45.血の報復者
「……分かっていたとも、イーシャル。ほかでもないお前ならば、私の正体を看破するだろうとね」
ゼルマンドは含みありげに言いつつ、俺が突きつけた剣の切先をじろりと見やった。
既に陽は落ち、辺りには濃密な闇が漂い始めている。
奴のぞっとするほど真っ白な長髪が、夜風によって揺れ動く様を眺めつつ、俺は一層強く剣の柄を握り締めていた。
(――まさかとは思ったが、間違いない。ゼルマンドは、“精神寄生”の術を用い、ガンドレールの肉体を乗っ取ったのだ)
“精神寄生”とは、己の肉体を捨てて思念体と化した術者が、被術者の精神を乗っ取り、その肉体を意のままに操る、という恐るべき魔術である。
それゆえ、過去に“精神寄生”が悪用された例は、枚挙に暇がない。中でも、最も語り草となっているのは、「レヴァニア国王に“精神寄生”した無名の宗教家が、土着神の信仰復活を画策し、聖ギビニア教徒に対する迫害を行った」という約一千年前の事例だろう。
この通り、たった一人の人間の悪意によって、世を混沌に陥れることが可能であるため、言わずもがな、“精神寄生”は禁呪指定を受けていた。
ただし、“精神寄生”は、同じ禁呪の“屍兵”とは状況が異なり、既に一世紀以上に渡って使い手の存在が確認されていなかった。
従って今では、“失われし魔術”の代表格という扱いが一般的であり、また分かり易い悪のモチーフとして、童話の中に登場するぐらいが関の山だった(邪な魔術師が、“精神寄生”を用いて悪さを働くという筋の童話は、誰でも一度くらいは耳にしたことがあるはずだ)。
にもかかわらず、ゼルマンドは“精神寄生”を再び現世に蘇らせたのである。
まさしく古今未曾有の事態と言えたが、改めて奴の実力を見せつけられた今となっては、さもありなんと納得するほかなかった。
「――予め伝えておくが、お前と争うつもりはない」
ゼルマンドは静かに言いながら、感情を宿さぬ一対の目をこちらに向けた。
「好い加減、構えを解いたらどうだね? おちおち話もできぬ」
額から冷たい汗が滑落してゆくのを感じながら、俺は俄かに憔悴していた。
反撃の素振りも全く見せず、“争うつもりはない”とまで言い切るゼルマンドの真意を、完全に図りかねていたためである。
(――ゼルマンドは、いつからガンドレールに成り代わっていたのだろう? そもそも、奴は何ゆえガンドレールを宿主に選んだのだ?)
次から次へと疑問が浮かんだが、今の状況では、それら一つひとつにかかずらっている暇はない。
俺は冷えた空気を存分に吸い込んだのち、ゆっくりと息を吐き出して呼吸を整え、一度頭の中を空にした。
(……とにかく、目下最大の問題は、“ガンドレールに寄生したゼルマンドの思念体を、いかにして滅するか”だ)
ゼルマンドが禁呪の研究に勤しんでいたことは、周知の通りである。
従って俺も、禁呪に関する文献にはできる限り目を通してきたが、この問いに対する解答は持ち合わせていなかった。
禁呪の性というべきか、“精神寄生”に言及した書物は、過去に大半が焚書に遭っており、ごく限られた情報しか得られなかったためである。
(――魔術知識が豊富なリアーヴェル、もしくは枢機卿ならば、“精神寄生”を破る何らかの術を心得ているやもしれぬ。しかし……)
漆黒の稲妻に強襲された二人の身を、改めて案じていると、ゼルマンドの右斜め後方に位置する転移の魔法陣――先刻俺が利用したものだ――が青白く発光し始めた。
直後、姿を現したのは、炎の魔術効果付与を宿した大剣を両手に握るディダレイだった。
彼が一目散にこちらへ駆け出すと、間を置かず、ネーメスとトモンドも転移を終え、揃ってあとに続いた。
さらには、四散していた兵たちが一斉にこちらへ向かって来る様子も、視界の隅に映っていた。
「……邪魔が入ったようだな」
ゼルマンドがため息交じりに呟いたとき、包囲陣は既に形成されていた。
今現在、奴の向かって右にネーメス、左にトモンド、背後にディダレイ、そして正面には俺が、めいめい得物を手に控えている。
(――幸いにも、彼らは皆、俺が“血操術”を使ったことに気づいていないようだ)
事実、彼ら三人の表情と挙動には、別段不審な点は見受けられなかった。
つい先刻、俺は公然と“血の剣”を振るったわけだが、辺りを取り巻いていた炎が、上手く目隠しの役割を果たしてくれたらしい。
加うるに、ゼルマンドの放つ“暗黒魔素”の瘴気が強大過ぎるゆえ、俺自身が帯びた微量の“暗黒魔素”など、もはや余人には感知できぬのだろう。
「……誰かと思えば、新米騎士団長ではないか」
短い沈黙ののち、ゼルマンドは首を後ろに回し、嘲るようにそう言った。
同時に、ディダレイが唇を噛みしめ、険しく眉を吊り上げている様が、刀身の帯びた炎によって、暗闇の中にゆらゆらと浮かび上がる。
