46.裏切りの真相
「――待て、ゼルマンドッ!! 俺の腹は決まったッ!!」
ディダレイに向けられた注意を逸らすため、覚悟を決めて声を張り上げると、ゼルマンドははたと足を止めた。
次いで、こちらに向き直り、「……して、その答えは?」と問うた。
「――俺の身体を手に入れたければ、やってみるがいいッ!!」
真っ直ぐゼルマンドを睨めつけながら、俺はそう答えた。
(――奴は“精神的共鳴”を意図的に引き起こせると話していたが、是が非でも、俺はそれに抗ってみせる。奴が“精神転移”に失敗すれば、思念体となったまま行き場を失い、無間地獄に堕ちるのと等しい状況に追いやられるのだ。これを誘発させる以外に、もはや道は残されていない)
思いつつ、固唾を呑んだ、そのときだった。
――右脇腹にずしりと重い衝撃が走り、眼前に甲冑の破片が舞った。
「……ッ!?」
次の瞬間、あぶくのような血が、口から零れ出していた。
急いで視線を落とすと、腰部の右上方の空間に、小さな“転移の門”が開かれている。
俺の右脇腹は、その“転移の門”からぬっと突き出した、炎をまとった波打つ刃によって、深々と喰い破られていた――。
(……“転移の門”で空間をまたいで突きを放つなど、俄かには信じられぬ芸当だ)
視線を上げると、ゼルマンドの後方に立つディダレイが、自身の前方に浮かんだ“転移の門”に向かって、真っ直ぐ大剣を突き出している様子が映った。
案の定、彼の大剣は、その切先から中ほどにかけて、“転移の門”の放つ青白い輝きの中に、すっぽりと呑み込まれている。
(……この命、ディダレイの手によって絶たれるならば、文句は言えぬ)
俺は真っ先にそう思った。
何と言っても、彼には屍兵化した実の兄、さらには屍兵化した右腕のジャンデルまでも、自らの手で討ったという過去があるのだ。
彼の“暗黒魔術”に対する憎悪は、察するに余りあった。
加うるに、ゼルマンドの野望を砕くには、まずもって俺を亡き者にすることこそ、最も現実的かつ確実な手段と言えた。それは火を見るよりも明らかだった。
(……だが、本気で命を奪うつもりならば、なぜ彼は俺の首や心臓を狙わなかったのだろう?)
刹那、俺はハッと気がついた。
好意的な解釈をすれば、ディダレイはこれほどの深手をこちらに負わせるつもりはなかったのかもしれぬ、と。
事実、彼は立っているのもやっと、半ば前後不覚の状態に映った。
ゆえに、突きを放った際、力の加減を過ったとは考えられないだろうか――。
(……要するに、ディダレイは俺に向かってこう告げているのかもしれぬ。己の流血によって、活路を見出してみせよ、と)
見やると、俺の足元には、既に大きな血溜まりが出来上がっている。
それは、“血操術”の媒介とするには、十分過ぎる――いや、むしろ、致死的と評してもおかしくないほどの血液量だった。
(……駄目だ、せっかくの好機だというのに、“血操術”を使おうにも、まともに集中力が働かぬ。そればかりか、このままでは、失血死さえしかねん)
遅れてやってきた焼けるような痛みが、全身を駆け巡り、自然と呼吸が荒くなる――と同時に、ゼルマンドの激昂した声が響き渡った。
「……貴様ァーーーーッ!!」
そのとき既に、ゼルマンドの右掌から、太く力強い火線が放たれていた。
それは目にも留まらぬ速さで闇を裂き、狙い澄ましたようにディダレイの手元を襲った。
――刹那、彼の手にしていた大剣が、木っ端微塵に砕け散る。
直後、俺の足元にできた血溜まりの中に、凄まじい勢いで何かが落下した――。
「――ッ!?」
ぼんやりと薄れゆく意識の中、俺は声にならない声を上げていた。
……そう、そのとき、俺の瞳が映していたのは、血溜まりに浸かった人間の右手首にほかならなかった。
「う、ぐッ……」
短い呻き声が聞こえ、力を振り絞って顔を上げると、膝から頽れたディダレイの姿が視界に飛び込んできた。
