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41.にんじん

 レジアナスは、俺の告白を前にしてもなお、顔色一つ変えなかった。

 澄み渡った瞳をこちらに向けたまま、ただ黙って深くうなずいてみせたのである。

 全てをあるがままに受け入れようとする、穏やかな静寂それのみを、彼の全身から感じ取ることができた。


(――語られざる真実が、いかにして語られるべきか、レジアナスは身をもって理解しているのだ)


 幼いながらに盗賊稼業を余儀なくされたレジアナスは、総主教に諭され、泣きながら己の罪を打ち明けた――以前、彼がそのように聞かせてくれたことが、自然と思い返された。

 察するに、そうした過去も相まって、彼は理想的な聞き手としての姿勢を示してくれているのだろう。

 そして、レジアナスに罪の自白を勧めた際の総主教も、同様の姿勢を示したであろうことは、想像に難くなかった。


(――かつてレジアナスを“贖罪の旅”に導く役目は、総主教が担った。奇しくも、今度はそのレジアナスが、俺の最も重要な一歩を踏み出すきっかけを与えてくれた)


 俺は深い感謝の念を覚えつつ、抱えてきた秘密の全貌を語り出した――。



 *   *   *



 自らの生い立ちと、“暗黒魔術”に手を染めながらも、それを捨てずに生きてきた理由。やむにやまれず、“血の剣”を用いて公然とゼルマンドを討ち、密告に遭ったという事実。しかし、ゼルマンド教団の残党によって火刑から救い出され、辛くも生き延びた。その後、“傷跡の聖者”ケンゴーと正体を偽り、レジアナスとの出会いを経て、このフラタル大聖堂にやって来た。そして昨晩、イクシアーナに“神託”が下った。彼女は俺の正体を暴いた上で、「救国の雄となれ」と告げた――これらの経緯を、俺は包み隠さずレジアナスに語って聞かせた。

 しかし、“聖女の罪”を示唆した第一の“神託”と、それがもたらした救出劇の真相については触れなかった。

 嘘をつかぬ配慮をしつつも、巧妙に事実をつなぎ合わせて語ることで、“聖女の罪”の存在そのものを伏せたのである。


(――レジアナスに対し、俺はどこまでも正直に心を割っている。そしてまた、彼が他者の秘密を軽々しく扱う男でないことも、重々承知している。しかし、それでもなお、俺を救うためにイクシアーナが犯した罪を、本人の許可なく口外することは、どうしても正しいとは思えぬのだ。それを明かすか明かさぬかは、あくまでも彼女の手に委ねるべきであろう)


 自らの運命の歯車が、“密告”によって大きく狂わされた過去を持つ俺にとって――今となっては、それさえ必然だったと感じているにせよだ――他者の秘密は、何よりも丁重に扱わねばならぬものだった。

 少なくとも、俺がイクシアーナの立場に立っていたら、間違いなくそれを望んだはずである。

 ゆえに、俺がどれほどレジアナスに信頼を置いているにせよ、それは別問題として考え、“聖女の罪”についての一切を語らぬことを選んだのだった――。



 *   *   *



「――ケンゴーの告白は、間違いなく勇気の要るものだったはずだ。そのことに対する感謝を、まずは伝えておきたい」


 全てを語り終えると、レジアナスは開口一番にそう言った――が、一体どういうわけだろう、月明かりに照らし出された彼の顔は、ゾッとするほど青白く様変わりしていた。


「……そして、本当にすまなかった。思い返せば、俺は取り返しのつかないことを、あんたに言っちまった」


 レジアナスは、震える声で言葉を継いだ。

 俺は何とも言えぬ胸騒ぎを覚えつつ、彼の話に耳を傾けた。


「先だって、警護の依頼をする際、『“イーシャル”を殺せる自信はあるか』と俺は口にした。こともあろうに、張本人のあんたに向かってだ。言うに及ばず、“イーシャル”が“英雄殺し”だなんてことは、天地がひっくり返ってもあり得ない。それなのに、俺は浅はかにも、人々の噂を真に受けた」


 言い終えるなり、レジアナスはひどく苦しげに息をついた。

 それから、恐る恐るといった風に俺の瞳を覗きながら、こう続けた。


「……謝るべきことは、それだけじゃない。正直に打ち明けるが、“イーシャル”が処刑されると耳にしたとき、俺は何の疑問も抱かなかった。それがどれほど救い難く愚かしいことだったのか、今になってよく分かる。


