39.聖者の弾劾
束の間の抱擁のあと、辺りに深い静寂が訪れた。
差し向かいに立つイクシアーナは、まるで時間が止まったかのように、うつむいたまま微動だにしない。
「……なあ、イクシアーナ」
呼びかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
そして、心ここにあらずといった様子で、わずかに顔を上げた。
「“神託”が、関わる者の未来を不自然に歪めることはない。そして、それは本人にとって、必然に感じられる――あんたは、確かにそう言ったよな?」
問いかけると、イクシアーナはようやく我に返った表情に戻り、黙ってうなずいてみせた。
「――俺は、それを信じることに決めた」
はっきり宣言すると、イクシアーナはハッと息を呑み、大きく目を見開いた。
「“野ねずみ”の恩返しが、神に強いられた行為であるはずがない。それはほかでもない、イクシアーナ自身の望みだったのだと、しかと心得た。ならば俺も、自らの必然に従って行動すれば良いだけのこと。“神託”についてあれこれ頭を悩ませるのは、止めにする」
素直な想いをさらけ出すと、イクシアーナは少女のごとく澄んだ笑顔を浮かべた。
ふと気づくと、つられて俺も微笑んでいた。
「……では、話も一段落したところだし、そろそろ大聖堂に戻ろう。“英雄殺し”の標的である俺たちが、これ以上ここに長居するのは危険だ」
頃合いと見てそう切り出すと、イクシアーナは急に表情を改めた。
そして、躊躇いがちにこう言った。
「……仰る通りですが、最後に一つだけ、お尋ねしたいことがあります」
構わない、と伝えると、彼女は思い切ったように口を開いた。
「一体どうして、あなたは“暗黒魔術”を身につけたのです?」
生まれて初めてそれを問われたせいだろう、一瞬、俺は言葉を失った。
「……もちろん、何か差支えがあるならば、無理して話していただかなくて結構です。でも、私としては、許されるならばその理由を知っておきたい。あなたほどの人が、なぜ法を破ってまでその力を求めたのか、ずっと心に引っかかっていたのです」
イクシアーナはまじまじと俺の顔を見つめながら、微かに震える声でそう付け加えた。
「――分かった。正直に告白しよう」
言わずもがな、“聖女の罪”の母体となったのは、俺の犯した禁忌にほかならない。
よって、彼女がその起源を知りたいと願うならば、応えぬ道理はない、と考えたのである。
「ただし、この話が終わったら、大聖堂に引き返そう。それは構わないな?」
そう念を押すと、イクシアーナは神妙な面持ちでうなずいた。
俺は一呼吸置いたのち、覚悟を決めて話を始めた。
「俺が“暗黒魔術”に手を染めたのは、十歳かそこいらのときだったと思う。おそらく信じられぬだろうが、それが法による禁呪指定を受けていることなど、ついぞ知らなかったせいだ。……そう、俺は特殊な生い立ちのせいで、途方もない常識知らずだったのだ」
「……特殊な生い立ち、ですか?」
恐る恐るといった様子で口にされた質問に、俺はうなずいた。
「今から二十五年前のことだ。ある吹雪の晩、生後間もない俺は、王都の貧民街に位置する娼館の前に捨てられていた。毛布に包まれ、粗末な十字架の首飾りを手に握り締めていたのだそうだ。十字架の裏面には“イーシャル”という文字が彫られていた。それが俺の名の由来だ」
イーシャル――それは果たして、本当に己の名だったのだろうか?
