40.真の名は
「――あなたのイクシアーナ護衛の任は、既に解かせていただきました」
キトリッシュ枢機卿は間を置かず、抑揚を欠いた声でそう続けた。
淡い月明かりに照らされた、頬のこけた青白い彼の顔には、いかなる表情も浮かんでいない。
彫像のごとく身じろぎ一つせず、彼はじっとこちらを見据えていた。
(――案の定と言うべきか、枢機卿はおおよその事情を察しているのだろう)
自らの額に、薄らと汗が滲むのを、俺は感じ取っていた。
「……話を始める前に、一つ訊かせてもらいたい。イクシアーナ様は無事に戻られたのか?」
尋ねると、枢機卿はおもむろにうなずいた。
俺はひとまず胸を撫で下ろし、続けてこう切り出した。
「それでは、何ゆえに任を解くなどと仰るのか、その訳を聞かせていただこう」
「――あなたは失踪したイクシアーナの所在を知りながら、その報告を怠りました」
待ち構えていたように答えた枢機卿の口元が、一瞬、奇妙に歪んだ。
「そればかりか、イクシアーナと敷地外で行動を共にし、決して少なくない時間、彼女の身を危険に晒したのです。いかなる理由があったにせよ、警護担当としてはあるまじき振る舞いと言えましょう」
やはり、あの三人のうちの誰か――大方アゼルナだろう――から事情を聞いたに違いない、と俺は確信を強めた。
(……しかし、今はここを離れるわけにはいかぬ。俺は“英雄殺し”を討つその日まで、“聖女の剣”であり続けるとイクシアーナに誓った。それを果たすことは、レジアナスと交わした当初の約束でもあり、さらには総主教の願いとも一致するはずだ)
黙って引き下がるわけにはいかぬ、と俺は自らに言い聞かせた。
「……そちらの言い分は承知したが、一方的にそのような決断を下すのは、さすがに性急と言えよう。こちらにも、弁明の機会は与えられて然るべきだ」
即座に申し立てると、枢機卿は自らのこけた頬をゆっくりと撫で、それからこう言った。
「残念ながら、話し合いの余地はありません。私は自らの目と耳で、真実を確かめたのですから」
束の間、俺は言葉を失った。
枢機卿が何を言わんとしているのか、まるで呑み込めなかったせいである。
「……それは、一体どういうことだ?」
狼狽を隠しつつそう訊くと、枢機卿は憐れむような微笑を口元に漂わせた。
「私を含め、“使い魔”を使役できる者は皆、この大聖堂に残りました。そして、魔術で呼び集めた夜鳥を悉く“使い魔”に変え、それらの目と耳を借り、空からイクシアーナの行方を探ったのです。無論、リアーヴェル様も、快く捜索に力を貸してくださいました。
すると、ラヌーズ川流域を上空から調査していた者が、『驚いたようにイクシアーナの名を叫ぶアゼルナの声を聞いた』との報告をもたらしました。かくして我々は、水門付近に生えていた大樹の枝に“使い魔”をとまらせ、あなた方の一連のやり取りを見届けたのです」
非常にまずい立場に立たされたと思う反面、俺は心底安堵してもいた。
仮にアゼルナと出くわす以前の会話まで盗み聞きされていたら、俺は自らの秘密を完全に暴かれていたことになる。
そうならなかっただけ、不幸中の幸いと考えるほかなかった。
「――言い逃れはもはや不可能だと、これでお分かりいただけたでしょう。此度の騒動の詳しい経緯も、後日査問会を開き、イクシアーナ本人の口から明らかにしてもらいます。よって、ケンゴー殿には、もはやお伺いすることは何もありません」
枢機卿はぴしゃりと言い放つと、すぐさま後方を振り返り、従えていた聖騎士たちに向かって何事かを呟いた。
すると、そのうちの三名が、こちらに向かって前進し出した。
彼らの腕には、俺の甲冑一式(既に修理が終わったと見える胴鎧も、その中に含まれていた)と大きな背負い袋が一つばかり抱えられている。
「……これは何の真似だ?」
尋ねたが、彼らは何一つ聞こえていない風を装い、俺の足元に甲冑と背負い袋を手早く下ろした。
そして、あっという間に元の位置に引き返してしまった。
「あなたの持ち物は、こちらで全てです。部屋に置かれていた荷物は、背負い袋の中に一まとめにしてあります」
言いながら、枢機卿はこちらに歩み寄り、懐から取り出した布袋を俺の胸元に突きつけた。
同時に、じゃらじゃらと耳馴染みのある音が小さく鳴った。
