、僕の体は独りでに震え出していた。
“あの日”、戦場を満たしていたむせ返るような血の臭いを、僕は再びありありと嗅ぎ取っていたのだった――。
「……嫌だ、もう嫌だッ!! “あの日”のことは思い出したくないッ!!」
待って、と呼びかける“野ねずみ”の声を無視し、僕は無我夢中のまま飛び出していた。
(――間違っていたのは、“野ねずみ”のほうだ。僕は自分の過去を、自分自身を、取り戻すべきではない)
僕は顔を背けながら、首を失った少年兵たちの間をすり抜け、“顔のない男”の背後に身を隠した。
そして、震えの収まらぬ手で、彼の外套の裾を力任せに掴んだ。
「……苦しみに満ちた過去には蓋をして、重い石で封じてしまえば良い。過去を捨て去る権利は、誰にでも許されているのだ。己を取り戻す必要など、どこにもありはしない」
“顔のない男”は囁くように言った。
「――そして少年よ、騙されてはならぬ。“野ねずみ”の存在はまやかしだ。さあ、彼奴の正体を見てみたまえッ!!」
“顔のない男”は強く促しつつ、ぱちりと指を鳴らした。
僕はまるで気乗りしなかったが、それでも彼の背後から恐る恐る辺りの様子を窺うと、つい先刻まで“野ねずみ”が立っていたはずの場所に、黒い靄が漂っている。
間を置かず、その靄の中から姿を現したのは、青いドレスに身を包んだ、長い黒髪の美しい少女だった。
年の頃は十五ほどに見えたが、ぞっとするほど艶めかしい雰囲気を漂わせ、口元には蠱惑的な微笑を湛えている。
互いの目が合った瞬間、少女はスカートの裾を両手で持ち上げ、こなれた会釈をしてみせた――と同時に、僕はあることに気がついた。
……そう、彼女こそ、僕が自らの夢の中で、あの手この手で殺し続けてきた、例の少女にほかならなかった。
悪夢、と僕は思った。
繰り返される悪夢の中で、悪魔、売女と罵りながら、僕は彼女のほっそりとした首を締め上げ、またあるときは、彼女の胸に何度となく刃物を突き立てたことを、思い返さずにはいられなかった――。
「……これで分かったろう。あれが“野ねずみ”の正体だッ!!」
“顔のない男”が、突きつけるように言い放った瞬間、僕は独りでに、目の前の少女の名を叫んでいた。
「――ああ、あぁッ!! メローサッ!!」
メローサという名の響きは、身悶えするほどの不快感と鋭い心痛を、瞬時に僕の心に呼び覚ました。
そして同時に、記憶がフラッシュバックした――。
『――それはね、君が美し過ぎるからよ』
記憶の中のメローサは、僕を真上から見下ろしつつ、歪み切った笑顔でそう語りかけていた。
彼女が握り締めた、革の金貨袋から、一滴、二滴と血が滴り落ちてゆく――。
……ふと我に返ったとき、僕は背後に広がる暗闇に向かって走り出していた。
問答無用で、身体が動いていたのである。
直後、後方から無数の足音が響いてきた。
首のない少年兵たちが、僕のあとを追って駆け出したに違いなかった。
「――よく見て、まやかしよッ!! 私はメローサじゃないわッ!!」
背中越しに、“野ねずみ”の声が聞こえたが、振り返る勇気はなかった。
間を置かず、“顔のない男”の力強い声が、辺りに響き渡る。
「――そうだ、それでいい。この厄介な女は、私が追い払ってやるともッ!!」
脇目も振らず、そのまま走り続けていると、やがて瀟洒な大邸宅が闇の中に浮かび上がった。
それは、かつてゼルマンが両親と暮らしていた、例の屋敷にほかならなかった。
「――屋敷の中は安全だ。死人も女も追っては来れない。さあ、早く中へ入りたまえッ!!」
“顔のない男”の声が、再び後方から聞こえ、僕は遮二無二先を急ぐ――と、そのとき、屋敷の玄関の扉の前に、一人の少年が、両手を広げて立っているのに気がついた。
栗色の髪と、黒目がちの瞳を持つ少年で、白金の甲冑に身を包んでいる。
また少年の足元の地面には、彼自身の体躯を優に上回る、鉄塊のごとき大剣が突き刺さっていた。
「――これ以上、先へは行かせない」
栗色の髪の少年が、決然とした口調で告げ、やむを得ず、僕は足を止めた。
「見たところ、少年時代に返っちまったみたいだが、俺にはハッキリと分かるぜ。あんたなんだろう?」
少年の声色から、強い確信が窺えた。
どうしたものかと困惑しつつ、ふと振り返ると、背後には、首のない少年兵たちが、まるで通せんぼするかのように、ずらりと立ち並んでいる。
これでは、来た道を引き返すことさえままならない。
「……今、外の世界では、あんたの身体を操るゼルマンドと、病み上がりで駆けつけてくれた総主教様が戦っている」
少年は、こちらの戸惑いに全く気がついていないらしく、重々しい口ぶりで話を始めた。