久方ぶりにその疑問を思い返しつつ、俺はこれまで歩んできた前半生のあらましを語った。
娼婦たちに拾われ、物心ついたときには既に、奴隷のごとく働かされていたこと。
食事も寝る暇も、ろくすっぽ与えられず、憂さ晴らしに殴られることもしばしばで、己の弱さに嫌気が差していたこと。
力さえあれば、他者の支配を受けずに済むと考え、自らこしらえた木剣を、毎日腕が上がらなくなるまで振り続けたこと。
しかし、それだけでは満足できず、さらなる力を求めていた折に、娼館を訪れた客の忘れ物と思しき一冊の魔術書と出会ったこと――。
「一見すれば、それはごく普通の魔術教本だった。だが、そこにはしっかりと、“暗黒魔術”の術式も記されていた。当時は知る由もなかったが、それは無論、意図された忘れ物だった。ゼルマンド教団が信者を増やすやり口は、あんたも知っているだろう?」
そう投げかけると、イクシアーナは黙ってうなずいた。
“暗黒魔術”の使い手は、必然的に“死者の王”の信仰に辿り着く――これこそが、ゼルマンド教団の掲げるイデオロギーだった。
ゆえに彼らは、社会の掃き溜めで生きることを余儀なくされる者たちに、忌々しき魔術教本をばら撒いたのである。
持たざる者の嫉みや憎しみは、破壊衝動を募らせ、やがて禁忌を犯す呼び水となる――そのような筋書きを、彼らは考えていたのだ。
要するに、俺は教団の“布教”の手口に、まんまと乗せられたのである。
「――教本に載っていた魔術は、一通り試してみたものの、何の因果か、俺に扱えたのは“血操術”ただ一つだけだった。そして俺は、それを自在に使いこなせるまで、隠れて鍛錬を続けた。無論、“暗黒魔術”が異端視されていることは、薄々ながら気がついていた。しかし、誰に迷惑をかけるわけでもなしと、まるで意に介さなかった」
現実にはそうならなかったものの、この俺自身とて、“死者の王”の信仰に走る危険性は十分にあった――その事実に、改めてゾッとしながら、俺は話を続けた。
「想像に難くないだろうが、“暗黒魔術”が本当にいけないことだと教えてくれるような人間は、当時の俺の周りには存在しなかった。そもそも、貧民街に住まう人々の間では、生きるために働く悪事は、殺しを除けば暗黙の了解事項だった。そして娼婦たちも、俺を都合よく利用することにばかり熱心で、真っ当な常識を授けようだなんて考えは、一欠片も持ち合わせていなかった。
正直に打ち明けるが、ガキのころの俺は、正真正銘の無法者だった。喧嘩は元より、空き巣に窃盗、ゆすりたかり、一通りの悪事に手を出した。誰も教えてくれない以上、何がやって良くて、何がやってはいけないのか、全て身をもって知るほかなかった。悪行が露見しても、所詮はガキのやることだと、王国騎士団に突き出されまではしなかったが、そのたびに手酷い罰を受け、また良心の呵責にも悩まされた。俺はそうやって、馬鹿みたいに逐一過ちを繰り返しながら、少しずつ良識を身につけてゆくほかなかった」
無意識のうちに視線を移すと、イクシアーナは固く唇を結んでいた。
(――この話を終えたとき、一体どのような反応が返ってくるのだろう?)
