47.心臓を貫かれて
「――メローサがお前の暮らしていた娼館に売られて来たのは、ある夏の終わりのことだった。当時、お前はまだ十二、彼女も十五になったばかりだった」
ゼルマンドは情感たっぷりに話し出した。
片や俺は、一刻も早く耳を塞いでしまいたい衝動に駆られていたが、それが許されるはずもなかった。
俺の両手足の先端は、なおも黒い霧状の球体に覆われ、全く身動きが取れない状態が続いていた。
「娼館の廊下で初めて行き会った際、メローサは両手でスカートの裾を軽く持ち上げ、お前に向かってこなれた会釈をしてみせた。上流貴族の娘がするように、とてもスマートかつエレガントにね。それでお前はすっかり驚いてしまった。何しろ、当時のお前が知っている人種と言えば、飲んだくれの娼婦、娼館に入り浸るならず者、そして路地裏にたむろする悪ガキたち――要するに、品性の欠片も持たぬ者しかいなかったのだからね。……だが、何にも増してお前の心を引いたのは、メローサの全身から発せられる、一種異様なエネルギーだった。
当時のお前は、場末の娼館の使い走りに過ぎぬ己の身を恥じ入るあまり、ひどく卑屈な少年に育っていた。一方メローサは、そんなお前とは正反対で、新進気鋭の舞台女優のごとき堂々たる風格、さらには、コケティッシュな魅力さえ既に備えていた。事前に彼女の噂を耳に挟んでいたお前は、その若さで身売りされたという憂き目を気の毒に思っていたが、当の本人は、それを歯牙にもかけていない様子に映った。
『貧民街の薄汚い娼館は、彼女に似つかわしくない。おそらく彼女は、遅かれ早かれこの店を去り、高級娼婦として成功を掴むであろう。果ては、社交界の華と謳われるようになってもおかしくはない』。お前は一目見た瞬間から、このように予感した」
成す術なくゼルマンドの話を聞かされる傍ら、メローサとの出会いの一幕が、まざまざと脳裏に蘇ってくる――。
* * *
『……私よりも年下に見えるけれど、君もここで働いているの?』
出会い頭、メローサは件の会釈をしたのち、驚いたような声音でそう尋ねた。
俺が黙ってうなずいてみせると、彼女はしげしげとこちらの顔を見つめながら、『もう一つ質問があるのだけど』と続けた。
『――君のお客さんは男の人? 女の人? それとも両方なのかしら?』
メローサの勘違いに、俺は少なからぬ動揺を覚えつつも、同時にそれをおくびにも出さず、『客は取っていない。ここで掃除やら買い出しやら、下働きをしている』とだけ返した。
すると彼女は、ふうんと頷き、それから少しばかり困ったような顔をして、『気を悪くしたかしら?』と尋ねてきた。俺は黙って首を振った。
『――それは嘘よ。君の顔に書いてあるもの。私には分かるわ』
メローサはしたり顔で言ったのち、口元を両手で隠しながら、悪戯っぽい笑い声を小さく立てた。
そして、短い間を置いたのち、彼女は再び口を開いた。
『それじゃ、今度一緒に、ラヌーズ川へ出かけましょう。お詫びと言ってはなんだけど、あそこの屋台で売っている、美味しい氷菓子をご馳走してあげるわ。……と言っても、私が最初のお給金を頂いたあとになっちゃうけど』
当時の俺は、他人に利用されることに慣れ過ぎていたせいだろう、誰かが自分のために身銭を切るだなんて、悪い冗談としか思えなかった。
従って俺は、ただ曖昧な笑みを浮かべたまま、彼女の脇を通り過ぎようとした――と、そのときだった。
『……でも、川沿いの屋台は、夏が終わるとなくなっちゃうのよね』
メローサは急に思い出したように呟いたのち、『よし、決めたわ!』と溌剌とした声で宣言した。次いで、紫がかったミステリアスな瞳で、俺の顔をじっと覗いた。
『――やっぱり、今から出かけましょう。“思い立ったが吉日”というわけ。少しなら持ち合わせがあるし、構わないわね?』
まだ仕事が残っているから、それはできない――そう返事をしようと思ったとき既に、メローサの人差し指が、俺の唇を押さえていた。
『――あとのことは全部、私に任せておけば大丈夫。さあ、行きましょう』
大人びた声で諭すように言いながら、メローサは俺の手を取って走り出した。それから俺たちは、ほかの娼婦たちに気取られぬよう急いで裏口へまわり、晩夏の午後の陽射しの下へ飛び出したのだった――。
* * *
「――お前とメローサが打ち解けるのに、さして時間はかからなかった」