「お年を召され、その力が衰えているとは言え、総主教様がかつて、この国きっての聖光魔術の使い手だったことは、あんたも知っているだろう? 実に情けない話だが、困ったときは毎度のように、総主教様頼りってわけだ。……で、俺とイクシアーナ様は、戦いの隙を突いて、あんたの精神世界へとやって来た。リアーヴェル様の力を借りてな」
「……総主教様? 精神世界? 君は一体、何の話をしているの?」
訊ねると、少年は広げていた両手を下ろし、こちらへ足早に近づいて来た。
それから、僕の顔をまじまじと凝視したのち、唐突に言い放った。
「――歯ァ食いしばれッ!!」
気がついたとき既に、僕の眼前に、少年の握り拳が迫っていた。
かわす間もなく、唸りを上げるような拳に頬を打たれ、僕は盛大に尻餅をついた。
「忘れたとは言わせない。ポリージアでの一件を片付けた直後、俺の横っ面を問答無用で殴ってくれたのは、ほかでもないあんただった。あの一発、目が覚めるほど効いたぜ。一気に視界が晴れてく感じがした。
見失っていた大切なものが、再び見えてくる――そんな風に思えた。だからってわけじゃないが、今回は逆の役回りをさせてもらうぜ。どうだ、目は覚めたか?」
「……申し訳ないと思うけれど、本当に、君の言っていることが分からないんだ。僕は今、色々なことが、上手く思い出せずにいる」
正直に答えたのち、僕は急いで立ち上がった。
次いで、頬に手を当ててみたが、どうしたことか、痛みは全く残っていない。……いや、よくよく思い返してみれば、存分に頬を打たれたその瞬間さえ、痛みは少しも感じられなかった。
精神世界、と僕は思った。ひょっとするとこの場所は、本当に現実の世界ではなく、何者かの――あるいは僕自身の――精神世界だとでもいうのだろうか?
「――それで、君は一体誰なの?」
平常心を保ちつつ、そう訊ねた途端、少年はうつむき、ぎゅっと拳を握り締めた。
心なしか、彼の目には、薄らと涙が滲んでいるように見える。
短い間を置いたのち、彼は不意に顔を上げ、何か眩しいものでも見るようにきつく目を細めた。
「……あんた、本当に何もかも、忘れちまったっていうのか?」
少年はこちらに歩み寄ると、何かにとり憑かれたかのように、虚ろげに僕の肩を揺さぶった。
「僕は、名もないただの少年。“顔のない男”がそう教えてくれた。それ以外のことは本当に、何も分からないんだ。それに、はっきり言ってしまえば、自分の過去も、自分自身のことも、思い出したいという気持ちにはなれない。何だか、とても恐ろしくて……」
そう打ち明けると、少年は僕の肩から手を離し、力なく首を振った。
そして、微かに震える声で言った。
「……嘘であって欲しいが、どうやら、嘘じゃないみたいだ。本当に、何も覚えていない。本当に、何も見えてないんだな。でも、分かる気がする。心の中で人知れず、流し続けてきた涙が、あんたの瞳を曇らせちまったんだ。……なあ、そうなんだろう?」
少年の問いに、何と答えたら良いものか見当がつかず、僕は黙ってうつむいた。
張り詰めた沈黙が、僕たちの間に落ちた。
「――だったら、俺にも背負わせてくれよッ!! あんたが独りで抱え続けてきた、その悲しみってやつをよッ!!」
間を置かず、少年が声を張り上げ、僕は弾かれたように顔を上げた。
「だってあんたは、ブエタナの屋敷の、あの剣の墓標の前で、俺の悲しみまで背負おうとしてくれたじゃないか。自分一人の悲しみだけでも、もう十分過ぎるほど、十分だったはずなのに……。
あのとき、あんたは俺にこう言った。『無理に背伸びをすることも、ときには必要だ。だが、そればかりしていると、自分を見失うことになる。そんな風にはなるな』って。今にして思えば、あの言葉は、あんた自身が必要としていた言葉でもあったんじゃないのか?」
少年の右の目尻から、一筋の涙が流れていた。
僕はそれを目にした途端、言いようのない胸の疼きを覚えた。
「あんたは俺に、自分の正体と、自分の過去を打ち明けてくれた。だから、まるで自分のことみたいに、はっきりと目に浮かぶんだ。あんたはずっと昔から、背伸びしたり、無理ばっかりしながら、それでも足を止めず、前へ前へと進み続けてきた。……むしろ、そうでもしなきゃ、絶対にやってこれなかったはずだ。
そして、前にも言っただろう? 俺たちの関係においては、とにかく力を貸し合うのが当たり前だって。だから、俺にも、……俺にも、あんたの悲しみを、分けてくれよッ!! 背負わせてくれよッ!! そうすりゃ、いくらかでも、肩の荷を降ろせるだろう? 心の涙だって、少しは乾くだろう?」
そう訴えながら、ぽろぽろと涙をこぼし始めた少年の姿を見て、僕は確信した。
彼にとって、自分という人間は、何ものにも代え難い存在だったのだろうと。
