48.魂の辺境
ふと気がついたとき、俺はこぢんまりとした墓地の前に立っていた。
二、三十ほどの苔むした墓石が、身を寄せ合うようにして並んでおり、その周囲には、鬱蒼とした木々が生い茂っている。
人けもなく、おそらくは森の奥深くなのだろうと察せられた。
頭上の太陽はまだ白光を放っていたが、そこには陰りの気配が見え始めている。
正確な時刻こそ分からないが、遠からず日が傾き始める頃合いなのだろう。
(……ところで、ここは一体、どこなのだ?)
考えてみたが、まるで分からなかった。
そればかりか、何故ここへやって来たのか、またどうやって辿り着いたのかさえ、全く思い出せないのである。
しかしながら、たった一つだけ、はっきりと記憶に残っていることがあった。
(……つい先ほどまでも、俺は確かに墓地にいた。だがそれは、今目にしているこの墓地とは、全く異なる墓地だった。これは一体、どういうことだ?)
必死に記憶を手繰っていると、ほどなく、子どもたちの笑い声が耳に飛び込んできた。
俄かに驚いて視線を移すと、まだ十歳そこそこの五人の少年少女が、我先にと森の小路を駆けながら、こちらに向かって来るのが見えた。
彼らは皆、極めて質素な身なりである。
察するに、どこか近くの農村で暮らしている子どもたちなのだろう。
「――それじゃ、わたしがおにねッ!!」
先頭を走る、栗色のおかっぱ髪の少女がそう言いながら、俺の目の前ではたと足を止めた。
次いで、彼女はゆっくりとうつむき、自らの両目を両手で隠した。
一方、ほかの四人の子どもたち――ガキ大将然とした体格の良い少年、人形を抱いたくせっ毛の少女、頭巾をかぶった小柄な少女、そばかすだらけの少年という顔ぶれである――は、ほうぼう駆け回りつつ、きょろきょろと首を動かし、何かを探すような素振りを見せていた。
「――もういいかいッ?」
おかっぱ髪の少女が訊ねると、背後の四人から、「まあだだよ!」という元気な声が返ってきた。
(……墓場でかくれんぼとは、全く無邪気なものだ)
手持ち無沙汰ゆえ、彼らの様子を眺めるともなく眺めていると、まず初めに、ガキ大将然とした少年が、向かって左手の老樹の陰に隠れた。
次いで、人形を抱いた少女と頭巾をかぶった少女が、長方形状の大きな墓石の裏に、二人揃って身を潜めた。
そして最後に、そばかすだらけの少年が、向かって右手の茂みの中に、慌てた様子で飛び込んだ。
「――もういいかいッ?」
おかっぱ髪の少女が再び訊ねると、「もういいよッ!」と返事がかえってきた。
直後、彼女はゆっくりと顔を上げ、目隠しを解く――と、そのとき、俺は思わず息を呑んだ。
左手の老樹の後ろから、両目に包帯を巻いた大柄な男が、ぬっと姿を現したのである。
垢じみたボロを身にまとった、年の頃三十ほどの男で、右膝から下には、棒状の木の義足がついている。
元傭兵、あるいは元義勇兵に違いない、と俺は直ちに見て取った。
(……この男、戦傷によって、両眼の視力と右足を失ってしまったのだろう。実に気の毒なことだ。しかし、一体どうしてこんなところに?)
内心で首を傾げていると、ほどなく大きな墓石の裏から、二人の女がゆっくりと立ち上がった。
向かって左に立つ、乱れた癖毛の女は、薄汚れた作業衣姿で、白いおくるみを抱いたまま、黙って涙を流している。
そして右に立つ女は、いくらか暮らし向きが良いのか、小奇麗ななりではあったが、身にまとっているのは黒い喪服だった。
彼女もまた、黙って涙を流しながら、左の女の肩にそっと手を乗せていた。
(……そうか、あのおくるみに包まれているのは、死んだ赤ん坊に違いない。となれば、彼女たちは、埋葬のためにここへやって来たのかもしれぬ)
俺はいたたまれなくなり、彼女たちから目を逸らした――と同時に、ハッと気がついた。
義足の男、我が子を失った母親、喪服の女。彼らは、先ほどまでかくれんぼをしていた子どもたちではないか、と。
姿を現した場所に加え、性別と外見的特徴も、例の子どもたちと奇妙なほど一致している――。
(……わけが分からぬ。なぜ一瞬のうちに、彼らの子ども時代は失われてしまったのだろう?)