ゼルマンドが再び話し出し、俺は否応なく現実に引き戻された。
「お前たちは年齢が近い上、この国ではそれほど多くない黒髪の持ち主だった。加うるに、各々お世辞にも普通とは言い難い境遇に置かれていた。他者には容易に理解し得ぬ孤独を抱えていた者同士、互いに寄り添い合うようになったのは、一種の必然だったのだろう。
……だが、私には分かっているのだよ。お前がメローサに心を許した最大の理由は、彼女がお前に対して性的な関心を一切抱かなかったためだ。この点において、彼女は他の女たちとは決定的に違っていた」
ゼルマンドはそこで言葉を切ると、俺の心に絶望を染み渡らせるかのように、たっぷり一分ほど沈黙した。そして再び話を続けた。
「――お前は十歳を迎えるころには、一種の“魔性”を秘めた美少年に成長していた。当時のお前は、穢れを知らぬ天使のようでありながら、男女の別なく劣情をそそるほど蠱惑的でもあった。おそらく、それを可能ならしめたのは、お前の中の青年として成熟しつつある部分と、なおも少年であり続けようとする部分が、絶妙なバランスで成立していたためだったのだろう。言うなれば、お前の浮世離れした美貌は、惑星直列のごとき一過性の奇跡に類する事象だったのかもしれぬ。
だが、当時のお前にとって、自身の美貌は災禍の種でしかなかった。事実お前は、十二になるかならないかのころ、夜道で幾人もの街娼に体を押さえつけられ、力づくで貞操を奪われるという悲劇に見舞われた。加うるに、ある時期から、親代わりの娼婦たちまで、お前に邪な視線を向け始めた。そのうちの幾人かは、夜半にお前の寝所へ忍び込みさえしたが、お前は悉く彼女たちを拒絶した。ゆえにお前は、腹いせとばかりにいわれのない非難を受け、狂ったように鞭で打たれることもしばしばだった。そうして幾度となく味わわされた身に余るほどの屈辱は、お前の心を冷たい石のごとく変貌させた。
ところがお前は、メローサに対してだけは、いついかなる場合でも胸襟を開くことができた。というのは、先に述べた通り、彼女がお前に対して性的な関心を一切抱かなかったためだ。その上、彼女は精神感応者のごとく勘の鋭い女だった。事実彼女は、お前の心に巣食った女性に対する根源的恐怖を、いとも簡単に見抜いていた。さらには、それを刺激せぬよう細心の注意を払いつつ、慎み深くお前に接した。そしてお前のほうも、彼女を実の姉のように敬い慕った。
……いつしか、お前の庇護者の役を進んで担うようになったメローサは、ある日、思い切った提案を口にした。『今後は、一緒の部屋で寝起きを共にすべきだ』とな。そして無論、『自分はほかの女たちとは違うから、その点は安心して欲しい』と言い添えることも忘れなかった。要するに彼女は、ほかの娼婦たちの魔手からお前を守るため、仕事以外の時間は可能な限り、お前と共に過ごすことを望んだのだ。さらに彼女は、初めて給金をもらったその日に、護身用の短剣を買ってお前に贈りさえした。
こうしたメローサの振る舞いは、ほかの娼婦たちに対する挑戦とも受け取れるものだったが、実際に彼女を批判する者は、誰一人として現れなかった。なぜなら、彼女は働き始めて一月と経たぬうちに、店一番の稼ぎ頭となっていたからだ。加うるに、『この娘を邪険に扱えば、却って痛い目に遭わされる』といった緊張感まで、それとなく身辺に漂わせていた。有り体に言えば彼女は、最年少かつ新参の身でありながら、ほかの娼婦たちを上手く手懐けることに成功していたのだ。
……かくして、実に思いがけぬかたちで、お前の処遇は大幅に改善された。にもかかわらず、お前の心中には、やれ切れぬ想いが募る一方だった。『メローサだけが与え、自分ばかりが与えられるという関係は、どこか間違ったものだ。自分もまた、彼女の役に立ちたい。少しでも恩返しがしたい』。お前はこのように願い、やがて一つの決断を下した。
『一緒にこの宿から逃げ出そう。君はこんなところにいるべき人ではない』。ある日、お前は勇気を振り絞ってメローサにそう告げた。彼女ほどの器量と資質に恵まれていれば、どこへ行っても必ず成功できる。その後押しをすることが、きっと最大の恩返しになるはずだ――悩みに悩んだ末、お前はこのような結論に達していた。しかし、案に反して、彼女の返答はすげないものだった。
