44.英雄殺し
大聖堂に到着した俺を待ち受けていたのは、底知れぬ絶望と名状しがたい既視感だった。
おびただしい数の肉片と腸、さらにはそれらが炭化したものが、正門の先の大広場を、隙間なく埋め尽くしていたのである。
剣を握ったままの手首、皮膚が焼けただれた頭部など、原型を留めた遺体の一部も散見されたが、五体を備えた遺体となると皆無だった。
そればかりか、生存者の姿も誰一人として見当たらない。
空気に混じった生々しい血の臭い、肉の焦げるいやな臭いに思わず眉をひそめながら、俺はハッキリと確信していた。
(――その手段こそ分からぬが、襲撃犯は“暗黒魔術”を封じる結界を破り、“血液爆破”の術を用いたのだ。遺体を片っ端から炎の散弾に変え、虐殺の限りを尽くした……)
俺自身、幾度となく“血液爆破”に頼ってきたのだから、その痕跡を見誤るはずはなかった。
とは言え、同じ“血液爆破”でも、俺が使った場合とは、比較にならぬほどの殺傷能力である。
過剰とも言える遺体の損傷具合が、否応なくその事実を物語っていた。辺り一帯には、言わずもがな、“暗黒魔素”の瘴気が満ち満ちている。
さらに、大広場の遥か後方には、うず高く積もった瓦礫の山が見えた。
(……なぜ、フラタル大聖堂が本来あるべき場所に、瓦礫の山が築かれているのだ?)
剣を握る拳が、独りでに震えていた。
瓦礫の山のあちこちから、薄い煙の筋が立ち昇り、また幾本もの折れた石柱が、不吉な墓標のごとく突出している。
建立から数百年もの間、常に人々の心の拠り所として機能してきた聖ギビニア教会の総本山は、今では見る影もない。
(……宿からここに至るまでの僅かな時間に、これほどの破壊と殺戮をほしいままにするなど、どう考えても不可能なはずだ。しかし、その起こり得ないはずの現実を、俺はこうして目の当たりにしている)
となれば、可能性は一つしかない、と俺は思った。
この世に再び“屍兵”をもたらし、さらには“奇跡の兵”の再現を試みるほど強大な力を備えた人物ならば、その不可能を可能に変えることができるのやもしれぬ――。
(――間違いない。“英雄殺し”当人が、直接手を下したのだ。加うるに、何の目的かは知る由もないが、奴はやはり、俺という人間を演じている。いかなる魔術であろうと、容易く操れる力を持ちながら、あえて“血液爆破”を使ってみせたのが、何よりの証拠だ)
ふと気づくと、心のうちを満たしていた底知れぬ絶望は、そのまま底知れぬ憤怒へとかたちを変えていた。
剣を握る拳は、一層強い震えを帯びている。
(……しかし惨い。あまりに惨過ぎる。大聖堂と共にあった人々の命とその営みは、なぜかように蹂躙されねばならなかったのか?)
俺は胸中に渦巻く激情を抑えようと、大きく深呼吸をしたのち、馬の背から飛び降りた。
今や馬は、野生の勘で曰く言い難い何かを感じ取ったと見え、その場から一歩たりとも動こうとしなかった。
次いで、固く目を閉じて意識を集中させると、瓦礫の山の遥か後方、おそらくは教会墓地の付近に、桁外れに強烈な“暗黒魔素”の瘴気が漂っているのが、手に取るように分かった。
さらには、その瘴気の主が、一歩一歩前進してゆくその過程さえ、ハッキリと感じ取ることができたのである。
通常ならば、これほど正確な位置の特定に加え、その挙動さえ察知できるということは、まずあり得ないと言っていい。
にもかかわらず、それが可能であるのは、“英雄殺し”の秘めた力の強大さゆえか、はたまた、俺と奴とを繋ぐ、目には見えぬ因果の糸の為せる業なのか――。
(……とにかく、“英雄殺し”は今も大聖堂の敷地内に留まっている。それは即ち、奴の目的が未だ果たされていないことの証明でもあるはずだ。となれば、奴の標的であるイクシアーナとリアーヴェルは、教会墓地もしくはその先に、後退を余儀なくなされたに違いない)
事態の深刻さは百も承知だったが、俺は二人の生存を固く信じていた。
たとえ希望的観測に過ぎぬとしても、この目で事実を確かめるまでは、ただひたすらにそれを信じ抜くばかりである。
(……しかし、奴が教会墓地へ向かったという事実そのものが、いやに気にかかる)
大聖堂の教会墓地に眠る遺体の数は、およそ一万体。
その上、それら全てが敬虔な信徒たちの要望によって、土葬で埋葬されてきた――聖ギビニア教典には、“火葬は神より授かった肉体に対する冒涜である”と記されているためだ――という経緯がある。
ゆえに、遺体の再利用を防ぐため、今朝から教会と王国騎士団が共同で掘り越しと火葬にあたっていたわけだが、その矢先に“英雄殺し”が現れたとなれば、相応の理由があって然るべきとも考えられた。
(……まさか、一万体もの死者を、悉く眠りから呼び覚ますつもりではあるまいな?)
