43.もう一人のケンゴー
目を覚ますと、日焼けした古いカーテンの隙間から、微かに日光が差し込んでいるのに気がついた。
知らず知らずのうちに、俺は束の間のまどろみに落ちていたらしかった。
(――レジアナスは息災だろうか?)
ハッとしてベッドから飛び起きるなり、俺は枕元に置いた剣を掴んで部屋を出た。
そして、廊下を挟んで斜向かいに位置するレジアナスの部屋へと向かい、ドアを三度ノックした。
「――ケンゴーだ。息災か?」
そう呼びかけると、やや間を置いてから、静かにドアが開いた。
「……どうした、こんな朝っぱらから? 見ての通り、俺はぴんぴんしているぜ」
言いながら、レジアナスがあくびを噛み殺している様を見て、俺はホッと胸を撫で下ろした――が、同時に自責の念に駆られた。
不寝番をしていたのだろう、彼は昨晩別れたときと同様の甲冑姿のままで、目の下には黒々とした隈が目立っていた。
「一応報告しておくが、特に変わったことは起きなかったぜ。もし何か異変があれば、俺はあんたを叩き起こさなくちゃならなかったが、有り難いことにその必要はなかった。……で、どうだ? 疲れは取れたか?」
レジアナスにそう問われ、俺はしっかりとうなずいてみせた。
十分な睡眠を取れたわけではないにせよ、一晩ベッドで身体を休めることができたお陰で、体調は良好そのものと言っていい。
「お前のお陰だ。傷の具合もずいぶんと良い。感謝している」
「――そいつは良かった」
頬を緩めたレジアナスに向かって、苦労をかけた、と伝えると、彼はとんと胸を叩いてみせ、「これくらいどうってことないさ」と言った。
そして、彼は大きな伸びを一つした。
「……それじゃ、すっかり陽も昇ったことだし、俺は一旦お暇させてもらうぜ。総主教様の容態も気がかりだし、教会墓地の掘り起こしの準備も始めなくちゃならないんでな。というわけで、今日の日中は、俺自身があんたの警護に就くことはできない。
だがその代わり、この宿周辺の警戒を強化しておくことはできる。昨日の襲撃のせいで、ちょうど警備体制の見直しを迫られていたから、上手いこと手配できるはずだ。だからあんたは、できる限りこの宿を離れないでいてくれ。そのほうが身の安全のためにも良いし、何かと連絡も取りやすい。もし本日中に面会の件で動きがあれば、すぐに使いを送って知らせることもできる」
「――相分かった。お前の言う通りにしよう。しかし、何から何まで済まぬ。昨晩から助けられてばかりだ」
そう言って頭を下げると、「いちいち謝るのは止せ。逆にやりにくい」とレジアナスは呆れたように笑った。善処する、と俺は返した。
それから、急いで出支度を済ませたレジアナスを玄関で見送った。
別れ際、夜にまた様子を見に来る、と言った彼に、ありがとう、無理だけはし過ぎるな、と俺は声をかけた。
(――さて、これからどうしたものか)
その場で思案していると、ロビーの奥の廊下から、昨晩の受付係――丸眼鏡をかけた小太りの中年女だ――がこちらに歩いて来るのが見えた。
彼女は縁にひだのついた布製の帽子に、白いエプロンという出で立ちで、雑巾のかかった水桶を脇に抱えている。
こうして改めて目にすると、彼女の風貌はそこはかとなく、義勇軍時代のある同朋に似ていることに気がついた。
その同朋とは、“料理人”という仇名の小太りの男で、暇を見つけては食料調達――野兎狩り、野鳥狩り、食べられる野草やきのこの採集だ――に出かけるという物好きだった。
そうして集めた食材を、片っ端から投入してごった煮を作り、仲間に振る舞うのが彼の趣味だったために、“料理人”と仇名されるに至ったのである。
(――そう言えば、あいつの作るごった煮はやたらと美味かった)
やがて“料理人”は、自らの情熱を抑え切れずに本物の料理人になることを志し(それは全くもって正しい判断と言えた)、“逃がし屋”だった俺に脱走の手助けを依頼してきた。
無論、彼の脱走が成功したことは言うまでもない。
(――“料理人”は今ごろ何をしているだろう? 自分の店でも開いて、幸せにやっていれば良いが)
