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38.野ねずみの恩返し

 雨の勢いはますます激しくなっていた。

 もはや全身ずぶ濡れの状態で、体の芯も冷え始めている。

 にもかかわらず、俺は呆然と地面に座り込んだままでいた。


「……そのままだと、風邪を引いてしまいますよ?」


 既に立ち上がっていたイクシアーナが、見かねたように声をかけてきた。

 我に返った俺は、どうにか重い腰を上げ、「そうだな」と答えた。

 それは確かに自分の声だったが、同時に他人の声のようにも響いた。

 自らの知る世界の均衡が、少しずつ失われつつあることを、俺は密かに感じ取っていた。


「一旦、雨宿りいたしましょう」


 イクシアーナに促され、俺たちは傍に生えていた大樹の下に身を避けた。

 しばらくの間、互いに降りしきる雨を黙って眺めながら、樹の幹に寄り添うような格好で並び立っていた。


「何と言ったらいいものか、驚かせるような話ばかりしてしまいましたね。とりわけ、第二の“神託”がそうだったと思いますが、……その、信じてくださいましたか?」


 やがて、イクシアーナが改まった声で尋ねてきたので、俺は正直に答えた。


「――理解が追いつかない部分はあるにせよ、信じてはいる」


 神の寵愛と憎悪を一身に背負いし者、聖剣に心の臓を差し出し、救国の雄となれ――自らの意に反し、これを信じるに至ったのは、イクシアーナが俺を指して、“聖剣に込められた願いの体現者”だと評したためだった。

 事実、大礼拝堂の戦いにおいて、ファラルモの放った槍を眼前に捉えた際、俺は聖剣との奇妙な一体感を覚え、同時に彼女の言葉通りの悟りを得た。

「“闇なる意思を無に帰す”。それを実現する“剣”が、ほかならぬ俺自身なのだ」と。

 直後、極度の集中状態に入った俺は、視覚に頼ることなく槍を両断するという、一種の奇跡的芸当をやってのけた。

 要するに彼女の発言は、これら一連の“超自然的”とも呼べる現象の裏付けと取れたのである。


「だが、信じると同時に、信じまいとする自分もいる。なぜなら……」


 言いかけて、俺は咄嗟に口をつぐんだ。


(――なぜなら、第二の“神託”に示された、“聖剣に心の臓を差し出し”という文言が、いやに引っかかるのだ。俺にはどうしても、人柱に立てと迫られているように聞こえてしまう)


 これが続けようとした言葉だったが、実際に口に出すことははばかられた。

 言ったが最後、不吉な運命が決定づけられ、いずれ取り返しのつかない事態に見舞われるのではないかと、わけもなく察せられたのである。


「――今、何を言いかけたのです?」


 怪訝な声でイクシアーナに尋ねられたが、「大したことではない。忘れてくれ」と俺は反射的に答えた。


「あなたの表情を見る限り、大したことではない、という風にはどうしても思えません。何か気がかりなことがあるのなら、遠慮せずに仰ってください」


 彼女は懇願するように言ったが、俺は黙って首を振った。


(……気がかりなことはあるにせよ、何を口にしたところで、結局は“神託”を信じて従えと諭されるだけだろう)

 

 俺にはそう思えてならなかった。

 事実、“神託”を告げた際のイクシアーナの超然たる様は、まさしく神の代弁者のごとく映り、密かに俺を畏怖させた。

 今や俺は、彼女との厳然たる隔たりを感じるばかりだった。

 彼女はあちら側、俺はこちら側――つまりはそういうことだ。

 神を妄信する者と疑う者同士が、互いに理解し合うことは難しい。


「――あなたが悩みを抱えているのだとすれば、それをもたらしたのは間違いなく私です。自分に責任を感じないわけにはいきません」


 短い沈黙ののち、彼女は再び口を開いた。

 次いで、俺の正面に回り込み、澄んだ瞳でじっと顔を覗き込んできた。


「何と言っても、この私自身も、“神託”に悩まされた人間の一人なのです。それに関わる者が、どれほど深い苦悩を強いられるか、容易に想像することができます。……とにかく、私が言いたいのは、あなたの力になりたいということです」


 返す言葉が見つからず、なおも沈黙を守り続けていると、彼女は落胆したように顔を背けた。

 そして、微かに震える声でこう続けた。


「私は“聖女”という立場から、あなたに“神託”と向き合う覚悟を問いました。それは自らの責務です。必ず果たさねばなりません。反面、血肉の通った一人の人間としては、それは耐え難い苦痛でもありました。神はなぜ、こうまでしてあなたに試練を突きつけるのか、理解に苦しんでいるのです。あなたはもう、十分過ぎるほど世に尽くし、血を流し続けてきたというのに……」