禍々しき予感が胸をかすめた刹那、遠く向こうの空に、不気味な赤黒い閃光が激しく散った。
一拍の間を置いたのち、地の底を揺るがすような轟音が辺りに響き渡る。
(――どうやら、交戦が始まったらしい)
見て取るや否や、俺は大剣を肩に担ぎ、狂ったように駆け出していた――。
* * *
高くそびえる瓦礫の山を迂回し、俺は遮二無二走り続けた。
そして、教会墓地の手前に位置する大聖堂の裏庭――以前、難民たちの仮住まいが設けられていた場所だ――に差しかかったとき、不意に足を止めた。
地面に深くめりこんだ石柱に背をもたれ、ぐったりと座り込んでいる人影が、視界の端に映り込んだためである。
(……生存者だろうか?)
思いつつ、急いでそちらに駆け寄った瞬間、声にならない声が漏れ出た。
ほんの束の間、その場で立ち尽くしたのち、俺は目の前の人物の名を独りでに叫んでいた。
「――アゼルナッ!!」
しかし、彼女は微動だにしなかった。
切れ長の、いやに意志が強そうな瞳は固く閉じられ、淡い栗色だったはずのくせっ毛の髪は、血で真っ赤に染まっている。
さらに、身にまとった胸当ては、その前面が完全に粉砕され、左の肩口から胸部にかけて、致命的とも言える深い刀傷を負っていた。
辺りの地面には、彼女の流した血によって、大きな血だまりさえ出来ている。
彼女の右手には、今なおしっかりと戦鎚が握られていたが、その先端部分は大半が砕け、もはや原型を留めていない。
「……おい、しっかりしろッ!! アゼルナッ!!」
俺は彼女の前に屈み込み、再び呼びかけながらその肩を揺さぶった――と、そのとき、ゆっくりと彼女のまぶたが開く。
次いで、その口元が微かに動いた。
「……ケンゴー、なのね?」
そうだ、俺だ、と返すと、彼女は切れ切れの声で言った。
「……ここを、襲った奴は、教会墓地に、向かったわ。信じられない、だろうけど、相手は、たった一人」
無理に喋るな、と言い聞かせると、アゼルナは諦めたような笑みを浮かべ、小さく首を振った。
直後、彼女の瞳から、はらはらと大粒の涙がこぼれ出す。
「……笑っちゃう、わよね。こんな、大事なときに、私、イクシアーナ様の傍に、いられなかった。“聖女の盾”、なのに」
彼女の話を聞きながら、俺は思い返していた。
レジアナスが、“アゼルナもイクシアーナと同様、暫定的な謹慎処分を言い渡された”と教えてくれたことを。
(――アゼルナは俺の立場を悪くしまいと考え、枢機卿に虚偽の報告を行い、謹慎の身となった。それゆえ、己の務めを果せぬまま、かような姿に……)
彼女が抱いているであろう悔恨の念は、察するに余りあるものだった。
さらには、この俺自身が、彼女の運命を暗い影の中に引きずり込む原因を生んだのである。
それだけに、彼女にかけるべき言葉を見つけることは叶わなかった。
同時に、“英雄殺し”に対する怒りが、烈火のごとく燃え上がる。
「……お願い、あんたも、早く、あとを追って。イクシアーナ様、こういうとき、黙って、見てられる、人じゃ、ないから」
涙を流れるに任せたまま、アゼルナが喘ぐように言った。
直後、彼女は急に咳き込み、地面に向かって激しく吐血する。
決して認めたくはないが、彼女の死は、不可避も同然と言えた。
いかなる治癒魔術を用いたとて、これほどの致命傷の修復を試みることは、間違いなく不可能である。
「――だが、お前を死なせはせん。絶対にだ」
俺はハッキリと声に出して言いながら、不意に思い返していた。
昨晩、レジアナスが危険を承知で警護を引き受けてくれた際、次のように語っていたことを。
『俺はあんたの力になると覚悟を決めた以上、できる限りのことをしておきたいんだ。というか、それをやらなきゃ、自分が自分でなくなっちまう気がしてね』
レジアナス、お前の言う通りだ、と俺は心の中で相槌を打った。
俺もまた、アゼルナのためにやれる限りのことをしてやらねば、自分が自分でなくなってしまいそうな気がしていたのである。
即座に覚悟を決めた俺は、大剣を地に突き刺し、その刃に己の左の掌を強く押し当てた。
次いで、アゼルナの顎を、右手でそっと持ち上げる。
刹那、彼女が喘鳴を発しながら、困惑したような眼差しをこちらに向けた。
「……何、なの、いきなり」
許せ、と一言いったのち、アゼルナの口を指で押し開く。
そして、己の左の掌を、彼女の口の真上へと持ってゆき、力いっぱい握り拳に変えた。