 あんたほどの男を火炙りにするだなんて、許されていいはずがない。現実にそれを許したこの世の中は、完全にいかれてる。そして俺も、進んで認めたくはないが、()()()()()()()()()()()()


 言いながら、レジアナスは唇を噛み締め、ぐっと拳を握り締めた。


「――俺は正真正銘の大馬鹿者だ。どんな風にあんたに謝ったらいいのか、皆目見当もつかない」


 虚ろげに顔を伏せたレジアナスに、気に病む必要は一切ない、と俺は声をかけた。


「俺が法を犯してまで力を追い求めたのは、厳然たる事実だ。王都の中央広場で十字架にかけられようと、“英雄殺し”の嫌疑をかけられようと、結局のところは、己の過ちが招いた結果でしかない。お前の気持ちは有り難いが、謝罪は元より不要だ」


「――それは違うッ!!」


 咄嗟に顔を上げながら、レジアナスが声を張った。


「ケンゴーの背負った過去を聞いて、俺にはよく分かったんだ。あんたにとっての“暗黒魔術”は、かつて俺が働いた盗みと同じなんだと。あんたも俺も、普通じゃない状況で生きることを余儀なくされた。だから、普通じゃない方法に頼らざるを得なかった。


 ……決して褒められたことじゃないが、仕方のないことだったんだ。世の理不尽が強いた結果でもあった。それなのに、あんた一人が責任を押し付けられるだなんて、俺は納得がいかないッ!!」


「――お前がそんな風に言ってくれて、俺は本当に嬉しく感じている。だが、少なくとも俺自身は納得しているんだ。責任はやはり、俺一人にしかないのだと」


 そう返す傍ら、俺の脳裏に浮かんでいたのは、()えた匂いの立ち込める、娼館の屋根裏部屋だった。

 例の魔術教本(・・・・・・)と出会って以降、俺は娼婦たちに言いつけられた一日の仕事を終えると、真っ先にそこに向かうようになった。

 そして、自らの肘の皮――最も痛覚が鈍い体の部位だ――を用心深くナイフで傷つけ、滴らせた血液を芋虫のごとく床に這わせては、無邪気に喜んだものだった。

 より円滑に、より自由に血液を操れるようになるたび、俺は自らの人生が開けてゆくように錯覚した。

 ()()()()()()()()()が、間違いの第一歩だった――否応なくそれを痛感しながら、俺は話を続けた。


「人生のどこかの段階で、俺は“暗黒魔術”を捨てることもできた。しかし現実には、今に至るまで、とうとう(たもと)を分かつことができなかった。“屍兵”に荒廃させられたこの国において、誰もが“暗黒魔術”を憎んでいると知りながらだ」


「――だとしても、あんたは正しかった。俺はそう信じている。あんた自身を含め、誰が何と言おうとだ」


 こちらに詰め寄りながら、レジアナスが力強い口調で言った。


「何度人生に蹴りつけられようと、“暗黒魔術”に手を染めようと、あんたは決して正しい心根を見失わなかった。さらには、世を恨んでもおかしくない環境で育ったのに、世のために戦い続けることを選んだ。それほどまでに、傷だらけになりながらだ。その果てに、あのゼルマンドを討ち取り、人々の願っていた世界を取り戻した。


“夜の暗さを知る人間のほうが、より明るく地上を照らし出せる”――これは以前、総主教様が俺に贈ってくれた言葉だが、あんたは世界中の誰よりも、この言葉に相応しい。目を背けたくなるような過去に屈せず、これほど強く優しくなった男を、俺はほかに誰一人として知らない。


 ……紛れもなく、本物の英雄だよ、“イーシャル”って男は。そして、“イーシャル”はほかでもない、俺の目の前にいるあんただ。“ケンゴー”なんだ」


 俺は“イーシャル”であり、“ケンゴー”でもある――百も承知の事実だが、レジアナスの口から改めてそれを告げられると、なぜだか狼狽させられた。

 同時に、長らくあやふやだった自分という存在の輪郭が、鮮明に浮かび上がってくるような不可思議な感慨が、全身を満たした。


「――改めて俺は思ったんだが、ケンゴーは二つ名の通りの男だ。一点の曇りもない、“傷跡の聖者”ってわけさ。誰が名付け親かは知らないが、まさしく言い得て妙だ。あんたは何一つとして間違ったことをしちゃいないし、何一つとして欠けたところはない。