それは想像の及ばぬことだった。
自らの生い立ち、禁忌を犯しながら生き続けてきた理由――このどちらも、口にすること自体、初めての経験なのである。
抵抗感はもちろんのこと、何かしらの薄ら寒ささえ覚えてはいたが、それでもなお、正直に語らなくてはならぬ、と自らに言い聞かせた。
嘘や飾りなど、彼女は断じて求めぬだろうと、俺にはよく分かっていた。
「――話を本筋に戻そう。力を手にした俺は、娼館を抜け出し、義勇軍に入隊した。そして、そこで初めて、“暗黒魔術”が禁忌であると知った。それは無論、上官たちが兵の士気を高めるため、“暗黒魔術”に対する憎悪を口々に叫んでいたせいだ。
だが、血飛沫の飛び交う戦場において、“血操術”ほど役立つものはそうそう見当たらない。ゆえに、俺は隠れてその力に頼った。初陣を迎えたのは十三の年だったから、そうでもしなければ生き延びることは難しかっただろう。
気づけば俺は、分かち難く禁忌と結びついていた。その強大なる力に、すっかり憑りつかれてしまったのだ。そして、それを手放すことを諦めた己に対する免罪符を、進んで求めるようになった。その一つが、少年兵たちに対する献身であり、もう一つが、ゼルマンドの首級を挙げることだった。“血操術”を使い続ければ、己の肉体に暗黒魔素が取り込まれ、“暗黒魔術”に対する強固な耐性を備えることができる。そうなれば、いずれ相対した際、自らの手でゼルマンドを討てるやもしれぬ――俺はそれを願い、そして実現させた。
……そう、俺は自らの罪を正当化するために、必死で善人の仮面を被り続けてきたのだ。歪な矛盾を孕んだ、哀れな道化のごとき人生と言えよう。“傷跡の聖者”という存在も、俺の偽りが生み出した幻影に過ぎない」
ふと見やると、イクシアーナは両手で顔を覆っていた。
肩を震わせ、声を押し殺して泣いていたのである。
「――頼むから止めてくれ」
俺は身構え、咄嗟にそう口にしていた。
「確かに、俺の選んだ生き方は、侮蔑や糾弾を免れぬものだ。それは、この俺自身が誰よりもよく承知している。だが、泣いて同情されるのだけはやり切れない」
「――同情なんて、していません」
さっと顔を上げ、イクシアーナは反論した。
なぜかは分からないが、その声には微かな怒りが滲んでいる。
「――ならば、その涙は何なのだ?」
「どうして泣いているのかは、自分でも上手く説明できません。ただ、私には分かったんです――」
言いかけたところで、イクシアーナは急に口をつぐんだ――が、その理由は明白だった。
俺たちが身を寄せる大樹の後方に、人の気配を感じたのである。
今の今までそれに気がつかなかったのは、互いに話に夢中になりすぎていたせいにほかならなかった。
(――まさか、“英雄殺し”に嗅ぎつけられたのか!?)
俺は思わず固唾を呑んだ。
次いで、預かっていたナイフをイクシアーナに手渡し、素早く背後に向き直る。
すると、木の真後ろに仄かな白光がちらついているのが映った。
(……灯りだと? 姿を隠す気がない、ということか?)
どうも腑に落ちぬと思いつつ、腰の鞘から剣を抜いたと同時に、木の陰から何者かがさっと飛び出した。
「――ッ!?」
その正体に気づくなり、俺は危うく声を上げそうになったが、それも無理からぬことだった。
肩まで伸びた淡い栗色の髪、吊り上がった切れ長の瞳、全身を包む白金の甲冑、そして右肩に担いだ戦鎚――そう、突如として目の前に現れたのは、“聖女の盾”が一人、アゼルナだった。
胸の高さまで掲げられた、彼女の左の手元には、“光球”――暗がりで灯り代わりに用いる魔術であり、対屍兵戦では、目くらましとしても活躍した――がふわふわと浮かんでいる。
「――驚かせてしまって悪かったけど、ちょっと聞きたいことがあるだけよ。職務上の質問ってとこね。ただ、その前に、その物騒な代物を仕舞っていただけないかしら?」
こちらが構えた剣の切先を見据えつつ、アゼルナはよそよそしい口ぶりで言った。
察するに、イクシアーナの変装にも、目の前の男が“ケンゴー”だという事実にも、全く気がついていない様子である。
そもそも、俺に限って言えば、アゼルナの前では一度たりとも素顔を晒したことがないのだ。
よって、この顔に残された傷跡を見られたにせよ、そう易々と正体を見抜かれる恐れはなかった。
どちらにせよ、“イーシャル”だと勘繰られることまではないだろう――。
(……だが、ジャンデルに一芝居打たれたことを、俺は忘れていない。アゼルナが、何らかの意図を持って演技しているという可能性も、決して否定はできぬ)
疑心暗鬼に駆られつつ、俺は剣を構えたまま進み出て、背後にイクシアーナの身を隠した。
無論、敵対的な態度を取ることは気が引けたが、やむを得ない状況と言えよう。
(――だいいち、何故アゼルナがここに姿を現したのか、その理由さえ定かでない。まさかとは思うが、彼女が“英雄殺し”ということはあるまいな?)