すると、今しがたつくった傷口から、次々と鮮血が滴り落ちる。
間を置かず、俺は呪文詠唱を開始した。
「――血よッ!! 彼の者の生命に躍動をもたらせッ!!」
“血の快癒”――たった今、俺が使用した“血操術”の名がそれだった。
術者の血液を治癒剤に変えて飲ませ、被術者の肉体本来が持つ治癒能力を極限まで向上させるというのが、その効能である。
俺が唯一扱うことのできる、傷そのものを癒せぬ特殊な治癒魔術は、現在のアゼルナに効果が見込めるであろう、ほとんど無二の方法と言ってよかった。
「――あれ、血が、止まった。痛みも……」
一拍の間を置いたのち、アゼルナが驚いたように言葉を発しつつ、自らの傷口を見やる。
同時に、色を失っていた彼女の表情に、わずかに生気が戻ったのを、俺の瞳は確かに映していた。
「――伝えておかねばならぬ。お前には、とても感謝しているのだ」
アゼルナに向かって言いながら、俺はハッキリと感じ取っていた。
運命の必然によって導かれた真理が、今この瞬間、己の胸に深く刻み込まれたことを、である。
(――“英雄殺し”も俺も、力の源は同じかもしれぬ。しかし、奴と俺とでは、力を行使する目的が違う。俺は守りたいものを守るために、この力に頼るのだ。“聖人”フラタルもまた、今の俺と同じような心持ちで、“奇跡の兵”を生んだのに違いない)
俺の心に、もはや迷いは存在しなかった。
そう、俺は誠の意味において、生まれて初めて“暗黒魔術”を己の一部として受け入れることを決めたのである。
(――術者の人生を狂わせるほどの禍々しき力だとしても、俺はそれを扱う己の心を、どこまでも信じ抜いてみよう。自らの目を、決して曇らせたりはせず、正しく力と向き合うのだ)
遠ざけていた過去を見つめ直し、偽りの仮面と決別した今だからこそ、俺はこのような考えに至ることができた。
あるいはそれは、聖人フラタルが遺したという次の言葉が、不思議と俺の心を励ましてくれたお陰でもあるのかもしれない。
『――正しい行為が、常に正しい結果をもたらすとは限らない。その逆も真なり』
ゼルマンドを討ち取った際は、「もはやいつ死んでも構わぬ」という諦観から“血操術”を公然と用いたが、今回の心境は当時とは真逆だった。
今や俺は、感情を失った死人のごとき存在ではない。
より良い未来をただひたすらに願う、一人の生ある者として、心のうちに宿った信念に従ったのである。
己の信ずる道の先に、たとえフラタルのごとき受難が待ち受けていたとしても、臆さず真正面から乗り越えてみせる――そうした決意さえ、心に芽生えたのを感じつつ、俺は言葉を選んでアゼルナに言った。
「アゼルナ、必ず生き延びろ。そして、これからもイクシアーナの力になり続けるのだ」
「ケンゴー、あんたって、一体……」
アゼルナが、不意に顔を背けながら、憔悴した声で言った。
目の前で“血操術”を使ってみせたのだから、至極当然の反応である。
もはや、俺の顔を直視することさえ憚られるのに違いなかった。
しかし、俺は彼女から視線を逸らすことなく告白した。
「――“イーシャル”。それが俺の真の名だ」
だが、アゼルナの耳には、もはや俺の言葉は届いていない様子だった。
彼女は何度も瞬きを繰り返しつつ、うつらうつらとし始めている。
傷の回復を最優先事項として認識した彼女の肉体が、当人に眠りを強いているのに違いなかった。
間を置かず、眠りに落ちた彼女の首筋に手を当てて脈を取ると、なおも生命の躍動が続いていることが、ハッキリと感じられた。
俺は安堵のため息を漏らし、急いで立ち上がった。
ふと見上げると、いつしか陽は傾き、西の空は茜色に染まり始めている。
(――ひとまず手は尽くした。あとは、アゼルナ自身の生命力を信ずるばかりだ。だが、おそらく心配は要らぬ。彼女は“聖女の盾”に選ばれし聖騎士なのだ。決してヤワではない)
俺は再び駆け出していた。
裏庭を抜ければ、いよいよ教会墓地に辿り着く。
加えて、もはや意識を集中させずとも、かつて体感したことのない、激甚とでも評すべき“暗黒魔素”の瘴気を感知できた。
それは言わずもがな、この先に“英雄殺し”が待ち受けている証拠にほかならない――。
(磨き上げてきた剣の腕と“血操術”、数多の苦境を切り抜けて得た知恵と経験――俺自身の全てを以て、是が非でも奴を討ち果たすッ!!)