そんなことを考えていると、俺は唐突に空腹感を覚えたが、それも無理からぬことと言えた。
昨日は何やかやと立て込んでいたせいで、夕食どころか昼食さえ摂っていなかったのである。
「――もし可能なら、すぐに朝食の用意を頼みたいのだが」
カウンターに戻っていた中年女に申し出ると、「宿泊代とは別料金になりますが、それでも構いませんか?」とのことだったので、俺は迷わず頼むと返事をした。
――とそのとき、カウンターの奥にあったドアが、ぎいぎいという耳障りな音と共に開き、背中が瘤のように曲がった老婆が姿を現した。
潰れた蛙のような、しかしどこか味わい深い顔立ちの老婆で、ごま塩の髪の房を、頭のあちこちから蛇のごとくぶら下げている。
これで黒衣でもまとっていれば、おとぎ話に出てくる魔女そのものだが、現実の彼女は、水玉模様の赤いチュニック姿だった。
良く言えば個性的だが、悪く言えば幾分狂気じみているというのが、俺が老婆に抱いた率直な第一印象だった。
「……その面、あんた元従軍者だね? あたしにゃあ分かる」
舐め回すようにこちらの顔を見ながら、老婆がざらついた声で尋ねた。
それがどうかしたのか、と返すと、彼女は喉を鳴らして痰を切ったのち、眩しげに眼を細めながらこう言った。
「残念ながら、あんたに朝飯を用意してやることはできない。うちは基本的に、巡礼者だけを相手にするって方針でね。あんたみたいな輩は、全くもってお呼びじゃない」
「……それならば、“元従軍者はお断り”の看板でも出しておけば良かろう」
皮肉交じりに吹っ掛けると、「あんたの目は節穴かい?」と言って、老婆は背後の壁に鋲でとめられた張り紙を指差した。
昨晩は気づきもしなかったが、そこには確かに、“ゼルマンド戦役従軍者の出入りを禁ず”としたためられていた。
(……元傭兵風情が、ほかの宿泊客と取っ組み合いを始める、あるいは宿代を踏み倒す。大方、そのようなトラブルに見舞われたに違いない)
俺にとっては百も承知だが、義勇兵をはじめとした元従軍者の中には、反社会的な性向を持つ者が数多く含まれるのである。
以前、ミードの村で立てこもり事件を起こした“耳削ぎマリージャ”のような輩は、その最たる例と言えよう。
また戦役中には、一部の義勇兵や傭兵が、庇護すべき民間人に対する乱暴狼藉を働くという痛ましい事件――行軍中に差しかかった村々での略奪行為や強姦などだ――も発生していた。
ゆえに元従軍者は、問答無用で目の敵にされることがままあるのだ。
(……しかし、具合の悪いことになった。本来ならば、大人しく門前払いを食わされるのが賢明だろうが、今回ばかりはレジアナスと約束した手前、そうするわけにもいかぬ)
思いあぐねていると、老婆はじろりと中年女を睨めつけ、実に冷ややかな声で、「ミス・ミーゴ」と呼びかけた。
「……長年勤めてきたあんたが、こんなヘマをやらかすはずはない。となれば、こちらのお客人をわざわざ泊めたということになる。これは一体全体、どういう了見だい?」
「――マダム、これにはちゃんとした理由があるのです」
ミス・ミーゴは丸眼鏡を押し上げ、微かに震えを帯びた声で言い返した。
「こちらのお客様は、 “傷跡の聖者”様に間違いありませんわ。昨晩はレジアナス副団長もご一緒でしたし、宿帳にも“ケンゴー”という噂通りのお名前を書かれたのです。マダムだって、一度くらいはお名前を耳にしたことがありますでしょう?」
「――“傷跡の聖者”? そんな馬鹿げた名前、聞いたこともない。それにハッキリ言わせてもらうが、元従軍者だった輩が“聖者”だなんて、全くもって噴飯ものだね」
老婆は吐き捨てるようにそう言うと、得物を射止めんとする目でこちらを見やった。
「……あたしゃ、今から野暮用でしばらく留守にするが、戻って来るまでに必ず出て行くことだね」
「――マダム、お願いですから、もう少々私の話を聞いてください」
ミス・ミーゴはなおも食い下がったが、老婆は構わず話を続けた。
「もし従っていなけりゃ、あんたは間違いなく痛い目を見ることになる。あたしゃ、こう見えても、わりに顔が利くほうでね。ちいとばかり威勢の良いお友達がいるのさ」