『逃げてどうするの? そのあとの生活は?』。メローサが怪訝な声で訊ね、お前は返答に窮した。『貯えがなくては、外の世界ではやっていけない。何のかんの言って、私たちはここに暮らしていることで守られてもいるのよ』。彼女は追い打ちをかけるようにそう言った。そこでお前は、自らの未熟さを強く恥じつつも、『いくらあれば、安心して外の世界で暮らせるのだろう?』と率直に訊ねた。
『そうね、エギゼル金貨が百枚くらいあれば、ひとまずどうにかなるんじゃないかしら』。そう答えたメローサに向かって、お前は声高に宣言した。『ならば僕が、耳を揃えてその額を稼いでみせようじゃないか!』。それはお前が生まれて初めて抱いた本物の野心であり、情熱だった。メローサに対するプラトニックな愛と、少しでも彼女に近づきたいという背伸びする気持ちが、お前の心に覚悟を生んだのだ。
その日を境に、メローサの心配もどこ吹く風と、お前は余暇の全てを金策に充てるようになった。初めのうち、善悪の概念をまともに身につけていなかったお前は、路地裏にたむろする悪ガキたちを抱き込んで、一通りの悪事に手を染めた。空き巣に窃盗、ゆすりたかり、思いつくことは何でもやった。しかし拙い手口ゆえ、悪事が露見することもしばしばで、その度ごとに手酷い折檻を加えられる破目に陥った。所詮はガキの仕出かしたことだと、王国騎士団に突き出されまではしなかったのが、不幸中の幸いだった。
かくして、いくらかなりとも分別を備えたお前は、次なる金策の手段として、“投擲ナイフの的当て試合”を対象とした裏賭博に目をつけた。既に札付きの不良連中と交流があったお前は、彼らの伝手をたどって裏賭場へ押しかけ、自らのナイフ投げの腕前を胴元の男に披露した。すると、その男は目を丸くしながら、『今日からでも賭け試合に出場して欲しい』と懇願してきた。以来、仕事の合間を縫って試合に出場し続けたお前は、ほどなく人気選手として鳴らすようになり、少なくない額の出場給を稼ぎ出すようになった。
そうして一年半ほど経った冬のある日、遂に待ち望んだ瞬間が訪れた。お前はきっかり百枚のエギゼル金貨が詰まった皮袋をメローサに手渡し、それからこう告げた。『今晩にでも逃げよう。僕たちはもう、どこへでも行くことができる』とね。するとメローサは、これ以上はないというくらいの素敵な微笑みを浮かべてこう言った。『それじゃ、“男爵”に最後のお別れを言いに行かなくちゃいけないわ。私、ここへ来てから、あの方には大変お世話になったのよ。またとない機会だし、君にも一緒について来てもらいたいのだけれど、構わないわね?』」
“男爵”の名を再び耳にしたせいか、はたまたゼルマンドが真似るメローサの声音が、本物よりも本物らしく聞こえたためか(奴は何らかの魔術を用いているのだろうか?)、俺は烈しい悪寒を覚えていた。
そこには、船酔いに似た吐き気の予感さえ含まれており、俺は歯を食いしばってそれをやり過ごす必要があった――。
「……たびたびメローサの口に上る“男爵”なる男は、大層な資産家であるらしく、また彼女とは親密な関係を築いている様子だった」
ややあってから、ゼルマンドは再び話し出した。
「とは言え、それ以外のことは、何も分からず終いだった。“男爵”は本当に男爵の地位に就いている人物なのか? はたまた、彼は客としてメローサと知り合ったのか? 気がかりな点はいくつもあったが、当時のお前にとって、“男爵”は紛うことなき嫉妬の対象だった。ゆえに、彼の素性を積極的に知ろうとはしなかったし、実際に顔を合わせるなど、もってのほかだと考えていた。……にもかかわらず、惚れた弱みとでも言うべきか、お前はメローサの申し出を渋々承諾した。
かくして、お前たち二人は、ほかの娼婦たちが寝静まった夜半過ぎ、忍び足で娼館の裏口へまわり、しんと静まり返った夜の街へ飛び出した。それからメローサの指示に従って、いくつも路地を抜けると、宏壮なる大邸宅の前に辿り着いた。次いで、メローサが慣れた手つきで銀のドア・ノッカーを鳴らすと、黒い眼帯を当てた痩身の老女中が姿を現した。彼女はお前たちを邸内に迎い入れると、死んだように黙りこくったまま廊下を歩き進み、薄暗い地下室へと先導した。すると、よく通るテノールの声が、部屋の奥のほうから響いてきた。『以前から話は耳にしていた。君がイーシャルだね?』。暗闇に目を凝らすと、いかにも上等そうな揺り椅子に身を委ねて座っている、四十絡みの男が見えた。彼が“男爵”だ、とお前は即座に理解した。