無論、相手は正真正銘の化物であり、常識の通ずる相手ではない。
その点は百も承知だが、恐れや不安とはおよそ無縁だった。
俺は俺自身と、今も全力を賭して戦っているであろう仲間たちの力を、ただひたすらに信ずると決めていた。
そして、無我夢中で駆けに駆けた――。
* * *
遂に教会墓地に到着したとき、俺の視界が最初に捉えたのは、ある種の神秘的なコントラストだった。
芝の広大な敷地内に等間隔に並ぶ、一万に及ぶであろう白い十字型の墓石が、深紅に染まった夕空の光によって、不思議と輝いて見えたのである。
束の間、俺はその場に立ち尽くしたが、直ちに我に返った。
――突如、大聖堂ほどもあろうかという巨大な漆黒の球体が、敷地内の中心部に浮かび上がったのである。
直後、ゆっくりと降下を始めたその球体は、地面に接したかと思われた瞬間、赤黒い閃光を散らしながら盛大に弾け飛び、相次ぐ爆発を引き起こした。
その一帯は、膨れ上がる黒煙にたちまち包まれ、無数の人影――戦闘に参加していた聖騎士、王国騎士団兵たちであろう――が雪崩れのごとく四散してゆくのが視界に映った。
間を置かず、十分に距離の開いているこちらにまで、焼け付くような熱風が波のごとく吹き寄せる。
俺はあまりの熱気に眉をひそめつつも、戦闘地帯に向かって一目散に走り出していた。
――と、そのときだった。なおも広がり続ける黒煙の中から、二つの人影が勢い良く左右に飛び出し、天高く舞い上がった。どうやら、高位の風操魔術“飛翔”の使い手らしい。
(――襲撃犯は、“たった一人”だとアゼルナは話していた。あるいは、あのどちらかが……)
速度を緩めることなく駆けながら、俺は目を凝らして二つの人影をつぶさに確認した。
向かって右側に飛び出したのは、深い青色のマントをまとった小柄な体つきの人物で、その手には、見覚えのある大杖が握られている。
そして、左側の人物は、長身瘦躯の男性のようである。彼が身につけた、遠目にもハッキリと分かるほど色鮮やかな緋色のガウンは、同様に見覚えがあった。
(……右はリアーヴェル、左はキトリッシュ枢機卿か)
二人は宙を漂ったまま、地面からもうもうと立ち昇る黒煙に、じっと視線を注いでいる。
両者とも、何やら意識を集中している様子であり、呪文詠唱を開始したらしいと推察できた。
(――違う。あの二人が、“英雄殺し”であるはずはない)
俺はそれを確信していた。
事実、激甚なる“暗黒魔素”の瘴気は、二人の視線の先、黒煙の真っ只中から漂っている。
得も言われぬ胸騒ぎを覚えつつ、なおも足を急がせると、やがて、煙の中からゆっくりと浮上して来る、新たな人影を視界に捉えた。
漆黒のフードマントをまとった人物である。
(……あれが、“英雄殺し”ッ!!)
奴もまた、“飛翔”の術によってぐんぐんと高度を上げ、リアーヴェル、枢機卿と真っ向から対峙した。
未だ距離がある上、フードを目深に被っているため、“英雄殺し”の正体は定かでない。
しかし、その細身ながらも力強い骨格から察するに、どうやら男のようである。
そして、その右手には、刀身全体が深紅に染まった大剣が握られていた。
(……間違いなく、“血操術”によって錬成された得物だ)
見て取るや否や、枢機卿がゆっくりと右腕を前方に突き出した。
すると、その掌に、身の丈以上の巨大な光球が一瞬にして宿る。白色に煌めく魔素の粒が、荒れ狂う火花のごとく光球の周囲を踊っていた。
「――神の慈悲に、導かれよーーーーッ!!」
枢機卿が叫んだときには既に、彼の掌を離れた光球は、“英雄殺し”の眼前へと迫っていた。
まさしく電光石火の速さであり、俺の目が実際に捉えることができたのは、光球が残した白色の残像のみだった――が、“英雄殺し”の動体視力は、遥かに俺を上回っているらしい。
奴はその場から一歩も動かぬまま、水平近くまで上体を反らし、見せつけるように易々と光球をかわしたのである。
しかし、枢機卿は敵の動きを予測していたのだろう、続けざまに叫んだ。
「――滅せよッ!!」
枢機卿が短縮詠唱――無詠唱では決して扱えぬ高位の魔術を、短時間で発動させる超絶技巧だ――した刹那、“英雄殺し”の背後で光球が弾け飛んだ。
直後、四方に散った光の欠片の全てが、一斉に矢の形状へと変化する。
“英雄殺し”はすぐさま後方に向き直ったが、迫り来る矢の数は尋常でない。
今度こそ、回避の暇はなかろうと俺は見て取った。
(――枢機卿が魔術に秀でていると、小耳に挟んだことはあったが、まさかこれほどの腕前とは……)
刹那、俺は我が目を疑った。
いつの間にか、宙を舞うリアーヴェルの姿が、おそらくは二十、……いや三十ほどにも増え、全方位から“英雄殺し”を取り囲んでいたのである。
これは“鏡像”と呼ばれる高位の補助魔術で、魔素によって己の分身を創出するというのが、その驚くべき効果である。
ゼルマンド奇襲作戦の際、彼女がこの術を用いたのを、俺は一度だけ目にしたことがあった。
「――万物を穿てッ、魔力なる波動ーーーーッ!!」
リアーヴェルとその分身が一斉に吼えたのは、枢機卿が操る無数の光の矢が、“英雄殺し”を強襲したのとほぼ同時だった。
直後、彼女たちの手にする大杖の先端から、鮮烈に輝く蒼白い光の束が同時に放たれ、一直線に“英雄殺しへと向かってゆく――。
(……いくら“英雄殺し”だとて、これには手も足も出まい)
無論、現実に敵に打撃を与えられるのは、本物のリアーヴェルただ一人だけである。
その他大勢の分身は、あくまでも彼女の虚像に過ぎず、同様にその攻撃も幻影でしかない。
だが、敵の目をくらまし、攻撃の出所を特定させぬのだから、その効果はてきめんと言っていい。
当然のごとく、相手の防御や回避に遅れを生じさせ、さらには反撃を防ぐ役割まで果たすのである。
事実、リアーヴェルとその分身が放った三十にも及ぶ光の束は、間髪入れずに“英雄殺し”を呑み込んでいた。
(……やったのか!?)