「――貴様のほうこそ、覚悟は出来ているのだろうな? 前騎士団長ッ!!」
ディダレイは吐き捨てるように言うなり、俺たち三人に向かって目配せをした。
無論、四人同時に攻めかかろう、という合図に違いなかった。
(――皆に真実を伝えねばならぬ。今やガンドレールは、ゼルマンドに身体を乗っ取られ、その人質も同然なのだ、と。迂闊にやり合うのは得策ではない)
思うや否や、俺は「待ってくれッ!!」と声を張り上げた――と、そのときだった。
「――ケンゴーさん、どうしてここに……?」
背後から呼びかけられ、急ぎ振り向くと、緊迫した面持ちで聖剣を構えるイクシアーナと視線がぶつかった。薄い月明かりに照らされた彼女の髪は、例のごとく短いままだったが、脱染剤を用いたと見え、元通りの美しい銀色に戻っている。
イクシアーナのすぐ後ろには、満身創痍のリアーヴェルと枢機卿、そしてレジアナスの三人が控えていた。
月明かりを頼りに目を凝らすと、リアーヴェルも枢機卿も、衣服の少なくない部分が焼け焦げ――案の定、例の稲妻を避け損なったのだろう――露わになった肌のそこかしこに、黒ずんだ痛々しい電流斑が残されているのが見て取れた。
さらには、リアーヴェルは手にした大杖に寄りかかり、また枢機卿はレジアナスの肩を借りることで、ようやく立っているという状態である。
けれども、両者とも顔色一つ変えず、射抜くような視線をゼルマンドに向けていた。戦意はまるで失っていない様子である。
「――それから、そこにいるのは、もしかして、ガンドレール……?」
イクシアーナが大きく目を見開き、半ば呆然と言った。
折良くも、役者は揃ったと見て取った俺は、声の限りに叫んだ。
「――皆、勘違いするなッ!! 今、俺たちの目の前にいるこの男の正体は、断じてガンドレールではないッ!! ゼルマンドが、“精神寄生”の術を用い、ガンドレールの肉体を操っているのだ」
直後に生じたのは、息をすることさえ躊躇われるほどの、圧倒的な沈黙だった。
その場に居合わせた者は皆、時が止まったかのように、身じろぎ一つしていない。
誰の顔からも、表情は根こそぎ失われ、その視線は虚空へと注がれている。
しかし、ただ一人、ゼルマンドだけは違った。
奴は瞳に不気味な輝きを宿したまま、手持ち無沙汰と言わんばかりに、ぐるりと首を回してみせた。
「――それは、誠なのか、聖者殿……?」
間もなく、ディダレイが震える声で沈黙を破り、俺はしっかりとうなずいてみせた。
すると、ゼルマンドは微かに口端を歪め、まじまじと俺の顔を見た。
「……聖者殿、だと? そうか、人々の噂に上っていた“傷跡の聖者”とは、世を忍ぶお前の仮の姿だったか。まあ、さもありなんという話ではあるが」
言い捨てると、ゼルマンドはちらと後方のディダレイを見やり、嘲るように鼻を鳴らした。
「しかし、実に傑作だ。曲がりなりにも、王国騎士団の長たる者が、脱走した死刑囚を“聖者”呼ばわりとはね。お前とて、笑いを堪えるのに必死だろう。……なあ、イーシャル?」
予想外の問いかけが、一瞬のうちに、俺の頭の中を真っ白に塗り潰した。
「……聖者殿がイーシャルだとッ!? よくもそんな戯言をッ!!」
間を置かず、怒気を含んだディダレイの声が聞こえ、俺はハッと我に返った――と同時に、高々と大剣を振り上げる彼の姿が、ゼルマンドの肩越しに映った。
「――無駄なことだ」
ゼルマンドは冷ややかに言いながら、開いた右掌を高々と宙に突き上げる。
すると、なおも天上を覆っていた巨大な魔法陣が急降下を始め、瞬きする間もないうちに地面と衝突した。
刹那、魔法陣の文様が硝子のごとく砕け散り、一帯に赤黒い閃光が激しく瞬いた――。
「……ッ!?」
ややあって視界を取り戻すと同時に、右手からするりと剣が滑り落ちた。
次いで、半ば倒れ込むようにして、地面に片膝を突く。
俺は俄かに狼狽しつつ、すぐさま立ち上がろうとするが、駄目だった。
膝が震えて力が入らず、眩暈さえ覚える始末である。
さらに、無言のままこちらを見下ろすゼルマンドの周囲には、ディダレイ、ネーメス、トモンドの三人が、揃って身を横たえていた――が、彼らの体には、これといった外傷は一つも見受けられない。
(……外傷がない? となれば、“生命吸収”の術以外には考えられぬ)
ゼルマンド奇襲作戦の際、“生命吸収”は一度味わわされていたが、当時とは段違いの効力と言えた。
何と言っても、暗黒魔術の耐性を宿している俺でさえ、この有様なのだ。
ほかの者への影響は、推して知るべしである。
事実、辺りを見渡すと、イクシアーナ、リアーヴェル、レジアナス、枢機卿、そして、こちらに集合しかけていた数多の兵士たち――誰も彼も皆、抜け殻のごとく地面に転がっていた。
「――さて、余計な口を挟む外野は、これでいなくなった」