美味そうに葉巻をくゆらせつつ、ゆっくりと立ち上がった“男爵”は、どういうわけか全裸だった。彼は均整の取れた頑強な肉体と、端正に刈り込んだ口髭の持ち主だった。『君は噂以上の美しさだ、イーシャル』。 “男爵”が恍惚とした声で明言すると同時に、メローサは堪え切れなくなったように腹を抱えて笑い出した。彼女の笑い声は、かつて耳にした例がないほど禍々しく残響した。
ほどなく、呆然と立ち尽くすお前の横を、眼帯の老婆が通り過ぎていった。彼女の手には、いつの間にか、鈍色に輝く牛刀が握られていた。“男爵”は葉巻を床に投げ捨てたのち、老婆が差し出した牛刀を受け取り、『よく研がれている』と満足げに呟いた。刹那、お前の後頭部に激しい衝撃が走った――。
ふと気づくと、お前は冷たい石床の上に転がっていた。視線の先には、真上からこちらを覗き込む、メローサの歪んだ笑顔があった。次いで、お前の瞳が映したのは、彼女の右手に握られた、見覚えのある皮袋だった。言わずもがな、その中に詰まっているのは、ほかでもないメローサのために、お前が身を粉にして稼いだ百枚の金貨だ。さらに、革袋の端から一滴、二滴と血液が滴り落ちた。『これで頭をどやされたのだ』。そう理解するや否や、お前の目に涙が込み上げてきた。
『……ねえ、どうして?』
その一言が、お前の口から飛び出していた。
『――それはね、君が美し過ぎるからよ』
メローサの返答は、『美しい者は、必ずこうした目に遭うのだ』という風にも聞こえたし、『自分より美しい者は、悉く酷い目に遭うべきなのだ』という風にも聞こえた。しかし、彼女の真意が分かるはずもなく、お前もそれを知りたいとは願わなかった。次いで彼女は、自ら“男爵”の正面に跪き、ゆっくりと頭を動かし始めた。彼女の行為の意味を理解したお前は、一層虚ろになっていた。
『――メローサは、僕を生贄に捧げることで、何らかの成功の足掛かりを掴もうしているのだろう。おそらく彼女は、元から僕を利用するつもりで接近したのに違いない』
お前はようやくそれを痛感し、また思い返してもいた。お前が二人の未来について語るとき、メローサは常に、どこか憐れむような、余裕のある笑みを浮かべていたことを。それは世慣れた人間が、未熟な人間の言葉を聞き流すときに浮かべる笑みだった。さらに彼女は、二人の関係が一種のピークを迎えるときを敢えて狙い、それを最も残虐なかたちで破壊することを望んだのだ。摩訶不思議というほかないが、自ら大切に育んできたものを、自らの手で跡形もなく壊すことに快楽を覚える者は、一定数いる。メローサという女は、まさしくその一人なのだ、とお前は確信した。
『……もう十分だ、メローサ』。やがて“男爵”はそう言い、メローサを脇にどかせた。次いで、紳士的な手つきで牛刀を撫でながら、お前の前に雄々しく立った。『怖がる必要はない』。そう言いながら、“男爵”はお前の上体を抱き起こすと、真新しい頭の傷に唇をつけ、優しく血を吸った。
血、とお前は思った。そして出し抜けに“男爵”に訊ねた。『その大きなナイフで、僕の体を傷つけたいのでしょう?』。すると、“男爵”は何か眩しいものでも見るように目を細めた。彼は一切の言葉を発さなかったが、それが肯定の沈黙であることを、お前は確かに見抜いていた。『……でも、傷つけるときは、そうっとだよ。痛くないように、そうっと』。“男爵”の耳元で囁くと、彼はおもむろに立ち上がり、お前の右頬を牛刀で優しく撫で切った。それは十分に洗練された手つきであり、過去に幾度となく同様の作業が繰り返されてきたということが、容易に察せられた。
間を置かず、今度は左頬を切りつけられ、真っ赤な鮮血が床に飛び散った。『もっと、もっと!』。お前は甘ったるい声で叫び続けた。そして、お前の足元に大きな血だまりが出来上がったとき既に、“男爵”は膝から頽れた格好で、白眼を剥いて絶命していた。彼の眉間は、深紅に輝く血の刃によって貫かれていた。一人目、とお前は思った。それは生まれて初めてお前が犯した殺人だった。
次にお前は、足元の血だまりから“血の剣”を錬成し、眼帯の老婆の元へと向かった。『お前もこれに加担してきたのか?』。訊ねたが、老婆は何一つ答えなかった。しかし、彼女は態度で示した。その場に跪き、お前の方へうな垂れるように首を突き出したのだ。『そうか』。お前は短く言ったのち、躊躇なく“血の剣”を振るった。二人目、と心の中で指を折りながらだ。刹那、老婆の首が、乾いた音を立てて石床に転がった。お前はそれを汚いものでも摘まむように持ち上げると、メローサに向かって荒々しく放り投げた。同時に、彼女の短い悲鳴が上がった。それからお前は、床にへたり込んでいる彼女の正面に回ってこう尋ねた。