凄絶なる閃光が拡散し、ほとんど視界を奪われていたが、それでも俺は前進を止めず、とうとう戦闘地帯の真下近くに到達した。
周囲には、食い入るように上空を見つめる、聖騎士や王国騎士団兵たちの姿が数多く見受けられたが、彼らの表情に一切の油断はない。
聖騎士の大半は、“光の杭”――凝縮させた光の魔素を、巨大な杭の形状に変化させて投擲する聖光魔術だ――を握った手を高い位置に掲げ、虎視眈々と投擲のタイミングを見計らっている。
俺もまた、その場で足を止め、彼らに倣って上空の様子を見守った。
ほどなくして、閃光が収束し、俺は刮目した――が、そこにあったのは、なおも攻撃の手を緩めぬリアーヴェルと枢機卿の姿、さらには、“英雄殺し”の独壇場とでも呼ぶべき光景だった。
「……ッ!?」
実に驚くべきことに、“英雄殺し”は斜め前方に突き出した左手から、波紋状の魔術防璧を生じさせ、リアーヴェルが放つ“魔力なる波動”を易々と受け止めていた。
しかも、それだけではない。
奴は右手に握った“血の大剣”を、目にも止まらぬ速さで縦横無尽に振り、枢機卿が繰り出す数多の光の矢を、正確に打ち払い続けていたのである。
どうやら、奴の得物は、魔術に干渉可能な“魔術効果付与”が施されているらしい。
「――今だーーーーッ!! 一斉に放てーーーーッ!!」
突如として、辺りに響き渡ったのは、ほかでもないレジアナスの大音声だった。
すると、間髪を置かずに、地上のあちこちから“光の杭”が矢継ぎ早に投げ放たれた。
その数、百は下らない。
今や完全に両手が塞がり、その場に釘付けになっている“英雄殺し”は、恰好の標的と言ってよかった。
中空を駆ける数多の“光の杭”のために、再び視界は光の海に呑まれ、俺は俄かに目を細めた――が、ハッと気がついた。
――“英雄殺し”が身にまとう強烈な瘴気が、俺自身の幾ばくか後方に感ぜられたのである。
(――奴め、防御に徹しながらも、“転移の門”を唱えていたのかッ!!)
瘴気の流れから、“英雄殺し”が地上に降り立ったことを確信したとき、奴は既に反撃の狼煙を上げていた。
赤黒く発光する、複雑な文様の巨大な魔法陣が、俺たちを見下ろすかのごとく、天上に展開されていたのである。
そして、リアーヴェルと枢機卿の二人が位置していたのは、魔法陣の中心のちょうど真下だった。
「あ、あれは、一体……」
傍にいた聖騎士の一人が言いかけた刹那、漆黒に煌めく稲妻が魔法陣から相次いで降り注ぎ、さらには、のたうつ獣のごとく地上を薙ぎ払った。
幸いにも、俺は直撃を免れたが、その余波として起こった衝撃波に足止めを喰らった。
楔のごとく地に突き立てた剣に、必死にすがっていなければ、まともに立っていることさえ不可能なほどだった。
間もなく衝撃波が収まると、周囲の兵士たちは死に物狂いで散開し始めたが、俺は迷わず“英雄殺し”に向かって駆け出していた。
リアーヴェルと枢機卿の身がことさら強く案じられたが、今はひとえに、彼らの無事を願うばかりである。
(――魔術戦では、“英雄殺し”にゆめゆめ太刀打ちできぬ。しかし、剣の間合いに持ち込めれば、勝機を見出すことは決して不可能ではない。詠唱のために、意識を集中できぬ状況さえつくり出せれば、あるいは……)
俺はその可能性に賭け、敵との距離を一気に詰めにかかったが、ほどなく足を止めた。止めざるを得なかった。
「――ッ!?」
刹那、赤く染まった夕空に向かって高々と浮上し始めたのは、数千に及ぶであろう墓石だった。
“英雄殺し”が、途方もない“念動魔術”――思いのままに物体を操作する魔術だ――を発動させたらしい。
案に違わず、次の瞬間には、地上目がけて隕石のごとく墓石群が飛来し始めた――。
(……これでは、奴に近づくことさえままならぬ)
俺は前後左右に間断なく動き回り、不規則に落下してくる墓石の雨を、無我夢中のまま避け続けた。
ときには回避が間に合わず、頭上に迫った墓石に大剣の腹を当て、その軌道を逸らすことによってどうにかやり過ごす、という始末である。
視界の隅には、幾人かの聖騎士が、一様に“聖なる盾”――術者の身辺に、一時的な物理障壁を生じさせる魔術だ――を頭上に掲げ、這々の体で身を守っている様が映っていた。
(……一体、いつまで続くのだ? まるで埒が明かぬ)
思いつつ、大きく後方に跳び退り、雪崩れ落ちる墓石を一気に避けたそのとき、上空から赤黒い光が俄かに差し込んできた。
ふと見やると、なおも天を覆っていた魔法陣が、一層強い輝きを帯びている。
直後、漆黒の稲光がチカチカと頭上に瞬いた。
(……まずいッ!!)
気がついたとき既に、俺の体は小さく宙を舞っていた。
電熱を帯びた衝撃波を、背中からもろに喰らったせいだった。
実際に目にしたわけではないが、先ほどまで立っていた地点のほぼ真後ろに、稲妻が直撃したのに違いなかった。
今や眼前には、追い打ちとばかりに無数の墓石群が迫っていたが、宙に投げ出されたままの姿勢では、その全てを避け切ることは不可能である。
(……“英雄殺し”とやり合う前に深手を負うなど、言語道断だ)
思いつつ、剣の柄から咄嗟に離した左の掌を、ちらと一瞥する。
先につくった傷口は、未だ乾かぬままだった。
(――“血操術”に頼るほかあるまい)
迷わず呪文詠唱を開始した刹那、無数の小さな何かが、目の前をかすめて落下していった。
(……これは、土の塊!?)