そして、自分にとっての彼もまた、全く同じ存在だったに違いないと。
一層胸が苦しくなった僕は、不意に少年から目を逸らす。
――と、刹那、彼の短い呻き声が響いた。
急ぎ見やると、一体どうしたことだろう、少年の肉体が、闇の中に宙吊りになっている。
「……!?」
ほんの束の間、僕は言葉を失ったまま、その場に棒立ちになっていた。
実際のところ、栗色の髪の少年は、闇の中にただ宙吊りになっていたわけではなかった。
周囲に満ちる暗闇よりも、一層暗く際立つ、人間のかたちをした大柄な影が、両手で少年の首を締めながら、その体を宙に持ち上げていたのだった。
影の顔にあたる部分には、真っ赤に濁り切った、禍々しい二つの目が浮かんでいる。
我に返った僕は振り返り、声の限りに叫んでいた。
「――誰でもいい、お願いですッ!! 彼を助けてーーーッ!!」
「――それは、できぬ相談だッ!!」
声高に返事をしたのは、“顔のない男”だった。
少し遠くに立ち並ぶ、首のない少年兵たちのさらに後方の上空に、外套をはためかせて浮遊する彼の姿があった。
「見ての通り、私は今、手一杯でねッ!!」
言いながら、“顔のない男”は左右の掌から、地面に向かって大蛇のごとき漆黒の稲妻を矢継ぎ早に放った。
そして、稲妻の標的となっていたのは、一人の女性だった――が、その姿は案に反して、あの青いドレスの少女、メローサではない。少年のものに酷似した、白金の甲冑を身にまとう、短い銀髪の女性だった。
彼女は両手に握った長剣で、襲い来る稲妻を次々に打ち払いながら、こちらに向かって一直線に駆けていた――。
(……彼女は一体、何者なのだろう?)
心の中で首を傾げた刹那、“顔のない男”の大音声が響き渡った。
「――とにかく、一刻も早く、屋敷の中に入りたまえッ!! さあ、早くッ!!」
直後、苦痛に満ちた少年の呻き声が、再び僕の耳に飛び込んできた。
すぐさま向き直ると、禍々しき影に、なおも首を締め上げられている少年の両膝から下が、半透明と化しているではないか。
このまま放っておけば、彼は消えてしまうに違いない、と僕は予感した。
(――僕自身の力で、どうにかしなくては)
覚悟を決めると同時に、僕は全力で駆け出していた。
そして、勢いを保ったまま、右肩を突き出し、影の足元に体当たりを仕掛ける――と、刹那、影は周囲の闇にスッと溶け、僕は勢い余って地面に身を投げ出していた。
一拍の間を置いて、少年もまた、地面に勢いよく落下した。
「――大丈夫かい?」
急いで身を起こしながら問いかけると、俺は平気だ、と少年は答えた。
「それより、あんたのほうは?」
こちらに訊ねつつ、素早く立ち上がった少年の両脚が、既に元通りになっているのを見て、僕はホッと胸を撫で下ろした――と、そのとき、今度は僕の体が宙に浮かび上がった。
「……ッ!?」
ふと気がつくと、目の前に、例の禍々しき影が立っている。
影の二つの手が、僕の首を締めたまま、高々と宙に持ち上げていたのだった。
影は真っ赤に濁り切った虚ろな眼で、僕の顔をじっと見据えていた。
「――畜生めッ!!」
栗色の髪の少年は叫ぶなり、すぐ近くの地面に突き刺さっていた大剣を、右腕一本で軽々と引き抜いた。
次いで、剣を両手に持ち替え、間髪入れず、影の背に斬撃を浴びせた――が、刃はただ単に、影をすり抜けたに過ぎなかった。
「――何でだよッ!! クソッたれッ!!」
焦りを滲ませた少年の声と、刃が繰り返し空を裂く音が、同時に響き渡る。
片や影は、少年に一切目もくれず、なおも僕の首を絞め続けていた。
だが、実に不可思議なことに、息は全く苦しくない。
意識が遠のいてゆくのを、ただただ感じるばかりである。
ちらと視線を移すと、己の足先は、既に半透明化しつつあった――。
(……僕は、このまま消えてしまうのだろうか? でも、苦しまずに消えてしまえるなら、それもいっそ、悪くはないのかもしれない)
ぼんやり思ったそのとき、影に向かって斬撃を繰り出す少年の背後に、例の銀髪の女性が迫っているのが、視界に映り込んだ。
彼女は、“顔のない男”が上空から放った、槍のごとく鋭い火線をひらりとかわすなり、退がって、と少年に向かって口早に告げた。
攻撃を中断し、大きく飛び退がった少年と入れ替わるように、女性は一気に前に躍り出て、力強く地を蹴って飛翔した。
「――はああああッ!!!!」
叫ぶなり、彼女が頭上高く掲げた剣が、目も眩むような白光を放射した。
そして、落下の勢いそのままに、影の脳天に向かって、存分に刃を振り下ろした――が、影は瞬く間に闇に溶け、姿をくらました。
銀髪の女性は、険しい顔つきのまま、軽やかな身のこなしで着地すると、剣を左手に持ち替えた。
