42.聖者の盾
俺はイクシアーナから借り受けたハンカチで涙を拭った。
それから、しばしの間を置いたのち、再び話を続けた。
「――真実の生まれ変わりを果たすには、“英雄殺し”との対峙は避けて通れぬ道だ。言うなれば、奴は俺自身の影のごとき存在なのだ。……いや、俺自身の“過去の亡霊”と呼んだほうが正しいのかもしれぬ」
「……過去の亡霊?」
レジアナスが重々しい口ぶりで尋ね、俺はしっかりとうなずいてみせた。
「世の人々は当然のごとく、“英雄殺し”の正体を俺だと見なした。とりわけ、義勇軍時代の同朋ならば、過去の俺と奴の凶行とを結びつけずにはいられなかっただろう。人を殺めながら笑う“イーシャル”という男ならば、密告者への復讐を企てても何ら不思議はない、と。
さらに言えば、俺は異端魔術審問官の訪問を受けた際、一度は密告者への復讐という選択肢を選びかけもした。……そう、“英雄殺し”はほかでもない、この俺自身に内在していた可能性の一つでもあったのだ」
そう告白する傍ら、かつてトガリアで領主として暮らした短くも穏やかな日々――俺は領民と共に畑で汗を流し、食事をし、語らい合った――が、自然と思い返された。
一方、レジアナスは薄らと口を開けたまま、瞳の中に微かな驚きの色を浮かべていた。
「トガリアで積み重ねてゆく時間、そして領民たちと築いてゆく関係の中に、当時の俺は一縷の希望を見出すようになっていた。“にんじん”たちと築いた関係とは、また違ったかたちではあったが、そこには確かな手応えのようなものがあった。
あるいは俺は、再び人と真っ当に関わり、生き直すことができるのやもしれぬ――真実そう思っていたが、審問官と護衛の兵に踏み込まれ、“光の玉”を目の前に差し出されたとき、全ては幻想に過ぎなかったのだと悟った。
彼らを地獄送りにする以外、もはや生き延びる術は残されていない――俺は再び修羅道に足を踏み入れることを覚悟し、腰に下げた剣に手を伸ばした。同時に、イクシアーナ、リアーヴェル、ファラルモの顔が次々に浮かび、密告者はこの中にいるはずだ、と俺は考えた。そして独りでに、心の中で呪詛の言葉を吐いていた。
『忌々しい密告者め。この俺からかけがえのないものを奪い、血塗られた運命に引きずり込もうとするなど、貴様はまるで、ゼルマンドと瓜二つではないか』とな。このとき俺は、かつて殺戮の機械だったころのように、抗い難く口角が上がってくるのを感じた」
「……でも、“イーシャル”が審問官に抵抗したという話は、今まで一度も聞いたことがない。実際には、剣を抜くなんてことはしなかったはずだ」
言葉を選ぶようにしてレジアナスが言った。
幸いにも、と俺は返した。
「剣の柄を掴んだ瞬間、義勇軍時代の仲間とトガリアの領民の顔が、唐突に脳裏を過ぎったのだ。そのお陰で、俺は冷静さを取り戻すことができた。そして、込み上げてくる絶望と共に、“光の玉”を受け取った。
……今になって、改めて思う。あのとき俺は、間違いなく分水嶺に立っていたのだ、と。仮にあのまま審問官たちを皆殺しにしていれば、己のうちの禍々しさは再び蘇り、完全に人の世の埒外に飛び出していたに違いない。その果てに、この俺自身が“英雄殺し”に手を染めていた可能性は、あり得たと言っていい。事実、かつての俺は、ゼルマンドへの復讐にのみ生きる目的を見出した。同じ轍を踏む危険性は、決してゼロではなかったはずだ」
我知らず、俺はハンカチを強く握り締めていた。
「なればこそ、“英雄殺し”との対峙は、俺にとっての必然なのだ。奴の存在は、俺が目を背けてきた俺自身の一部と言っても過言ではない。自らの“過去の亡霊”、あるいは仮説的なもう一人の自分が、独り歩きして悪行を重ねている――奴の漂わせる血生臭さが、否応なく俺にそう思わせるのだ。奴を止めない限り、己の生まれ変わりも決して果たされぬと、確かに直観が告げている」
「――おそらくあんたの直観は、“神託”とも重なり合っているのだろう。事実、『“神託”は必然である』と歴代の聖女たちは語り継いできた。『救国の雄となれ』という“神託”の文言は即ち、『“英雄殺し”を討て』という意味だと捉えても不自然はない」
そう言って、レジアナスは深々と首肯した。
同時に俺は、心の中で“神託”を反芻していた。