気がつくと同時に、俺は詠唱を取り止めた。
そのとき既に、視界を覆い尽くさんばかりの土壁が、地面からせり上がっていたのである。
一瞬のうちに築かれた、天に向かって反り立つその壁は、さながら仁王立ちする武人のごとく、飛来する墓石群を塞き止めていた。
(――何者かが、“地操魔術”を発動させたのだ)
俺は安堵のため息を漏らしつつ、即座に空中で体勢を立て直し、両脚で地面に降り立った。
すると、折良くも視界に飛び込んできたのは、俺を救ってくれた張本人に相違ない大男の姿だった。
彼は片膝を突いた姿勢のまま、広げた右掌をぴったりと地面に添わせていた。
「――恩に着る、トモンド」
そう声をかけると、彼は橙色の短い髪を揺らしつつ立ち上がった。
彼の肩越しに、我先にと土壁の内側に駆け込んで来る、幾人もの兵士たちの姿が映った。
「その声は……」
言いながら、トモンドはゆっくりとこちらに向き直り、左手に握っていた両刃斧を慣れた手つきで肩に担いだ。
次いで、彼はハッと息を呑み、大きく目を見開いた。
「――まさか、聖者さんなのかッ!?」
力強くうなずいてみせると、彼はまじまじと俺の顔を眺めたのち、にやっと相好を崩した。
「噂通りのひでえ傷だが、案に違わず良い面構えだ。仮面で隠すより、こっちのほうがよっぽどいいぜ、聖者さんッ!!」
こちらの肩を勢い良く叩いたトモンドに、俺は精一杯の微笑みを返し、気がかりだったことを急ぎ尋ねた。
「――ところで、聖女様は?」
「ついさっきまで、ネーメスと三人で一緒にいたんだが、雷だ墓石だとてんやわんやしてるうちに、離れ離れになっちまったんだ……」
頭を掻きつつ答えたトモンドに、「彼女のことだ。無茶を仕出かさなければいいが」と返すと、彼は深々とうなずいてみせた。
(――今現在、“英雄殺し”はこの土壁の向こう側にいる。距離はそう遠くないらしい)
奴が帯びた“暗黒魔素”の気配を、改めて感じ取ったそのとき、壁の真裏から、猛々しい声が響いてきた。
「――灼熱の炎よ、彼の者を包み込む大渦を成せーーーッ!!」
俺とトモンドは、互いに顔を見合わせたのち、揃って壁の右端へと向かい、その先の様子を窺った。
すると、真っ先に視界に映ったのは、螺旋状に奥へ奥へと伸びてゆく、口を開けた大蛇のごとき猛火の渦だった。
しかも、それは今まさに、漆黒のフードマントの人影を呑み込まんとする寸前だった。
また、宙を舞っていた墓石群も、もはや一つ残らず地面に転がるばかりで、その動きを完全に停止している。
少なくとも、“英雄殺し”が攻撃の手を緩めざるを得ない状況に追い込まれたことだけは、確かなようだった。
「……こりゃあ、驚いた」
トモンドが呟くように言った。
しかし、何も彼は、全てを焼き尽くさんばかりの炎の渦の勢いに驚嘆していたのではない。
壁の左斜め前方に向けられた彼の視線の先には、正面に突き出した両腕から炎の渦を生じさせている、二人の術者の堂々たる背中があった。
向かって右側に立つ、神々しい白金の甲冑をまとった男は、言わずもがな、“聖女の盾”が一人、ネーメスである。
そして、その左隣に立っていたのは、王国騎士団の幹部の証である黄金の甲冑をまとった、ディダレイ騎士団長にほかならなかった。
彼らが左右の方向から放つ炎の渦は、ある地点から二匹の大蛇が絡み合うがごとく合流し、一層強くその勢いを増しながら、既に“英雄殺し”を呑み込んでいた。
「――ネーメス、もっと火力を上げろッ!! 貴様の力はその程度かッ!?」
「……兄上、お静かに。集中が乱れます」
二人の交わしたやりとりを耳にするなり、思わず笑みがこぼれた。
彼らの口調に険はなく、どちらかと言えば、仲の良い兄弟の日常的な小競り合い、といった風にしか聞こえなかった。
「――兄弟ってのは、やっぱりこうじゃなくっちゃな」
トモンドが小さく笑いながらそう言い、全く同感だ、と応じた――が、次の瞬間、俺は脱兎のごとく壁を飛び出していた。
「――二人とも、すぐにその場を離れろッ!!」
ディダレイとネーメスの背後に立った俺は、声の限りに叫びながら、ありありと感じ取っていた。
炎の中から漂ってくる奴の瘴気が、瞬き一つする間もなく、急激にその濃度を増大させていたのである。
「……その声、聖者殿かッ!?」
振り向きざまにディダレイが言った刹那、彼の背中越しに映ったのは、天を貫かんばかりに一直線に伸びる、巨大な柱のごとき漆黒の炎だった。
「……あ、兄上、あれをッ!!」
ネーメスが憔悴した声を発したと同時に、ディダレイは再び正面に向き直った。
そして、二人揃って攻撃の手を休めた。
「――あの炎の柱は……」
言いかけたその先に続く言葉を、俺は自然と呑み込んでいた。
そのとき、俺の視界が捉えていたのは、地上を覆う炎の海をゆっくりと抜け出した、陽炎のごとき“英雄殺し”の姿だった。