言い終えるなり、老婆はわざとらしくふんと鼻を鳴らし、いそいそと玄関から出て行った。
俺が思わずため息を漏らすと、ミス・ミーゴは「ご迷惑をおかけしまして、大変申し訳ございません」と言って頭を下げた。
そしてこう続けた。
「――昨晩はご迷惑かと思いまして、余計な口出しは控えたのですが、ケンゴー様のお噂はかねがね伺っておりました。こうしてお目にかかれて、至極光栄に存じます」
ミス・ミーゴはおもむろに両手を差し出し、握手を求めてきた。
彼女の掌は分厚くて固く、握力はなかなかのものだった。
それから彼女は、つい先日、ポリージアに住むいとこから手紙が届いたのだと語った。
「手紙の中には、ケンゴー様とレジアナス様に対する感謝の言葉が、繰り返し綴られておりました。お二方が町に秩序を取り戻してくれたという事実は、今では多くの人々の知るところとなっています。いとこに代わって、この場を借りてお礼を申し上げます」
ミス・ミーゴは再び頭を下げた。
そして、考え込むようにしばし沈黙したのち、どこか躊躇いがちに口を開いた。
「……私も詳しい事情は存じ上げないのですが、マダムは元従軍者の方々に限らず、ゼルマンド戦役に関する全ての物事を憎んでおいでなのです。普段は決して、あのような振る舞いをする方ではないのですけれど」
「構うことはない。巡り合わせが悪かったに過ぎぬ」
おそらくはあの老婆も、戦役が招いた災禍によって、心に深手を負わされた人間の一人なのだろう――ミス・ミーゴの言葉から、俺はそのように推察した。
要はこの俺と同類、というわけである。
戦役に関する全ての物事を憎みたくなる気持ちは、当然ながら俺に理解できぬはずはなかった。
「……しかし、今すぐにこちらを離れるとなると、少々都合が悪い。少なくとも、今晩レジアナスの訪問があるまでは、猶予を願いたいのだが」
そう持ちかけると、「今晩までと言わず、お好きなだけご滞在いただいて構いません」とミス・ミーゴはにこやかに言った。
「私が必ずマダムを説得してみせますので、どうかご安心ください。誰が何と言おうと、ケンゴー様は歓迎されるべきお客人なのですから。
……それと、ほんの気持ちばかりですが、朝食はこの私にご馳走させていただけませんか? こうして出会えたのも何かのご縁に違いありませんし、お近づきの印というわけです」
「――では、お言葉に甘えさせてもらおう。感謝致す」
俺はそう返事をした。
こちらとしては、願ってもない申し出である。
* * *
ミス・ミーゴが部屋に運んでくれた、質量ともに申し分ない朝食――ブラッド・ソーセージ、なまずのフライ、目玉焼き、黒パン、熱々のコーヒーというメニューだった――を平らげてしまうと、俺は妙に落ち着かない気持ちになった。
というのも、自らの身を守るため、周囲に警戒の目を光らせておく以外、差し当たってやるべきことが見当たらなかったせいである。
良くも悪くも、トラブル続きの毎日に身体が慣れてしまったのだろう、と俺は思った。
かくして午前の間、絶えず“暗黒魔素”の気配を探りつつ、部屋の窓から目を離さずにいたが、これといった異常は認められなかった。
時折、レジアナスが手配したと見える聖騎士たちが、宿の周りを行き来する姿が目に留まったが、目ぼしい動きと言えばこれが唯一だった。
(……このまま何事もなく、今日という日が過ぎ去ってくれれば良いが)
そう期待した昼下がり、部屋のドアをノックする音が聞こえ、続いてミス・ミーゴの声が耳に飛び込んできた。
「――ケンゴー様、大聖堂からお客様がお見えです」
すぐに参ると返事をし、急いで階下のロビーに向かうと、そこには二人の聖騎士を従えた少女の姿があった。
純白のローブを身にまとった、可愛らしいお下げ髪の少女で、年の頃は十二、三ほどと見えた。
「――お初にお目にかかります、ケンゴー様」
少女は折り目正しく一礼すると、自らをイクシアーナの侍女だと名乗った。
そして、肩に下げた大きな革鞄から真鍮製の仮面――頭部をすっぽりと覆う形状で、無駄な装飾は排されている――を取り出し、「イクシアーナ様からの贈り物です」と言いながらこちらに手渡した。