 それなのに、人々はあんたを――自分たちの英雄を――寄ってたかってつるし上げ、命さえ奪おうとした。これを王国史上最大の過ち(・・・・・・・・・)と呼ばずして、何と呼べばいい? そもそも、あんたが負わされた罪ってのは、一体何だったんだ? 法を破っても、それ以上に大事なものを守ったんだから、許されるのが当然だっていうのにッ!!」


 激しい胸の疼きを覚えつつ、俺はようやく気がついたのだった。

 レジアナスは、俺が心のどこかで欲し続けてきた言葉を、はっきりと口に出してくれたのだ、と。

 しかし同時に、()()()()()()()()()()()()()()()()()という苦々しさも、じわじわと胸の奥底から込み上げてきた。


「俺には、あんたを裁こうとした人間や、それに賛同した民衆たちのほうが、よほど罪深く思えてならない。連中は皆、“暗黒魔術”を使ったという一面だけであんたを判断した。そこに致命的な誤りが含まれているんじゃないかなんて、これっぽっちも考えたりはしなかっただろう。


 ……そして、あのとき事態を傍観していた人間も、そいつらと同罪なんだ。この俺自身だって、そのうちの一人だった」


 言い終えるなり、ごめんよ、とレジアナスは呟いた。

 それから、両手で顔を覆い、声を殺して泣き出したのである。


「――レジアナス、お前に聞いてもらいたい話がある。現在の俺という人間をかたちづくった、ある過去の話だ」


 そんな言葉が、口を()いて出ていた。

 直後、鋭い刃に変貌した過去の記憶が、自らの心臓を深々と刺し貫いた。


「その過去は俺にとって、お前が経た“贖罪(しょくざい)の旅”のごとく、最も重要な意味を持つものだ。今まで誰にも明かしたことはないゆえ、上手く語れるかは自信がないが、お前だけには、どうしても知っておいて欲しい。構わぬか?」


 レジアナスはおもむろに顔を上げ、もちろんだ、と鼻をすすりながら答えた。

 彼の頬には、幾筋もの涙が、月明かりによって頼りなげに輝いていた。


(――正体を明かすのが変化の第一歩目であったなら、これを語るのが二歩目なのだ)


 それを直観しながら、俺は完全に封じていた記憶の扉を開いた。

 そして、しばし思案したのち、始まりに相応しい言葉を選んで言った。

 

「――かつて、お前と同じように、どこまでも俺を信じてくれた男がいた。“にんじん”というのが、そいつの名前だった」


「……“にんじん”?」


 手の甲でごしごしと涙を拭いつつ、レジアナスが不思議そうに繰り返した。

 塞がれていた心の傷口から、再び血が流れ出すのを感じながら、「“にんじん”は義勇軍時代の戦友だった」と俺は言った。


「正確なところは分からないが、年は俺より二つ三つ下といったところだった。赤毛で赤ら顔で、妙にひょろひょろとしていたから、“にんじん”と呼ばれていたんだ」


「……義勇兵同士が仇名で呼び合うってのは、聞いたことがある」


 思い出したようにレジアナスがそう言い、その通りだ、と俺は返した。


「訳あり連中の寄せ集めだった義勇軍には、自らの名や生い立ちを明かさぬ者が数多くいた。ゆえに、お互いを仇名で呼び合うのが、暗黙の了解となっていた」


「一つ気になったんだが、あんたにも仇名があったのか? 最初から“剣聖”だなんて大層な呼ばれ方をしていたわけじゃないだろう?」


 小さく首を傾げつつ、レジアナスが尋ねた。


「残念ながら、俺にはこれといった仇名はなかった。本名だけは明かしていたから、その通りに呼ばれていたのだ。ごく稀だが、中にはそのような人間もいる」


 そう答えると、レジアナスは感心したようにふうんと吐息を漏らした。


「しかし、少年兵の中には、俺を“兄貴”と呼ぶ者も少なからずいた。最初にそう呼び始めたのが“にんじん”だった。柄ではない、そんな風に呼ぶのは止せと言ったが、あいつは聞き入れなかった」


「要するに、あんたは少年兵たちの兄貴分だったわけだな?」


 そのような見方もできる、と俺は素直に認めた。


「あるときから、俺は“にんじん”に自分の持てる知識と経験の全て――剣術、戦場での立ち回り、武具の手入れの方法、軍内での処世術などだ――を伝え始めたのだが、それがきっかけで、ほかの少年兵たちからも同様のことを乞われるようになった。そしてだんだんと、世話役のような立場となっていった」


