49.顔のない男
やがて目を覚ますと、僕は広大な庭園の只中に立っていた。
見渡す限り、よく手入れされた芝生と、美しい木々が広がり、庭園の中央には、幅の広い道が一直線に通っている。
そして、その道の先には、瀟洒な大邸宅が建っており、いかにも重厚そうな玄関の扉の前に、アッシュグレイの髪の紳士然とした男と、エプロンドレスに身を包んだ女中たちが並んで立っていた。
(……ここは、どこだ?)
心の中で首を傾げた瞬間、何者かが僕の肩に手をかけた。
ハッとして、我知らず振り返ると、燕尾服をまとった初老の男が、僕の真後ろで、大きな革鞄を提げて立っている。
さらに、彼の背後には、四頭仕立ての大層立派な馬車が見えた。
どうやら僕たちは、この馬車に乗って、今しがたこの大邸宅に到着したばかりのようだった。
「――さあ、坊ちゃま。皆、待っておりますよ」
促すように初老の男が言うと、僕は一目散に駆け出していた。
……いや、というよりは、文字通り、体が勝手に動き出していたのである。
(――どうやら、僕はこの“坊ちゃま”と呼ばれる少年に、同化しているらしい)
それはかつて体感したことのない、実に不可思議な感覚だった。
僕は“坊ちゃま”と視点を共有していて、自由に思考することもできたが、それ以上でもなければそれ以下でもなかった。
……そう、現実に僕が許されていたのは、あくまでも“坊ちゃま”の視点を借りることだけで、彼の身体を自由に操るなどもってのほかだった。
要するに今の僕は、“坊ちゃま”の身体に憑りついた、霊体のごとき存在と言えた。
「――ただいま、お父様ッ!!」
“坊ちゃま”はそう叫ぶなり、父親――アッシュグレイの髪の紳士である――の分厚い胸に、勢いよく飛び込んだ。
「嗚呼、我が愛しのゼルマン、寄宿学校での新生活はどうだったね?」
父親は“坊ちゃま”を力強く抱擁したまま、深みのある穏やかな声で訊ねた。どうやら、“坊ちゃま”の名前は、“ゼルマン”というらしい。
「……うん、楽しんでるよ。上手くやれてると思う」
ゼルマンはそう答えるなり、父親から体を離し、「ところで、お母様の具合は?」とそわそわした声で続けた。
「心配は要らない。ここ最近は、ずいぶんと調子が良いみたいでね。今日も朝からずっと、お前の帰りを心待ちにしていた。さあ、一刻も早く、その元気な顔を見せてやろうじゃないか」
父親がそう言うと、ゼルマンは「はい!」と弾んだ声で返事をして、重い玄関の扉を押し開いた。
それから、彼は我先にと広いホールを抜け、二階へ続くらせん階段を一息で登り切ると、迷わず廊下を進み、突き当りの部屋の前で立ち止まった。
「――お母様、ただいまッ!!」
溌剌と言いながら、ゼルマンが扉を開けると、陽光の差し込む窓際に置かれたベッドから、彼の母親がゆっくりと身を起こした。
母親は目鼻立ちのはっきりとした美しい女性で、年の頃は二十代半ばから後半といったところに見えたが、その頭髪は老人のように真っ白だった。
おそらくは、その若さと老いが混在した神秘的な容姿のせいだろう、彼女は絵画の中の人物のように、血肉の通った感じがせず、また不思議と母性を感じさせなかった。
「……こうしてあなたと会える日を、ずっと待っていたわ」
母親は囁くように言いながら、駆け寄ってきたゼルマンを抱き締め、額に軽く接吻し、それから慈しむように我が子の髪をかき上げた――と、そのとき、母親のくすんだヘーゼル色の瞳が、キッと見開かれた。
そして彼女は、無表情のままこう訊ねた。