突然のことに驚いていると、少女は再び鞄を探って手紙を取り出し、俺に読むように勧めた。
手紙の差出主はイクシアーナで、「あなたの無事と居場所について、レジアナスより連絡を受けましたので、急ぎ筆をとった次第です」という書き出しから始まっていた。
「昨晩は大変なご迷惑をおかけしました。あなたの力になりたいと願いながらも、結局はあなたを苦しい立場に追い込んでしまったこと、心から申し訳なく感じています。
お詫びのしようもありませんが、せめてもの償いに、壊してしまった仮面を弁償させていただきます。ご存知の通り、私は現在外出を禁じられている身ですので、代わりに侍女に品選びを依頼しました。あなたが好みそうな、過度な装飾のないものを選ぶように申しつけましたので、気に入っていただけたら幸いです。
ほかにも、色々とお伝えしたいことがあるのですが、今のところは上手く言葉にできる自信がありません。自分が置かれている状況に、私は少なからず混乱しているのです。心の整理がつき次第、また手紙を書いてお届けします。今はひとえに、あなたの平穏無事をお祈りしています。かしこ」
一通り読み終えたあとも、しばしの間、俺は手紙に見入った。
そのわけは、イクシアーナの律義さに敬服していたためであり、また彼女の筆跡があまりに見事だったせいである。
彼女の文字は、美しく流麗であると同時に、心を尽くして一文字一文字したためたということが、不思議と読み手にも伝わってくるようなところがあった。
俺は少女に手厚く礼を述べ、イクシアーナに対する感謝の言葉を託した。
その後、一行を庭先で見送った俺は、すぐに部屋へ引き返そうとしたが、思い直してその場に留まった。
一日中部屋に篭りきりだったゆえ、今しばらく外の空気を吸っていたい、と強く感じられたのである。
そして、そのままあてもなく庭先を歩いていると、しっかりとした太い木の枝が落ちているのが目に留まった。
(――木剣に仕立てるには、おあつらえ向きの大きさだ)
特技と呼べるほど大層なものではないが、俺は木剣作りの腕には少々覚えがあった。
貧民街で暮らしていた当時は自らのために、そして義勇軍時代には仲間のために、訓練用として相当数こしらえてきたためである。
急に懐かしさが込み上げてきた俺は、その枝を拾い上げ、近くの木の根元に腰を下ろした。
次いで、腰ベルトに下げたナイフを道具に、息抜きとばかりに木剣作りに取りかかり始めた――。
* * *
半時間ばかり経ち、いよいよ木剣の完成に差し掛かったころ、俺は思いがけず頭を抱える事態に直面した。
というのも、野暮用とやらを済ませて戻って来た“マダム”と鉢合わせたのである。
因果なことだと思いつつ、俺は素知らぬふりをして作業を続けたが、やはりと言うべきか、向こうはこちらを放っておいてくれなかった。
「……おやおや、ずいぶんとお上手だね。一本いくらで売るつもりだい?」
外連味たっぷりに言いながら、老婆は俺の手にした木剣に冷ややかな視線を向けた。
そして、これ見よがしに深いため息をつき、怒りを露わにこう続けた。
「――庭先にあんたみたいな面の人間に居られちゃ、客が逃げちまって商売あがったりさ。お願いだから、一刻も早く荷物をまとめて出てっておくれ」
「……仮に俺がここから去ったとて、客足が増えるとは思えぬが」
売り言葉に買い言葉で応じた、まさにそのときだった。
宿の建物の真裏から、何かが蠢くような物音が聞こえたのである。
俺と老婆は、ほとんど同時に顔を見合わせた。
「――様子を見て参ろう」
そう言って立ち上がると、「お節介は止しとくれ!」と老婆はにわかに声を荒げた。
相変わらずの威勢だが、多少の不安はあるらしく、彼女の表情には薄らと陰りが窺えた。
「――任せておけ。元従軍者には、うってつけの役目だ」
そう言い残して宿の裏手に回ると、木造の古い納屋がぽつねんと建っているのが視界に映った。
納屋の周囲には、表の庭と同様、雑草が生い茂っているばかりである。