次いで、地面に叩きつけられた僕に向かって、素早く右手を差し伸べる。
しかし、僕は警戒してその手を取らず、自力で立ち上がった。
「……どうして、僕を助けてくれたのですか?」
怪訝に思って訊ねると、彼女は微かに口元を緩め、「私が“野ねずみ”だから」と答えた。確かに“野ねずみ”の声だった。
それから彼女は、手にした銀色の剣を地面に突き刺し、慣れた様子でその前に跪いた。彼女の目は固く閉じられ、両手は胸の前で重ね合わされている。
どうやら、祈りを捧げているらしい。
「……少年よ、何ゆえに、こんなところで立ち止まっている?」
そう問いかけつつ、上空を漂っていた“顔のない男”が、首を失った少年兵たちの前に、ゆっくりと降り立った。
「屋敷はもう目の前だ。あとは扉を開きさえすれば、君の願いは成就する。さあ、早くッ!!」
“顔のない男”が、力強い口調で言い放った瞬間、地面に突き立てられた“野ねずみ”の剣が、突如として、目が眩むような白い閃光を放った。
「……ッ!?」
ふと気づくと、半球状の淡い光の幕が、僕たちを取り囲むように広がっていた。光の内側にいるのは、僕と“野ねずみ”、そして栗色の髪の少年の三人だけである。
“野ねずみ”は目を開いて立ち上がると、僕に向かって微笑みかけた。
「――安心してください。この結界の中にいる限り、闇なる意志を持つ者は、私たちに一切手出しできません。声を届けることさえ許されないのです」
改めて間近で見る“野ねずみ”は、精緻な芸術品のごとく美しく、また神々しく、まるで宗教画の中から抜け出て来た人物そのものと言えた。
瘦せっぽちの少年兵としか映らなかった“野ねずみ”の正体が、これほど美しい女性だったという事実を、僕は上手く呑み込めずにいた。
「とは言え、念には念を入れて、用心しておく必要があります。レジアナス、外の様子を見張っていてください」
“野ねずみ”が告げると、栗色の髪の少年――そうだ、彼の名はレジアナスだ――は、お任せくださいと返答し、恭しく頭を下げた。
それから彼女は、「“あの日”に関して、どうしても伝えておきたいことがあります」と僕に向かって切り出し、それからこう続けた。
「あなたは“にんじん”について、覚えておいでですか?」
“にんじん”という名の響きに、たまらない懐かしさを覚えると同時に、赤毛で赤ら顔で、妙にひょろひょろとした少年の姿が、鮮明に僕の脳裏に蘇った。
“にんじん”、と僕は思った。
記憶の中の彼は、僕に向かって手を振り、「おーい、兄貴ッ!!」と呼びかけていた。
「……覚えている。僕と“にんじん”は戦友だった。あいつが最初に、僕を“兄貴”と呼んだ。このことだけは、はっきりと思い出せる」
そう答えると、“野ねずみ”は安堵したように微笑を浮かべたのち、おもむろに話を始めた。
「今から八年ほど前の、ある日のことです。剣の稽古をしていた最中、“にんじん”は“野ねずみ”に――つまりは私に、こう言いました。『俺たちはもっともっと強くなって、兄貴に守られるんじゃなく、むしろ、兄貴を守れるようにならなくちゃいけない』と。
そのときの“にんじん”の口調が、いつになく真剣だったので、私は気になって訊ねました。どうしてそう思うのかと。すると彼は、『何がなんだかよく分からないこの戦争で、もし兄貴に死なれでもしたら、一生悔やんでも悔やみきれないからだ』と答えました。しばらくの間、“にんじん”は考え込むように黙っていましたが、やがて口を開きました。
『この義勇軍においては、互いの過去を探り合うのはご法度だし、兄貴がどんな過去を背負っているのか、俺には想像もつかない。それでも、俺には分かるんだ。兄貴は本当の意味で、人の痛みを知っている人だって。だから兄貴は、傷ついたり、困ったりしている人を、放っておくことができないんだ。きっと自分のことみたいに、他人の痛みを感じてしまうんだろう。
そして兄貴は、どんな痛みにも、どんな困難にも、負けずに生きてきた人でもある。その証拠に、兄貴は戦場でどれほどまずい状況に陥っても、決して諦めたりはしない。大丈夫だ、必ず道はある。そう言って、どんなときでも、本当に道を切り拓いちまうんだ。そんな兄貴の姿を、“野ねずみ”だって、実際に見たことがあるだろう?』
そう訊ねてきた“にんじん”に、『もちろん。彼の戦う姿には、いつも勇気づけられている』と私は返しました。すると“にんじん”は、大きく顔を綻ばせてこう言いました。
『俺たちみたいに、世間から爪弾きにされてきた、寄る辺のない人間でも、己の力で道を切り拓くことができる――兄貴は剣の稽古を通して、あるいは、戦場で自分の背中を示すことによって、そう語ってくれている気がするんだ。頼もしい兄貴の背中を目にするたび、俺はいつも感じる。大丈夫だ、必ず道はある。それはきっと、本当なんだろうって。