ゼルマンドは静かに言ったのち、ぱちりと指を弾く。
すると、目に見えぬ糸に吊り上げられてゆくかのように、俺の体はゆっくりと地面から浮上し始めた。
どうやら、“念動魔術”の一種のようだが、それが分かったところで、何の意味も持たなかった。
抵抗を試みようにも、依然として、体に力が入らないのである。
見る見るうちに、俺は磔刑に処されたがごとく、四肢を宙に投げ出すような格好となった。
「――手荒な真似は好まぬが、お前はいつまで経っても敵意を棄てようとしなかった。従って、こうでもしない限り、腰を据えて語り合うことは不可能だと思ってね」
ゼルマンドが再び指を弾くと、俺の両手足の先端が、黒い霧状の球体にすっぽりと覆われた。
それらはどうやら、一種の枷の役目を果たすものらしく、もはや両手足を動かすことは、完全に不可能となっていた。
「……腰を据えて語り合う? 俺と貴様がか?」
胸のざわめきを抑えかねて尋ねると、ゼルマンドはゆっくりとうなずいてみせ、それからこう答えた。
「――我々は分かり合う必要がある。だが反面、現在の我々の間には、如何ともし難い隔たりが生じていることも確かだ。それを乗り越えるには、胸襟を開いて語り合うことが一番の近道だ、と私は考えている。特にお前は、私についてあまりに無知に過ぎる」
ゼルマンドが何を言わんとしているのか、俺にはまるで理解できなかった。
相手は永遠の宿敵と呼ぶべき男、ましてや、一度は俺自身の手でその首を落とした男である。
(……にもかかわらず、“分かり合う必要がある”などとのたまうのは、一体どういう了見なのだ?)
しばしの間、言い知れぬ違和感について考えを巡らせていると、「では、話を始めようか」とゼルマンドは大儀そうに切り出した。
「――こうして新たな身体を手に入れる以前、私は避け難い滅びの途上にあった。かれこれ二十年以上に及ぶ歳月の間、時を分かたず死者を蘇らせ続けてきたために、私の身体は重度の“魔素中毒”に侵されていた」
奴の思いがけぬ告白に、俺は思索を中断して耳を傾け出した。
「幻覚、幻聴、眠りを許さぬ激しい過覚醒、抉るような耐え難い臓腑の痛み――これらの症状に、私は四六時中責め苛まれ続けた。そして、極めつけは“魔力の枯渇”だ。五年ほど前の時点で、私の魔力は全盛期の十分の一以下まで減退し、一日に蘇らせることのできる“屍兵”の数にも、陰りが見え始めていた。“屍兵”の投入数が減じれば、日々拡大し続ける戦線を維持することは、いずれ不可能となってしまう。これは全く由々しき事態だった。
しかし、いかなる治療を試みても、我が肉体を崩壊から遠ざけることは不可能だった。一度は見込みのある配下をかき集め、“屍兵”の伝授さえ試みたが、結局は詮なきことだった。あのときばかりは、さすがの私も参ったよ。現状を打破せぬ限り、我が軍の将来的な敗北は避けられぬ運命にあった。
そこで、私は秘密裏に“精神寄生”の研究を推し進めた。新たな肉体さえ手に入れば、万事解決、状況は一挙に好転する。だが、“言うは易く行うは難し”だ。“失われし魔術”の再現を試みるなど、いかなる酔狂人だとて、御免蒙りたいと願うであろう」
そこで言葉を置くと、ゼルマンドは小さく手招きするような仕草を見せた。
すると、辺りに散らばっていた墓石の破片が、まるで生き物のように奴の足元に集まり出し、たちまちのうちに簡易的な腰かけのかたちを成した。
奴はゆっくりとそれに腰を下ろしつつ、話を続けた。
「だが、ご覧の通り、私はやりおおせた。およそ五年もの月日と引き換えに、とうとう“精神寄生”を現世に蘇らせることに成功したのだ。まさしく僥倖と言うほかなかったが、嬉しい誤算はさらに続いた。“精神寄生”の再現から間もなく、我が密偵がある報告をもたらしてね。それは、レヴァニア王国政府が、選りすぐりの精鋭たちに、私の隠れ家の奇襲を命じたというものだった。
この報に接した瞬間、私は狂喜乱舞したよ。王国きっての英傑が、揃いも揃って私の元まで出向いてくれるのだからね。これ以上は望めないほどの魅力的な宿主が、選り取り見取りというわけだ。実に願ってもない幸運だったよ。
その後、私は嬉々として配下を呼び集め、城に強固な防衛網を布き、また無数の罠を張り巡らせた。これらは要するに、最も価値ある宿主を選別するための、ふるいのようなものでね。贅沢な話だが、途中で脱落するような輩は、こちらから願い下げというわけだ」
ゼルマンドの話を聞きながら、俺が否応なく思い浮かべていたのは、聖ギビニア騎士団の前副団長エジリオ――ほかでもない、レジアナスの“贖罪の旅”に同行した人物であり、件の奇襲作戦で命を落とした者の一人だ――のことだった。
『――あんたとエジリオには、どことなく似ているところがある』