一見したところでは、特に不審な点は見当たらず、また“暗黒魔素”の気配も全く感じられなかった。
(――となれば、怪しいのは納屋の中だ)
周囲を警戒しつつ、じっと耳を澄ませていると、ほどなく、老婆が抜き足差し足であとを追って来た。
「……納屋の扉に、鍵はかかっているか?」
小声で尋ねると、老婆は黙って首を振った――とそのとき、かたかたと小さな物音が鳴った。
案の定、音の出所は納屋の中である。
大方、野良猫か鼠の仕業だろうと俺は見当をつけた。かような納屋に“英雄殺し”が身を潜めているという状況は、さすがに考えにくい。
(……とは言え、油断は禁物だ)
俺は背後に立つ老婆に木剣を預け、腰の鞘から抜いた剣を右手に構えた。
そして、足音を殺して接近し、左手でそっと納屋の扉を押し開いた。
「……ッ!?」
案に反して、視界に飛び込んできたのは、ぼろを身にまとった六、七歳と見える少年だった。
少年はぼさぼさの黒髪を振り乱しながら、天井から吊り下げられた干し肉の塊に夢中でかぶりついていた。
「……何事かと思えば、全く大したガキだよ」
老婆が呆れたように呟くと、少年は肉の塊からゆっくりと口を離した。
そして、怯えたようにこちらを見て、一歩二歩と後ずさりをした。
少年の額や頬、そして剥き出しになった肌のそこここに、痣や擦り傷の跡がいくつも残されているのを見て取って、俺はにわかに胸の疼きを覚えた。
貧民街で暮らしていたころの自分、あるいは当時交流のあったみなしごの悪ガキたちのことを、否応なく目の前の少年に重ね合わせていたのである。
(……疑うべくもない。訳ありなのだろう)
俺は急いで剣を収め、怖がる必要はない、と少年に語りかけた。
次いで、振り返って老婆に耳打ちをした。
「……こいつを見逃してやってくれ。干し肉は俺が弁償する」
直後、老婆はさも不快げに痰を地面に吐き出し、じろりとこちらを睨んだ。
「――言っておくがね、あたしゃ、誰の弁償も求めちゃいないよ。特にあんたの弁償はね。けちなマネはしないってのが、あたしの主義なのさ」
予想だにしなかった老婆の言葉に、俺は黙って首をすくめてみせた。
「……しかし、全くどうしたもんかね」
目を細めて少年を見やりながら、困惑したように独りごちた老婆に、俺は次のように申し出た。
「――あとのことは任せてもらいたい。俺は軍役に就いていた折、少年兵の世話係をしていたゆえ、この手の子どもの扱いには慣れているのだ」
しばしの間、老婆は品定めするように俺の顔を眺めた。
それから彼女は、こちらに木剣を放り投げると、「好きにしな」と捨て台詞を残して宿へ戻っていった。
「――まずは傷の手当てをしよう。放っておくと化膿する」
そう持ちかけると、少年は何が何だか分からないといった表情を浮かべたが、やがて小さくうなずいてみせた。
* * *
少年と共に宿に戻った俺は、ミス・ミーゴの手を借り、急いで彼の傷の手当てを済ませた。
次いで、彼女に少年の食事の用意を頼み、代金を支払って部屋に引き揚げた。食事は時を置かず、部屋の備え付けのテーブルへと運ばれてきた。
「――腹が減っていたのだろう。遠慮は不要だ」
そう告げると、部屋の隅に立ち尽くしていた少年は、ゆっくりと顔を上げて俺のほうを向いた。
彼の表情は未だ、硬く強張ったままである。目の焦点も定まっていない。
自分の身に起きていることが、まるで呑み込めていない様子だった。
「もし量が足りなければ、おかわりしても構わない。さあ、冷めないうちに食べてくれ」
優しく促すと、少年はようやくテーブルに着き、どこか申し訳なさそうにパンをちぎって口に含んだ。
すると、彼の頬はわずかに緩み、瞳にいくばくかの光が戻った。
俺は窓の近くに置かれた安楽椅子に腰かけ、外の様子に気を配りつつ、彼の食欲が満たされてゆく様を見守った。
「――俺の名はケンゴー。君の名は?」
食事が一段落したのちに尋ねると、少年はびくりと肩を震わせた。
そして、おもむろにこちらへ向き直り、大きく瞳を見開いて答えた。
「……ケンゴー。おなじ」
俺は我が耳を疑った。
言わずもがな、目の前の少年の名と、自らの仮初の名が同じであるとは、露ほども想像しなかったせいである。