何かがおかしい、道理に外れたことばかり起きる、と俺は思った。
しかし、それ以上に気がかりだったのは、茂みの中に飛び込んだそばかすの少年が、ずっと隠れたままでいることだった。どうにも嫌な予感がした。
(――そうか、あの少年は、大人になるまで生き延びることができなかったのだ)
ややあってから、俺はその事実に思い当たった。
なぜかは分からないが、否応なしにそれが分かったのである。
(――死ぬも地獄、生きるも地獄)
そんな言葉が、唐突に脳裏に浮かぶなり、俺は一歩、二歩と後ずさりを始めていた。
義足の男、我が子を失った母親、喪服の女。そして、目の前のおかっぱ髪の少女――彼らが直立したままの格好で、揃ってこちらを凝視していたのである。
誰一人、微動だにしないどころか、瞬きの一つもしていない。
まるで蠟人形のようだ、と俺は思った。
(……なぜ俺を見る? そんな風に見るのは止してくれッ!!)
喉元まで出かかった言葉を、俺は自然と呑み込んでいた。
彼らと口を利いてはならないと、痛烈なる直観が働いたのである。
(……彼らは本当に、この世の者なのか?)
恐ろしい疑念の虜になった俺は、我知らず、鬱然とした森の中へ逃げ出していた――。
* * *
脇目も振らず、森の中を走り続けていると、ほどなく十字路に差しかかり、俺はやむなく足を止めた。
(……さて、どの道を選ぶべきか)
荒くなった呼吸を整えつつ、ふと頭上に目を向けると、黒みがかった人間の手のごとき枯れ枝が、見渡す限り広がっている。
枝々の隙間から見える赤い夕空は、原色の絵の具で塗りたくられたかのように、きつく荒々しかった。
そして俺は、自分を見失っていることに、唐突に思い当たった。
(……俺は一体、何者なのだろう?)
どういうわけか、自分の年齢も名前も、どのような暮らしをしてたのかも、何一つ思い出すことができなくなっていた。
そのほか、家族や友人など、人生で関わり合ってきたであろう人々の記憶まで、ものの見事に失われている。
(……俺? 僕? 私?)
自分をどう呼んでいたのかさえ、判然としなかった。
しかし、自分はそれほど強い人間ではないという感覚だけは、不思議と鮮明に残っていた。
(――“俺”というよりは、“僕”と呼んだほうがしっくりくる)
思ったそのとき、ねじを巻くような、ギイギイという奇妙な鳥の声が、どこからか響いてきた。
妙な胸騒ぎを覚え、そのまま耳を澄ましていると、何かが地を擦り動くような音が、微かに聞き取れた。
十字路の右方からである。
(……獣の類だろうか? いや、人間かもしれない)
わずかな期待を抱きつつ、慎重な足取りで十字路の右へ進んでゆくと、今度は丁字路に出た――と、そのときだった。
身の丈の半分ほどもある、大きな石を抱えた一人の少年が、目の前の道を横切ってゆく様が、突如として視界に映り込んだのである。
さらに少年の顔は、白粉を分厚く塗ったかのように真っ白だった。
それは否応なく、僕に死に化粧を連想させた。
(……ッ!?)
束の間、僕はその場に釘付けになったまま、言葉を失っていた。
というのも、大きな石を抱えた少年は、一人ではなかったからだ。
一直線に走る目の前の道を、同様に石を抱えた少年が、一人、また一人と、切れ目なく列をなして通り過ぎてゆく。
加うるに、案の定と言うべきか、彼らは一様に、死に化粧を施されたかのように真っ白な顔をしていた。
(……少年たちはどこへ向かっているのだろう? そしてなぜ、このような苦役に服しているのだろう?)