以前、レジアナスにそう言われたせいもあるのだろう、エジリオの身の上は、どうも他人事とは思えぬ節があった。
なればこそ、“英雄殺し”騒動が一件落着した暁には、彼の墓参りに共に行くことを、レジアナスと約束し合ったのである。
それだけに、ゼルマンドが奇襲作戦を逆手に取っていたという事実は、エジリオをはじめ、あの日命を散らした者たちを悉く踏みにじっているように思えてならなかった。
いつしか胸中には、言い知れぬ憤怒の情が渦巻いていたが、俺は強く唇を噛み締め、どうにかそれをやり過ごした。
今の状況下において、己の心の曇りが、己の眼や判断力までも曇らすような事態だけは、是が非でも避けねばならなかった。
「……そして、ふるいは見事に機能した。ご存知の通り、私の元に辿り着いたお前たち五人ときたら、実に錚々たる顔ぶれだった。対面の瞬間、思わず笑みがこぼれそうになったのを、まるで昨日のことのように覚えているよ」
ゼルマンドはそこで言葉を切り、窺うような視線をこちらに向けた。
束の間、曰くありげな沈黙が辺りに満ちた。
「――さて、イーシャル、ここで一つ尋ねよう。お前たち五人のうち、私が宿主として最も魅力を覚えたのは、一体誰だと思うかね?」
「……虫唾の走る質問だ、とだけ言っておこう」
俺は皮肉交じりに返したが、内心では、何やら剣呑な香りがする問いだ、と訝しまないわけにはいかなかった。
(――現にゼルマンドが宿主として選んだのだから、正解はおそらくガンドレールなのだろう。しかしそれは、あくまでも結果論に過ぎぬ)
思いかけた刹那、心臓が激しく脈打ち、ハッと息を呑む。
かつて目にした、“精神寄生”に関する文献に記されたある一節が、唐突に脳裏に蘇ったせいだった。
『“精神寄生”を成就させるには、満たすべき二つの条件が存在する。一つ、術者が宿主として選べるのは、自身と同等かそれ以上の魔術適性を有する人物のみである。二つ、術者と被術者との間に、深層的な相互理解、即ち“精神的共鳴”が生じていることが不可欠である』
精神的共鳴、そして、先ほどゼルマンドが口にした、「我々は分かり合う必要がある」という奇妙な違和感を孕んだ言葉――これら二つを組み合わせると、予想だにしなかった結論を導き出せることに、俺はようやく思い当たったのである。
「……いや待て、まさか、そんなはずは――」
加速度的に鼓動が速まってゆくのを感じながら、俺は独りでに口走っていた。
すると、ゼルマンドは「続けたまえ」と促すように言った。
「――貴様が宿主として見定めていたのは、この俺だった、というわけか」
意を決してそれを口にしたが、ゼルマンドは勿体ぶった様子で腕組みをしたまま、一向に返事をしない。
俺は奴の沈黙を肯定と受け止め、話を進めた。
「そして今、貴様は俺の身体を乗っ取るつもりでいる。貴様が俺の影のごとく振る舞い、一連の“英雄殺し”騒動を引き起こしたのも、こうして俺をおびき出すためだったと仮定すれば、全て説明がつく。となれば、ガンドレールの身体に宿ったのは、一種の不可抗力的な選択だったのだろう」
ゼルマンドは、焦らすようにたっぷりと間を置いたのち、大仰に拍手をしてみせた。
回りくどい意思表示のやり口に、心底辟易としながらも、俺は最も気がかりだった点を尋ねた。
「――しかし、解せぬ。この俺の身体に、一体どのような価値があるというのだ?」
「……おやおや、本当に何の心当たりもないのか?」
黙って首を振ってみせると、ゼルマンドは呆れたように鼻を鳴らし、それからこう答えた。
「こと暗黒魔術に関して、お前は不世出の天才だ。余すことなく潜在能力を解放できれば、お前はこの私をも超越し、“聖人”フラタルと同じ高みに到達することができる」
「――この俺に、“奇跡の兵”の術が使えるとでも? ……あり得ぬ、全くの世迷い事だ」
考えるより先に、言葉が口を衝いて出た。
すると、世迷い事でも妄言でもない、とゼルマンドは口早に返した。
「事実、お前はわずか十歳かそこいらで、“血操術”を完璧に会得した。あの貧民街の娼館の、薄汚い屋根裏部屋でね。どう控え目に見ても、あれは何人たりとも真似できぬ芸当だった。
……何せ、お前は正規の魔術教育を一切受けず、さらには師の導きもなしに、独力で“血操術”を身につけたのだ。加うるに、お前が読み込んだ例の魔術教本は、誤った術式ばかり掲載していた。あれは素人が適当に書き散らしたとしか思えぬ、全くの粗悪品と言えよう。にもかかわらず、お前は試行錯誤を繰り返し、とうとう“血操術”をモノにした。何の予備知識もなしに、自ら術式の誤りを正してみせるなど、正気の沙汰ではない。正真正銘、お前は暗黒魔術の使い手として、ほかに並ぶ者のない天才だ」
ふと気がついたとき、世界が音もなく崩れ去っていくような感覚に、全身が支配されていた。
(……この男は、一体何を言っているのだろう?)