にわかに掌が汗ばむのを感じつつ、俺は相手の出方を待った。
「……ねえ、いつまで剣を向けてるつもり? ちょっと聞きたいことがあるだけって言ってるでしょう?」
アゼルナが苛立ちを含んだ声を発した、まさにそのときだった。
「――こっちにはいなかったわッ!!」
そう叫びながら、顔の辺りに“光球”を漂わせた二人の女聖騎士が、背後の土手から駆け下りてくるのが見えた。
両者とも名は知らぬが、大聖堂内で見かけたことのある顔だった。
一人は金髪の三つ編みを左右に垂らした、あどけなさの残る女で、おそらくはまだ十代だろう。
そしてもう一人は、長い黒髪を後ろに束ねた女だった。表情に乏しく、いかにも生真面目といった印象で、俺と同年代に見える。
(――こっちにはいなかった、だと? どうやら、人探しをしていることは確かなようだ。となれば、思い当たるふしのある人間は、一人しかいない)
急いで周囲を見渡すと、川向うの土手でも、幾名かの聖騎士らしき人影が忙しなく動き回っていた。
(――何ゆえか分からぬが、“聖女”の失踪が明らかになり、一騒動持ち上がっているに違いない)
それを確信すると同時に、濡れて肌にまとわりついたシャツの裾を、背後のイクシアーナにぎゅっと引っ張られた。
注意深く、わずかに振り返ると、彼女は次のように耳打ちをした。
「――ここで私の正体がばれたら、あなたにまで迷惑がかかってしまう。ひとまず、何とかしてこの場をやり過ごせないかしら?」
俺は「やってみよう」と小声で返したのち、正面に向き直り、剣を鞘に納めた。
「――ようやく、話す気になってくれたようね」
二人の女聖騎士が合流するのを待ってから、アゼルナが切り出した。
「聞いたことくらいあると思うけど、私たち、聖ギビニア騎士団に所属する聖騎士なの。実は今、ある人を探している真っ最中でね」
俺は真剣に話を聞くふりをしながら、さりげなく左手で顔の下半分を覆い、傷跡を晒さぬように配慮した。
イクシアーナに続いて俺の正体まで暴かれれば、警護担当でありながら、彼女の脱走を容認したと受け取られかねない(自然の成り行きではあったが、事実そうだ)。
そのように事が運ばれれば、非常にまずい立場に追い込まれることは、火を見るよりも明らかだった。
「――背格好と年齢は私と同じくらいで、長い銀髪の美しい女性だ。この辺で見かけなかったか?」
黒髪の聖騎士の問いかけに、俺は黙って肩をすくめた。
アゼルナの前で声を発することは、当然ながら躊躇われた。
「……それじゃ、人目を引くような美人を見た覚えは? その人、変装していた可能性もあると思うの」
今度は三つ編みの聖騎士が尋ねてきたが、俺は再び肩をすくめてみせた。
「――それじゃ、後ろに隠れてるお嬢さんはどう? あなたも見ていない?」
間を置かずに質問をぶつけてきたのは、アゼルナだった。
「……俺は彼女とずっと一緒にいた。彼女も見ていない」
仕方なしに、濁声をつくってそう告げると、アゼルナは険しく眉をひそめた。
「――私はあなたに訊いてるんじゃない。ねえ、お嬢さん、本当に見てないの?」
念を押すように、再度アゼルナが尋ねると、イクシアーナは背後から頭を突き出して首を振り、すぐに引っ込めた。
俺は内心ひやりとしたものの、三人とも目の前に尋ね人がいるという事実に、未だ思い当たっていない様子である。
夜の闇に手助けされた面もあるのだろうが、あれほど見事な長い銀髪が、男のように短い黒髪に様変わりしているなど、想像の範疇になかったのだろう。
「……そうか、協力に感謝する。では、別の場所を探そう」