 イクシアーナはそこで口をつぐみ、おもむろに顔を上げた。

 その瞳には、薄らと涙が浮かんでいるように見えた。


「――本心では、あなたは“神託”のことなんか忘れて、どこかに逃げてしまえばいいとさえ思っています。こんなことを言い出すのはおかしいと感じるかもしれませんが、私は自己を二つに切り裂かれた、矛盾した存在なのです」


 自己を二つに切り裂かれた矛盾した存在――その言葉は、晴天の霹靂のごとく俺の耳に響いた。

 同時に、かつて総主教と交わしたやり取りが、ありありと脳裏に蘇った。


『訳あって、イクシアーナの背負った運命は、過去の聖女たちと比べても、ことさら辛苦に満ちたものなのです。ゆえに彼女は、他者の理解の範疇を超えた、実に深い苦悩を抱えることとなりました』


 俺は今になってようやく、イクシアーナの苦悩がどれほど深いものだったか、身に沁みて分かるような気がした。

 望まぬ罪を犯し、暗い秘密を一人で抱えながらも、それを表に出すことは決して許されない。何事もなかったかのように日々振る舞い、聖女としての務めをただ果たすのみ――彼女に課された運命に、俺は自らのそれを重ねずにはいられなかった。


(……よくよく考えてみれば、イクシアーナもまた、俺と同じ側の人間だったのかもしれぬ)


 何人も察することのできぬ彼女の苦悩――それを見抜いていたのは、最初の神託を共に秘匿した、総主教ただ一人だけだったろう。

 ゆえに、俺はこう頼まれたに違いなかった。


『ケンゴーさん、あなたは“正しい目”を持っておられる。その目をもって、どうかイクシアーナを導いてやって下さい』


 総主教の願いを、俺は確かに聞き届けた。

 因果は巡る糸車とは、まさにこのことかもしれぬ、と俺は思った。

 もとを正せば、イクシアーナの背負った苦悩は何もかも、俺の犯した禁忌の上に成り立つものである。

 意図してその状況を生んだわけではないにせよ、それは火を見るよりも明らかだった。

 要するに、総主教は全ての元凶たる俺に、彼女を救って欲しいと願い出たのである。

 そのように事実を捉え直すと、得も言われぬ感情が胸中を満たした。


(――“導く”などという大それたことはできぬにしても、彼女が俺に対して「力になりたい」と申し出てくれたように、俺もまた、彼女の力になれることがあるのかもしれぬ)


 心のうちに、そのような想いがふっと浮かび上がっていた。

 だいいち、イクシアーナはほかでもない、俺の命の恩人なのである。

 ……そして、俺は唐突に思い当たった。

 彼女に対して絶対に伝えておくべきことを、今の今まで口にしていなかった、と。


「――イクシアーナ、俺はあんたの言う通り、確かに“神託”に頭を悩まされている。だが、その話をする前に、聞いてもらいたいことがある」


 正面に立つ彼女を見据え、俺はそう切り出した。


「思い返せば、あんたは命の恩人だというのに、俺は礼の一つも述べていなかった。伝えるのが遅れてしまったが、俺はあんたに心から感謝している」


 彼女は大きく目を見開き、一文字に唇を結んでいた。

 何か言いたげではあるものの、驚いて声も出ない、という風に俺の目には映った。


「人々の罵声を浴びながら、中央広場で焼け死ぬような最期を望むような人間は、誰一人としていやしないのだと、今になってはっきりと分かる。ゼルマンドを討った直後、『この世に未練はない』などと口走ったと記憶しているが、それは本心ではなかったのだろう」


 できる限り素直になろうと努めながら、俺は話を続けた。


「あのときの俺は、頭がどうかしていたのだ。何と言えばいいのか、義勇軍で長い年月を過ごすうちに、人間性や将来への展望といったものを、根こそぎ失ってしまったのだと思う。いつの頃からか、ただ生きることにさえ、苦痛を覚えるようになっていた」


 言葉は自然と、流れるようにあふれ出てきた。

 その事実に、我ながら驚かざるを得なかった。


「――だが、今は違う。生き延びたお陰で、色々な出会いを経て、俺は変わることができた。ずっと同じ場所に留まっていたが、ようやく前に進むことができたのだ。生き続けられて良かったと、心の底から思う。だから、口では言い表せないほどあんたに感謝しているということは、信じてもらいたい」