 俺はそこで言葉を置き、ひとしきり夜空を眺めた。

 その間、避けては通れぬ心痛を受け入れる覚悟をしっかりと固めた。

 それから、ゆっくりと深呼吸を繰り返したのち、再び口を開いた。


「……“にんじん”が新兵としてやって来たのは、俺が入隊してから二年ほど経ったあとのことだった。そのとき、俺は十五で、あいつは十二、三だったと記憶している。“にんじん”は、いつもぼんやり空ばかり眺めているような奴で、しょちゅうヘマをやらかしていた。そして案の定、あっという間に周囲から目をつけられ、食い物にされた。憂さ晴らしに殴られたり蹴られたり、食事を奪われたりしていたんだ。


 戦場で足手まといになることが多かった少年兵たちは、ただでさえ肩身の狭い思いをしていたが、“にんじん”に対する大人たちの扱いは、輪をかけてひどいものだった。しかし“にんじん”は、何をされてもにこにこと笑っているばかりだった。不自然なほどの笑顔を、常に仮面のごとくはりつけていた。おそらく“にんじん”も、他者に踏みにじられて育ってきたに違いない。かつての自分が、都合よく娼婦たちに利用されてきたように――否応なく、俺はそれを感じ取ることができた。


 ある日、食事の配給の列に並んだ際、俺は“にんじん”と鉢合わせた。あいつは例のごとくにこにこと笑いながら、『今日は飯が奪われなきゃいいなあ』と言った。ふと気づくと、『お前に剣を教えてやる。強くなれ』と俺は口走っていた。ずいぶんと長い間、“にんじん”は黙り込んでいたが、やがて恐る恐るうなずいた」


 おい、“にんじん”、知っていたか? あのときお前が黙っている間、俺は内心、不安でいっぱいだったのだ。何と言っても、あんなお節介じみたことを申し出たのは、正真正銘、お前が初めてだったのだから――心の中で、俺は独りでにそう呟いていた。


「――その日から、俺と“にんじん”は自由な時間のほぼ全てを、夢中になって鍛錬に費やした。“にんじん”は剣の才覚には恵まれなかったが、泣き言一つ口にせず喰らいついてきた。


 そんな姿を目の当たりにして、俺ははっきりと確信した。“にんじん”は俺と同じく、過酷な運命を耐え抜いてきた人間なのだろうと。そして、こいつが誰にも自分の過去を明かそうとしないのは、その重さ(・・)のせいなのだろうと。


“にんじん”はやけに根性が据わっていて、手合わせで何度こてんぱんに負かしても、挫けたり怯んだりすることは一切なかった。『そのうち、兄貴から必ず一本取ってみせますよ』というのがあいつの口癖だった。『それがでなきゃ、兄貴に申し訳が立たない』」


「……その先は想像がつく。きっと“にんじん”は、大層立派な兵士に成長したんだろう?」


 したり顔でレジアナスが尋ね、正解だ、と俺は答えた。


「“にんじん”は本当に強くなった。鍛錬を始めた一年後くらいから、少しずつ戦場で手柄を上げるようになった。さらに一年後には、宣言取り、俺から一本取ってみせた。十本手合わせすれば、必ず一本は俺を負かすほどに成長した。


 そのころには、あいつを馬鹿にする奴なんて、誰一人としていなくなっていた。もはや“にんじん”は、少年兵たちの間では、ちょっとした英雄的存在だった。俺はそれが誇らしかったし、自分のこと以上に嬉しかった。しかし、何よりも喜んだのは、あいつが本当に笑えるようになったことだった。相も変わらず、あいつは常ににこにこと笑っていたが、そこにはもう、以前のような不自然さは、少しも見受けられなくなっていた」


「――なるほど。だからあんたの元に、自分も第二の“にんじん”になりたいって奴が殺到したわけだ。“にんじん”みたいに強くなりたい、笑えるようになりたいって」


 深く感じ入るように言ったレジアナスに、「おそらく、そうだったのだろう」と俺は返した。


「いつしか少年兵たちは、“にんじん”に続けとばかりに、好んで腕を競い合うようになっていた。毎日皆で鍛錬して、定期的に勝ち抜き制の木剣試合なんてのも開催した。一対一のガチンコ勝負だ。誰が最後まで勝ち抜くか、夕飯を賭ける奴もいてな。大いに盛り上がったものだ」