「――ねえ、頭に大きな傷がついているけど、これはどういうことかしら?」
「……いや、別に、ちょっと転んだだけ」
ゼルマンは素っ気なく答えると、飛び退くように母親から離れた。
次いで彼は、急いで髪を整え、側頭部に拵えたらしい傷を隠した。
「――服をお脱ぎなさい、ゼルマン」
数秒の固い沈黙ののち、母親が唐突に告げると、ゼルマンは押し殺したような声で、「どうして?」と訊いた。
「――どうしてもよッ!!」
母親はヒステリックに叫ぶなり、素早い身のこなしでベッドから降りた。
そして、その場に棒立ちになっていたゼルマンの衣服を、無理矢理脱がせにかかったのである。
「――嫌だ、お母様、止めてッ!!」
ゼルマンは抵抗したものの、まだ幼い少年である彼は、病身と見える母親よりも非力だった。
彼が身にまとっていた、シルクの肌触りの良いシャツは、あっという間に剥ぎとられ、音もなく床に落ちた――。
「……ッ!!」
母親はハッと息を呑んだが、それも無理からぬことだった。
ゼルマンが恐る恐るといった風に視線を下に移すと、彼の胸部から腹部にかけての至るところに、赤紫色の内出血の跡が残されているのが映った。
それらは殴打の跡か、あるいは投石で受けた傷跡のように見えたが、どちらにせよ、転んでついた傷ではない、という点は明白だった。
ゼルマンが無言のまま唇を噛んだ途端、彼と母親の間に、一層張り詰めた緊張が走る――と同時に、背後から固く強張った声が響いてきた。
「……ゼルマン、その傷はどうした?」
ゼルマンがおもむろに振り返ると、開きっ放しのドアの前に、彼の父親が立っていた。
父親は眉を寄せて額に手をやりながら、小さく首を振っていた。
まるで、今こうして目にしている息子の姿が、受け入れ難い現実だと言わんばかりに、である。
「……僕のことを、“ツヴァール”とか、“穢れた血”と呼んで、石を投げつけてくる連中が、学校にいるんです」
ややあってから、ゼルマンは静かな声でそう告げた。
次いで、彼は覚悟を決めたように、小さな拳をぎゅっと握り締めた。
「――お父様、お母様、教えてください。“ツヴァール”とは、一体何なのですかッ!?」
ゼルマンが声を荒げた瞬間、母親は俄かに悲鳴を漏らした。
そして、両手で顔を覆いながら、「何もかも全部、私のせいなのよッ!!」と狂ったように喚き出した。
しばしの間、父親と息子は、呆気にとられたように口をつぐんだまま、錯乱した母親の姿を眺めるともなく眺めていた。
「――このように決断することは、私としても心苦しいが」
やがて、父親は息子のほうに向き直り、無理に絞り出したような声で話を切り出した。
「もう二度と学校へ行くな。その代わり、一流の家庭教師をつけてやろう」
「……でも、皆が皆、僕に嫌がらせをするわけじゃないんです。数は少ないですが、親しい友だちだってできました」
一層強く拳を握りながら、ゼルマンは震える声で父親に反論し、それからこう続けた。
「それに、僕の魔術の才能はすごいって、先生たちはこぞって褒めてくれるんです。授業だって楽しいし、正直に言って、学校は辞めたくありません」
「……もう二度と、学校へは行かせない。これは、既に決まったことだ」
父親はそう言うなり、くるりと背を向け、そのまま部屋を出て行った。
残されたゼルマンは、すすり泣きを始めた母親から目を逸らし、窓の外を呆然と見やった――。
(そもそも、ゼルマンとは何者なのか? なぜ僕は、彼に同化しているのか? そして、“ツヴァール”とは一体……?)