我に返った僕は、最も手近に生えている枯れ木の幹で身を隠しながら、改めて辺りの様子を窺った。
すると、少年たちが進む一本道の曲がり角に、四十絡みの全裸の男が立っているのが映った。
黒い口髭を生やしたその男は、どうやら監視役の立場にあるらしく、少年が目の前を通過するたびに、その背中に容赦なく鞭を浴びせていた。
にもかかわらず、少年たちは固く唇を結んだまま、誰一人として声を上げなかった。足も止めないどころか、顔色一つさえ変えていない。
鞭を受けた背中や、石に擦れ爛れた掌から血を流しながら、少年たちは曲がり角の奥へ向かって、ただひたすらに前進を続けている――。
(――これほどの仕打ちに耐えるなんて、何か特別な事情があるに違いない)
確信を深めると同時に、僕はふと気になった。
あの曲がり角の先は、一体どこに続いているのだろう、と。
それを知りたいと願うのは、危険な好奇心かもしれない、という予感はあった。
しかし、一種の使命感に駆られた僕は、物音を立てぬよう細心の注意を払いつつ、目の前の枯れ木をほどんど一息で登り切った。
そして、木のてっぺんから急いで辺りを見回すと、監視役の男が控える曲がり角の向こうに、大きな川が流れているのが分かった――と、その瞬間、僕は頓狂な声を発していた。
――列をなした少年たちが、例の大きな石を抱えたまま、川の中に相次いで飛び込んでゆく様が、視界に映ったのである。
さらに川底は深いらしく、誰一人として浮かび上がってくる者はない。
ふと気がつくと、木の幹にしがみついた両腕が、小刻みに震え出していた。
(――どんな理由があろうと、身投げなんかしちゃいけないッ!!)
僕は少年たちに向かってそう叫びたかったが、どうしても駄目だった。
名状し難い恐怖が、僕の声を奪っていたのである。
そして正直に言えば、監視役の男の注意を引きたくない、という自己保身の気持ちもあった。
絶対にあの男と関わってはならないという直観が、狂おしいほどに働いていたのである。
(――僕はひどい意気地なしだ。ごめんよ、ごめんよ……)
心の中で、少年たちに謝罪の言葉を繰り返しながら、僕は木の幹を伝って静かに地面に降りた――と同時に、背後に人の気配を感じた。
ぎょっとして振り返ると、そこには、黒い眼帯を当てた黒衣の老婆が立っていた。
さらに彼女は、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの両腕をめいっぱい伸ばして、こちらに大きな石を差し出している。
これを持って、お前も列に並べ、と言わんばかりにだ。
(――嫌だ、嫌だ、嫌だッ!!)
僕は老婆の脇をすり抜け、もと来た道を死に物狂いで駆け戻り始めていた。
耐え難いほどの恐怖が、僕の全身を貫いている――。
* * *
どれくらいの距離を走り続けただろうか。
息が上がり始めていた僕は、思い切って一旦足を止めた。
(――相手は老婆だ。さすがにここまでは追って来れまい)
思いつつ、恐る恐る背後を確認すると、ごつごつとした黒ずんだ大岩が、真っ先に視界に映り込んだ。
(……ッ!?)