彼は下唇を噛み締めたまま、柘榴のごとき肉塊と化した己の右肘より先を、ひどく虚ろげに眺めている――。
「……戯れが過ぎたぞ、新米騎士団長」
ゼルマンドが言い捨てると、宙に突き出された奴の右人差し指の先端に、身の丈ほどもある漆黒の球体が宿った。
球体の周囲には、幾筋もの放電光が、さながら暗い意志を宿した生き物のごとく、明滅を繰り返しながら蠢いている――。
(――ディダレイはここで死ぬべき男ではない。どうにかせねばッ……)
ますます広がってゆく血溜まりを睨みながら、俺はゼルマンドを急襲すべく、“血の刃”の創出を試みる――が、意識は成す術もなく遠のいてゆき、一向にその焦点は定まらない。
あまつさえ、死が近づいているのか、不可思議な幻覚にまで襲われる始末だった。
いつの間にか、五、六匹の黒蝶が、右腹部の傷口の周囲を元気に飛び回っている――。
* * *
「……シャル、イーシャル」
何者かに呼びかけられ、弾かれたように顔を上げると、表情を欠いた白髪の男が目の前に立っていた。
ほんの束の間、戦友の顔でありながら、同時に永遠の宿敵そのものに映る男の顔を、俺は半ば放心状態で眺めていた。
「――さて、お前の傷も癒えたことであるし、仕切り直しといこうではないか」
ハッとして腹の傷を確かめると、その言葉に噓偽りのないことが分かった。
だが、それ以上に俺が驚いたのは、再び顔を上げたとき、先刻目にした黒蝶の群れが、視界の隅に映ったためだった。
数えると、全部で六匹の黒蝶が、ゼルマンドの左肩に止まり、その羽を休めていた。
「……この蝶たちは、私の使い魔だ」
こちらの視線に気づいたのか、ゼルマンドは取りなすようにそう言った。
「実を言えば、お前の傷を完治することができたのも、この使い魔たちのお陰でね。これらを媒介として、“生命吸収”で奪った生命力を、お前に分け与えたのだ」
まさか、自らの宿敵に、命を救われることになろうとは――忸怩たる思いでその事実を噛み締めつつ、改めて周囲の様子を探ると、ゼルマンドの幾ばくか後方に、半球状の窪地が生じていることに気がついた。
それは見たところ、爆発の痕跡のようであり、今もなお、窪地の方々から、煙の筋が立ち昇っていた。
「……ところで、ディダレイの姿が見えぬが、貴様、何をした?」
俄かに憔悴しつつ尋ねると、案ずることはない、とゼルマンドは力強い口調で答えた。
次いで、奴がぱちりと指を弾くと、窪地の中心部付近に、一つの人影が亡霊のごとく立ち上がった。
辺りに満ちた暗闇のために、顔つきまではハッキリと確認できなかったが、よくよく目を凝らすと、その人影の右肘より先が、そっくり失われていることが見て取れた。
細身ながらもがっしりとしたその体躯と、怪我の具合から察するに、人影の正体がディダレイであることは、間違いなさそうである。
「やむを得ず、右腕こそ壊してしまったが、見ての通り、ほかに欠損部位はない。一線級の魔術戦士として、まだ十分使い物になるだろう」
ゼルマンドが再び指を弾くと、ディダレイは糸の切れた傀儡のごとく、不自然に地面に転がった。それから奴はこう加えた。
「……無論、“奇跡の兵”として蘇らせればの話だがね」
刹那、重いドアが閉じられた音が、背後から聞こえた気がした。
(――ディダレイ・バシュトバー。別のかたちで出会っていれば、友となり得たはずの男。そんなお前を、俺はとうとう最後まで欺き続けたばかりか、窮地から救ってやることも叶わなかった……)
途方もないやるせなさ、苦々しい罪の意識、己の運命とゼルマンドに対する呪詛の念――これらが一緒くたに混じり合い、言い知れぬ激情の塊となって込み上げてきた。
同時に、思わず目頭が熱くなり、俺は独りでに目を閉じた。
今はまだ、涙を流すには、あまりに早過ぎる――。
「話を本筋に戻そう。先刻、お前は『身体を奪ってみせろ』と言ったように聞こえたが――」