沈思黙考したが、自らが物事の道筋を見失ったこと以外、何一つとして分からなくなっていた。
「――混乱するのも無理はない。しかし、嘘偽りなく、私はお前についての何もかもを知っているのだ」
こちらの胸のうちを見透かすかのように、ゼルマンドが言った。
次いで、「その理由は自ずと明らかになる」と付け足し、話を再開した。
「初めてまみえたあの日、お前は“生命吸収”の術の影響下にありながら、鬼気迫る凄絶さを全身から放射していた。私を貫かんほどに睨めつける、研ぎ澄まされた刃のごときお前の双眸は、今でも忘れることができぬ。たとえ数瞬の間でも、この私を心底戦慄させたのは、後にも先にも、お前ただ一人だけだ。
“剣聖”イーシャルの身体を奪え――本能が有無を言わさずそれを命じ、私は計画の変更を余儀なくされた。実を言えば、かねてより私が宿主として想定していたのは、“冷血”リアーヴェルにほかならなかった。周知の通り、彼女は王立魔術学校の開校以来の天才と謳われ、この私に次ぐ魔術師としてその名を世に知らしめていた。言うまでもなく、宿主のリストの最上位は、彼女のためのものだった。
……だが、晴天の霹靂というべきか、お前は彼女に取って代わった。私は自らの本能的直観を信じつつも、一方でどこか半信半疑のまま、地に伏したお前の元へと近づいていった。その先に、どのような運命が待ち受けているのか、露ほども分からずにね」
そう言ったのち、ゼルマンドは右の親指で、自らの首を掻き切るような仕草をしてみせた。
それから、さもばつが悪そうに、小さく肩をすくめた。
「――いやはや、全く迂闊だったよ。私が無詠唱で魔術を起動させるよりもなお速く、お前に首を落とされるとは、万に一つも想定していなかった。だが、私とて抜かりはない。自らの死と同時に、“精神寄生”が自動発動するよう、予め細工しておいたのでね。
……それはさておき、死の間際、お前の正体が“血の報復者”だと露見したことは、これ以上は望めぬほどの収穫だった。事実、お前が振るった“血の剣”の切れ味たるや、まさしく凄絶の一言に尽きた。名匠の手がけた一振りと比肩しても、何ら遜色ない。世に二人といない“血操術”の使い手だ、と度肝を抜かれた」
「……“血の報復者”だと?」
何やら聞き捨てならぬ言葉だ、と訝しみつつ尋ねると、「これがなかなか興味深い話でね」と前置きして、ゼルマンドは話を続けた。
「三、四年ほど前のことだったろうか、お前たち義勇軍に奇襲をかけた我が軍の一連隊が、たった一人の兵を除いて全滅した。その後、唯一の生き残りは、『敵方に“血操術”の並みならぬ使い手が現れ、勝利寸前から一転、敗走に追い込まれた』との報告をもたらした。
しかし、私はてんからそれを信じなかった。我々と敵対する立場にありながら、絶えず人目に晒される戦場で、あえて“血操術”を使ってみせるなど、正真正銘の気狂いだ。命知らずも甚だしい。よって、私は報告ご苦労と声をかけたのち、直ちにその生き残りを処分した。別段珍しくないことだが、戦場で気が触れたのだろうと思ってね」
言いながら、ゼルマンドは低い笑い声を漏らしたが、その表情は、相も変わらず微動だにしなかった。
「……だが、それ以降も、その得体の知れぬ“血操術”の使い手に関する報告は続いた。もっとも、頻度としてはごく稀だったがね。それでも、いつしか噂は広まり、我が軍の兵たちは、その使い手を“血の報復者”と呼んで密かに恐れるようになった。確たる証拠がない以上、私としては、“血の報復者”の存在に懐疑的だったが、一方で、もし実在するなら、一度お目にかかりたいものだと常々考えていた。言わずもがな、宿主のリストの上位に加えるべき人物だと、容易に察せられたのでね。
それゆえ、お前との邂逅は、天啓のごとく感じられた。自らの本能が、その異質さを嗅ぎ取った男の正体が、“血の報復者”当人だったのだからね。なればこそ、私は自らの死と同時に、迷うことなくお前の身体に寄生した」
「――しかし、その試みは失敗に終わった。たとえ天地がひっくり返っても、俺と貴様の間に“精神的共鳴”は起こり得ぬ。言うまでもないことだ。従って、貴様がこれより成そうとしていることも、全くの徒労に終わる」
先回りしてそう言うと、それは違う、と狙い澄ましたようにゼルマンドが反論した。