『神の寵愛と憎悪を一身に背負いし者、聖剣に心の臓を差し出し、救国の雄となれ』
この言葉の真意は、未だ正確なところは分からぬにせよ、俺は俺なりの見解を述べた。
「“神託”が何を告げていようと、俺のやるべきことは一つしかない。“英雄殺し”の凶行を止める――ただそれだけだ」
「……あんたの考えは、十二分に理解できたと思う。というわけで、ここいらで一つ、具体的な提案をしたい」
レジアナスは意を決したようにそう言って、まじまじと俺の顔を見た。
「現実的な観点から言えば、枢機卿の決定を覆し、あんたを警護に復帰させることができるのは、総主教様ただ一人だけだ。だから、あんたと面会して欲しいと、明日の朝一番に総主教様に頼んでみようと思う」
「……その席で、俺自身の口から秘密の告白を行い、総主教様に助力を仰ぐ。つまりは、そういうことか?」
尋ねると、その通りだ、とレジアナスは答えた。
「分かっちゃいると思うが、ケンゴーが抱えてきた秘密は、決してほかの人間が扱ってはならない類のものだ。その重さゆえにな。とにかく、あんたの口から直接事情を伝えれば、総主教様は必ず力を貸して下さるはずだ。俺にはその確証がある」
「……確証がある?」
にわかに驚きながら繰り返すと、レジアナスは力強くうなずいてみせた。それからこう続けた。
「『正しい行為が、常に正しい結果をもたらすとは限らない。その逆も真なり』。これが誰の遺した言葉か、あんたは知っているか?」
俺は首を振った。実に興味深い言葉だが、過去に耳にしたことはない。
「この言葉は、大聖堂の名の由来となった“聖人フラタル”が遺したものだ。彼の業績について、何か聞いたことはあるか?」
「……実は今日、偶然にも総主教様から、それを教えていただいたばかりだ。だが、お前の言う確証と“聖人フラタル”の言葉に、一体何の関係があるのだ?」
不思議に思って尋ねると、レジアナスは微かに頬を緩めた。
そして、おもむろに口を開いた。
「フラタルは蘇りの秘術を生み出し、この国を救おうと戦場を駆け巡った。しかし、誰もがその行動に賛同したわけじゃなかった。当時、“暗黒魔術”は法による禁呪指定こそ受けてこそいなかったが、今と変わらず忌み嫌われていたんだ。でも彼は、自らの信念を一切曲げず、先の言葉で批判を退けた。その結果、ジャーガンディアの軍勢を敗走させ、自らの正しさを世に証明した――ずっと昔に、俺は総主教様からこの話を教えてもらった。
……そして、総主教様は事あるごとにこう仰っていた。『我々は常に、フラタルが遺した言葉を重んじ、物事の真理を見極めねばならない』と」
「――それについては同感だ。一見すれば誤りのごとく映る行為でも、それが必ず誤った結果をもたらすとは限らない」
思案しながら口にすると、「まさしく」とレジアナスは言った。
「――この言葉の正しさを証明したのは、“聖人フラタル”だけじゃない。“剣聖イーシャル”、つまりはあんたもだ。たとえ禁忌を犯したにせよ、あんたもフタラルと同様、本当の意味で道を違えたりはしなかった。いかなる苦境にも屈せず、ゼルマンドを討ち果たしたという功績が、何よりも雄弁にその事実を物語っている。
おまけに今は、自らの意志によって“英雄殺し”に立ち向かおうとしているんだ。そんなあんたが貫いてきた本質的な正しさを、総主教様は決して履き違えたりはしない。かつて俺の犯した罪に対して、一面的な判断を下さなかったのも、先の言葉を重んじていればこそだ。だから俺は、必ずや総主教様の助力を得られると確信している」
「――相分かった。お前の言う通り、総主教様にお力添えを願おう」
俺は躊躇うことなくそう言った。
一人で問題を抱え込むことはもうしまいと、既に心に決めていたのである。
「――今の俺にできるのは、このまま前に進み続けることだけだ。ゆえにレジアナスよ、面倒をかけてしまうが、どうか力を貸してもらいたい」
俺はそう言って、レジアナスに深く頭を下げた。
「……おいおい、仰々しい真似は止してくれよ。俺たちの間では、力を貸し合うのが一番自然なんだって、さっき話したばかりじゃないか」
レジアナスにそう言われ、咄嗟に顔を上げると、彼は屈託のない笑みを浮かべていた。