そう切り出したゼルマンドの顔に向かって、俺はほとんど反射的に、口内に残った血の塊を吐きかけていた。
間を置かず、奴の頬についた血を媒介に、“血液爆破”を発動させようと意識を集中し出した――が、直ちに思い止まった。
現在のゼルマンドの肉体が、ガンドレールのものであるという至極当然の事実を、俺は失念していたのである。
それほどまでに、我を忘れていたのだった。
「……これが、命の恩人に対する仕打ちかね?」
頬にべっとりと付着した血を拭うこともせず、ゼルマンドが問うてきた。
「――貴様が世の人々に加えてきた仕打ちと比べれば、あまりに手緩い」
どうにか平静を取り戻して返すと、ゼルマンドは呆れたように首を振った。
俺は深呼吸を一つしたのち、話を続けた。
「『破壊と創造は常に表裏一体だ』と貴様は言った。だが、現実に貴様が仕出かしたことは、単なる破壊に過ぎぬ。二十五年にも渡って人々を蹂躙し、徹底的に国土を荒廃せしめ、その結果創り出したものは、“絶望”以外の何物でもない。もはやこれ以上、無益な血を流させるわけにはいかぬのだ。“奇跡の兵”の復活だけは、身命を賭してでも阻止してみせる」
「……歴史の転換点は、多くの場合、実に血生臭いものだ。“賢者は歴史に学ぶ”と昔からよく言われるが、私はそれに従ったまで」
ゼルマンドは静かな声で言いながら、見せつけるように手の甲で頬の血を拭った。
「現にお前は、今の強さを手に入れるまで、数え切れぬほどの傷と痛みを、その身に刻んできた。なればこそ、誰よりも深く承知しているはずだ。“変化は常に、相応の痛みを伴うものだ”とね。
そして、それと全く同じことが、国家についても言える。人間も国家も、痛みを恐れて変化から遠ざかれば、やがては内側から腐り果てるのみ。事実、既にこの国が、度し難い腐臭に満ち満ちていることを、お前とて知らぬ道理はない。にもかかわらず、お前は愚かな夢想家よろしく、空疎なたわ言ばかり抜かしている――」
ゼルマンドは大仰に嘆息したのち、感情を宿さぬ一対の目で、真正面から俺の顔を覗き込んだ。
「……イーシャルよ、お前は少々、私情に捉われ過ぎている。是非ともこの点を克服し、より合理的な視座を持つべきであろう。さすれば、私の側につくことの正当性が、容易に理解できるはずだ。お前は自らの才覚を、新世界の創り手の一人として、存分に活かさねばならぬ」
「――空疎なたわ言ばかり抜かしているのは、貴様のほうだ」
そう返す傍ら、俺は真っ直ぐゼルマンドを睨み据えた。
「俺の瞼の裏には、あまりに多くの仲間たちの死に様が、今なお鮮明に焼き付いている。まるで昨日のことのように、実にありありとだ。なればこそ、俺はハッキリと断言できる。この国を創り変えるために、彼らのような犠牲が必要などという考えは、どう転んでも間違っているとな。
従って俺は、“愚かな夢想家”であり続けながら、この国をより良くしてゆく道を選ぶ――これこそが、永久不変の俺の答えだ。事実、ポリージアの町は、腐った膿を出し切り、既に生まれ変わることができた。貴様には断じて思い描けぬ未来と可能性を、俺は心の底から信じている」
ゼルマンドは草臥れたように首を振りつつ、「残念だ、実に残念だよ」と呟くように言った。
「どうやら我々の交渉は、決裂に終わったらしい。これで私は、お前の身体を奪うよりほかに術はなくなった」
「――構わぬ。俺の精神に干渉してみるが良い」
俺はすぐさまそう応じた。定めた己の覚悟に、依然として揺るぎはない。
「磨き上げた己の精神を剣に変え、貴様の思念体を迎え撃つ。是が非でも、“精神的共鳴”に抗い、無間地獄へと叩き落してやろう」
「ならば、見せてもらおうではないか。お前の“精神の剣”とやらが、いかほどのものかをね。……だが、その前に、どうしても伝えておかねばならぬことがある」
ゼルマンドがそこで言葉を置くと、束の間、深い静寂が辺りに満ちた。