「私ほどの力があれば、たとえ思念体になろうと、他者の精神に干渉し、強制的に“精神的共鳴”を引き起こすことができる。その程度のことは、実に造作もない。
……しかし、あのときのお前は、いかなる手段を講じようと、“精神的共鳴”が生じ得ぬ状況にあった。何と言っても、戦友たちを悉く失った“あの日”を境に、お前は感情そのものを失ってしまったのだからね。外見は人間でも、中身が伽藍堂であれば、“精神寄生”の宿主として要件を満たすことはできぬ。そもそも寄生する精神が存在しないのだから、当然の話だ」
この男は、俺の生い立ちのみならず、“あの日”についても知っている――突如として胸中に生じた激しい感情の対流を、必死に鎮めながら、俺はいやというほどゼルマンドを睨みつけていた。
「……悪く思わぬことだ。私は何も、好き好んでお前の過去を覗いたわけではない。お前の精神に干渉した際、否が応でも見えてしまっただけのこと。
しかし、それはそれとして、お前の戦友たちには――この私が、直接手を下したわけではないにせよ――ずいぶんと悪いことをしてしまったようだ。とりわけ、お前にとって、あの赤毛の少年の死は相当堪えただろう。……ええと、彼の名は、何と言ったかな?」
感情を御する術を失えば、間違いなく奴につけ込まれる――何よりもそれを危惧した俺は、固く目を閉じ、唾棄すべき問いかけを無視した。
「……ほう、以前のお前は、仲間の死を悼むことさえ不可能だったはずだが、今は感情を取り戻したと見える。然るに、今のお前は、“精神寄生”の宿主たり得るというわけだ」
ゼルマンドは得心したように言ったのち、話を本筋に戻そう、と続けた。
「――兎にも角にも、私はツキに恵まれていた。本来、“精神寄生”に失敗した術者の思念体は、問答無用で行き場を失い、さながら永遠の牢につながれた罪人のごとく、無間地獄を彷徨うことが運命づけられている――が、ふと気がついたとき、私は既に、このガンドレールの身体に宿っていた。なぜだか分かるか?」
見当もつかぬ、と答えると、ゼルマンドは俄かに乾いた声で笑い出した。そしてこう言った。
「――理由は簡単だよ。私もこの男も、揃ってお前の肉体を強く求めていた。ただそれだけだ。ゆえに、我々の間には、期せずして“精神的共鳴”が生じ、一種の誘引力が互いに作用した」
ゼルマンドはそこで口をつぐむと、再び笑い声を上げた。
それから、しかし傑作だよ、と呟くように言った。
「無論、一口に“求める”と言っても、私のほうは、あくまでも理想的な宿主として、お前の身体を求めていたに過ぎぬ。しかし、このガンドレールのほうは、……言わずとも分かるな?」
俺は返事をする代わりに、強く心に引っかかっていた疑問を口にした。
「貴様は肉体的な死を迎えると同時に、俺に“精神寄生”を試みたが失敗した。そして、直後にガンドレールの身体に宿った――これらの時系列に沿って考えれば、俺を密告から救おうと働きかけたのは、ガンドレールではなく貴様だったということになる。この点に関しては、俺を生かしておくための窮余の一策だったと仮定すれば、少なくとも筋は通る。
だが、貴様がつい先日までガンドレールを演じ続け、さらには、世間の注目を大きく浴びるような凶行に及んだ点については、まるで道理が見当たらぬ。その理由は、一体何なのだ?」
「……もっともな疑問だが、お前はそもそもの始まりから勘違いしている。お前を密告から救ったのは、正真正銘のガンドレール本人だ」
顎に手を当てながら、ゼルマンドが勿体ぶった口調で言った。
「私がガンドレールの身体に宿ったのは、突発的な事故のようなものだった。当然ながら、正規の手順で“精神寄生”を用いた場合とは、まるで勝手が異なる。従って、私はいくつかの厄介な問題を抱え込む破目になり、直ちに彼の身体の主導権を握るには至らなかった。
かくして、しばしの間、受難の時を過ごすことを余儀なくされた。もはや一介の思念体に過ぎぬ私は、宿主の身体を操れぬ限り、魔術を使うことはおろか、外界といかなる接触を持つことも許されぬ立場にあった。無害な寄生虫よろしくね。
……しかし、何事にも終わりはある。私はガンドレールが矢毒によって死に瀕した状況を利用し、遂に彼の精神と肉体を支配した。そして手始めに、傍で看病にあたっていた彼の父、カルソッテ伯爵を贄とした」
「――贄だと?」
反射的に尋ねると、「血が必要だった」とゼルマンドは無感情な声で言った。