黒髪の聖騎士がため息交じりに口にすると、三つ編みの聖騎士がうなずき、二人揃って川下のほうに走り出した。
しかし、アゼルナはそれに続かず、どこか考え込むような顔つきで、手元の“光球”をじっと見つめている。
何やら嫌な気配を感じ取った俺は、「早くこの場から離れよう」と促し、イクシアーナと並んで川上に向かって歩き出した。そのときだった。
「――ちょっと待ってッ!! あんた、ケンゴーでしょ!?」
唐突に声を張り上げながら、アゼルナがこちらに駆け寄ってきた。
俺とイクシアーナは思わず足を止め、はっと顔を見合わせる。
「――間違いないわ。顔中傷だらけだった」
背後に立ったアゼルナが、確信に満ちた声で言った。
「それに、剣を構えたときの圧だって、尋常じゃなかった。そして何より、濡れたシャツから、胸に巻いた包帯が透けてたわ。それって、今日受けた槍の傷でしょう?」
言いながら、彼女は力任せに俺の肩を引っ掴み、無理やり向き直らせた。
「……今の状況、分かってるわよね? イクシアーナ様がいなくなっちゃったの。緊急事態なのよッ!! それを知った上で、他人のふりしてどっか行っちゃおうとするのは、どうかと思うわッ!?」
辛辣な眼差しを向けながら、声を荒げるアゼルナに対し、俺は反論する術を持たなかった。
彼女の発言は、彼女の立場から見る限り、完全な正論である。
(……この状況に、一体どうやって始末をつければいい?)
ふと気づくと、アゼルナの肩越しに、先ほど立ち去った二人が駆け戻って来るのが見えた。
アゼルナの声色から、ただならぬ事態が持ち上がっていると察したのだろう。
そればかりか、川向うの聖騎士たちの注目まで集めている有様だった。
「――私生活を大事にしたいって気持ちも、そりゃ分かるわよ」
うつむくイクシアーナの背に一瞥をくれたのち、アゼルナはそう続けた。
「でも、時と場合ってもんがあるでしょう? 今回ばかりは、さすがに見損なったわッ!! ねえ、何か言ったらどうなのよッ!?」
怒りに顔を歪めたアゼルナが、俺の胸倉を掴んだ――と同時に、イクシアーナが咄嗟に正面を向いたのが、横目に映った。
「……ごめんなさい、アゼルナ。私はここにいるわ。だから、彼を責めるのはもう止して」
言いながら、覚悟を決めたような表情を浮かべ、イクシアーナが俺たちの間に割って入った。
「――イ、イクシアーナ様ッ!?」
アゼルナが頓狂な声を上げた。
肩で息をしながら戻って来た二人の女聖騎士も、唖然とした表情で棒立ちになっている。
無論、俺も彼女たちと同様に絶句していた。
「――今回の騒動の責任は、全てに私にあります」
一同の顔を見回したのち、イクシアーナがきっぱりとそう告げた。
「この私が、止むに止まれぬ事情から、ケンゴーさんをここに呼び出したのです。だから、彼は一切悪くない。責められるべきは私一人です」
無理もないことだが、アゼルナはひどく混乱しているようだった。
変わり果てたイクシアーナの姿を見つめながら、まるで自分の目が信じられないとばかりに、何度も瞬きを繰り返している。
「……止むに止まれぬ事情、ですか?」
黒髪の聖騎士が我に返った様子で尋ねると、イクシアーナはしっかりとうなずき、そしてこう言った。
「――ただ、深い理由がありまして、その内情を詳しく明かすことはできません。その点は、どうかご理解いただければと思います」
「……あの、もしかしてお二人は、駆け落ちしようとしていたのですか?」
あらぬ推察を口にしたのは、三つ編みの聖騎士である。