「――偶然の行きがかりによって、私は知っているのだよ。お前を絶望のどん底に突き落とした、密告者の正体をね。流石にお前とて、裏切りを働いた張本人が誰であったのか、無関心ではないはずだ」
勿体ぶった口調でゼルマンドが語りかけてきたが、俺は一切動じなかった。
奴の発言の真意は、あまりに容易く看破できた。
「言葉巧みにこちらの動揺を誘い、予め精神を御する術を失わせておく――精神干渉を容易にするため、貴様はこれを企図したのだろう。
だが、今さら密告の真相を知ったところで、俺の心が乱されることはない。結果的に密告は、いくつものかけがえのない出会いをもたらし、俺に生き直すきっかけを与えてくれた。今となっては、密告者に感謝こそすれ、恨み辛みの念は一切持ち合わせていない」
「……それはそれは、実に殊勝なことだ。しかし、密告者の正体が、戦場で背中を預け合った友だと知っても、お前の心は少しも乱れないのであろうか?」
「――“戦場で背中を預け合った友”だと?」
反射的に訊き返すと、ゼルマンドは狙い澄ましたように答えた。
「――そうとも、お前を密告したのは、現在の私の宿主、ガンドレールにほかならない」
ゼルマンドは俺を動揺させるため、真っ赤な嘘を吐いている――そう思い込もうとしている自分がいることに、俺はすぐに気がついた。
しかし同時に、奴の言葉は十中八九真実に違いないと、あっさりと認めてしまっているもう一人の自分もいた。
(――事実、ゼルマンドは山師のようなハッタリや辻褄の合わぬ話は、一切口にしてこなかった。そして何より、真に俺の心を乱したいならば、口から出任せの大嘘に頼ることは考えにくい)
ゼルマンドの発言を、感情では否定し、理性では肯定する――この二律背反を胸中に抱えながら、俺はひとまず判断を留保し、黙って奴の話の続きを待った。
「……密告の真相を知れば、お前はもう二度と、ガンドレールを友と呼ぶことは叶わなくなるだろう」
ゼルマンドはそっと打ち明けるように言うと、墓石の破片を集めて成した腰かけに再び座った。そして話を続けた。
「私の肉体的な死によって、戦役に一旦の終止符が打たれたのち、お前は北方の辺境“トガリア”の領主の座に収まった。片やガンドレールは、我が軍の残党狩りを命じられ、指揮官として各地を転戦する日々を送り続けた。
愛しのイーシャルと馬を並べて戦場を駆けることは、もう二度と叶わぬのだろうか――ガンドレールは任務に明け暮れる傍ら、報われるあてもない恋慕の情を、一方的に募らせていった。想像に難くないだろうが、彼は多事多忙の身ゆえ、お前を訪ねる暇さえ許されなかった。そしていつしか、己を縛る騎士団長の職務を、心底憂うようになっていった。加うるに、団内に深く根付いた腐敗、激化する権力闘争の存在も、その想いに一層拍車をかけることとなった。
かくして、いよいよ思い詰めた彼は、騎士団を辞する決意を固め、厳父カルソッテ伯爵宛てに、その許可を得るための手紙を送った。すると伯爵は、直ちに返書を寄越し、息子の申し出をにべもなく撥ねつけた。『カルソッテ家は、代々優れた騎士を輩出してきた名門である。貴公がその若さで騎士団長を任ぜられたのも、当家の血を色濃く受け継いでいることの証明にほかならない。にもかかわらず、自らその座を辞するなど、まさしく言語道断。高祖に対する冒涜であり、信義にもとる行為だ』というのが、伯爵の偽らざる見解だった。
……ところが、実に情けないことに、ガンドレールにとって、剣の師でもあった厳父の言葉は絶対だった。幼少期はもちろんのこと、彼が成人して以降も、この点だけは一切変わることはなかった。
『――父の支配と家名の重さが枷となり、己の自由が奪われている。このままでは、未来永劫、イーシャルと結ばれることはない』