それは袋の中で金貨が揺れ動き、互いにぶつかり合う音にほかならなかった。
「――受け取ってください。本日分までの報酬です。襲撃に際しての見事な働きぶりを考慮し、相応の額を用意させていただきました」
「そんなものは要らぬ」
咄嗟に口を衝いて出た言葉が、それだった。
同時に俺は、たっぷりと金貨の詰まった袋を突き返していた。
「見返りは元より求めていない。寝泊まりするのも厩で構わぬ。本日のような過ちも、二度と犯さぬと約束する。だから、引き続き、こちらに俺を置いて欲しい。これは心からの頼みだ。俺は俺なりの使命感を持って、ここにやって来た」
気づけば俺は、恥も外聞もかなぐり捨て、深々と頭を下げていた。
レジアナス、総主教、そしてイクシアーナ――彼らとの約束を反故にしてしまうことを、俺は何よりも恐れた。
「――ケンゴー殿、面を上げてください」
枢機卿の言葉に従うと、彼は自らの顎に手をかけ、こちらを品定めするように目を細めた。
それからしばしの間、彼は考え込む風に黙り込んだが、やがて重々しく口を開いた。
「……心中お察ししますが、どうかご理解いただきたい。臨時雇用者の職務命令違反による解雇処分は、“教会法”の決まりなのです。掟を破り、あなただけを特別扱いするわけにはいきません」
枢機卿の声には、ひどく真剣な響きが宿っていた。
先ほどまでの、どこか儀礼的な口ぶりは、すっかりと影を潜めている。
「聖ギビニア教会は、規律と規範を重んじる組織です。加えて、我々はイクシアーナの捜索にあたって、非番の者まで総動員せざるを得ませんでした。さらには、本日の戦闘で負傷した者たちも――重傷者は誰もなかったとは言え――こちらの制止を聞き入れず、進んで探しに出かけたほどです。
思慮を欠いたイクシアーナの行動に対し、多くの者から不満を寄せられていることは、想像に難くないと存じます。事実、彼女には既に、暫定的な謹慎を伝えております。しかし、それだけで済むということは、まず考えられません。おそらく査問会では、団長降格の処分も検討されるでしょう。そしてあなたも、騒動拡大の一端を担った以上は、然るべき責任を取っていただかねば、ほかの者に示しがつかないのです。
……正直に申せば、我々としても、あなたの力添えを失うのは大きな損失だと考えています。双方にとって不満の残る結果には違いありませんが、組織の秩序を保つためには、このような決断も時には必要なのです。どうかそれをご理解いただき、お引き取り願えればと存じます」
言い終えるなり、枢機卿は折り目正しく頭を下げた。
片や俺は、物事の方向性をすっかりと見失っていた。
これまではどのような苦境に立たされようと、何がしかの解決策を見出すことができたが、今回ばかりは話が別だった。
(……イクシアーナの力になってやりたいが、その術さえ思い浮かばぬ。そもそも、俺は今の状況で、どう振る舞うのが最善なのだ?)
底知れぬ無力感が、じわじわと体中を蝕んでゆくのが分かった。
まるで気が進まぬが、打つ手が見当たらぬ以上、一旦は大聖堂を離れるほかないのだろう――。
「――あの、ケンゴー殿」
呼びかけられ、ハッと我に返ると、枢機卿が再び金貨袋をこちらに差し出しているのに気がついた。
「此度の騒動とはまた別に、我々はケンゴー殿の貢献を高く評価し、また大いに感謝もしているのです。これは正当な報酬なのですから、遠慮は不要です」
「――その金は、聖ギビニア教会に寄付させてもらう」
半ば反射的に、俺はそう口走っていた。
馬鹿げた考えだとは思いつつも、俺は心のどこかで、金を受け取ることが縁の切れ目になりはしないかと案じていたのである。
「俺の受け取った報酬ならば、好きに使い道を決める権利もあるはずだ」
「……そこまで言うのなら、仕方ありません。一旦預からせていただきましょう」
呆れたように嘆息しながら、枢機卿が言った。
「しかし、あなたの気が変わったら、いつでも受け取りに来てください。番兵にその旨を伝えれば、すぐにお渡しできるよう手配しておきます」
枢機卿は恭しくお辞儀をしたのち、「では、これにて失礼」と付け加え、くるりと背を向けた。
それから、彼が警護の兵と共に歩き出したところで、俺は不意に思い立った。