「とにかく、これで今後の方針は決まりだ。必ず総主教様との面会を取りつけてみせるから、その点は安心して任せてもらいたい。ただ、唯一の懸念点は、総主教様のお身体の具合だ。命に別状はないと言っても、一定期間の安静は必要だろう。場合によっては、面会の実現は少しばかり先になるかもしれない」
「――無論、それは承知の上だ。総主教様にご無理を強いるようなことは、こちらとしても望んでいない。十分に体調を回復されるまで、面会は避けるべきだろう」
そう伝えると、レジアナスはしっかりとうなずき、「ほかに何か気がかりなことは?」と尋ねてきた。
「……そうだな、気がかりと言えばイクシアーナのことだ。後日、査問会が開かれるとキトリッシュ枢機卿は話していたが、彼女の置かれた立場を考えれば、そこでの振る舞いは間違いなく困難なものになるはずだ。どうにか力になってやりたいが、今の俺の状況では、それも叶わぬ」
そう打ち明けると、「イクシアーナ様の件については、一体どうしたらいいものか、俺も見当がつかない」とレジアナスはため息交じりに言った。
「……ただ、それでも救いはある。過去、重大な案件を扱う査問会においては、総主教様が必ず査問官の一人として出席されてきた。となれば今回も、総主教様の回復を待たずしてイクシアーナ様を査問にかけることは、まずあり得ないと言っていい。
よって、ケンゴーと総主教様の面会は、必ず査問会の前に実現させる。その際、イクシアーナ様の失踪の真実について、あんたのほうから説明してもらいたんだ。どの道、総主教様なら、必ずイクシアーナ様の力になって下さるだろうが、詳しい事情を把握しておいてもらったほうがより安心だ。イクシアーナ様の失踪には、あんたが抱えてきた秘密が深く関わり合っている以上、このやり方が一番だと思う。その上で、俺は総主教様にお知恵を拝借して、善後策を講じるつもりだ。何もかも総主教様頼りで気が引けるが、今回ばかりはやむを得ない」
「――確かに、それが最も確実な方法に思える。イクシアーナの失踪については、あくまでも“聖女”の務めを果たそうとした結果なのだと、俺の口からしっかりと説明させてもらおう」
言い終えてから、俺はしばし考えた。
気がかりな点は、もう一つだけあった。
「二つ目は、“聖女の盾”の三人についてだ。今晩俺が取った行動は、まず間違いなく彼らを失望させただろう。事実、アゼルナには、『完全に護衛失格だ』と烙印を押されてしまった。それは全くの正論だったゆえ、俺としても反論の余地がなかった。
とは言え、このまま彼らとの関係に溝を生んでしまうのは、俺の望むところではない。今の段階では、詳しい事情は説明できぬにせよ、せめて一言、謝罪を述べておきたかったのだが……」
「――あいつらのことなら、心配は要らないさ」
レジアナスが事もなげに言ったので、俺は首を捻らざるを得なかった。
「……今一つ分からぬ。どうしてそんな風に言えるのだ?」
「――あんたが考えている以上に、あの三人はあんたに信頼を置いている」
ややあって、レジアナスはそう答えた。
「……実を言うと、アゼルナは大聖堂にイクシアーナ様を連れ帰ったあと、自分から進んで枢機卿に虚偽の報告を行ったそうだ。イクシアーナ様は一人きりで川辺にいたとか何とか、そういう感じでさ。詳しいことは、俺もまだ聞いちゃいないが、おそらく、あんたの立場を悪くしまいと考えた末の行動だったんだろう」
俺は言葉を失っていた。
あれほど腹を立てていたアゼルナが、イクシアーナとの約束を守って俺を庇っていたなど、晴天の霹靂とも言うべき事態である。
言行不一致ここに極まれり、と俺は思った。
しかしながら、彼女には心して礼を述べねばならぬ――それを痛感すると同時に、俺はハッとして尋ねた。
「――では一体、アゼルナはどうなったのだ? 元より枢機卿は、全ての事情を把握していた。彼女の嘘が通ずるはずはない」
「……ああ、だからアゼルナも、イクシアーナ様と同様、暫定的な謹慎処分を言い渡された。いずれ、何らかの懲罰が下されるだろう」
レジアナスは小さく頭を振りながら答えた。
「と言っても、アゼルナは誰かを貶めるために嘘をついたわけじゃない。それは傍目にも明らかだ。情状酌量の余地はある。そして何より、イクシアーナ様の失踪そのものに関与したわけでもない。大方、そのまま幾日か謹慎を命じられる程度で済むだろう」