『――俺が今、何を考えているか分かるか?』
お前はこのとき、初めて自分のことを“俺”と呼んだ。以前のお前は、“僕”という一人称を用いていたが、それはもう相応しくないように思えたのだ。片やメローサは、驚きと恐怖のあまり、全く口をきけない状態に陥っていた。
『――俺が今、考えていること。それは、お前を犯しながら殺すことだ』
お前はメローサを見下ろしつつ、はっきりとした声でそう告げた。
『……だが、今は敢えてそれをせずにおく。次に会ったときの楽しみに取っておくというわけだ。従って、自分の命が大事なら、金輪際、俺の前に姿を現さぬことだ。仮にこの約束を破れば、俺は必ずお前を犯し殺す』
お前はぴしゃりと言ったが、実際のところは全て虚勢だった。二人の関係がこうした結末を迎えてもなお、メローサを犯し殺すだなんてことは、欠片も想像できなかった。なぜなら、お前が彼女に抱いた愛は、一切の混じり気のない、真実のものだったからだ。
『……一つ忠告しておく。俺は二人の人間に罰を下したが、それは必要なことだった。王国騎士団に垂れ込もうだなんて考えは、絶対に起こすんじゃないぞ』
心の内側から血が流れ出すのを感じながら、お前はメローサに釘を刺した。一方彼女は、虚ろな瞳でぼんやりとお前を眺めるばかりだった。やがて、お前は苛立ったように彼女の手元から金貨袋をひったくった。
『……いいな? 俺を売ろうだなんて考えは、絶対に起こすんじゃないぞッ!!』
恫喝するように詰め寄りながら、お前は思い切り足で床を踏み鳴らした。するとメローサは、びくりと身震いしたのち、小さくうなずいた。それが、お前にとっての彼女の最後の姿だった。
“男爵”の館をあとにしたお前は、その足で真冬のラヌーズ川へと向かった。そして服を着たまま、ざぶざぶと川の中へ入っていった。体と衣服にこびりついた血を、綺麗に洗い流しておく必要があったためだ。かくして、氷のように冷たい川の流れに身を任せていると、独りでに涙がこぼれ落ちた。
たった一人で王都を去らねばならぬこと。どこへも行く当てがないこと。少年だった自分は死に絶え、あまつさえ人間の埒外に飛び出してしまったこと――これらのことが脳裏に去来して、お前はおいおいと声を上げて泣いた。そうしてひとしきり泣いたあと、お前は自分の名が刻まれた十字架の首飾りを、思い切り川の中へ投げ捨てた。その首飾りは、娼館の前に棄てられた赤子のお前が握り締めていたものだった。加うるに、生まれてこの方、肌身離さずお守り代わりに身につけてきたものでもあった。ところが、いざというとき、それは何の役にも立たなかった。現実にお前の命を救ったのは、人々が忌み嫌う“暗黒魔術”にほかならなかった。
……ラヌーズ川は、お前とメローサにとって始まりの場所であり、同時に終わりの場所でもあった。あの日の彼女との決別は、血に濡れた通過儀礼であり、その後の涙ながらの沐浴は、あまりにも悲劇的な禊だった。しかしお前は、彼女に対する憎悪まで、水に流して忘れ去ることはできなかった。
その後、お前は行く先々の町で、黒髪の女を自然と目で追いかけるようになった。……そう、お前はあの日からずっと、メローサを殺したいと無意識下で願い続けてきたのだ。事実、お前は夢の中で、数え切れぬほど彼女を殺した。ときには、ほっそりとしたその首を締め、またあるときは、その胸に“血の剣”を何度も突き立てた。悪魔、売女と罵りながらなッ!!」
ゼルマンドが話し終えたとき、俺はとうとう堪え切れなくなり、胃の中にあったものを全て吐き出した。
それは“運命の女”たるメローサと、ほかでもない自分自身に対する嫌悪感が引き起こした反応に違いなかった。
「……おやおや、先刻までの威勢の良さは、一体どこへ行ってしまったのだろう? 疲れて眠りに就いてしまったのだろうか?」
嘲るように言いながら、ゼルマンドは俺の足元に広がった吐瀉物を見やった。そして、乾いた笑いを絡ませながら、再び話を続けた。