知っての通り、この国では、本当にひどいことばかり起きている。もっとまともな世の中なら、俺も“野ねずみ”も、義勇軍に身を置く以外の生き方を選べただろうけど、実際問題、ほかに選択肢はなかった。それが現実さ。でも、そんなひどい世の中だからこそ、兄貴みたいな人が必要なんだ。大丈夫だ。必ず道はある――誰だって、そう思いたいはずだし、だからこそ、それを証明してくれる、兄貴みたいな人が必要ってわけさ。
兄貴の背中は、これから先もずっと、たくさんの人々を勇気づけ、励まし続けてゆく。これは間違いのないことだ。だから兄貴には、何が何でも生き続けてもらわなきゃ困る。俺たちが、兄貴を守れるくらい強くなる必要があるって言ったのは、つまりはそういうことさ』」
ふと気づくと、僕の頬を熱い涙が伝っていた。
どうしてだろう、涙は次から次へと溢れてくる。
「“にんじん”をはじめとした少年兵たちが、“あの日”死地へ赴いたあなたを救いに行った理由が、私にはよく分かります。彼らは皆、危険だと分かっていても、たとえ自らの命を犠牲にしてでも、あなたの力になりたかったのです。心の底から、あなたという人に、生き続けて欲しかったのです。
“あの日”、あなたもまた、何が何でも少年兵たちを救おうとした。ゆえに、彼らの目の前で、公然と“暗黒魔術”を用いた。元よりあなたは、彼らの犠牲を出すまいと、戦場で隠れて“暗黒魔術”に頼り、どんなときでも道を切り拓き続けてきた人です。そんなあなただからこそ、“あの日”、“暗黒魔術”に頼らざるを得なかったということが、私にはよく分かります。
……そう、“あの日”の出来事は、あなたと少年兵たちが、互いを想い合う強い気持ちによって引き起こされた悲劇です。あなたも彼らも、お互いのために最善を尽くした。それでも起こってしまった悲劇なのです。ほかに例えようがありません。
だから、“あの日”のことで自分を責めるのは、もうやめていただきたいのです。そして、どうかご理解ください。少年兵たちが命を落としたのは、断じてあなたの責任ではないと。彼らの死はあくまでも、憎むべき戦役が招いたもの。この点は、誰が何と言おうと、動かざる真実です」
ふと見やると、“野ねずみ”もまた、涙を流していた。
彼女は涙を拭おうともせず、話を続けた。
「“にんじん”たちの早過ぎる死は、あまりに悼まれるものでしたが、それでも、彼らの志は現実に実を結びました。だって、あなたという人は、こうして今日も生き続けているのですから。……そう、彼らは皆、幼いながらも、己の全てを賭して志を遂げた、誇り高き兵士でした。私には、ただ偏に、そう感じられるのです。
そして、“あの日”を生き抜いたあなたは、“にんじん”の言葉通り、今日という日まで、自らの背中をもって、たくさんの人々を勇気づけ、励まし続けて参りました。我を見失いかけても、己と“暗黒魔術”との結びつきを強めてもなお、正しい心根だけは、決して手放さなかったのです。これまで歩んできた、己の道のりの全てを、あなたはただ、誇るべきです」
震える声で告げるなり、“野ねずみ”はこちらに歩み寄り、僕の体を強く抱きすくめた。
彼女の抱擁を受けている間、僕は黙って涙を流し続けていた。
同時に僕の脳裏には、少年兵たちが流した血を己の力と変え、死に物狂いで戦い続けた“あの日”の記憶が、はっきりと蘇っていた。
……そう、僕は彼らの流した血によって、“あの日”を生き延びることができたのだ。
「――それから、“にんじん”はこうも言っていました」
“野ねずみ”はハッとしたように言葉を継ぐと、静かに抱擁を解き、澄んだ緑色の瞳で、僕の顔をじっと覗き込んだ。
「『兄貴の心には、曇り一つない、真っ直ぐな剣が宿っている。兄貴はそれを、片時も手放さず、毎日毎日鍛え続け、決して折れることのない剣に仕立て上げた。兄貴の強さは、そんな風に思わせるところがある』と。だから――」
“野ねずみ”が言いかけて、咄嗟に背後を振り返ったとき既に、彼女の体は宙吊りになっていた。
またしても姿を現した、例の黒い影が、彼女の首を締め上げていたのである。
しかし彼女は、苦痛に満ちた切れ切れの声で、なおも話を続けた。
「だから、手を伸ばして、掴むのです。あなたの、心に眠る、決して折れることのない、真っ直ぐな、剣を……」
“野ねずみ”が言い終えた途端、瞬時に光の結界が消え去り、再び暗闇の世界が戻った。
(この影は、なぜ結界内に侵入できたのだろう? ……いや、あるいは最初から、結界内に身を潜めていたのだろうか?)