「“血操術”を用いれば、解毒は実に容易いことだ。お前とて知らぬはずはない。ところが折悪しく、カルソッテ伯爵の遺体から血を啜っている最中に、ガンドレールの母と二人の弟が部屋に足を踏み入れ、屋敷は騒然となった。従って、好むと好まざるとにかかわらず、私は事態の収拾を迫られることとなった」
ゼルマンドは顔色一つ変えず、ガンドレールの家族と屋敷に勤める使用人を、ごく自然に、息をするように手にかけたのだろう、と俺は思った。
それも、一人残らず、である。
俺は俄かに吐き気を覚えたが、固く両目を瞑ってそれをやり過ごした。
「その後については、先ほどお前が推測した通りだ。居場所の分からぬお前を、手がかり一つない状況で探し出すとなれば、この私にとっても至難の業だ。ゆえに、お前の影のごとく振る舞い、一連の“英雄殺し”騒動を引き起こすことを思いついた。お前の人となりを鑑みれば、それを黙って見ていられるはずはない、いずれ必ず姿を現すだろうと踏んだのだ。そして、その試みは、今こうして成就した」
ゼルマンドはそこで大儀そうに立ち上がり、「伝えるべきことは伝えた。我々はひとまず、同じ地平に立ったと言えよう」と続けた。
それから、こちらに向かってゆっくりと歩き出した。
「――さて、これより本題に移ろう。私はお前に、一つ提案がある」
「……提案だと?」
思わず訊き返すと、ゼルマンドはしっかりとうなずいてみせた。
そして、こちらの目の前ではたと足を止め、一切の感情を宿さぬ瞳で顔を覗き込んできた。
「――イーシャルよ、自らの意志で、我が軍に加わることを選べ。この申し出は、お前に対する最大の敬意だ。私としては、“精神寄生”でお前の身体を奪うことは、出来得る限り避けたいと考えている」
あまりに想定外の発言に、己の全身から、途端に力が抜けてゆくのが分かった。
「私は知っている。お前が年端も行かぬころより、常に奪われる側に立たされてきたことを」
ゼルマンドはそう続けた。俺は黙って耳を澄ませていた。
「親代わりの娼婦たち、娼館に入り浸るならず者、そして数多の義勇兵――人生で出会った者の大半は、お前を蹴りつけ、地面に這いつくばらせるような振る舞いばかりを見せた。どこへ身を置こうと、目を覆いたくなるほどの暴力と血が、お前の運命を支配し続けた。
にもかかわらず、お前は不平不満の類を一切口にせず、磨き上げた剣の腕と“血操術”のみを頼りに、逆境に次ぐ逆境をねじ伏せ、己の人生を切り拓いた。さらには、いついかなる場合でも、奪う側に回ることを良しとせず、常に奪われる側、弱者の側に立ち続けた。自我や自己保存の本能を超越し、世のため人のために己を捧げた、真なる英雄的存在――それがお前という男にほかならなかった。
……しかし、お前が密告を受け、磔の身となったとき、世論も人々も、お前に味方することはなかった。誰も彼も皆、お前が“暗黒魔術”に手を染めたという一点のみを槍玉に挙げ、お前の為した偉業とその高潔な人格に、少しも敬意を払わなかった。自分では剣を持たず、戦場で一切の血を流すことのなかった人間でさえ、訳知り顔でお前をなじり、唾を吐きかける始末だ」
今やゼルマンドの声は、感情の高ぶりが生み出す熱を、はっきりと帯び始めていた。
(――あるいはこの男は、本気で俺と分かり合おうとしているのだろうか?)
杳として掴めぬ奴の人となりが、一層不可解なものに思えてならなかった。
「正義漢ぶりながら、その実、他者を糾弾することにばかり快楽を見出し、少しも自己成長しない能無しが、大手を振って歩いている――そんな世の在り方に、私は改めて辟易とさせられた。
あまつさえ皮肉だったのは、世の人々が“死の渡り鳥”ファラルモこそ、此度の戦役における最大の功労者だと信じて疑わなかった点だ。その正体は、お前から手柄を横取りしただけの、腐肉を漁る動物のごとき浅ましい男だというのにだ。……そう言えば、彼奴は死の間際、目にいっぱい涙を溜めて、惨めな犬のように命乞いをしていたよ。その実に情けない最期の姿を、お前にはぜひとも拝ませてやりたかった」
ゼルマンドはそこで言葉を切り、押し殺した笑い声を上げた。
それから、然るべき間を置いたのち、再び話を始めた。
「しかし、もとを正せば、“此の国にして此の民あり”だ。考えてもみろ、かれこれ十余年、お前が身も心も傷だらけにして戦い続けてきた一方で、この国は少しでもより良い方向に進んだであろうか?