年頃の娘らしい曲解に、俺は苦笑を禁じ得なかった。
「――ロマンチックな発想であることは認めますが、私たちは男女の仲ではありません。そもそも、団長であるこの私が、道ならぬ恋に走ったりはしませんよ。あくまでも、彼とは真剣な話をしていただけです」
イクシアーナは諭すように言い聞かせ、小さく微笑んだ。
次いで、深呼吸を一つしたのち、言葉を選ぶようにしてこう続けた。
「とにかく、皆さんには大変なご迷惑をかけてしまいました。本当に申し訳なく思っています。ほかの者にも、のちほど然るべき場を設け、私のほうから直接、騒動を引き起こした謝罪をいたします。
そして、身勝手なことばかり申し上げて心苦しいのですが、私がケンゴーさんと一緒にいたことは、ほかの者には伏せておいてください。この事実が露見すれば、今回の騒動の責任を、彼に押しつけようとする者が出てくるかもしれません。しかし、彼には本当に非がないのです。何卒お願いいたします」
言い終えるなり、イクシアーナは深々と頭を下げた。
一瞬、気詰まりな沈黙が辺りを支配しかけたが、黒髪の聖騎士はそれを察してか、すぐに口を開いた。
「ご心配は一切不要です。我々一同、イクシアーナ様には常日頃よりお世話になっておりますから、お困りの際にお力になるのは当然のこと」
それから、黒髪の聖騎士は、自分に続けと言わんとばかりにほかの二人を順繰りに見た。
すると、三つ編みの聖騎士は、「私も全く同じ気持ちです」と力強く宣言した。
アゼルナもまた、未だ放心している様子ではあったが、それと同じ旨をぼそぼそと口にした。
「……上手い表現が見つかりませんが、私は口では言い表せないくらい感謝しています。三人とも、本当にどうもありがとう」
イクシアーナが再び頭を下げると、三つ編みの聖騎士が安堵のため息を交えつつこう言った。
「――何はともあれ、これで一件落着ですね」
続けて彼女は、事件発覚のあらましを語って聞かせた。
さすがと言うべきか、イクシアーナの失踪を暴いたのは、リアーヴェルだったという。
本日の襲撃を受け、さらなる警戒が必要だと判断した彼女が、聖堂内に住み着く鼠を悉く使い魔に変え、天井裏伝いに各所を探らせていたところ、イクシアーナの不在に気がつき、大騒ぎになったという経緯らしい。
今回ばかりは、普段は冷静なリアーヴェルも、ひどく取り乱していたとのことだった。
「――それはそうと、一刻も早く大聖堂に戻り、イクシアーナ様のご無事を報告せねばなりません。おそらく、今の総主教様にとって、それを耳にする以上の良薬はないでしょう。すぐにでも、お元気を取り戻されるやもしれません」
黒髪の聖騎士が、感慨深げにそう言ったので、俺はぎょっとさせられた。
「……まさか、総主教様の身に、何かあったのか?」
尋ねると、彼女はわずかに目を伏せながらこう答えた。
「我々が大聖堂を出る少し前に、過労でお倒れになったのだ。周囲の心配もどこ吹く風と、襲撃の後処理に奔走し続けていたらしいのだが、やはり、心身ともにご負担が大きかったのだろう。とは言え、医師の見立てによれば、幸い命に別状はないそうだ」
「きっと、急に私がいなくなって、不要な気苦労をかけたせいですね……」
間を置かず、イクシアーナがぽつりと漏らしたのを聞いて、俺も自責の念に捉われた。
早々に話を切り上げ、彼女をいち早く大聖堂に帰しておけば、あるいは総主教は倒れずに済んだのではないか――無論、無駄話をしていたつもりは一切ないが、そのように思えてならなかった。