その大岩を、こちらに向かって差し出しているのは、案の定というべきか、先ほどの黒い眼帯の老婆だった。
彼女は焦点の定まっていない片一方の目で、僕の顔を眺めるともなく眺めていた。
(……どう足掻いても、この老婆から逃れることは出来ないのだ)
直観すると同時に、僕は受け取った大岩を、半ば反射的に老婆の脳天目がけて振り下ろしていた。
――刹那、頭蓋骨の砕ける嫌な音が、静かに残響した。
それから一拍の間を置いて、老婆は膝から崩れ落ちた。
柘榴のように大きく割れた、彼女の頭頂部が、否応なしに僕の瞳に映り込む。
そして、夕焼けの光に照らされたそれは、まるで地獄に咲く花のごとく、不気味なほど赤々と輝いている――。
(……嗚呼、何てことだ。こんなことをすべきではなかったのだ)
辺りには、ひどく不快な臭いが立ち込めていた。
それは血の臭いであり、暴力と死の臭いであり、また慣れ親しんだ臭いでもあった。
僕は俄かに恐ろしくなった。
(これが、慣れ親しんだ臭い? ならば僕は、一体どんな人間だったのだろう? ……いや、自分自身のことなんて、何一つ思い出さない方がいいのかもしれない)
僕は再び衝動的に走り出していた。
しかし同時に、逃げたところでどうしようもないのだ、という強烈な虚無感にも支配されていた。
どこへ向かおうと、またぞろ悪夢のごとき光景が繰り返されるだけではなかろうか?
(……そうだ、僕はこの森に迷い込むずっと以前から、何かを恐れ、その何かから逃れようともがき続けていた。はっきりとは思い出せないが、それだけは確かだ。僕にとって、生きるということは、永遠の責め苦に等しい行為だった)
虚無感が頂点に達したそのとき、僕は諦めて足を止めた。
いつの間にか、日はとっぷりと暮れ、辺りは濃密な闇に包まれている。
天上には、星はおろか、月さえ出ていない。
そして何の前触れもなく、堪え切れないほどの怒りが込み上げてきた。
それは僕を不当に扱う運命に対する怒りであり、神に対する怒りだった。
僕は肺の奥に溜まっていた澱んだ空気を吐き出し、それからいやというほど漆黒の空を睨めつけた。
「――おい、神とやら、聞こえているかッ? 聞こえているならば答えろ。お前はどうして僕ばかり、こんなひどい目に遭わせるのだッ?」
僕は声の限りに叫んだが、無論、返事があるはずはなかった。
だいいち、僕は本気で神の存在を信じているわけではない。
にもかかわらず、やり場のない憤りに我を忘れ、天に向かって物申したのである。
これではまるで狂人ではないか、と僕は思った。
それから、その場に跪き、独りごちていた。
「もう何もかも嫌だ。お願いだから、誰か助けて……」
――と、そのとき、完全なる暗闇の中に、柔らかな白い光が、ぼうっと浮かび上がった。
(……あれは、民家の灯りだろうか?)
安堵のためだろうか、不意に込み上げてきた涙をやり過ごしたのち、僕はおもむろに立ち上がった。
次いで、伸ばした両手で前方の暗闇を探りながら、幼子のようにたどたどしく、一歩、また一歩と、光のほうへ近づいてゆく。
するとやがて、ぽつねんと置かれた真っ白なベッドが一つ、僕の視界に映った。
辺り一帯は、全き闇に包まれているというのに、そのベッドと周辺だけが、まるで台風の目の中に位置しているがごとく、不思議と明るく照らし出されている――。
(……そう言えば、以前の僕は、毎晩のように悪夢に悩まされ、眠りを妨げられていた。だからいつも、心の底から深い眠りを求めていた)
ベッドに注ぐ柔らかな光が、僕自身の記憶の一部もまた、明るく照らし出したらしかった。
(――思い出したぞ、僕を苦しめた悪夢には、いくつも種類があった。そして、その中でもとりわけ耐え難かったのは、黒髪の美しい少女をあの手この手で殺害する、あまりに生々しい内容のものだった)
黒髪の少女は一体何者なのか? 夢の中の惨劇は、僕が現実に引き起こした出来事なのか? はたまた、深層心理が描き出した単なる虚構なのか?