依然として、分からないことだらけではあったが、僕は自らの宿主たるゼルマンに対し、少なからぬ親近感を抱き始めていた。
どこか狂気じみた、後ろ暗い何かを感じさせる両親とは対照的に、ゼルマンは真っ直ぐな心の持ち主であり、また幼いながらに良識と礼儀正しさを持ち合わせているように思えた。
(――この先、ゼルマンの身に、何か悪いことが起きなければいいが)
そう願ったとき既に、周囲の風景は切り替わっていた。
僕の視界に、真っ先に映り込んだのは、机の上に開かれた、魔術教本の一頁だった。
そこに記された術式は、いずれも難解で、見ているだけで気が滅入ってくるような代物である。
そして僕は、案の定と言うべきか、なおも身体の自由を取り戻せていなかった。
相も変わらず、憑依霊のごとく、宿主の視点を借りているだけの存在らしい。
(――おそらく、ゼルマンとの同化が、まだ解けていないのだ)
思ったそのとき、遠慮がちなノックの音が耳に入った。
そして間を置かず、年配の女性らしき声が響いてきた。
「……あの、坊ちゃま、朝食のご用意が出来ました」
「分かりました、すぐに参ります」
僕の宿主が返事をした。
その声は、案に違わずゼルマンのものだったが、つい先刻よりも、ずっと低く落ち着いたものに様変わりしていた。
どうやら彼は、既に変声期を過ぎたらしい、と僕は思った。
となれば、場面が転じる一瞬の間に、少なくとも五年近くの歳月が経過した勘定になる。
無論、その道理こそ分からないが、そう考えるほかなかった。
「……やれやれ、良いところだったのに」
ゼルマンは机の上の魔術教本を書棚に戻すと、部屋を出て階下へ降りた。
それから早足で廊下を進み、厨房の扉をくぐった彼は、すれ違う女中たちと挨拶を交わしつつ、部屋の奥へと歩いてゆき、やがて大きな調理台の前に至った。
「――ではこちら、お母様に届けて参ります」
言いながら、ゼルマンは台の上に置かれた銀の盆――麦粥、野菜スープ、果物の絞り汁など、いずれも病人食らしい品々が載っている――を慣れた様子で手に取った。
そして厨房を出て、再び二階へと向かったが、彼は階段を上り切ったところで、不意に立ち止まった。
「……何だとッ!! また犯人を見逃したのかッ!?」
父親の激しい怒声が、すぐ傍の窓のほうから聞こえたためである。
ゼルマンが弾かれたように窓の外を見やると、父親が庭師らしき男に詰め寄っている様子が映った――と、同時に、ゼルマンはハッと息を呑んだ。
“出て行け”という真っ赤な文字が、庭の一本道の中ほどに、でかでかと書かれていることに気づいたのである。
加うるに、その文字の真下には、切断された豚の頭部が一つ、ぽつんと置かれていた。
どうやら、“出て行け”の文字は、豚の血で書かれたものらしい。
そして言わずもがな、豚のように雑食性の家畜を“不浄”だと見做す者は、この国において決して少なくはない。
従って豚の血文字には、強烈な悪意と侮蔑の意図が込められているに違いなかった。
「――今月に入って、これで何度目だッ!!」
ややあってから、再び父親の怒声が聞こえ、ゼルマンは我に返ったようにため息を漏らした。
次いで、その場から逃げ出すように、足早に母親の部屋へと向かった。
「――お母様、朝食をお持ちしました」
ドアの前に立ったゼルマンは、よく通る声でそう告げたが、いくら待てども返事はなかった。
「……開けますよ、構いませんね?」
ゼルマンは怪訝そうに声をかけたのち、左手に盆を持ち替え、右手でドアを押し開けた――が、どうしたことだろう、ベッドに母親の姿は見当たらない。
「……お母様?」
そう呼びかけながら、部屋の左方に視線を移すと、浅い水たまりのようなものが、床の上に出来ている。
次いで、その水たまりの上に視線を走らせると、ぴんと伸びた人間の足先が映った。
「……!?」
ゼルマンはただ黙ったまま、微かに首を振っていた。
そのとき、彼の瞳が映していたのは、高い天井の梁から真っ直ぐに下がった紐であり、それに吊るされた母親の縊死体だった――。
――ガチャン。
ゼルマンの手から滑り落ちた銀の盆が、冷ややかな音を立てて床にぶつかった瞬間、再び風景が切り替わった。
(……ッ!?)