しかし、よくよく考えてみれば、ケンゴーという名がありふれたものであったがゆえ、自らも名乗り始めたのだ。
奇妙な偶然には違いないが、さして驚くほどのことではないのかもしれぬ、と俺は思いを改めた。
「……ケンゴー、きずだらけ」
しばしの沈黙ののち、少年は俺の顔を指差してそう言った。
それから、ハッとしたようにこう加えた。
「――きずあとの、せいじゃ!!」
「……俺を知っているのか?」
何がなんだか分からぬまま尋ねると、少年は小さくうなずき、「けっとうをみた。つよいひと」と言った。
そこでようやく、俺は合点がいった。
この少年は、俺とネーメスの決闘を見たのだろう、と。
となれば彼は、大聖堂の裏庭に設けられていた、難民用テントで生活していたに違いなかった。
しかしながら、昨日の襲撃を受け、難民は一人残らず退去させられたはずである。ゆえに彼は、行き場を失ってしまったのだろう。
「……家族はいないのか?」
そう訊くと、少年は小さく首を振り、だれもいない、と口にした。
そして間を置かず、ききたいことがある、と少年は続けた。
彼の青い瞳は、これまでとは打って変わって、驚くほど真剣な光を湛えている。
「――つよいひとは、どうしてつよい?」
「……君は、強くなりたいのか?」
思わずそう訊くと、少年は力強くうなずいた。
(――強い者は、どうして強い、か)
まるで哲学的問答のようだ、と俺は密かに頭を抱えた。
容易に答えられるような問いではない。
しかし、心を尽くして精一杯向き合わねばならぬ、と俺は感じていた。
何と言っても、ケンゴー少年はかつての俺と同様、幼くして天涯孤独の身なのである。
強くなりたいと願う彼の気持ちは、察するに余りあるものだった。
「――俺も君と同じで、家族は誰一人としていなかった。今思い返してみても、それはなかなかキツいことだった」
俺は独りでに話し始めていた。
正直であろうと努め、自然と心に浮かんでくる言葉を重ねてゆけば、いずれは自分なりの回答に辿り着く――そうした直観に突き動かされてのことだった。
「温かな食事や綺麗な洋服とは、全くの無縁だったし、散々ひどい目にも遭ってきた。嫌がらせをされたり、暴力を振るわれたりだ。それから、悪さだってたくさんした。そうでもしない限り、生きていくことができなかったんだ。君なら分かるだろう?」
そう投げかけると、少年は静かにうなずいた。
「俺は自分の惨めさや弱さが恥ずかしかった。だから、強くなろうと決心した。強くなれば、ほかの誰かに馬鹿にされずに済むし、いつも堂々としていられると考えたんだ。そして、毎日木剣を振って鍛錬を重ね、やがて軍隊に入った」
「それで、つよくなった?」
少年の問いかけに、いいや、と俺は答えた。
「いやというほど訓練して、確かに剣の腕は上達した。誰にも負けないくらいにだ。しかし、一体どういうわけか、自分が強くなったとは感じられなかった。常に『これではまだ足りない』と思うばかりだった。きっと、俺が身につけたのは、本物の強さではなかったのだろう」
ならば一体、本物の強さとは何なのか――自問自答をしながら、俺は先の見えぬままに話を続けた。
「俺が本当に求めていたのは、己の力を周囲に示すことではなく、もっと別の何かだったように思う。ひょっとすると、それは“自分の居場所”だったのかもしれない。
……今まですっかり忘れていたが、君くらいの年齢のとき、俺はよく想像したものだ。どこか遠くの町に、まだ会ったことのない本物の家族が住んでいて、自分の帰りを待ってくれているんじゃないかとね。もちろん、そんなことがあるはずはないと、心のどこかでは分かっていたが」
そこで言葉を置くと、少年は泣き出しそうな顔でうつむき、「ひとりぼっちはかなしい」と呟いた。
俺は慌ててこう加えた。
「君の言う通り、ひとりぼっちであるというのは、とても悲しいことだ。しかし、たとえ家族がいなくとも、仲間や友人を作り、“自分の居場所”を見つけることはできる。正直に心を開き、一つひとつの出会いを大切にしていけば、それは決して不可能なことではないんだ」