「……王都を脱したお前は、次なる身の置き場所に義勇軍を選んだ。女にはもう懲り懲りだったろうから、まさしくおあつらえ向きの行先だったと言えよう。事実、お前はそこで、やっと一息つくことができた。少年兵たちの庇護者となる一方、“逃がし屋”としても奔走することで、空っぽになっていた己の心を――たとえ仮初に過ぎぬにせよ――充足させることができた。さらに戦場では、美しい己の顔を好きなだけ傷つけることもできた。そうして流れ出た血を、“血操術”の媒介にするという大義名分の下にね。
当時のお前は、野営地の近くに川があれば、毎朝必ずそこへ通ったものだった。そして、そこで剣の鍛錬を積む傍ら、日増しに傷だらけになってゆく己の顔を水面に映し出して満足した。それは娼館の屋根裏部屋で、己の血液を芋虫のごとく床に這わせる遊びと同じような、実に暗い愉悦に満ちた行為だった。
『――それはね、君が美し過ぎるからよ』
これほど醜い顔になれば、かつてメローサが口にした呪いの言葉も、もはや用を成さぬ――お前は自らに、繰り返しそう言い聞かせた。しかし、運命の落とし穴は、再びお前を待ち構えていた。……そう、“あの日”がやってきたのだ。お前はやはり、呪いから逃れられてはいなかった――」
俺は胃液を吐きながら、もう止めろ、と言いかけた――が、咄嗟に我に返り、その言葉を呑み込んだ。
そんなことを口にしたところで、聞き入れられる道理はない。
むしろ、一層ゼルマンドを増長させるばかりである。
従って、今の俺に許されているのは、奴が語り終えるのを待つことだけだった。
いつ果てるとも知れぬ、この絶望的な我慢比べを乗り越えるという一点のみが、俺に残された最後の希望だった。
「……あれは、今から五年ほど前。時節は春のはじめだった」
やがて、ゼルマンドは酷薄な薄笑いを浮かべながら話し出した。
「その日の夜更け、我が軍の大々的な奇襲が成功し、お前たち義勇軍は絶体絶命の窮地へ追い込まれた。そしてお前は、直属の上官である、ダルムーフという名の中年男に呼び出された。野盗上がりにもかかわらず、准将まで昇り詰めたこの男とお前は、まさしく氷炭相容れざるの関係にあった。お前たち二人には、過去に少年兵や負傷兵の待遇を巡って衝突を繰り返した経緯があり、いつしか互いに反目し合うのが当たり前となっていた。
『お前の武勇を見込んで命ずる。最低限の兵を率い、本隊が逃げ延びるまでの時間稼ぎをせよ』。ダルムーフは、お前に向かって淡々とそう告げた。それが体の良い厄介払いを目的とした人選であることに、疑いの余地はなかった。そのときの両軍の圧倒的兵力差を鑑みれば、時間稼ぎのついでに死んで来い、と言われているのと全く以て同義だった。実に陰険なそのやり口に、さすがのお前も憤懣やるかたない思いだったが、結局のところは、黙って首を縦に振った。
『少年兵たちさえ生き延びてくれれば、自分の命を捨てることなど惜しくはない。彼らはかつての自分と同様、薄暗い過去によって傷を負わされた者たちばかりだ。なればこそ、彼らは生き続け、いつの日か人並み以上の幸せを掴むべきなのだ。俺がついぞ知ることのなかったそれを、彼らにだけは知ってもらわねば困る』
それがお前の導き出した結論であり、そこに一切の迷いはなかった。
そして、お前は覚悟を決めて口を開いた。
『――では、懲罰部隊を使わせてもらう』
好きにしろ、とダルムーフは返した。言わずもがな懲罰部隊とは、軍規違反者のみで編成された特別部隊であり、戦場で最も危険な任務を与えられるのは、常に彼らと相場が決まっていた。
その後、ダルムーフのテントを出たお前は、その足で“にんじん”の元へ向かった。当時、彼は既に十七、八。立派な兵士に成長し、お前の右腕とも言うべき存在になっていた。
『――よく聞いてくれ、にんじん。俺は殿の役を命じられた。そこで今回は、懲罰部隊を率いて戦うことを決めた』
お前がそう告げると、にんじんはハッと息を呑んだ。次いで、何かを言おうと口を開きかけたが、お前は首を横に振ってそれを制した。
『俺の全身に刻まれた傷のことは、お前とて知らぬはずはない。……そう、俺はこれまで、さんざ死に損なってきたのだ。自慢じゃないが、悪運にだけは恵まれているらしい。だから構うことはない。お前には、ほかの少年兵たちと一緒に逃げてもらいたいのだ』
刹那、にんじんの顔に暗い影が差したが、お前は構わず話を続けた。