さらに、例の柱のごとき漆黒の炎は、奴が高々と頭上に振り上げた剣の切先から、天に向かって真っ直ぐに伸びていたのである――。
「――まさか、あの炎の柱そのものが、魔術効果付与だとでも言うのかッ!!」
ディダレイが激昂したように声を荒げると、「実に信じ難いことですが、仰る通りでしょう」とネーメスが震える声で言った。
「……兵の報告によれば、奴はあの一振りで大聖堂を崩壊させたとか」
それを耳にするなり、突如として、“神託”が俺の脳裏を過ぎった。
『――神の寵愛と憎悪を一身に背負いし者、聖剣に心の臓を差し出し、救国の雄となれ』
心の臓を差し出すほどの覚悟が、今まさに問われている――俺はそれを確信しながら、ディダレイの肩を叩いた。
「……一つ頼まれて欲しい。“転移の門”を開いてくれまいか?」
そう持ちかけると、ディダレイは俄かに眉をひそめた。
ネーメスとトモンドも、揃って怪訝な面持ちを浮かべ、じっとこちらの様子を窺っている。
「転移先の指定は俺がやる。ディダレイ殿は、ただ門を開いてくれれば良い。今の状況では、ほかに打開策は見当たらぬ」
すぐさま言葉を継ぐと、ディダレイはハッと息を呑み、信じられぬとばかりに小さく首を振った。そしてこう尋ねた。
「……まさか聖者殿、転移と同時に奇襲をかけるつもりか?」
ディダレイが驚くのも無理はなかった。
そもそも“転移の門”は、目的地のイメージに失敗すれば、どこに飛んでしまうか分からぬというリスクを孕んだ魔術である。
事実、己を雑念から切り離し、純然たる目的地を思い描けるようになるだけでも、相応の訓練が必要とされる。
加うるに、良く見知った場所を対象としない限り、転移はまずもって不可能だと言われているのだ。
従って、雑念が混じり易く、失敗のリスクがはね上がる戦闘下においては、“転移の門”の使用は撤退時に限るというのが、基本中の基本だった。
にもかかわらず、俺はほんのわずかな誤差さえ許されぬ、敵の背後への転移――即ち厳密なる転移先の指定である――を試みようとしていた。
常識的に考えれば、万に一つも成功は見込めない、ほとんど絶望的な賭けと言っていい。
(――だが、俺には“英雄殺し”の正確な座標が手に取るように分かるのだ。奴のまとった激甚なる瘴気が、否応なくそれを知らせている。これは必ずや、転移先のイメージを膨らます際の大きな手助けとなるはずだ)
とは言え、失敗すれば即、命取りである。
しかし、己の命を賭ける価値は十分にある、賭けなくてはならぬ、と俺は思った。
奴との歴然たる実力差を跳ね返し、さらに勝機を掴むとなれば、奇襲を成功させる以外に活路はない。
元より、ここで手をこまねいていては、死の運命を甘受するばかりである。
「――やるしかない。必ずやってみせる」
宣言すると、ディダレイは即座に屈み込み、俺の足元に向かって右掌をかざした。
詠唱は瞬く間に終わり、青白く発光する魔法陣が地面に浮かび上がる。
「――確かに、聖者殿ならば可能かもしれん。貴殿が二つ名に相応しい“奇跡”を起こす瞬間を、私は以前もこの目で見届けたのだから」
言いながら、ディダレイは立ち上がり、俺の肩を叩いた。
大礼拝堂での戦いにおいて、ファラルモがイクシアーナに向かって投げ放った槍を、俺は視覚に頼らず両断してみせた――彼の口にした“奇跡”とは、これを指しているのに違いなかった。
「――あれくらい、朝飯前だとも」
そう言ってのけると、ディダレイ、ネーメス、トモンドの三人は、まじまじと俺の顔を眺めつつ、俄かに表情を緩めた。
「――人々が与えてくれた、“傷跡の聖者”という二つ名。自らがそれに相応しい存在であると、これより証明して進ぜよう」
言いながら、俺はいやというほど睨めつけていた。
今まさに、終焉を告げる刃を振り下ろさんとしている“英雄殺し”の姿を、である。
「――俺が狙い通りに転移できたら、そのまま皆も続いてくれ」
言い終えるなり、すぐさま目を閉じると、心は直ちに無となった。
そして、先ほどまぶたに焼き付けた光景を、俺は頭の中で反転させてゆく。
血の大剣、漆黒のマントに包まれた背中、辺りを取り囲む炎の海――転移後に自らが見るべき風景を、俺は迅速かつ緻密に組み上げていった。
* * *
ふと気づくと、己の肉体がゆっくりと降下してゆく感覚があった。
同時に、例えようもない激しい熱気が全身を襲った。
(……転移が、終わった)
再び目を開けた刹那、俺の視界に映り込んだのは、天に向かって掲げられたほっそりとした二本の腕、さらには、しっかと握られた剣の柄だった。
言わずもがな、その先に見えたのは、深紅に染まった刀身と、切先から伸びる漆黒の炎の柱である。