「――それじゃ、私は近くの捜索隊にイクシアーナ様が見つかったと知らせてきます。先輩たちは、先に戻ってください」
三つ編みの聖騎士は、沈んだ場をとりなすように明るい口調で言うなり、土手に向かって矢のごとく走り出した。
黒髪の聖騎士は、どんどん小さくなってゆくその背中に、「頼んだ」と声をかけたのち、次のように提案した。
「――では早速、“転移の門”の巻物を使って、大聖堂の近くまで移動しましょう。“結界”が張られていますから、直接帰参はできませんが、そのほうがより安全です」
イクシアーナがそれに同意すると、黒髪の聖騎士は、腰に下げた革鞄から巻物を取り出し、そこに記された文言を読み上げ始めた。
俺はその様子を眺めるともなく眺めながら、このまま、万事丸く収まってくれると良いが、と心の中で願った。
「……あの、ケンゴーさん」
虚ろな声でイクシアーナに呼びかけられ、急いで視線を落とす。
すると、ひどく沈んだ彼女の顔が、視界に飛び込んできた。
「何もかも、私のせいです。迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい」
「――謝る必要はない。あんたは俺を庇ってくれたのだ。むしろ感謝している」
努めて明るい口調で返すと、イクシアーナは少しだけ頬を緩めたが、すぐに表情を改めた。
そして、懐から大きめのハンカチを取り出し、こちらに向かって差し出した。
「……大聖堂に戻る前に、これで顔を隠してください。仮面、壊してしまって申し訳ありませんでした。必ず弁償いたします」
そんなことは気にするな、と俺は返事をしたのち、急いでハンカチを口元に巻いた。
傷跡の集中する顔の下半分さえ隠せれば、応急処置としては御の字だろう。
「明日、侍女に頼んで、同様の品を買って来てもらいます」
イクシアーナが言い終わらぬうちに、巻物を読み上げる声が止まった。
ふと見やると、黒髪の聖騎士の足元には既に、複雑な文様の魔法陣が青白く浮かび上がっている。
間もなく、彼女の姿は光の中にフッと溶けて消えた。
「――先に行ってくれ」
そう促すと、イクシアーナは丁寧にお辞儀をした。
次いで、いそいそと魔法陣の上に身を移し、無事に転移を済ませた。
直後、なおも茫然自失としていたアゼルナが、急に正気づいたようにこちらに詰め寄ってきた。
「――正直言うけど、私はあんたにも十分責任があると思うわ」
じっと俺の目を見据えながら、アゼルナが冷ややかに言った。
「どんな理由があったにせよ、これほど大事になる前に、イクシアーナ様を連れて帰れたはずだもの。だって、姿が見えなくなってから、もう二時間近く経っていたのよ。その間に、イクシアーナ様が“英雄殺し”に襲われでもしたら、どうやって責任を取るつもりだったのかしら? 誰の目から見ても、完全に護衛失格よッ!!」
畳みかけるように言いながら、彼女は魔法陣の上に身を滑り込ませた。
「罰として、あんたは歩いて帰ることね。もうしばし夜風に当たって、頭を冷やすといいわッ!!」
転移が終わるその瞬間、これ見よがしに皮肉っぽい笑みを浮かべたアゼルナは、ぶつぶつと何らかの呪文を口にし、“転移の門”を閉じてしまった。
かくして、俺一人だけがその場に取り残された――。
* * *
大聖堂に引き返す道中、俺はほとんど生きた心地がしなかった。
その理由は無論、素顔を完全に隠せぬ状態で、王都の町を移動する破目に陥ったせいである。
“英雄殺し”の出現以降、王国騎士団による見回りが大幅に強化されていることは、当然ながら聞き及んでいた。