と、このように、いつしかガンドレールは、我と我が身を、悲恋物語の美しい姫君のごとく見做すようになっていった。そして結局は、彼の中で日増しに浮き彫りになってゆく精神的孤立と、生来の夢想家的傾向が一種の化学反応を引き起こし、身の毛もよだつ計画へと彼を誘った」
ゼルマンドはそこで言葉を置き、何かを訴えるように俺の瞳を凝視した。
しばしの間、暗い愉悦の気配に満ちた沈黙が、辺りを支配した。
「――自らの手で、最愛の人間を処刑場から救い出したのち、地位も名誉も何もかも投げ捨て、共に駆け落ちする。これこそが、ガンドレールの描いた筋書きにほかならなかった」
俺はそう告げたゼルマンドから、自然と顔を背けていた。
間を置かず、奴の勝ち誇ったような笑い声が、奇妙に誇張されて耳に響いてきた。
「二度と引き返せぬ状況に自らを追い込むと同時に、何を以てしても返せぬほどの大恩をお前に売れば、悲恋は成就される――ガンドレールは、このように考えたのだ」
ゼルマンドは畳み掛けるようにそう言った。
そこには、獲物を追い詰めたと言わんばかりの酷薄な響きが含まれていた。
「そして無論、それを現実に叶えるには、誰かがお前を密告せねばならない。ゆえに彼は、最も確実な方法として、自らその役目を買って出た。要するに彼の計画は、文字通り命を懸けた、一世一代の大狂言だったというわけだ。
……かくして、彼はある雨のそぼ降る夜、兵舎の自室で、最愛の人間に対する告発状を匿名でしたためた。そして翌朝、彼は変装した上で異端魔術審問所まで赴き、審問官の一人にその手紙を託した」
ゼルマンドの話を聞きながら、俺はふと思い出していた。
トガリアに発つ前日の夜、ガンドレールの訪問を受けたことを、である。
俺たちは当時、ゼルマンド討伐の功績によって国賓待遇のもてなしを受け、王城の敷地内に設けられた客館に寝泊まりしていた。
『――なあ、イーシャル、これから一緒に散歩に出ないか? 夜風が心地良い季節だし、何より明朝には、君は王都を発ってしまうのだから』
部屋のドアを開けると、涼しげな微笑を浮かべたガンドレールが、そのように持ちかけてきた。
『……済まない、ガンドレール。どうも気分が優れないのだ。おそらくは、連日連夜、無理して祝宴に顔を出し続けたせいだろう。柄に合わぬことは、やはりすべきではないらしい』
苦笑を漏らしつつ返答した途端、ガンドレールはうつむいて黙り込んだ。
何か言いたげな様子に映ったが、結局のところ彼は、『寂しくなる。必ず手紙を書くよ』と口にしただけだった。
そのとき、彼の頬には、ひどく青白い影が差していた――。
(――間違いない。ガンドレールが思い詰めていたのは、真実だったのだろう)
俺は今更ながら、それを理解することができた。
そして同時に、ゼルマンドの語る密告の背景に嘘は含まれていないと、本能的に悟っていた――。
「それから間もなく、身柄を拘束されたお前は、直ちに死刑宣告を下された。一方ガンドレールは、このとき既に、一部の隙もない救出計画を練り上げていた。
それが可能だったのは、彼が過去に数度、公開処刑の警備責任者を担った経験があったからだ。当日の人員配置や警備の穴など、必要な情報の全ては、彼の頭にしっかりと記憶されていた。また、計画に用いる“封魔焼夷爆弾”などの兵器も、騎士団長として築いたコネクションを存分に活用し、何一つ怪しまれることなく入手できた。
彼の計画は、万事が予定通りに進行し、残すはお前の処刑日を待つばかりだった――が、遂に迎えた当日、お前を救い出したのは、得体の知れぬ黒ローブの集団だった。これが何を意味するか、お前なら当然、分かっているだろう?」
ゼルマンドはいよいよ、目には見えぬ毒牙を剥き始めた――ハッキリとそれを確信した俺は、沈黙と想像力の遮断を己に強いた。
心を乱さぬためには、それが最善の方法だと、直観的に判断した結果だった。
「――返事をしないだなんて、つれないじゃないか、イーシャル」
ゼルマンドは、ガンドレールの口調を真似て言った。