「……でも、そんな賭け、本当に成立するのか? 大穴狙いのばくち打ちじゃなきゃ、全員あんたに賭けるはずだ」


 可笑しそうに尋ねてきたレジアナスに、俺は常に審判役だった、と教えてやった。


「……そう、あのころは妙に気恥ずかしく、素直にそれを認めることは難しかったが、かつての俺には、“仲間”と呼べる存在が確かにいたのだ。そもそも皆、幼いながらに義勇軍に入隊することを余儀なくされた連中だ。程度の差こそあれ、酷い目に遭ってきた者ばかりだったことは間違いない。ゆえに、互いに多くを語らずとも、人並み以上に分かり合えるところがあった。おそらく俺たちは、薄暗い過去に負わされた“傷”によって、深く結びついていたのではないかと思う。


 そして、その輪の中心には常に、“にんじん”がいた。決して笑顔を絶やさぬ、あいつの強い心持ちのようなものが、必要不可欠な留め具のごとき役割を果たし、俺たちを一枚岩にした」


「……あんた、良い仲間に囲まれていたんだな」


 レジアナスがぽつりと言った。

 兄貴、と親しげに俺を呼ぶ彼らの声が、心の奥の特別な場所で、ひっそりとこだましていた。


「まさしく、お前の言う通りだ。だが、はっきりとそれに気づくことができたのは、全てが手遅れになったあとのことだった。今から五年ほど前のある日、……とても、とても、ひどいことが起きた」


 俺はそこで言葉を置き、自らの想像力を暫定的に殺した。

 そうでもしなければ、これ以上話を続けることは絶対に不可能だと、俺は手に取るように分かっていた。


「――死んでしまったのだ。“にんじん”をはじめ、俺を“兄貴”と呼んでくれた者は、誰も彼も皆だ。一人残らずだ。彼らの死は、ゼルマンド軍の奇襲と、己の無力さによってもたらされたものだった。それ以上のことは、今の俺には、どうしても口にすることができぬ。


 ゼルマンドを必ず我が手で討つ――たった一人生き残った俺は、自らにそれを課した。課さないわけにはいかなかった。同時に、俺という人間の在り方も、根底から変わった。以前、俺が無抵抗のブエタナをなぶり殺しにしたのを、お前は目の前で見ただろう?」


 問いかけると、レジアナスは微かに強張った表情でうなずいた。


「――あれは紛れもなく、俺の本性の一つだ」


 そう告げると、レジアナスは何も言わず、深く考え込むように足元を見やった。

 俺はそのまま話を続けた。


「実際にゼルマンドを討ち取るまで、あのように殺気立った状態が、四六時中続くようになった。もはや俺は、純粋なる憎悪に駆り立てられた、一個の殺戮の機械のごとき存在でしかなかった。


 戦場では常に最前線に立ち、どこまでも敵を深追いするようになった。指揮官という立場も忘れてだ。戦の大局を見るだなんてことは、とうに眼中になかった。俺はただ、目の前の敵を一人でも多く殺すことにのみ執着した。配下の兵にも、全く同じことを命じた。殺せ、殺せ、目の前の敵を一人でも多く殺せ、と。加えて“暗黒魔術”にも、より躊躇(ちゅうちょ)せず頼るようになった。単独で敵中に特攻を仕掛けては、味方の目がないのをいいことに、“血操術”でやたらめったら殺しまくるようになった。


 いつしか俺は、人を殺しながら笑うようになった。宙に散る熱い血飛沫を目にするたび、断末魔の叫びを耳にするたび、あるいは、屍兵の首が地面に転がり落ちるたび、抗い難く口角が上がってくるのだ。それを防ぐことは、何をもってしても不可能だった。敵の死体が一つ増えるたび、俺はゼルマンドの命の一片を削り取ったかのごとく錯覚した。寝ても覚めても、俺は誰かを殺すことばかり考えた」


 言いながら、俺は頬の傷跡――“血操術”の源とするために(こしら)えた傷だ――に触れていた。

 己が人の埒外(らちがい)に飛び出した過去は、罪人の烙印のごとく、永遠の傷跡として我が身に刻まれたのだ、と俺は思った。

 