そのまま視線を下げると、フードに覆われた後頭部に続き、熱風によって背中のマントがはためく様が、はっきりと見て取れた。
(――己の二つ名に、感謝せねばなるまい)
奇跡的にも、“英雄殺し”の背後を取った俺は、迷わず声を張り上げた。
「――血よッ、爆ぜろーーーッ!!」
刹那、“英雄殺し”の手にした“血の大剣”は、膨れ上がる血液の球体に姿を変え、盛大に弾け飛ぶ。
爆風の勢いによって、奴の被ったフードは千切れて吹き飛び、その下から長い白髪が露わになった――が、間を置かず、視界は真っ赤な煙と舞い上がる粉塵で覆い尽くされ、何一つ見えなくなった。
しかし、何を構うことがあろうか。
“血の大剣”の破壊によって、天を貫かんばかりの炎の柱は、とうに消失している。
さらに、視界に頼らずとも、俺は奴の気配とその位置が、手に取るように分かるのだ。
既に大地を蹴り飛んでいた俺は、存分に大剣を振り上げ、腹の底から吼えた。
「――うおおおおおおおおッ!!」
俺は全身全霊の力を込めて刃を振り下ろした――が、直ちに思い直し、大剣の柄から咄嗟に両手を離した。
溢れ出る瘴気の根源を、俺は確かに真正面に捉えていたはずだった。
にもかかわらず、今ではそれは、俺の背面に回り込んでいる。
無詠唱で“転移の門”を唱えたのに違いなかった。
これほど迅速に位置を移す術は、二つと考えられない。
(――しかし、今は転移直後だ。“もう一度”はない)
既に身を反転させていた俺は、左腕を真正面に向けていた。
重量のある大剣を捨てていなければ、これほど速く次の手に打って出ることは、断じて不可能だったと言えよう。
「――血よッ、全てを貫く剣となりて、我が手に宿れーーーッ!!」
力の限り咆哮すると、先につくった左の掌の傷から、鮮血の剣の切先が突出する。
それは稲妻のごとく煙と粉塵を切り裂きながら、一直線に伸びていった。
眼前に現れた、一振りの剣の柄を、俺は駆けながらに両手で掴む。
勢いのまま突進すると、掌にいやというほど振動が伝わり、乾いた音が鳴った。
先に俺が手放した大剣が、地面にぶつかった音だった。
そして、俺はハッキリと感じ取っていた。
己の頬を、大量の生温かい返り血が、次々に滴り落ちてゆく――。
「……待ち惚けたぞ、イーシャル」
抑揚を欠いた声が、突如として耳に飛び込んできたとき、視界は完全に晴れていた。
それは即ち、俺自身の影、“英雄殺し”との初対面の瞬間を意味していた。
「――ガンドレール、なのか……」
唇の端から血を滴らせた、目の前の男の顔を唖然と眺めつつ、俺は独りでに呟いていた。
毒矢を受け、死に直面したと聞いていたが、おそらくはそのせいなのだろう、かつてあれほどまでに色鮮やかだったブロンドの長髪は、完全なる白髪に変わり果てている。
しかし、その涼しげで直線的な瞳、高く通った鼻筋、薄い紅をつけたような唇は、以前と変わらぬままだった。
どうか見間違いであって欲しいと、心の底から願ったが、その望みが叶うはずもないということは、俺自身が誰よりもよく承知していた。
あれほどまでに多くの戦場を共に駆け、背中を預け合った“レヴァニアの鷹”の顔を、どうして忘れることができよう――。
「――どれほどこの瞬間を待ち望んだことか。我が愛しき半身よ」
言いながら、彼は唇の端から滴る血を、右手の甲でゆっくりと拭った。
次いで、自らの左胸を刺し貫いている“血の剣”の刀身を、その人差し指でそっと撫でる。
すると、剣は一瞬のうちに粉と化し、虚しく宙に散った。
さらには、時間が巻き戻されたかのごとく、致命傷と思われた胸の傷さえ、直ちに塞がったのである。
一切の表情を浮かべぬまま、奥行きを欠いた眼差しをこちらに注ぐガンドレールの姿に、俺は俄かに戦慄を覚えた。
同時に、胸中に浮かび上がった一つの疑念に、明確な輪郭が与えられてゆく――。
(――やはり違う。今、俺の目の前にいるこの男は、ガンドレールであってガンドレールではない。彼が心のうちに抱いた真っ直ぐな信念に、一切の嘘偽りはなかった。彼こそ王国騎士団長の名に恥じぬ、真なる国の忠臣だった。ならば、人々に仇なすこの男は、一体何者なのだ?)
そのとき、俺は有無を言わさず思い返していた。
よもや別人としか思われぬ、今のガンドレールのごとく、一切の表情を持たぬ男と対峙した過去があったことを。
異常なほど平板で、表情筋そのものが存在しないかのようなあの男の顔つきを、俺が忘れるはずはなかった。
奴の存在は、どれほど願ったところで、一生涯、忘れることのできぬものである――。
「――なぜ、貴様が生きているッ!? ゼルマンドーーーッ!!」
我知らず、激昂しながらその名を叫んだとき、目の前の男の口角が微かに上がった。
永遠の宿敵に宿った表情らしい表情を、初めて目の当たりにしつつ、俺は腰の鞘から咄嗟に剣を引き抜いた――。