疑問が頭をかすめたが、今はそんなことに構っていられる余裕はない。
僕は地面に突き立てられた“野ねずみ”の剣を引き抜くと、身を屈めて影に駆け寄り、その足元に向かって、力の限り斬撃を見舞った――が、刃は虚しくも、影をすり抜けたに過ぎなかった。
返す刃で、今度は胴を払ったが、結果は同じだった。
「頼む、イクシアーナ様を――“野ねずみ”を救ってくれッ!! 思念体のままやられちまったら、現実世界の俺たちの身体は、ただの抜け殻になる。死んだも同然になっちまうんだッ!!」
声の枯れんばかりに叫んだのは、レジアナスだった。
一瞥すると、彼は鉄塊のごとき大剣を盾代わりにして、“顔のない男”が放ったと見える漆黒の稲妻を防いでいた。
結界が解かれたことで、レジアナスと“顔のない男”は、交戦状態に陥った様子である。
(――僕自身の力で、何としても、“野ねずみ”を救い出さなければ)
自らを奮い立たせながら、僕は剣を捨て、今度は影の足元に体当たりを仕掛けた――が、何の手応えも得られず、勢いのままにすっ転ぶ。
即座に立ち上がると、早くも半透明と化した“野ねずみ”の下半身が、出し抜けに視界に映り込んだ。
絶望と無力感が、瞬時に僕の心を捉えた――。
「――レジアナス、教えてくれッ!! 僕は一体、どうすればいいッ?」
無我夢中のまま、声を張り上げると、「いいか、よく聞けッ!!」とすぐさま返事があった。
見やると、レジアナスは四方を跳ね回りつつ、上空から相次いで飛来する槍のごとき火線を、間一髪のところでかわし続けていた。
「――ここは、あんたの精神世界なんだ。だったら、その答えも、あんた自身の中にきっとある。“大丈夫だ、必ず道はある”――そうなんだろう、“兄貴”ッ!!」
レジアナスに“兄貴”と呼ばれた瞬間、不意に体の奥底から、熱く燃えるように力が湧き上がってきた。
僕は目を閉じ、極限まで神経を研ぎ澄ませ、己に言い聞かせていた。考えろ、必ず道はある、と。
「思い出せッ!! “夜の暗さを知る人間のほうが、より明るく地上を照らし出せる”――この言葉が、この世の誰よりも相応しい男。それがあんたなんだッ!! あんたに切り拓けない道はないってことを、今までみたいに証明してみせろよッ!! 俺の知ってるあんたは、必ずそれをやってのけられる、この世でたった一人の男だ。そうだろ、ケンゴー!! ……いや、イーシャルッ!!」
レジアナスが、声の限りに名を叫んだ刹那、凄絶なる稲妻のごとき何かが、全身を駆け抜けていった。同時に、頭の中に散在していた点が、一つの線ではっきりと結び合わされる。
――次の瞬間、俺は既に悟っていた。己が何者であったのかを。さらには、己の為すべきことの全てを。
そして、俺は即座に目を開いた。
(――夜の暗さを知る人間のほうが、より明るく地上を照らし出せる)
心の中で反芻しつつ、俺は影の背に向かって、はっきりと言葉を突きつけた。
「――影よ、聞け。お前の正体は既に看破した」
影は禍々しき赤い双眸で一瞥をくれると、イクシアーナの首から両手を離し、ゆっくりとこちらに向き直る。
力なく地面に頽れた彼女の下半身が、元通りに返ってゆく様を確かめたのち、俺は言葉を継いだ。
「――お前の正体は、俺の“夜の暗さ”。即ち、俺自身の影だ」
刹那、影の全身に、地割れのごとき無数の亀裂が走る。
間を置かず、剥がれ始めた影の表皮は、相次いで地面に衝突し、硝子のごとく砕け散った。
そうして露わになった影の正体は、紛うことなき俺自身だった。
傷跡だらけの顔、乱れ切った頭髪、草臥れた甲冑――目に映るどこもかしこも、返り血を浴びて真っ赤に染まり切っている。
こちらを見据える、抜き身の刃のごとき二つの眼は、烈しく血走り、異様な光を宿していた。
まさしく、血の報復者と呼ぶに相応しい相貌だった。
「“あの日”を境に俺が生んだ、純粋なる憎悪に付き従う、一個の殺戮の機械。あるいは、密告者への復讐を企て、“英雄殺し”となり得たかもしれぬ、仮説的なもう一人の俺――それが、お前なのだろう?」