『俺のほうはいつも通り、傷が二つ三つ増えるだけのことさ。どちらかと言えば、曲者だらけの懲罰部隊を率いることのほうが心配なくらいだ。ところで、もしもの話だが、……もしも、俺が戻って来なかったら、あとのことは全てお前に任せたい。これからも、少年兵たちの力になり続けて欲しいのだ。俺は俺の持てる全てをお前に伝えてきたつもりだし、お前ならばきっと、俺以上に良い“兄貴”になれる。現に今だって、お前は俺たちの太陽みたいなもんだ。代わりを務まる奴なんて、誰一人としていない』
努めて明るく言いながら、お前はにんじんの肩を叩いて笑った。
『……さあ、顔を上げるんだ、にんじん。らしくないぞ。お願いだから、皆と一緒に逃げると約束してくれ』
にんじんが小さくうなずいたのを見届けたのち、お前は手近に繋がれていた馬の背に飛び乗った。そして、懲罰部隊の控えるテント目がけて走り出した――」
ほんの束の間、ゼルマンドが沈黙した刹那、奴の眼光が、蒼い月明かりの下で不気味に輝いた。俺は自らの心臓に、目には映らぬ鋭利な刃を突きつけられたかのごとく錯覚していた――。
「……かくして、お前は死出の旅路へと踏み出した。元より敗北は必定、一分一秒でも多く時間を稼ぐことだけが目的の絶望的な戦いだ。しかし、お前は決して諦めたりはしなかった。声の限りに号令を発し、崩れかける陣を何度も立て直しては、我が軍の追撃を悉く阻んだ。さらにその一方で、自ら遊軍として最も危険な地帯を駆けずり回り、常に最前線に立って斬り合いを続けた。それは十倍以上の兵力差を物ともしない、まさしく鬼神のごとき戦ぶりと言えた。
だが、お前とて人の子だ。間断なく剣を振るう腕は、やがて鉛のごとく重みを増し、さらには、自軍の兵が次々に頭数を減らしてゆく――刻一刻と逼迫し続ける状況は、如何ともし難いものだった。そして、半時間あまり経過した折、とうとう恐れていた事態が起きた。陣形の綻びに、我が屍兵たちが殺到したのだ。
『……もう駄目だ。このままでは陣が破られる』
お前はそれを確信した。そして、出陣前に密かに鎧下にくくりつけた、“封魔焼夷爆弾”のことを思った。
『――今わの際には、“血液爆破”によって自らの肉体を火種に変え、一人でも多くの敵を道連れにするまで』
覚悟を固めたお前は、我先にと陣形の亀裂へ向かって駆け出した――と、そのとき、背後から飛び出した何者かが、己と並走していることに気がついた。
『――ごめんよ、兄貴。約束、守れなかった』
赤く縮れた頭髪が、お前の視界の端に映り込む。
次の瞬間、お前は狂ったように叫んでいた。
『――この大馬鹿野郎――――ッ!!!!』
にんじんは苦笑いしながら、『確かにそうだ。否定はしない』と返した。
『……でもさ、考えてもみてくれよ。兄貴を置いて自分たちだけ逃げるだなんて、できるわけがない。これまでもこれからも、俺たちは一心同体なんだ』
もしやと思って、お前はちらと後方を一瞥した。
するとそこには、……嗚呼、何ということだろう、少年兵たちが勢揃いしているではないか。
その上、誰も彼も皆、己の顔に決然たる死の覚悟を刻み込んでいた。
『……俺が兄貴との約束を破ったのは、正真正銘、今回が初めてだ。まあ、二度目はしないつもりでいるから、大目に見てくれよ』
にんじんはあっけらかんと言った。そして、それが彼の発した最後の言葉となった――」
ふと気がつくと、俺は嗚咽を堪えながら涙を流していた。
「――もはや人目を憚る必要もあるまい。泣きたければ存分に泣くが良い」
勿体ぶった口調で言いながら、ゼルマンドは大きく顔を歪めて笑っていた。
「少年兵の中には、“屍兵”によって家族や故郷を失った者たちが大多数含まれていた。それゆえ、彼らが抱く“暗黒魔術”に対する並みならぬ憎悪を、お前は常日頃から肌身に沁みて知っていた。……しかし、もはやなりふり構っていられなくなったお前は、公然と“血操術”を用いることで、局面打開を図った。少年兵たちを守り通すには、ほかに術はない。たとえ人でなしと罵られようと、やむを得ぬ、と腹を括ったのだ。
だが結局は、その判断が取り返しのつかぬ悲劇を招いた。殊更お前を慕っていた、“いなご”という名の少年兵が、『裏切り者ッ!!』と悲痛な声で叫ぶなり、背後からお前に斬りかかったのだ。しかし、その突然の凶刃に倒れたのは、お前ではなくにんじんだった。彼が咄嗟に身を挺し、お前を庇ったのだ。