少年に言い聞かせながら、俺は願わずにはいられなかった。
彼が良き出会いに恵まれますように。その身に幸多からんことを、と。
そして、力を込めて言葉を継いだ。
「『ひとりぼっちは悲しい』。今さっき、君は自分の感情を素直に表現したが、これはとても大事なことのように思える。感情を閉じ込めてばかりいると、そのうち自分が何を感じているのかさえ分からなくなり、やがては道を見失ってしまう。これまでの俺がそうだった」
そう話す傍ら、イクシアーナや“料理人”をはじめとした、かつて脱走の手助けをした仲間たちのことが、不意に思い返された。
(――俺は過去を悔いるあまり、己を見失い、偽りの仮面に頼って生きざるを得なかった。しかし、義勇軍を去って行ったあいつらは、己を正直に表現することを恐れなかった。自らの夢や志に向かって、真っ直ぐに突き進んでゆける勇気を持ち合わせていた)
それゆえ、俺は彼らが“本物の強さ”を内に秘めていると感じたし、事実、強い憧れを抱きもしたのである。
だが、俺が誰よりも憧れたのは、ほかでもない“にんじん”だった。
(――おい、“にんじん”。いつだったか、お前はこう教えてくれたよな。『俺が兄貴みたいに強くなれたら、みんなを勇気づけることができる。だから、俺は強くなりたいんだ』と。そしてお前は、自らの願いを現実に叶え、俺たちの希望となった。かつての俺にとって、強さは生き抜くための方便に過ぎなかったが、お前にとっての強さは全く別の意味を持っていた。
……そう、お前にとっての強さは、自らの夢を実現させるための一過程にほかならなかった。お前は剣の腕に秀でることそのものを求めたのではなく、自らの願った未来を何よりも求めた。だから、お前は誰よりも強かった)
“にんじん”はあのような時世においても、自らの生きる理由を自ら定め、しっかりと前を向いて生きていた――改めてその事実を痛感しながら、俺はふと思った。
俺もまた、“にんじん”のように、未来を見つめて生きてみたい、と。
俺が遠ざけたかった過去は、もはや俺を縛ってはいないのだから、きっとそれができる――。
「――人の心には、“こうありたい”という夢や希望が必ず眠っているものだ。それは大きなものかもしれないし、とてもささやかなものかもしれない。あるいは、言葉では簡単に表現できないものかもしれない。でも、それは必ず眠っている。俺の心にも、君の心にもだ」
我知らず、俺は少年に向かって再び話を始めていた。
「“本物の強さ”。それは“こうありたい”という夢や希望に向かって、一歩一歩進んでゆくその過程に宿るのではないかと思う。ときにケンゴー少年、君には何か願いはあるか?」
思うがまま尋ねると、少年は困ったように顔を伏せた。
そして、ずいぶんと経ってから、おもむろに口を開いた。
「……えをかいてみたい。まっしろなかみに、えのぐをつかって。ずっとあこがれていた」
「――ならば、描いてみると良い」
そう告げると、少年は顔を上げ、青く澄んだ瞳を真っ直ぐこちらへ向けた。
「お互いこうして巡り会えたのも、きっと何かの縁だ。おまけに、同じ名前の持ち主でもある。紙や画材は、俺がプレゼントしよう。今から町へ出て、一緒に探してみるというのはどうだ?」
そんな言葉が、口を衝いて出ていた。
束の間、少年は目を輝かせたが、再び顔を伏せた。
「……でも、ぼくはえをかいたことがない。きっとへたくそ」
「――上手いか下手かは重要ではない。君がそれを望んでいるということが、何よりも大切なのだ」
俺は心を込めてそう言った。
すると少年は、おずおずと俺の顔を覗き込んだ。
「――いっしょにかこうよ。ひとりではこわい」
「分かった。君が望むならばそうしよう」
俺は少年に向かって微笑みかけ、それからこう続けた。
「前もって伝えておくが、俺も君と同じなんだ。今日に至るまで、ただの一度も絵を描いたことはない。きっと、ひどい絵になってしまうだろう」
少年が小さく笑い声を上げ、俺もつられて笑った。
(――生まれてこの方、こんな風に笑えたことがあっただろうか?)