それから奴は、ほとんど狂人のごとく、息も止まらんばかりに笑い出した。
「……いやはや、あれは傑作だったよ。何せガンドレールは、肝心の処刑日当日、自室のベッドにうずくまったまま、一歩も外に出ることはなかったのだからね」
ゼルマンドは、なおも笑いを堪えることができぬと見え、ときに軽くむせながら話を続けた。
「単独での決行ゆえ、手段を選ばず非道な計画を立てていたことに、彼は当日の朝になって恐れをなしたのだ。警備を命じられた同朋や、野次馬たちが巻き添えになって死んでゆく様を想像しながら、彼は半狂乱になって頭を掻きむしり、自室を右往左往し続けた。果ては、憔悴し切って震えながら毛布を被っているうちに、とうとうお前の処刑時間を迎えるという体たらくだった。
……そればかりか、ガンドレールはお前の生存を知ったのち、全てをなかったことにした。要するに、良心の呵責に耐えかね、“自分は密告などしていない”と本気で思い込むようになったのだ。事実、彼は毎日欠かさずつけていた日記の中に、『密告者を殺してやりたい。その勇気さえあれば』などと綴っていたほどだ。自分がさも密告者でないかのように振る舞うことを、密かな心の慰めとしていたのだよ。……嗚呼、何と身勝手な、何と浅ましい男であろうッ!!」
怒り心頭に発した様子で、ゼルマンドが毒づいた。
しかし、それが真実の心の叫びであるのか、はたまた、遊戯的なパフォーマンスであるのかは、引き続き想像力を封殺していた俺にとって、判別不可能な事象だった。
「――これで分かったろう、イーシャル。正真正銘、ガンドレールは、ファラルモ以下のごみ屑だ」
焚きつけるように言いながら、ゼルマンドは己の左肩に止まっていた黒蝶を、二、三匹まとめて右手で鷲掴みにし、躊躇なく握り潰した。
難を逃れた残りの蝶たちは、直ちに飛翔を始め、あっという間に夜の闇へと消えていった――。
「よって、お前の身体を奪いおおせた暁には、真っ先にガンドレールを亡き者にすると約束しよう。非情に徹しきれぬお前では、ゆめゆめ手を下せぬだろうからね。……さて、老婆心ながら訊いておくが、お前はこの男に、どのような死に様を望む?」
「――彼の死など、俺は断じて望んでいない」
それだけ伝えると、ゼルマンドは全く以て理解できぬとばかりに、激しく首を振ってみせた。
「……これほどの手ひどい裏切りを、お前を許すとでもいうのか?」
「許すも何も、ガンドレールの密告について、是非をはかるつもりはない」
俺は努めて冷静さを保ちつつ、自らの意志を表明した。
「最も重要な点は、“彼が民間人の犠牲者を望まず、救出計画を断念した”という事実だ。俺は彼の賢明な判断を支持する。ただそれだけだ」
自らの言葉に、一切の偽りが含まれていないことを、俺はハッキリと確信していた――が、なぜだろう、胸の内側に、疼くような痛みがあった。
間を置かず、それがある過去の記憶を想起させるものだと気づいたが、心を乱さぬために、俺は見て見ぬふりをした。
「……ああ、そうかそうか、すっかり失念していたよ。お前が他人の裏切りに対して、とことん不感症になっていることをね」
出し抜けにそう言ったのち、ゼルマンドは大仰に膝を打った。
それから、奴は急に改まった顔つきになり、メローサと囁くようにその名を呼んだ。
「メローサ――お前が生涯で愛した、たった一人の女。彼女の裏切りに比べれば、戦友の密告と言えど、数段見劣りするのであろう」
冷たい戦慄が、体中を駆け抜けるのを感じながら、俺は密かに確信した。
密告の真相が暴かれたことは、これより幕を開ける悪夢の序曲に過ぎなかったのだ、と。
事実、俺の心臓は、かつてないほどの激しさで動悸を刻んでいる。
早くも精神の均衡が損なわれつつあることを、認めないわけにはいかなかった。
「――それでは、メローサについて語ろうではないか」
静かな声で言いながら、ゼルマンドは大きく顔を歪めて笑っていた――。