(――ひとまず大聖堂を去らねばならぬことを、彼にだけは伝えておかねばなるまい。総主教は元より、謹慎中のイクシアーナとも話すことはできぬだろうが、あいつならば話は別だ)
気がついたときは既に、俺は声を張り上げていた。
「――枢機卿殿ッ!! レジアナスと話をさせてもらえまいか?」
直後、はたと足を止めた枢機卿は、すぐにこちらに引き返し、「残念ながら、副団長は不在です」と気の毒そうに告げた。
「数刻前より、打ち合わせのために王城に出向いたままなのです。もうそろそろ、戻って来ても良い頃だと思うのですが」
教会墓地の掘り起こしの件で話し合っているのだろう、と俺は思った。
元より心配はしていなかったが、レジアナスの協力要請をディダレイが受け入れたに違いなかった。
「……では、レジアナスが帰るまで、このままここで待たせてもらいたい。それは構わぬな?」
問いかけると、枢機卿は小さく口元を緩めた。
「今現在、ケンゴー殿が立っているその場所は、大聖堂の敷地内ではありません。私に許可を乞う必要もないでしょう」
そう言い残し、枢機卿は警護の兵を従え、今度こそ大聖堂に引き揚げていった。
俺はそれを見届けたのち、全ての荷物を正門の斜向かいに生えた木の下まで移動させた。
それから、その木に背をもたれさせ、待ち人の到着を待つことにした――。
* * *
レジアナスが姿を見せたのは、一時間ほど経ったあとのことだった。
一日の疲労が色濃く出始めたのだろう。微かにまぶたが重くなるのを感じつつ、今後の身の振り方を思案していると、真っ直ぐ正門に向かってゆく彼の背中が、不意に視界に飛び込んだのである。
彼は見かけぬ顔の男性聖騎士と、並んで歩きながら話し込んでいた。
「――レジアナス!!」
慌てて名を叫ぶと、二人は揃って後ろを振り返った。
直後、レジアナスは連れ合いに何事かを告げて先に行かせ、一人でこちらへと駆けてきた。
そして、俺の顔を見るなり、唐突に声を荒げた。
「――このど阿呆ッ!! ふざけんなよッ!!」
怒りに顔を歪め、固く拳を握り締めるその様に、俺はただただ気圧されていたが、それは離れて立っていた正門前の番兵たちも同じだった。
彼らが互いに顔を見合わせたり、不安げにこちらを窺う様子が、レジアナスの小さな肩越しに映った。
「……一通りの事情は、既に聞いているのか?」
尋ねると、「当たり前だ」と彼は吐き捨て、ぐしゃぐしゃと頭をかきむしった。
それから、気を静めるように深呼吸を繰り返したのち、再び口を開いた。
「ついさっきまで、俺は王城の兵舎でディダレイ団長と話し合っていた。あんたの助言通り、彼は教会墓地の掘り起こしに協力すると約束してくれたんだ。可能な限りの兵を動員させるとも言ってくれた。
……で、段取りやら何やらを詰めていたわけだが、その間、大聖堂からたびたび使者が遣わされ、イクシアーナ様の失踪と捜索の経過を知らされた。掘り起こしは明朝から始めると既に決まっていたし、俺はやむなく会議を優先させたんだが、正直言って気が気じゃなかった」
「――本当に済まなかった。反省している」
深く頭を下げると、レジアナスは重苦しいため息を漏らした。
次いで、無理に感情を殺したような声でこう尋ねた。
「……あんた、俺が何に対して怒ってるのか、分かって謝ってんのか?」
俺はおもむろに顔を上げ、それからこう答えた。
「イクシアーナ様の所在を知りながら、俺はその報告を怠った。彼女の身を危険に晒したばかりか、騒動をますます大きくし、教会の者たちに多大な迷惑をかけた――」
そう言い終わらぬうちに、レジアナスは再び怒声を上げた。
「――やっぱり、あんたは正真正銘の大馬鹿野郎だッ!!」
レジアナスはわなわなと肩を震わせ、目の端には涙さえ溜めていた。
「俺が怒ってるのは、あんたが相談してくれなかったからだ」
射抜くような目でこちらを見据えながら、彼はそう続けた。
「だって、あんたはイクシアーナ様に会いに行く直前、俺と会っていたんだぜ。何か問題を抱えていたんなら、あのとき話せば良かったはずだ。それなのに、あんたときたら、悩んでる素振りさえ見せなかった。
……今さら言っても遅いだろうが、あんたが『困っている』と一言いってくれたら、俺は喜んで手を貸した。二人で知恵を出し合っていれば、何もこんな状況に陥らずに済んだかもしれない」