無論、彼らの多くはゼルマンド戦役の従軍者であり、“イーシャル”の素顔を知る者も、中には当然含まれるのである。
そんな者の一人と、偶然道端で行き会った際、何かの拍子に正体を暴かれはしまいか――“英雄殺し”の奇襲と同等かそれ以上に、俺はその可能性を恐れたのだ。
(……しかし、今日という日は、ほとほと疲れた)
大聖堂の襲撃、ジャンデルとの一件、総主教によるフラタルの生涯の開示、イクシアーナの呼び出しと“神託”の共有――改めて思い返すと、たった一日の間に、これだけのことが起きたのだ。
挙句の果てに、置いてけぼりまで食わされるとは、何という因果だろう。
アゼルナにとっては、ささやかな意趣返しのつもりだったのだろうが、こちらとしては、生死に関わる事態に直面させられたのである。
(――喜べ、アゼルナ。お前の目的は、十分過ぎるほど果たされた)
道すがら、幾度となくため息が漏れ、その度に足が重くなるのを感じたが、それでもなお、俺は疲れた体に鞭を打ち、必死に先を急いだ。
結果、それが奏功したのか、王国騎士団の見回りにも遭遇せず、五体満足で大聖堂の正門に辿り着くことができた。
そして、ホッとしたのも束の間、すぐに番兵たちの様子がおかしいことに気がついた。
彼らは俺の姿を認めるなり、あからさまに行く手を阻むがごとく、横一列にずらりと並んだのである。
嫌な予感を抱きつつも、物怖じせずに近づいてゆくと、番兵の一人――恰幅の良い、中年の男性聖騎士だ――が前に進み出て、こう尋ねてきた。
「――ケンゴー殿とお見受けしますが、間違いありませんね?」
訝りつつ、そうだと答えると、「では、少々この場でお待ちください」と彼は神妙な面持ちで言った。
次いで、勢い良く振り返り、後方に控える兵たちに声高に命じた。
「――キトリッシュ枢機卿を呼んで参れッ!!」
枢機卿――それは聖ギビニア教会において、総主教に次ぐ高位の聖職者である。
総勢七名の枢機卿は、全国各地に散らばり、総主教の名代として各教区を統括する役目を担っていた。
しかし、キトリッシュ枢機卿はただ一人、常に大聖堂に駐在する特例的な存在だった。
総主教の日常業務を傍で手助けすることが、彼に課せられていたためである。
ゆえに、彼とは毎朝の定例会議で顔を合わせていたが、俺はあくまでもイクシアーナの警護としてその場に居合わせるだけであり、挨拶以外の言葉を交わした記憶はない。
会議中も口数は少なく、寡黙な実務家という印象を受けていたが、正確なところはまるで分からなかった。
“灰色がかったブロンド髪を持つ、四十代と思われる長身痩躯の男性”という以外に、彼に対して信頼に値する知識は持ち合わせていない。
「――総主教様がお倒れになったと聞いたが、現在、代理を務めるのはキトリッシュ枢機卿か?」
中年の男性聖騎士に尋ねると、「仰る通りです」と返事があった。
「ならば、俺を敷地内に入れるなと、枢機卿が命じたのか?」
おそらくそうなのだろうと勘繰りつつ、再び彼に尋ねたものの、「詳しいことは、枢機卿さまと直接お話しください」という返事しか得られなかった。
(……大方、ロクでもないことが持ち上がっているのだろう。あるいは、イクシアーナの失踪に俺が関与したと、あの三人のうちの誰かが告げ口したのかもしれぬ)
仕方なしに時間が過ぎるのを待っていると、ほどなく、緋色のガウンをまとったキトリッシュ枢機卿が、聖騎士たちを両脇に従えて正門へとやって来た。
「――ケンゴー殿、私はあなたに非情な宣告をせねばなりません」
俺の顔を見るなり、枢機卿は開口一番にそう言った――。