これらの点は判然としなかったが、その悪夢を見るたび、無音の叫び声を上げながら飛び起きていたことだけは、ありありと思い出すことができた。
そして、二度とその夢を見たくないという強迫観念によって、僕は夜の闇の中で激しい覚醒を強いられ続けた。
従って、朝まで一睡もできない場合もさほど珍しくなく、日中は終始、断片的なまどろみと偏頭痛に悩まされるのが常だった。
(――だから、ここで眠れ、というわけか)
無論、こんなところにベッドが置かれているだなんて、どうも妙だな、という想いはあった。
しかし、あまりに長く走り続けてきたせいだろう、僕は何かを考えるには草臥れ過ぎていた。
そして唐突に、暴力的な眠気に襲われ、たまらずベッドの端に腰を下ろした。
「――君は、心の底から眠りを求めている。何を以てしても妨げられることのない、石のごとき深い眠りをだ」
ふと気づくと、どこからか、ひどく優しげな男の声が響いてきた。
それは聞き覚えのある声のように思えたが、僕の意識は既に混濁の過程にあり、声の主を特定することは到底不可能だった。
今やまぶたは、鉛のように重く、こうしてベッドに腰かけ、男の声に耳を傾けているだけで精一杯だった。
「そして何より、君は想像を絶するほど辛く苦しい道のりを経て、ようやくここまで辿り着いたのだ。だから、誰に憚ることなく、己が身を労わってやると良い。
加えてここには、君の邪魔立てをする者なんて、誰一人としていやしない。……そうだ、それで良い。さあ、ゆっくりとお休み」
男の声に誘われるがまま、僕はベッドに身を横たえた。
このまま目を閉じれば即、石のごとき深い眠りに落ちるであろうことが、手に取るように分かった。
そして、それは僕自身の何よりの願いでもあったが、そうする前に、一つだけ声の主に確かめておきたいことがあった。
「――あなたは僕のことを知っている。そうなのでしょう?」
天に向かって問いかけたが、返事はかえってこない。
あとには、水底のような深い静寂だけが残された。
「……このまま眠ってしまったら、自分について知ることは、もう二度と叶わなくなる。どうもそんな気がしてならないんです。だから、もし僕について何か知っていたら、教えて欲しいんです。どれほど些細なことでも構いませんから」
勇気を振り絞って言葉を続けると、短い沈黙ののち、男の声が答えた。
「――君の正体は、名前を持たぬ、ただのか弱い少年だ」
僕は急いで目の前に両掌をかざした。
すると、そこにあったのは、いかにもか弱そうな二つの小さい掌だった。
辺りに満ちた白く淡い光の下で、二つの掌は一層頼りなげに見えた。
(――どうやら、男の言葉は真実らしい)
それが分かった途端、胸のつかえと肩の荷が、同時に下りた気がした。
正直に打ち明けると、僕は自分の正体が、おぞましい悪漢ではないかと危惧していたのだ。
(――でも、それも杞憂に終わった。何と言っても、僕は名前を持たぬ、ただのか弱い少年なのだ)
流砂のごときまどろみに落ちながら、僕はふと思った。
果たして本当に、このままぐっすり眠ることができるだろうか?
例のごとく、また悪夢にうなされ、飛び起きたりはしないだろうか?
「……あの、僕が眠っている間、傍で見守っていてくれませんか?」
急に心許なくなった僕は、必死の思いでまぶたを開いたまま、天に向かって再び問いかけた――と、そのとき、何者かが僕の頭にそっと手を置いた。
驚いて視線を移すと、ベッドのすぐ脇に、肩まで届く白髪の男が立っていた。
しかし、どういうわけだろう、暗い色合いの外套をまとったその男は、顔を持たなかった。
……いや、より正確に言えば、本来顔があるべき位置に、不可思議な薄い靄が漂っていたのである。
にもかかわらず、この男とは、どこかで会ったことがある、と僕は思った。
そこには、ほとんど確信に近い手応えさえあった。
だが結局は、彼の素性について、何か思い出す前に眠気に屈し、まぶたを閉じてしまった。
そのとき、彼は赤ん坊をあやすように、ひどく優しい手つきで僕の頭を撫でていた――。