……無情にも、お前が振り返ったとき既に、にんじんは絶命していた。心臓を貫かれての即死だった。そして、お前は目の当たりにした。“ながぐつ”という名の少年兵が、“いなご”の首を刎ね飛ばすその瞬間を。“ながぐつ”と“いなご”は、大の親友同士だったにもかかわらず、一方は殺す側に回り、もう一方は殺される側に回ったのだ。……嗚呼、何たる運命の皮肉ッ!!」
「……ああァ、ううッ、ううッ!!」
俺は意味のない喘ぎ声を発しながら、赤子のように泣いていた。
涙は次から次へと、堰を切ったようにあふれ出てきた。
「禁忌の力に手を染めるお前の姿、さらには、思いがけぬ同士討ちまで目の当たりにした少年兵たちは、当然のごとく動揺した。結果、指揮系統が壊滅したお前たちは、我が軍に蹂躙され尽くし、あっという間に全滅した。お前ただ一人を除いてな。
……それより先は、お前の独壇場だった。お前は愛おしんだ者たちが流した血を、文字通り己の力に変え、遮二無二殺し続けた。誰の目も気にかけることなく、殺しを謳歌した。そしてその果てに、とうとう我が軍の奇襲を退けた。実に信じられぬことだが、お前はたった一人でそれをやりおおせたのだ。
その後、本隊と合流したお前は、我が軍の撤退と自軍の損害について、ダルムーフ准将に報告した。彼はお前の生存に驚くあまり、口もきけない様子だったが、それでもやがて、『ご苦労』とだけ言った。刹那、お前はダルムーフの下顎に正拳を叩き込んでいた。ありったけの怒りと、全身全霊の力を込めてだ。結果、顎の骨を粉々に砕かれたダルムーフは、即座に昏倒した。一方お前も、その場で取り押さえられ、即刻懲罰房行きを命じられた。
それから丸一ヵ月、お前は一切の光が届かぬ穴倉の中に押し込められた。蟲たちが蠢く、そのじめついた闇の中で、憤怒、悲哀、憎悪、絶望――ありとあらゆる負の感情に蝕まれ、お前という人間は否応なく作り変えられた。そして、いよいよ懲罰房から抜け出したとき、お前は一個の殺戮機械、……そう、真なる“血の報復者”へと変貌を遂げていたのだッ!!」
突きつけるように言いながら、ゼルマンドは立ち上がった。
そして、こちらへ向かってゆっくりと歩き出した。
「“あの日”以来、お前は死の舞踏を踊るがごとく、好んで苛烈な戦いにばかり身を投じ続けた。己が身を、一層傷だらけにしながらね。……しかしだ、よくよく考えみるがいい、イーシャルよ。結局のところ、お前は一体何を相手に戦ってきたのだろう? お前が報復したかった相手とは、本当に私や私の率いる軍勢だったのだろうか?」
やがて俺の眼前に立ったゼルマンドは、力強い声で「否ッ!!」と叫んだ。
「――お前が真に憎悪し、否定し続けてきたのは、己の過去、己の運命、……いや、己自身にほかならぬ。何と言っても、“いなご”、“ながぐつ”、“にんじん”――名を挙げればキリがないが、誰も彼も皆、お前が殺したようなものだ。
第一に、お前の注いだ歪んだ愛情が、少年兵たちを死地へと向かわせた。第二に、彼らの大半が、お前の抱えていた秘密を受け入れることができなかった。ゆえに取り乱し、彼らは死んだッ!! 誰一人残らずなッ!! 図らずも、お前はメローサと同様、自ら大切に育んできたものを、自らの手で跡形もなく壊したのだッ!!」
「……アアアァーーーーーーーッ!!!!」
俺はわけの分からぬまま、獣のごとく咆哮していた。
「“あの日”以降のお前にとって、いかなる戦場での殺し合いも、一種の代替行為でしかなかった。……そう、お前は己自身に向けるべき憎悪を、禍々しき破壊衝動にすり替え、戦場で発散していただけに過ぎぬのだ。要はお前という男は、ただの血塗られた道化というわけさッ!!」
吐き捨てるように言いながら、ゼルマンドはぱちりと指を鳴らした。
刹那、俺が身にまとっていた甲冑は鉄砂に変じ、勢いよく地面に流れ落ちる――。
「……嗚呼、何ということだろう、空疎、あまりにも空疎ッ!! どれほど足掻こうと、人は己自身から逃れることはできぬのだ。ならばいっそ、心に渦巻く憎悪の炎に、むせ返る黒煙に似た憤怒に、そのまま己が身を委ねてみるがいいッ!! お前の魂の叫びは、我々をさらなる高みへと導いてくれるはずだッ!!」
「――アアアァーーーーーーーッ!!!!」
俺は再び咆哮していた――と、そのときだった。
どす黒い炎で満たされた俺の左胸に、ゼルマンドが直に手を当てた。
「――時は満ちた」
ゼルマンドの囁くような声が、俺の耳に虚ろげに響いた――。