俺の胸中には、得も言われぬ感情が渦巻いていた。
何かを言うべきだと感じながらも、相応しい言葉を見つけることは叶わず、現実にはただただ黙り込むばかりだった。
「――それからもう一つ、伝えておきたいことがある。あいつらに黙ってこれを明かすのは少々気が引けるが、まあ、今となっては構わんだろう」
ほどなくして、見かねたようにレジアナスが再び話を始めた。
「実は今日の夕方、王城に出向く直前、廊下でばったりネーメスと行き会ったんだ。そのとき、俺はあいつにこう頼まれた。『今週末、予定を空けておいてもらえませんか?』ってな。聞けば、“聖女の盾”の三人は、あんたの歓迎会を内々で企画していたらしい。で、俺も出席するようにとお願いされたわけだ。
……とは言え、さすがに今の状況では、予定通り歓迎会を開くことは難しいと言わざるを得ない。だからせめて、あいつらがそうやって動いてたってことくらい、あんたは知っておいても良いんじゃないかと思ったんだ」
俺はなおも黙り込んだまま、レジアナスの話に注意深く耳を傾けていた。
「トモンドは別だが、アゼルナもネーメスも、元来歓迎会を企画するなんて柄じゃない。あんたと初対面したときの二人の態度を思い返せば、それは容易に想像がつくはずだ。アゼルナはイクシアーナ様以外の人間を見下してばかりいたし、ネーメスは誰彼構わずつっけんどんに振る舞うのが当たり前だった。
だが、そんな一癖も二癖もあるあの二人が、ほかの誰かのために――つまりはあんたのために――動いていたんだ。ささやかかもしれないが、決して小さくはない変化だ。あんたはいつも、あんたにしかできないようなやり方で周囲に影響を与えていく。きっとあいつらも、何か感じるところがあったに違いない。
……だから、俺は思うんだ。仮に今、あんたらの間で何らかの誤解が生じていたとしても、そのせいで決定的に関係がこじれちまうことはないってね。人と人との信頼関係ってのは、そういうもんさ。さっきあんたは、『このまま彼らとの関係に溝を生んでしまうのは、俺の望むところではない』と話していたが、それはあいつら三人だって同じ気持ちのはずだ」
俺はうなずき、それからレジアナスに向かってこう言った。
「……では、“聖女の盾”の三人に伝言を頼みたい。『迷惑をかけて済まなかった。必ず戻って来るから、そのときに直接謝罪をさせて欲しい』と」
再び彼らと顔を合わせたとき、あるいは俺は、自らの正体を明かす必要が出てくるのかもしれぬ――そう思ったが、不思議と恐れは抱かなかった。
正直に心を開くことが最良の結果をもたらすのだと、今回のレジアナスとのやりとりを通じて、俺は俺なりに学んだのである。
「――もちろんだとも」
レジアナスはそう答えるなり、真っ白な歯を剥き出しにして微笑んでみせた。次いで、彼は大きな伸びをしたのち、夜空にぽっかりと浮かんだ月を見やった。
「……しかし、結構な時間話し込んじまったな。ずいぶんと夜も更けたし、今日のところはお開きにしよう。あんたも間違いなく疲れているはずだし、そろそろ休んだほうがいい」
それが良さそうだ、と応じると、「近くに手ごろな宿があるから、今晩はそこに泊まったらどうだ?」とレジアナスが提案した。
「……ただし、お世辞にも立派とは言えないし、さして芳しい噂も聞かない宿だ。かと言って、ほかに適当な候補も見当たらなくてな」
何でもその宿は、聖ギビニア騎士団の警備巡回ルート上にあり、現状では最も安全な宿泊場所とのことだったので、俺は彼に道案内を頼むことにした。
* * *
その後、大聖堂の正門に面した街道に沿って十分ほど歩き、それから小路に入ると、二階建ての古びた家屋の前に出た。
外壁の腕木に灯された松明によって、薄らと浮かび上がったその建物は、幽霊屋敷と評しても過言ではない代物だった。
日当たりが悪いのか、石造りの壁はところどころが苔むし、庭一面には隙間なく雑草が生い茂っている。
大きな看板も出ておらず、一見して宿かどうかさえ判然としなかったが、レジアナスは「ここだ」と呟きながら真っ直ぐ玄関に向かった。
「――今晩は俺もここに泊まる。今のあんたには、護衛役が必要だ」
ドアの前で立ち止まったレジアナスが、突然そう言い出したので、俺は自分の耳を疑った。