俺は不意にそう思った。そのときだった。
「――襲撃だッ!! 大聖堂が襲撃されたーーーッ!!」
憔悴に満ちた男の叫び声が、窓の外から聞こえてきた。
椅子から立ち上がり、急いで視線を移すと、大聖堂の正門から続く大通りに、我先にと逃げ惑う人々の姿が見えた。
(――満を持して、“英雄殺し”が自ら打って出たのかもしれぬ。昨日の襲撃が失敗に終わった以上、その可能性は十二分にあり得る)
俺は固く拳を握り締め、少年のほうに向き直った。
「本当に済まない、ケンゴー少年。買い出しは、また次の機会にさせてもらいたい。今から俺は、大聖堂へ戦いに向かわねばならぬ」
悲しげにうつむいた少年を目にして、俺は強い心痛を覚えたが、ほかに取るべき選択肢は存在しなかった。
(――“英雄殺し”との対峙は、俺にとっての必然なのだ。そして何より、 俺は“聖女の剣”として、イクシアーナを守ると誓った)
試練の時が、遂に訪れたことを予感しつつ、俺は壁に立てかけていた大剣と木剣をそれぞれ手に取り、後者を少年に託した。
「――俺はこいつで自分の運命を切り拓いてきた。お守り代わりに持っていてくれ」
そう告げると、少年は黙ってうなずき、両手でぎゅっと木剣を握り締めた。
次いで、ベッドの上に置いていた贈り物の仮面を手に取ったが、思い直して元の位置に戻した。
(――“英雄殺し”と向かい合うとき、俺は素顔を隠していてはならぬのだ。そうでなくては、真の生まれ変わりは果たされぬ)
俺には、ただただそれが分かった。
自ら素顔を晒すなど、馬鹿げた行為としか思えなかったが、それでもなお、俺は己の直感を信ずると決めた。
「――では、行って参るッ!!」
大剣を肩に担ぎ、急いで部屋を飛び出すと、そこには“マダム”が両手を広げて立っていた。
「……行かせないよ」
真っ直ぐに俺の目を睨みながら、老婆はそう言った。
「あんた一人ごときが、戦いに行って何になる? 相手はあの“英雄殺し”かもしれないんだ。よほど腕に覚えがあるみたいだが、悪いことは言わない、あの子の傍にいてやりな」
「……盗み聞きしていたのか? 全く、無作法な婆さんだ」
言いながら、俺は老婆に近づき、その肩に手をかけた。
「あの子のことを頼む。俺は行かねばならぬのだ」
「……年寄りの言うことにゃ、逆らわないのが賢明だよ」
老婆はぼそりと呟き、それから大きく声を張り上げた。
「――おい、ガキんちょッ!! あんただって、こいつに行って欲しくないんだろう? 正直に言ってご覧ッ!!」
一拍の間を置いたのち、背後から響いてきたのは、ケンゴー少年の大音声だった。
「――ぼくはへいき。ケンゴーはつよい。ケンゴーはまけないッ!! わるいやつをやっつけて、かならずかえってきてッ!!」
俺は振り返り、少年に向かってしっかりとうなずいてみせた。
「――そうとも、俺は強い。絶対に負けはせぬッ!!」
少年もまた、真っ直ぐに俺の目を見て、しっかりとうなずいてみせた。
直後、老婆は力なく両手を下げ、くるりと背を向けた。
次いで、彼女は嫌味たっぷりにこう言った。
「……帰って来なかったら、承知しないよ」
俺は老婆の肩をぽんと叩き、急いで階下まで駆け下りた。
そして、ロビーを通りしな、「行って参る」とミス・ミーゴに一声かけ、宿を飛び出した。
そのまま全速力で駆けに駆け、すぐさま大通りに出ると、逃げ惑う人の波に混じって、足踏みしている一頭の馬を視界に捉えた。
飼い主の姿は辺りに見えず、許せ、と心の中で呟くや、俺は馬の背にとび乗った。
レジアナス、イクシアーナ、“聖女の盾”の面々、リアーヴェル、ディダレイ、総主教、枢機卿、そして、昨日共闘した三十余名の聖騎士たち――大聖堂で過ごした日々で関わり合った者たちの顔が、ことごとく脳裏に浮かんでいた。
(――皆、どうか無事でいてくれ)
俺は存分に馬の腹を蹴り、大聖堂を目指して走り出した――。