ふと気づくと、自らの足元には、長方形に掘られた墓穴が口を開けており、そこには黒い棺が納められている。
さらに墓穴の縁には、喪服をまとった十余名の人々が立ち並び、そのうちほとんどが、女中や庭師など、ゼルマンの屋敷で見かけた使用人ばかりだった。
(おそらく、棺の中に眠っているのは……)
思いかけたそのとき、予感は確信へと変わった。
人々の輪の中から、聖典を手にした年配の神父が進み出て、厳かな口調でこう告げた。
「――さあ、良き妻、良き母であったエレリア・ソソリスのために、別れの祈りを捧げましょう」
神父の言葉を合図に、背後に立っていた何者かが、僕の肩――いや、正確に言えばゼルマンの肩だ――にそっと手をかけた。
ゼルマンが振り返ると、そこには案の定、彼の父親の姿があった。
妻の死が余程堪えたのだろう、固く目を閉じている父親の頭髪は、元はアッシュグレイだったはずだが、今やほとんど真っ白に様変わりしている。
しばしの間、ゼルマンは父親の姿を眺めるともなく眺めていたが、やがてゆっくりと正面に向き直り、ぱちりと指を弾いた――と、その瞬間、神父の手にしていた聖典が激しく発火した。
「……ひッ!!」
呻き声を漏らすなり、神父は猛炎を上げる聖典を地面に投げ捨て、勢いよく尻餅をついた。
すると、ゼルマンは見計らったように喪服の下から小型の杖を取り出し、その先端を母親の棺へと向けた。
「――滅びゆく肉体に、仮初の魂を宿し……」
ゼルマンは口早に呪文詠唱を始めたが、ままならなかった。
背後から飛び出した父親が、彼の横っ面を嫌というほど張ったのである。
刹那、態勢を崩したゼルマンの右手から杖が滑り落ち、小さな音を立てて地面にぶつかった。
「――よく聞け、ゼルマンッ!! 今、自分が何をしようとしたか、お前は分かっているのかッ!?」
父親は深く眉を寄せ、薄らと涙を浮かべながら、唇を噛み締めている。
ゼルマンはその場に立ち尽くしたまま、半ば放心したように、周囲の人々をゆっくりと眺め回した。
彼らは一様に表情を失っていたばかりか、完全に時間が停まったかのように、身じろぎ一つしないでいた。
「――想像に難くないでしょうが、我々は家内の死に対して、精神的な準備が何一つとして出来ておりませんでした。とりわけ、年若いゼルマンにとってはそうです。ですからどうか、ご容赦願いたい。我が愚息の過ちを、見なかったことにしていただきたいのです」
そう言うなり、ゼルマンの父親はその場に跪き、地べたに額をこすりつけた。
すると、辺りに立ち込めた沈黙は、より一層重苦しいものとなった。
「――うわあああああああッ!!!!」
刹那、錯乱したように絶叫したのは、ほかでもないゼルマンだった。
彼は一分一秒たりともこの場に留まっていられぬとばかりに、遮二無二走り出していた――。
* * *
墓地をあとにしたゼルマンは、脇目も振らずに街道を駆け続け、やがて人けのない川のほとりに出た。
次いで彼は、川べりの草むらに倒れ込むように両手をついて、激しく嗚咽し始めた。
一時間、……いや、二時間、正確なところは分からないが、彼はぶるぶると肩を震わせながら、そのままの姿勢で、ただひたすらに泣き続けた。
とっぷり日も暮れたころ、ゼルマンはようやく帰路につく決心ができたらしく、ふらふらと立ち上がって歩き出した。
そして、真っ暗な街道をとぼとぼ歩いていると、やがて道沿いに生えた木の根元近くに、二匹の黒い仔犬と、その親と思しき一匹の黒犬の姿を認めた。
加うるに、親犬はその場にぐったりと身を横たえたまま、微動だにすらしていない。
怪訝に思ったらしいゼルマンが、不意に立ち止まると、仔犬のうちの一匹が彼の足元へやって来て、救いを求めるようにキャンキャンと悲しげに鳴いた。