問いかけると、影は無言のまま、べっとりと付着した頬の返り血を、見せつけるように右手で拭い取った。
次いで、指先より滴り落ちる血液から、瞬時に“血の剣”を創出し、おもむろに両手に構えた。
「――ほう、どちらが勝つか、なかなかの見物ではないか」
背後から声が聞こえ、ちらと一瞥すると、そこにはいつの間にか、“顔のない男”が腕組みをして立っていた。
一方、影の肩越しに、イクシアーナとレジアナスの姿が見えた。
レジアナスの手を借り、ゆっくりと立ち上がったイクシアーナは、俺の目を真っ直ぐに見て、「信じてください。あなた自身の力を」と言った。
俺は二人に向かって頭を下げ、それから心を込めて言った。
「――レジアナス、イクシアーナ。俺を救いに来てくれたこと、言葉では言い表せぬほど感謝している」
「……そんなことはいいッ!! 影がッ!!」
レジアナスが叫んだとき、既に駆け出していた影が、俺の眼前で“血の剣”を高々と振り上げていた――が、とうに覚悟を決めていた俺は、その場から一歩たりとも動かなかった。
刹那、容赦のない一撃が、俺の左肩に振り下ろされた。
「――影よ、俺の話を聞いてくれ」
左肩に深々と喰い込んだ刃の侵攻を、両手で必死に食い止めながら、俺は影の双眸を見据えて言った。
「戦役が終息したのち、“あの日”を境に生まれたお前を、俺は心の暗部に葬り去った。いつまでも、殺戮の機械でい続けるわけにはいかぬと考えたのだ。新しい現実に、己を適合させなくてはならぬと、俺は自らに言い聞かせた。
だが、今になってよく分かる。それは、表面的な理由付けに過ぎなかったのだと。結局のところ、“あの日”がもたらす心臓を貫くような痛みに、俺は耐えかねたのだ。そして俺は、何もかも忘れ去ることを願い、“あの日”と分かち難く結びつき、それゆえ禍々しく歪んだお前を切り捨てた。……いや、お前だけではない。“あの日”に連なる全ての過去を、俺はお前と共に切り捨てたのだ。
過去を切り捨てること――思えば、それは予てから俺にとって、生き抜くための常套手段だった。元はと言えば、義勇軍に入隊したのも、メローサに裏切られた過去と、心に深手を負った己自身を切り捨てるためだった。あの頃の俺は、傷つくこと即ち弱さだと考えていた。従って、過酷な戦場を渡り歩けば、決して傷つくことのない、強い己に生まれ変わることができると信じた。
……しかし、俺は幸いにも知ることができた。“本物の強さ”とは、もっと別なかたちのものであると。それを教えてくれたのは、義勇軍で得た、無二の仲間たちにほかならなかった」
ふと見やると、俺の上半身は既に半透明化しつつあった。
痛みこそないが、己の思念体が消失してしまうのは、もはや時間の問題なのだろう。
だが俺は、必ず持ち堪えられると信じ、話を続けた。
「かつて、“にんじん”は俺に言った。『俺が兄貴みたいに強くなれたら、みんなを勇気づけることができる。だから、俺は強くなりたいんだ』と。
自らの願いに向けて、真っ直ぐに突き進む、あいつの強い心持ちが、薄暗い過去を背負っていた俺たちの表情を、明るく変えた。いつしか俺たちは、他愛もない冗談を言い合って、ごく自然に笑えるようになり、困ったときはいつでも、互いに肩を貸し合う仲になった。俺がついぞ知ることのなかった、しかし心から願っていた世界の在り様が、そこにはあった。彼らと共に生きた時間は、俺が生まれて初めて手にした希望だった。
そして、俺は今、再び真正面から過去と向き合えるようになった。レジアナス、イクシアーナ、ケンゴー少年――様々な出会いが、俺の背中を押してくれたお陰だ。なればこそ、俺はようやく理解することができた。“本物の強さ”とは、誰かに希望をもたらす力であると。無二の仲間たちは、希望が何たるか、“本物の強さ”が何たるかを、俺に教えてくれた」
今や俺の全身は、ほぼ透明になりかけている。
己の意識は薄らぎ、両手に込めた力も、急速に弱まりつつあった。