深く傷ついたように顔を背けるレジアナスを目にして、俺は胸に鋭い痛みを覚えた。
「……なあ、ケンゴー、教えてくれよ。どうしてあんたは、一人で問題を抱え込もうとする? なぜ俺を頼ろうとしない?」
必死に詰め寄るレジアナスに返す言葉を、俺もまた、必死になって探した。
だが、それを見つけることは叶わなかった。
(――あるいは俺は今、岐路に立っているのかもしれぬ)
レジアナスの気持ちに応えるには、自らの素性を含め、全ての真実を告白せねばなるまい、と俺は感じていた。
だが、果たしてそれが正しい選択なのかどうか、確信は持てなかった。
秘密の共有によって、自らの後ろ暗い運命に彼を巻き込むのではないかと、俺は密かに恐れたのである。
「……色々と言っちまったが、別にあんたを困らせたいわけじゃない」
やがて、口ごもる俺を見かねたように、レジアナスがぽつりと言った。
「要するに、俺はあんたの力になりたいってだけの話だ。それは分かって欲しい」
しっかりとうなずいてみせると、レジアナスは頬をかくふりをして、指先でそっと涙を拭った。
そして、急に思い立ったように問いかけてきた。
「バルボロ一家の一件が片付いたあと、俺はあんたの目の前で、ガキみたいに泣きじゃくったことがあった。自分の弱さを全てさらけ出してだ。もうずいぶんと昔の話みたいに思えるが、覚えてるか?」
もちろんだ、と俺は答えた。
“天使の園”の少年が手にしていたナイフが埋められた、“剣の墓標”の前で交わしたやり取り――それは“ケンゴー”と名を変えて以来、最も深く記憶に刻まれた出来事の一つにほかならなかった。
「――あのとき、あんたが本気で向き合ってくれたことは、そりゃあもう、言葉では言い表せないくらい嬉しかった。だから、俺は常々こう思ってきた。もしあんたが窮地に陥ったときは、全力を尽くして必ず力になるんだと。
……と言っても、これは別に恩返しだとか義理だとか、そういうんじゃないんだ。俺たちの関係においては、とにかく力を貸し合うのが、一番自然なんだと感じてたってことさ。あんたは俺にとって、仲間とか友だちとか、そんな単純な関係には当てはめられないほど、とてもかけがえのない存在なんだ」
レジアナスの話に、俺は一層真剣に耳を傾けていた。
彼は今、大事なことを語ろうとしているのだと、ありありと察せられたためだった。
「でも、蓋を開けてみれば、こちらが一方的に助けられるばかりだった。イクシアーナ様の警護を引き受け、十分過ぎるほど役目を果たしてくれたのはもちろん、困り果てていた教会墓地の件についても、さらりと助言を与えてくれた。ほかにもあんたは、俺のために――同時にネーメスのためでもあったが――決闘さえやってのけた。俺とあいつの両方を思いやって、とんでもない無茶を仕出かした」
レジアナスはそこで言葉を置き、じっと俺の顔を覗き込んだ。そしてこう続けた。
「何と言えばいいのか、俺は少々心苦しく思っていたんだ。あんただけが与え、俺だけが与えられる――結局はそんな風になっちまってるんじゃないかとね。そういう関係性のあり方は、少なくとも俺の感じ方からすれば、俺たちにとっては相応しくないものだった。
確かに俺は、あんたの目から見れば、頼り甲斐のないガキに過ぎないかもしれない。だが、それでも俺は俺なりに、あんたの力になりたいと願い続けてきたんだ。……何だか、長々と喋っちまったが、俺はどうしても、この気持ちを伝えたかった」
「――ありがとう、レジアナス」
心を込めて伝えると同時に、俺の覚悟は決まっていた。
「では、遠慮なく、お前の力を頼らせてもらいたい。無茶な頼みになってしまうが、俺の願いはただ一つ、かつて結んだ約束を必ず果たすことだ」
レジアナスはこちらの申し出に満足したように、わずかに口元を緩めた。
「俺は“英雄殺し”を討ち果たすその日まで、イクシアーナ様の身を守り抜くと本人に誓った。それはほかでもない、お前との約束でもあり、俺自身の願いでもある」
レジアナスは力強くうなずいてみせ、俺は確信を持って言葉を継いだ。
「知っての通り、“英雄殺し”はイクシアーナ様とリアーヴェル様の命を狙った。無論、その目的は果たされなかったが、奴がそれで潔く諦めるとはどうしても思えぬのだ。となれば、この大聖堂は遠からず、再び襲撃に遭うだろう。そのとき、俺は必ずその場に居合わせなくてはならぬ」