次いで、暗闇に目を凝らすと、もう一匹の仔犬が、ぱっくりと裂けた親犬の頭部――大方、運悪く馬車馬にでも蹴られたのだろう――を、一心不乱に舐めているのが見て取れた。
しかし、親犬の頭部から流れ出た血液は、既にからからに乾き切っており、とっくのとうに死んでいることは、火を見るよりも明らかだった。
にもかかわらず、仔犬たちはその現実を受け止められずにいるのだろう。
「……可哀想に。君たちも、僕と同じか」
ぼそりと呟いたゼルマンの瞳に、ふと映り込んだのは、親犬の腹部に並んだいくつもの乳腺だった。どうやら親犬は、母犬だったらしい。
しばしの間、ゼルマンはその場に立ち尽くしていたが、やがて我に返ったように苦笑を漏らし、母犬の死体を抱きかかえた。
「――つくづく馬鹿だ。僕って奴は」
独りごちるなり、ゼルマンは力強く駆け出していた。
一拍遅れて、仔犬たちも事情を察したかのように、懸命に彼のあとを追い始めた――。
* * *
ほどなくして自宅に到着し、その裏口に回ったゼルマンは、二匹の仔犬に向かって、「必ず戻って来る。ここで静かに待っていて」と語りかけた。
すると仔犬たちは、クーンと小さく鳴いて、その場にお座りした。
「……良い子だ」
囁くように言いながら、ゼルマンは身を屈めて二匹の頭を交互に撫でた。
それから彼は立ち上がり、裏口のドアをほんの少し開け、中の様子を注意深く窺った。
すると折良くも、父親や使用人たちの姿は、誰一人として見当たらない。
ゼルマンは覚悟を決めたように深呼吸すると、ドアの隙間から身を滑り込ませ、一目散に二階の自室へと駆けて行った。
そして、難なく部屋の中に入ると、安堵のため息を漏らしつつ、自分のベッドに母犬の死体を優しく寝かせた。
「……僕ならやれる。きっとやれる」
ゼルマンは自らにそう言い聞かせると、ベッドの真下の床板の一部を外し、そこから一本の杖を取り出した。
上端部に蛇の頭があしらわれた、漆黒の大杖である。
「――僕は、ずっと前に決めたんだ。“聖人フラタル”のように、偉大な魔術師になってみせるって」
熱っぽい口調で言いながら、ゼルマンは大杖の上端部を、母犬の死体に向けた。
そして、ゆっくりと目を閉じ、いつ果てるともなく続く、長い長い呪文詠唱を開始した。
「――滅びゆく肉体に、仮初の魂を宿し給え。開け、冥府の扉よッ!!」
やがて、呪文の最後の一節を口にしたゼルマンが目を開くと、母犬は既に、死のくびきから解き放たれていた――が、その姿は、正視に耐えないほど禍々しかった。
母犬の口元から糸を引いて滑り落ちる、おびただしい量の唾液。
真っ赤に濁りきった眼球が、素早く不規則に動き続けるその様。
いつの間にか、脳天の傷口に湧き始めていた、無数の真っ白な蛆虫たち。
さらに母犬は、ゼルマンを威嚇するように、ベッドの上で低く低く身を構えている。背中の毛は揃って逆立ち、硬直した尻尾が、ぴんと立ち上がっていた――。
「……ッ!?」
ゼルマンは固唾を呑み、じりじりと後ずさりを始めた――と、その刹那、母犬が前足でベッドの縁を蹴った。
「……ヴヴゥッ!! ァァァアアァァァーーーーーッ!!!!」
屋敷中に響き渡るような咆哮を上げながら、母犬はゼルマンの首元目がけて跳びかかった。
一方ゼルマンも、咄嗟に大杖を振り上げたが、それだけだった。
あるいは、あの二匹の仔犬たちの存在が、彼に反撃を思い止まらせたのだろうか。
母犬は、跳びかかった勢いそのままに、いとも容易くゼルマンを組み敷いた。
「――うわあああああああッ!!!!」
剥き出しになった、母犬の黄ばんだ牙の先端から、涎が糸を引いて滴り落ち、ゼルマンの頬を濡らした――と、次の瞬間、母犬の首が、彼の胸元に向かって、すとんと落ちた。
「……う、うあッ、ああッ!!」
ゼルマンが悲鳴を上げたのも無理はなかった。
母犬の首に続き、首を失ったその身体まで、彼の胸元にのしかかってきたのである。