しかし俺は、心臓に向かって沈んでゆく刃を、力の限り押し返しながら、影に向かって一歩ずつ歩み寄った。
そして、残された全ての力を振り絞って語りかけた。
「……あのころの俺は、仲間たちと共に“本物の強さ”を求めた。そうして過ごした日々が、俺という人間の土台を作り上げた。それは紛うことなき、俺自身の最良の一部だった。にもかかわらず、俺は自らそれを切り捨て、己を見失い、現実世界を彷徨う亡霊と化した。それがこれまでの俺だった。
――影よ、許して欲しい。誤っていたのは、俺のほうだ。過去を見つめる力を持たなかった俺は、“あの日”に連なる全ての過去と、それに分かち難く結びついたお前を、断ち切ることしかできなかった。それは己自身を殺すことでもあった。断じて犯してはならぬ過ちを、俺は犯したのだ。
しかし、その過ちを犯したからこそ、俺は身をもって知ることができた。お前に、……いや、この俺自身に必要だったのは、ただ一つ、こうすることだった」
覚悟を決めた俺は、既に心臓近くまで達していた刃から手を離した。
そして、精一杯両手を差し伸ばし、影の身体をしかと抱擁した。
悲しみも喜びも、何もかもが詰まった、己の過去に相応しい手触りが、そこにはあった。
――刹那、全てを覆っていた暗闇が消失し、辺りに眩い光が満ちた。
その光の中で、俺は頬に刻まれた傷跡に、我知らず両手を当てていた。
それから我に返り、己の掌を見やると、それは少年の掌ではなくなっていた。
胼胝と傷跡にまみれた、無骨で醜い、いつもの見慣れた掌だった――と、そのとき、誰かに呼ばれたような気がして、不意に背後を振り返った。
すると、そこに立っていったのは、数え切れぬほどの少年兵たち――そう、かつて最良の日々を共に過ごした、無二の仲間たちだった。
彼らはもう、誰一人として、傷も負っていなければ、首も失ってはいない。彼らが匿名的な死者としてではなく、一人ひとりの顔のある存在として己の心に蘇ったことを、俺は悟った。
そして、彼らの先頭に立っていたのが、“にんじん”だった。
彼は俺の顔をじっと見つめながら、励ますようにうなずいてみせたのち、屈託ない笑顔を浮かべた。
俺もまた、“にんじん”に向かって、しっかりとうなずき返す。
次いで、仲間たち一人ひとりの顔を眺めていると、想いが言葉となって溢れた。
「俺には、いつか皆に伝えようと思いながらも、結局伝えそびれてしまったことがある。俺は、……俺は、みんなに“兄貴”と呼んでもらえて、幸せだった。こんな俺を、“兄貴”と呼んでくれて、ありがとう」
刹那、“にんじん”をはじめとしたかつての仲間たちは、光に溶けて見えなくなった――。
* * *
ふと気づくと、辺りの風景は、廃墟と化した家屋が散在する、荒涼たる不毛地に切り替わっている。
それは俺自身が過去に目にしてきた、数多の戦場跡の集合体のごとき様相を呈していた。
そして、少し離れた直線上の地点に、“顔のない男”が唯一人立っていた。
「……イーシャル。お前という男は、やはり一筋縄ではいかぬようだ。だが、それでこそ、私が認めた唯一の男」
言いながら、ゆっくりとこちらに歩み寄って来た“顔のない男”に向かって、俺はその名を呼んだ。
「――ゼルマンド、……いや、ゼルマンッ!!」
刹那、“顔のない男”の顔を覆っていた靄が吹き飛んだ。
暴かれたその素顔には、以前とは違い、まざまざと血肉の通った表情が刻まれている。
細く吊り上がったゼルマンの眼には、好敵手を前にした一介の兵士のごとき峻烈なるギラつきが、隠しようがなく宿っていた。
一方、口元には、老獪なる知将のごとき笑みが湛えられ、眉間と高い鼻梁には、刃のごとき縦皺が深く刻まれている。
ゼルマンの真なる相貌を目の当たりにした俺は、改めて痛感していた。
この男は、二十五年もの歳月を戦い抜き、修羅道を邁進し続けた、紛うことなき百戦錬磨の将であり、一人の兵でもあるのだと。
そして、この男こそ、俺が己の肉体を取り戻すために越えねばならぬ絶対的な壁であり、最後の試練なのだと――。