「あんたは“ゼルマンドを討ちし英雄”の一人なんだ。“英雄殺し”の目的がその名の通りなら、あんたも標的の一人ってことになる。言うに及ばずだが、“英雄殺し”は常識の通用する相手じゃない。既に“傷跡の聖者”の正体に勘づいている可能性だって、決して否定はできないはずだ。だから今晩は、俺が“聖女の盾”ならぬ“聖者の盾”を務めようってわけさ。今のこの状況じゃ、俺以外にこの役目を果たせる奴はいない」
「……申し出は有り難いが、そんなことを言い始めたらキリがない。俺の場合、四六時中誰かに警護してもらうわけにもいかぬのだ。自分の身くらい、どうにか自分で守ってみせるとも」
咄嗟にそう返したが、レジアナスは承服しかねると言わんばかりに、眉根を寄せて小首を傾げていた。俺は話を続けた。
「だいいち、お前だって疲れているはずだ。今日は丸一日、出張やら会議やらが続いていたのだろう? 加うるに、明朝には教会墓地の掘り起こしまで始まるのだ。一刻も早く大聖堂に戻り、しっかりと身体を休めるのが筋と言えよう」
「……あんたの言うことはもっともだが、冷静になって考えてみろ」
言いながら、レジアナスは神妙な面持ちで腕組みをした。
「あんたの置かれている立場は、イクシアーナ様やリアーヴェル様と全く同じと言っていい。今の状況で、その二人を護衛もなしに外泊させるなんてことは、絶対に考えられないだろう? その上、あんたは“神託”に選ばれた“救国の雄”でもあるんだ。このまま放っておくなんてことは、俺にはできない」
言うが早いか、レジアナスは俺の制止を聞き入れず、勢い良くドアを開いて宿の中に足を踏み入れた。
慌てて彼のあとに続くと、ひどくうらぶれたロビーに出た――と同時に、俺は思わず顔をしかめた。
足元の絨毯を踏みしめた途端、埃が霧状に舞い上がり、饐えた臭いが鼻孔をくすぐったのである。
次いで周囲を見渡すと、俺はますます気が滅入った。
ドアの横に並んだ鉢植えの観葉植物は、しなびて茶色く変色しており、天井のそこかしこには大小の蜘蛛の巣まで張っていた。
おまけに、カウンターの向こうに立った受付係の中年女――小さな丸眼鏡をかけた、小太りで温厚そうな女だ――は、今の今まで居眠りでもしていたのだろう、まぶたはいかにも重そうで、唇の横には未だ乾かぬ涎の跡が光っていた。
俺は埃が立たぬよう、用心深く歩を進め、女とやり取りを始めていたレジアナスの背後に立った。
「……お前の申し出は有難いが、考え直せ。そもそも、今の厳戒態勢下で副団長が一晩不在というのは、好ましいこととは言えぬ」
俺は小声で釘を刺したが、「今はそれどころじゃない」と彼は一蹴した。
「……まずは、こちらにお名前をご記入ください」
受付係の女は覚束ない声でそう言って、古ぼけた台帳と羽根ペンをレジアナスに手渡した。
それから、彼女は不意に思い立ったように俺を一瞥したのち、どこか気まずそうに視線を逸らした。
これほど顔中が傷だらけの男は、未だかつてお目にかかったことがなかったのだろう、と俺は思った。
やむを得ず、レジアナスに次いで記帳を済ませると、「お部屋のご希望はございますか?」と女が尋ねた。
「……そうだな、俺は辺り一帯を眺望できる部屋を頼む。それと、後ろの連れ合いには、一番上等な部屋を用意してやってくれ」
レジアナスの要求に対し、女はしばし悩む素振りを見せたあと、「一番上等と言いましても、ほかの部屋より少々広いだけですが」と申し訳なさそうに前置きした上で、それぞれの部屋番号を告げた。どちらも二階の部屋だった。
次いで、俺たちは宿代の先払いを求められ、それに応じた。
「――では、ごゆっくりなさいませ」
女が深々と頭を下げるなり、レジアナスは二階へ続く階段に向かって足早に歩き出した。
俺は急いで彼のあとを追い、その小さな肩を掴んで振り向かせた。
「どうした? そんなしかめっ面して」
じっとこちらを見つめながら、不思議そうにレジアナスが言った。
「……自分だけなら構わぬが、お前の身にまで何かあったらと想像すると、俺は恐ろしくて仕方がないのだ」
俺は正直に打ち明ける傍ら、“にんじん”たちを目の前で失った“あの日”について、否応なく思い返していた。
(――同じような惨劇が、また繰り返されるのではないか?)