次いで、首の切断面から、冷たく凝固しかけた血液が飛び出して、一瞬のうちに、彼の顔中を濡らしていた――。
「――ゼルマンッ!!」
激しく震える声で呼ばれ、ゼルマンが視線を上げると、そこには、血染めのサーベルを手にした父親の姿があった。
彼の足元には、青白い輝きを放つ魔法陣が、未だ消えずに残っている。
先刻の咆哮を耳にして、“転移の門”を開いて駆けつけるなり、一太刀で母犬の首を落としたのに違いなかった。
「……なぜだ? なぜ、お前はこれほどまでに愚かなのだ?」
父親は怒りを滲ませた声で言いながら、母犬の首と胴体を、力いっぱい蹴飛ばした。
次いで、床に倒れたままのゼルマンの鼻先に、サーベルの切先を勢いよく突きつけた。
「母親の葬儀を途中で抜け出し、ようやく帰って来たかと思えば、再びこのような失態を仕出かす。……なぜだ? その理由を言ってみろ、ゼルマンッ!!」
「――違うんです、父上、……この、この犬は、母犬だったんですッ!! それで、残された仔犬たちが、あまりに哀れに思えて……」
ゼルマンが慌てた様子で答えると、父親は指先でこめかみを押さえ、それから大仰に嘆息してみせた。
「……本当に、それだけの理由で、お前は禁忌を犯し、命を弄んだのか?」
ゼルマンが返答に窮していると、父親は息子の胸倉を掴み、無理矢理立ち上がらせた。
そして、だんまりはなしだ、と釘を刺すように言った。
「――もう一度訊く。それだけの理由で、お前は禁忌を犯し、命を弄んだのか?」
「……はい、仰る通り、です」
ゼルマンが切れ切れに答えると、父親は右手に持ったサーベルの半円状の鍔で、嫌というほど息子の頬を殴打した。
刹那、ゼルマンはよろけて膝をつき、口から血の泡を噴いた。
「――お止めください、父上。金輪際、同じ過ちは犯しません。誓います」
ゼルマンはすがるように言ったが、父親は無言のまま、息子の腹部を強く蹴り上げた。
そして、床に倒れた息子に馬乗りになると、どろんとした光のない眼を向けながら、サーベルの鍔で何度も何度も、我が子の顔を殴りつけた――。
「……旦那様、何をなさっているのです? 坊ちゃまが死んでしまいますッ!!」
開きっ放しのドアの向こうから、女中らしき人物の声が響いてきたが、父親はまるで聞く耳を持たなかった。
彼の理性の糸は、既にぷっつりと切れてしまったらしい。
ゼルマンは成す術もなく、そのまま殴打され続けていたが、やがて狂ったようにばんばんと両手で床を叩き始めた。
というのは、逆流した大量の鼻血が喉の奥に溜まり、呼吸困難に陥っていたためである。
「ごふッ、ぐふっ、ぐッ……!!」
ゼルマンは口から血を流し、さらには喘鳴を発しながら、弱々しく指を弾く――と、次の瞬間、父親の背後に立ち並ぶ巨大な本棚が、雪崩のように次から次へと倒れかかってきた。
どうやら、ゼルマンが苦し紛れに、“念動魔術”を発動させたらしい。
「……ッ!?」
虚を突かれた父親が、咄嗟に後ろを振り返った瞬間、ゼルマンは無我夢中で馬乗りになっていた父親を突き飛ばしていた。
すると、父親は勢いのままに、もんどりうって後方に転がった――と、同時に、彼の手にしていたサーベルが床に落ちて跳ね返り、小さく宙を舞った。
そして間を置かず、巨大な本棚の一つが、サーベルを巻き込みながら、容赦なく父親を押し潰すその瞬間を、ゼルマンは目撃していた――。
「……ち、父上ッ!?」
苦しげに息をしながら、ゼルマンが呼びかけると、本棚の真下から、真っ赤な血が一挙に広がっていった。
一拍の間を置いて、先ほどの女中の悲痛な叫び声が、屋敷中に響き渡った――。
* * *
再び目を覚ますと、僕は真っ白なベッドの上に身を横たえていた。
天から降り注ぐ、薄らとした白い光が、周囲を柔らかく照らし出している――。
(……あれ、ここはッ!?)