……否、国政は混乱を極め、王国騎士団は内部腐敗し、“ポリージアの聖母”のような輩が跋扈し始めた。それが戦役という国難によって暴かれた、この国の偽らざる本性なのだ。まさしく阿鼻叫喚の地獄絵図だ」
「だから、奪う側に回り、この国に“血の報復”をせよ――お前は俺に、そう言いたいわけだな?」
そう問うと、「ずいぶんと剣呑な物言いだ」と返しながら、ゼルマンドは小さく首を振った。そしてこう続けた。
「かつての自分がそうであったように、幼子が泥水を啜って生きるような今の世は、是が非でも創り変えねばならぬ――お前は十数年来、そのような想いを心のうちに強く抱き続けてきた。なればこそ、お前は自らの手で、それを実現すべきなのだ。断じて奪う側に回るのではない。然るべき方向に、在るべき高みに、この国を導くだけのこと」
「……いかにして導くというのだ?」
「――簡単なことだ。一度この国を壊す。破壊と創造は常に表裏一体だ。とりわけ、無能な政府中枢は徹底して叩いておかねばならぬ」
それを聞いた瞬間、俺はようやく理解した。
王都の郊外に位置する、王国最大規模のこの墓地に、ゼルマンドが姿を現したその意味を、である。
「俺に“奇跡の兵”を使わせ、この墓地に眠る一万体の死者を蘇らせる。そして、それらを率いて王城を攻め落とし、王都を手中に収める算段というわけか。……もっとも、貴様が既に“奇跡の兵”の術式を解析できていればの話だが」
心配は無用だ、とゼルマンドは間を置かずに返した。
「“奇跡の兵”の術式は、とうの昔に解析済みだ。ただ単に、私の技量では、それを“屍兵”という不完全なかたちでしか再現し得なかっただけのこと。手間暇さえ惜しまなければ、大聖堂の襲撃に用いたファラルモ程度の質は担保できるが、私にとってはあれが限界だ。
しかし、お前は“奇跡の兵”の真の使い手たり得る存在だ。高度な戦術的運用が可能であり、さらには死の恐怖を完全に克服した“奇跡の兵”が一万体揃えば、王城の陥落など、まさしく赤子の手を捻るようなもの。
加うるに、王都の占拠を合図に、国外に一時退避させていた我が軍の残党も、国境を越えて進軍を開始する。また、破壊工作員による、各戦略要地への攻撃も手配しておいた。もはや我が軍の勝利は、盤石も盤石、梃子でも動かぬ」
「――俺抜きでは成立し得ない勝利など、ゆめゆめ盤石とは呼べぬ」
そうけしかけると、ゼルマンドは草臥れたように首を振り、大きく息をついた。
「……では、イーシャル、改めてお前に問う。私の側につき、新世界の創造において歴史的貢献を果たすか、はたまた、私に身体を奪われ、単なる傀儡に成り下がって生を終えるか――道は二つに一つだ」
ゼルマンドが言い終えた、まさにそのときだった。
大剣を杖代わりに立ち上がるディダレイの姿が、不意に視界に飛び込んできたのである。
直後、その気配を察してか、ゼルマンドは素早く背後に視線を走らせた。
「……やれやれ、諦めの悪い男だ。黙って寝ておけば良いものを」
ゼルマンドは深々と嘆息し、大儀そうに後方に向き直る。
するとディダレイは、地面に突き刺していた大剣を抜き、右手でゆっくりとその刀身を撫で、炎の魔術効果付与を宿した。
次いで、大剣を正面に構えたが、その足元はひどく覚束ない。
肩も小刻みに震えている。
見るからに、立っているのがやっとという状態だった。
(――王国騎士団長の名に恥じぬ、実に見上げた男だ。しかし、この有様では……)
思いかけたそのとき、俺は絶句した。
――こ・ろ・す。
剣の炎に照らし出されたディダレイの口元が、そのように動いたのを、俺はしかと見届けたのである。
殺す、と俺は思った。
無論、その言葉はゼルマンドのみならず、この俺にも向けられているに違いなかった。
『……我々が失ってしまったのは、ジャンデルだけか』
大礼拝堂での戦いを終えたのち、悔恨の涙を目の端に光らせながら、彼がそう呟いたときの光景が、不意に脳裏に蘇る。
(――ディダレイの怒りは正当なものだ。真実、俺は彼を欺いていた)
ふと気づくと、氷のように冷たい汗が、全身に滲み出していた。
(……ディダレイのように、皆が皆、“生命吸収”によって昏倒していたわけではなかろう。つまるところ、意識を保てていた者にとって、俺とゼルマンドの会話は、ものの見事に筒抜けだったのだ)
その至極当然の事実に思い当たると同時に、絶望とも悲哀ともつかぬ、名状し難い感情が全身を走り抜けた。
(……今、この瞬間から、俺は“傷跡の聖者”ではいられなくなった。俺はもう、ただの俺に過ぎぬ。魔法は解け、一つの時代が終わったのだ)
茫漠たる意識の中、俺はそれを確信した。
無論、こうした事態が起こり得ることは、己を偽る仮面と決別したその瞬間から、常に覚悟していた。
一方で、出来得ることなら、それがより穏やかなかたちで訪れることを願っていたのも、また事実である。
そして何より、秘密の暴露に対するディダレイの反応を、こうした状況下で目にしなければならなかったという点が、俺にとってはひどく堪えた。
「……では、お前が答えを出すまでの間、しばし新米騎士団長と戯れていよう」
ゼルマンドはディダレイに向かって歩を進めながら、下馴らしと言わんばかりに両掌を開閉し始めた。
すぐさま現実に引き戻された俺は、これから自分が下すことになる決断が、目の前の一人の男の命、さらにはこの王国の命運を左右するものになることを、痛切に思い知らされていた――。