どれだけ頭の外に追いやろうと試みても、不吉な予感を払拭し切ることができなかった。
数年越しに、“にんじん”の名を口にしてからというもの、自らの感情の制御が困難になっていることを、俺は密かに、しかしハッキリと感じ取っていた。
「――あんたもおかしな奴だ。俺のことより、自分のことを心配しろよ」
そう言ってレジアナスは笑ったが、すぐに真剣な顔つきになってこう続けた。
「……ぶちまけた話、俺だって“英雄殺し”は恐ろしいさ。だが、奴の存在以上に俺が恐れているのは、後悔することなんだ。『あのとき、ああしておけば良かった』なんて、あとから臍を噛むようなマネだけはしたくない。
俺はあんたの力になると覚悟を決めた以上、できる限りのことをしておきたいんだ。というか、それをやらなきゃ、自分が自分でなくなっちまう気がしてね。まあ、理由はどうあれ、俺が自分勝手にお節介を焼いてるだけなんだ。気にすることはない」
そういうわけにもいかぬ、と俺は返したが、レジアナスは何も聞こえなかった風を装い、そのまま話を続けた。
「実を言うと、俺はリアーヴェル様から、“転移の門”と“暗黒魔術”を封じる結界術を教えてもらっていたんだ。幸いにも、この宿はそれほど広くはないし、俺一人の力でもどうにか結界を維持することはできる。もちろん、それで万事安心とまではいかないが、たとえ“英雄殺し”が襲って来ようと、好き勝手はできないはずだ。
……というわけで、あんたはとっとと部屋に行って、ぐっすりと眠ることだ。軽傷とは言え、怪我人であることに変わりはないし、戦いの疲れも癒してもらわなくちゃならない。とは言え、何か異変を感じたら、遠慮なく叩き起こすつもりでいるから、それだけは覚悟しておいてくれ。分かったな?」
畳み掛けるようにそう言うと、レジアナスはキッとこちらを睨みつけた。
彼の大きな瞳に、有無を言わせぬ覚悟の輝きが宿っているのを、俺は確かに見て取った。
「――相分かった。恩に着るぞ、レジアナス」
俺もまた、覚悟を決めてそう伝えると、レジアナスは柔和な笑みを浮かべた。
それから、俺たちはどちらからともなくうなずき合い、それぞれの部屋に向かった――。
* * *
その後、俺は早々に寝支度を済ませてベッドに入った。
言わずもがな、肉体は疲労困憊し、これ以上ないというほど強く眠りを求めていたが、いくばくか神経が高ぶっていたせいだろうか、冷ややかな覚醒が俺の意識を捉えていた。
(――自らの運命にレジアナスを巻き込んだことは、本当に正しかったのだろうか?)
先刻根を下ろした不吉な予感に、一層はっきりとした輪郭が与えられてゆくのを、俺は成す術もなく感じるばかりだった。
(……レジアナスだけではない。総主教、イクシアーナ、“聖女の盾”の面々――俺は様々な人間の運命を、薄暗い影の中に引きずり込もうとしているのかもしれぬ)
濃密な暗闇の中で、俺はわけもなく、自らの両手のひらをじっと眺め続けた。
窓の外からは時折、名も知らぬ夜鳥の声がひっそりと響いてきた――。