「どんな理由があれ、人は決してそんな風にはなっていけない――わずかばかり残った人間的な部分が、常にそれを訴えかけてきた。だが、引き下がることはもはや不可能だった。己の命が尽きるまで戦い続けるか、ゼルマンドを我が手で討つか――残された選択肢は、二つに一つだった。その中間はなかった。どちらに転ぶかは分からぬにせよ、終わりを迎えるその日まで、俺は殺し続ける機械でなくてはならなかった。決して癒えることのない絶望的な渇きが、俺にそれを強いた。


 ……ふと気がついたとき、進んで俺と口を利こうとする者など、周囲には誰一人としていなくなっていた。同朋たちが俺を恐れていることは、火を見るよりも明らかだった。しかし、それ以上に俺自身が俺を恐れた。たった一人で深淵を転げ落ちながら、俺はひたすらに終わりが来ることだけを願った」


 俺の声は、自分でもよく分かるほど、はっきりと震えを帯びていた。

 束の間、俺は沈黙し、強く唇を噛み締めた。


「――そして、俺はゼルマンドを討ち取った。遂に待ち望んだ終わりがやって来たのだ。しかし、暗い渇きが癒えることはなかった。なおも俺は、深淵に取り残されたままだった。復讐を果たしても、かつての仲間たちが蘇るわけではない――元より承知していたはずの事実が、一層重く心にのしかかってくるばかりだった。もはや俺には、何一つとして分からなくなっていた。自分は何者なのか? どうして戦ってきたのか? 何のために生き続けているのか?


 ……ただ、本当のことを言えば、一つだけ分かっていた。俺がこんな有様では、死んでしまったあいつらは、きっと悲しんでいるだろうと。しかし、その事実と向き合う勇気が、どうしても持てなかった。彼らがもう二度と、俺を“兄貴”と呼んでくれぬ現実を、受け入れることができなかった。その代わりに、俺は何もかも忘れてしまおうと考えた。記憶の蓋に、重い石を載せたのだ」


 言い終えるなり、頬を一筋の涙が伝った。

 彼らが死んでしまったあの日、どうしても泣くことが叶わなかったことを、俺は思い返していた。

 嗚呼、これはあの日に流されたはずの涙なのだ、と俺は思った。


「レジアナス、お前はこんな俺を信じると言ってくれた。そして、どこまでも真っ直ぐに、気持ちをぶつけてくれた。俺はそれが嬉しかった。俺もまた、お前の前では、真っ直ぐでありたいと強く願った。


 ……しかし、過去の“傷”に触れることを避けていては、それが叶わぬと思ったのだ。この“傷”を隠そうとすると、俺は決して真っ直ぐではいられなくなる。不自然にねじ曲がってしまう。今までの俺がそうだった」


「――それは、とても苦しかっただろう。苦しくなかったはずがない」


 言葉を選ぶようにして、レジアナスが静かに言った。

 俺は黙ってうなずき、ゆっくりと夜空を見上げた。


「――断言しよう。俺は紛い物の“聖者”だ」


 自らに言い聞かせるように、俺ははっきりとそう言った。


「無二の仲間たちを救えなかった過去と、禍々しく歪んでしまった己から遠ざかるために、俺は喜んで“聖者”の仮面を被り、偽りの贖罪を行ってきたのだ。心の中では薄らと、自らの欺瞞(ぎまん)に気がついていたが、今の今まで、どうしてもそれを直視することができなかった。


 ……レジアナス、お前が信じると言ってくれたこの俺は、本当に空っぽな男なのだ。偽りの仮面を脱いでしまえば、何一つとして残るものはない」


 悲しみと悔しさが一つに溶け合い、強烈な嗚咽となって込み上げてきた。

 しかし、俺は歯を食いしばって必死にそれをやり過ごし、こう続けた。


「――だからこそ、俺は生まれ変わらねばならぬ。たとえ空っぽなこの身一つになろうと、偽りの仮面とは決別し、もう二度と、過去から目を逸らすことはせぬ。そして、天国の彼らを悲しませることのない新しい自分に、是が非でも生まれ変わるのだ」


 そのとき、堪え切れずに流れた涙の一滴が、音もなく足元の草むらに落ちた――と同時に、耳の奥で聞き慣れぬ音が響き渡った。

 それはまるで、世界中の関節が軋むような音だった。

 己の中で、何かが大きく入れ替わったことを、俺は悟っていた――。

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