「――俺たちはいつも、大事なところで意見が合う」
言いながら、レジアナスは真っ白な歯を剥き出しにして微笑みかけてきた。
「あんたが言い出さなくとも、俺は最初からそのつもりだった。だいいち、ケンゴー以上に警護に適任な男を、俺は誰一人として知らない。打てる手は全て打って、絶対に復帰させてやるさ」
言い終えるなり、レジアナスは表情を改めた。
それから、ひとしきり考え込むような間を置き、言葉を選ぶようにして話し出した。
「……ただ、それはそれとして、俺は知っておきたいんだ。ケンゴーが抱えてる問題の本質が、一体何なのかってことをね。現状、イクシアーナ様もあんたと会ってた理由について、黙秘を貫いてるらしい。そこに余程の事情が隠されてるってことは、まず間違いないはずだ。
だから、無理に話せとまで言うつもりはない。最終的には、ケンゴーの判断を尊重するつもりだ。でも、一通り事情を把握しておけば、復帰を画策する際、有利に働くことだってあるかもしれない。俺個人としても、それを知った上で、納得して動きたいってのもある」
「――ならば、場所を移そう。ここだと、どうしても番兵たちの目が気にかかる」
意を決して持ちかけると、レジアナスは神妙な面持ちでうなずいた――。
* * *
その後、俺たちは木の裏手側の茂みに分け入り、少々開けた場所に出るまで歩き続けた。
互いに微かな緊張を共有していたせいだろうか、道中、言葉を交わすことは一度としてなかった。
数刻前に雨で濡れたシャツは、未だ完全には乾き切っておらず、夜の空気はことさら冷たく感じられた。
「――ここまで来れば、もう大丈夫だろう」
言いながら、不意に足を止めると、レジアナスもそれに続いた。
注意深く辺りを見回したが、当然ながら人の気配はなく、深い静寂があるだけだった。
風を受けた木々だけが、微かに揺れ動いていたものの、不思議とざわめきは聞こえてこなかった。
いよいよだ、と俺は唇を噛み締め、真正面からレジアナスと対峙した。
「――俺たちが出会ったとき、お前は“レジィ”だった」
俺は思うがままに話を始めた。
それは頭で考えたところで、相応しい言葉が見つかるはずもないと、否応なしに感じていたせいだった。
同時に、ブエタナの部屋の前で番をする “レジィ”が、やる気がなさそうにあくびをしている姿が、不意に懐かしく思い返された。
「実を言えば、俺もかつてのお前と同じなのだ」
そう続けると、レジアナスは不思議そうに小首を傾げた。
直後、胸の鼓動が突如として速まり、呼吸さえも荒くなり始めたのを、俺はありありと感じ取っていた。
「ブエタナを討ったあの日、“剣の墓標”の前で、お前は真の名を俺に明かしてくれた。片や俺は、今の今までそれをできずにいた。より正確に言えば、そうしたくても、それができない理由があったのだ」
唇を一文字に結んだレジアナスを目に映しながら、俺はゆっくりと呼吸を整えた。
その傍ら、改めて自らに覚悟を問い、意志に揺るぎのないことを確認した。
(――この決断がどのような結果につながろうと、決して後悔はしない)
俺は自らにそう言い聞かせたものの、直ちに思い直した。
(……いや、それだけでは不十分だ。後悔のない未来を、今のこの瞬間から、俺は自らの手で創り上げてゆかねばならぬのだろう)
口の中はひどく乾き切り、目の奥が異様なほど熱かった。
曰く言い難い激しい感情が、胸の奥に渦巻いている。
(――自らの運命に、逆ねじを喰わせるほどの勇気。今の俺に求められているそれは、“英雄殺し”を討ち果たすにあたって欠かせぬもののはずだ)
そうした想いが、唐突に込み上げてきた。
俺は口元に巻いたハンカチを解き、左手で力いっぱいそれを握り締める。
(――さあ、最初の一歩を踏み出せ。己の呪われた運命を変える瞬間が、今まさに訪れたのだ!!)
無論、理屈などなかったが、俺は手に取るようにそれが分かった。
同時に、頬に深く刻まれた傷跡を、右手の指先で確かめた。
決して快いとは言えないその感触に、俺は不思議と励まされる心持ちがした。
「イーシャル――それが俺の真の名だ」
正面に立つレジアナスから目を逸らすことなく、俺ははっきりと告げた――。