驚いて身を起こすと同時に、僕はハッと気がついた。
(――自由に身体が動く。ゼルマンとの同化が解けたのだ)
それから辺りを見回すと、暗い色合いの外套をまとった“顔のない男”――顔の位置に薄い靄がかかった、例の白髪の男である――の姿が目に留まった。
彼はベッドの横に置かれた椅子に腰かけ、靄の向こう側に存在しているであろう一対の目で、こちらをじっと眺めていた。
「……あの、もしかして、あなたがゼルマンさんですか?」
どうしてそう思ったのかは分からないが、半ば反射的に問いかけると、辺りに満ちていた薄ぼんやりとした光が、突如として強烈にその輝きを増した。
あまりの眩しさのために、咄嗟に目を閉じる――と同時に、一体どういうわけだろう、ゼルマンのありとあらゆる記憶が、洪水のごとく僕の脳裏に押し寄せた。
そして僕は、そのうちの一つに、手を伸ばしてそっと触れてみた――。
* * *
「――先日、我が領民のノルドーという男から、ある訴えがあった」
それは紛れもなく、さらに大人びたゼルマンの声だった。
どうやら僕は、再びゼルマンと同化しているらしい。
視線の少し先には、黒いローブを身にまとった五十名あまりの人々が、めいめい松明を手に、整然と立ち並んでいた。
煌々と揺れる松明の明かりは、周囲の荒々しい岩壁や、天井から垂れ下がる無数の氷柱状の石柱を照らし出している。
どうやら、ゼルマン一行は、隠れ家然とした洞窟の中にいるようだった。
「……ノルドーの愛すべき妹は、グァンダナ侯爵領のさる農夫の元へ嫁いだ。しかし、嫁いだその日の晩に、彼女は覆面姿の男たちに誘拐された。それも、愛する夫の目の前でだ。そして翌朝、ノルドーの妹は無言で夫の元へ帰るなり、自室に篭って自ら命を絶った」
ゼルマンがそう続けると、黒ローブの集団は小さくどよめいた。
「彼女が残した遺書には、連れ去られた先がグァンダナ侯爵の屋敷であったこと、さらに侯爵に力づくで凌辱されたことが、赤裸々に綴られていた。愚かしくも、法で禁じられているはずの初夜権を、侯爵はぬけぬけと行使したのだッ!!」
声を張り上げながら、ゼルマンは黒ローブの集団に向かって拳をふりかざした。
彼の拳は、烈しい義憤のためだろう、ぶるぶると小刻みに震えている。
「――しかし、王国騎士団は、調査の結果、侯爵が初夜権を行使した事実は、一切認められなかったと結論づけた。誘拐現場を目撃した者たちの話、さらには、愛する妻を失ったノルドーの義弟の話さえ聞くことなく、一方的に断定したのだ。
そこで、私のほうで個人的に調査を進めたところ、過去にも同様の事件が十数件も発生していたことが判明した。加うるに王国騎士団は、侯爵に対する疑惑が持ち上がるたび、必ず彼を庇い続けてきたという。
……侯爵は十中八九、王国騎士団の上層部に袖の下を使っているのだろう。事実として侯爵は、領民に重税を課し、たっぷりと搾り取っているそうだ。嗚呼、何と忌々しいッ!!!!」
言い捨てるなり、ゼルマンは背後の岩壁を、勢い良く拳で打った。
刹那、彼の拳の先に、薄らと血が滲むのが分かった。
「――我が亡き父、ソソリス前伯爵は常に、『領主たる者、いつ何時も清廉潔白であるべし』と私に説いた。しかし、グァンダナ侯爵はその真逆。まさしく佞悪醜穢と言えよう。領主の、……いや、それどころか人間の風上にも置けぬ、塵芥以下の下郎だッ!!
従って私は、ノルドーの訴えを受け、グァンダナ侯爵を罰すると決めた。侯爵のごとき悪漢は、是が非でも除かなければならぬ。皆の者、力を貸してくれるか?」
ゼルマンが問いかけると、最前列に並んでいた赤髪の若い女が、一歩前に進み出て、躊躇いがちに口を開いた。
「……勿論です、とお答えしたいところですが、相手は侯爵。さらにその背後には、王国騎士団まで控えております。ゼルマン様は一体、どうやって彼らとやり合うおつもりでしょうか?」
「――毒を以て毒を制す。いよいよ禁忌の秘術、“屍兵”を用いるときが来たのだッ!!」
ゼルマンが拳を突き上げながら、声高らかに宣言した。
すると、一瞬の静寂ののち、黒ローブの集団は爆発するように歓喜の声を上げた。
次いで彼らは、まるで狂信者のごとく、ゼルマンの名を熱っぽく連呼し始めた――。
* * *
(――ゼルマンは、父の跡を継いで領主となったが、それはあくまでも表の顔だった。彼には、反政府組織の指導者という裏の顔があった)
死者の軍勢を率いて、グァンダナ侯爵領に進軍したその日以来、ゼルマンはただひたすらに戦い続けてきたのだ、と僕は理解していた。
もちろん、彼の記憶は膨大な量であり、すぐにその全てに触れることは不可能である。
しかしながら、今この瞬間も僕の脳裏には、これまで彼が目にしてきた無数の光景が、次から次へと映し出されていた――。
「……嗚呼、見えます。ゼルマンさんは、死者の軍勢と共に戦い、圧政から人々を解放して回った。そして、畏怖の対象となり、また英雄視され始めたあなたを、王国騎士団は“国家の敵”と位置づけた。その結果、戦いは泥沼化していった――」
“顔のない男”に向かって、僕は独りでに話し始めていた。
「……やはり、僕にはどうしても、あなたがゼルマンさんだと思えてなりません。いつ果てるとも知れない、戦いの日々に疲れ果て、あなたは次第に表情を失ってゆき、いつの間にか“顔のない男”となった。違いますか?」
「――私が誰かなど、君が気にかける必要はない」
“顔のない男”はぴしゃりと言った。そしてこう続けた。
「名もなき少年よ、再び眠りにつき給え。君だって、私と同じように、……いや、私以上に疲れ果てているではないか。それはほかでもない君が、誰よりもよく承知しているはずだ。
余計なことは何一つ考えず、黙ってまぶたを閉じ、ただ偏に、自らの心身を労ってやるがいい。それが望みではなかったかね?」
僕は黙ってうなずき、“顔のない男”の言う通りだ、と思った。
あれこれ思い煩うことなく、ただただ深い眠りにつくこと――僕は確かにそれを求めていた。
けれども、あともう少しだけ、彼と話をしていたい、と強く感じていた。
「……あなたを、ゼルマンさんだと思って話します。あなたは、ずっと独りぼっちだったんじゃありませんか? 僕にはどうも、そんな風に思えてならないのです」
問いかけると、“顔のない男”は無言のまま椅子から立ち上がり、くるりと背を向けた――と、そのときだった。
「――ねえ、私の声、聞こえているかしら?」
意志の強そうな、それでいて柔らかく澄んだ女性の声が、唐突に背後から響いてきた――が、驚いて振り返ると、そこに立っていたのは女性ではなく、粗末な革鎧を身につけた一人の少年だった。
ひどく小柄な黒髪の少年で、顔中が泥と土埃で汚れ切っている。
「――君は、“野ねずみ”?」
我知らず、その一言が、僕の口を衝いて出た――。