 一拍の間を置いて、イクシアーナの顔全体にゆっくりと穏やかな微笑みが広がっていった。

 それから、彼女はしっかりとうなずき、「信じます」と言った。


「――それで、“神託”に関するあなたの悩みとは?」


 彼女は間を置かずにそう尋ねた。

 顔中を満たしていた笑みはとうに消え、真剣な面持ちへと変わっている。


「――第二の“神託”は、少なくとも俺にとって、不吉な運命の予告のごとく聞こえる」


 覚悟を決め、俺は正直な胸のうちを告白し出した。


「今の俺は、生き続けたいと心から願っているのだ。ゆえに、“心の臓を差し出し”という文言に、妙な恐れを抱かずにはいられない。だが、それに心を奪われるあまり、不必要に憶病になることのほうがより恐ろしい。


 要するに俺は、“神託”を知ったことによって、己の意志や行動、これから先の未来が不自然に歪められはしまいかと、強く懸念しているのだ。()()()()()()()()()()


 言いながら、出し抜けに怒りが込み上げてくるのを感じた。

 怒りの矛先が向けられているのは、神か、“神託”を恐れる己か、はたまたもっと別の何かなのか――今一つ判然としなかったが、それでもなお、俺は話を続けた。


「……“英雄殺し”との対決は望むところだと、俺はとうの昔に覚悟を決めた。奴は俺自身の影のごとく振る舞い、ろくでもない事件ばかり引き起こし、さらには“奇跡の兵”の術さえ世に蘇らそうと試みている。ありとあらゆる意味で、決して許すことのできぬ存在だ。必ずやガンドレールの消息を聞き出し、そして自らの手で討つ。一歩も引くつもりはない。


 だが、それを決断したのは、俺であって神ではない。加えて、“英雄殺し”と共倒れになるつもりも、“救国の雄”になるつもりも毛頭ない。汚名をそそぎ、英雄の類に担ぎ上げられたところで、要らぬ衆目を集め、追手の数を増やし、果ては再び火刑に処されるだけだ。全く馬鹿げている――」


 俺はハッとして口をつぐんだ。

 何かに憑りつかれたように口早にまくしたてている自分が、急に馬鹿らしくなったのである。


「……今の俺の様子を見て、あんたも分かっただろう? 進んで認めたくはないが、現に俺は“神託”に心をかき乱され、不自然に歪んでいるのだ」


「――そんな風に感じる気持ちは、私もよく理解できます」


 短い沈黙ののち、慎重に言葉を選ぶような口調で、イクシアーナが言った。


「ただし、一つ確かなのは、“神託”は決して、関わる者の未来を不自然に歪めたりはしない、ということです。 “神託”はただ単に、元から存在していた道を明るく照らし出し、進むべき方向の自然な手がかりとなってくれる――そのような性質のものだと、私としては確信しています」


「今一つ分からない」


 自然と口を()いて出た言葉が、それだった。


「現にあんたは、“神託”によって、望まぬ罪を強いられたはずだ。どうしてそんなことが言える?」


「……“望まぬ罪を強いられた”など、私は一切口にした覚えはありません。あなたを救うことは、ほかでもない、私たっての願いでした。たとえ“神託”が下らずとも、私は喜んで罪を犯し、あなたを助けたでしょう」


 彼女の回答に、俺は我が耳を疑った。


「要するに“神託”は、私自身の想いと完全に一致し、決断を後押ししてくれたのです。『“神託”は必然である』と歴代の聖女たちは語り継いできましたが、これは“本人にとって必然である”という意味なのだと、今になってよく分かります。


 ……そう、あなたの命は私にとって、何よりも尊いものでした。助けるのは当然のことです。何と言っても、あなたは義勇軍時代、この私を危険から救い、人生を生き直すきっかけを与えてくれた大恩人なのですから。今に至るまで、この感謝の気持ちを伝えられずにいたことを、私はとても申し訳なく思っています」


「……この俺が、あんたを危険から救い、生き直すきっかけを与えた?」


 思わずそう訊くと、「そうです、あなたがです」と彼女は答え、どこか物憂げに目を伏せた。


「本来ならばこのことは、ゼルマンド奇襲作戦で再会した折に、お伝えするつもりでいたのですが……」


 俺は今もはっきりと記憶していた。

 確かにイクシアーナは、作戦の決行前、思い詰めたような顔で何度も話しかけてきた。

 しかし、当時の俺はまるで耳を貸そうとせず、彼女を冷たくあしらい続けた。

 心の余裕を欠片も持ち合わせていない状況で、初対面(・・・)の相手と、一体何を話すことがあろう――そのように、頭から決めてかかっていたせいだった。


「――それは気にしなくていい。むしろ、あのとき悪かったのは、こちらのほうだ」


 そう伝えると、彼女は申し訳なさそうに首を振ってみせた。

 次いで、大きな深呼吸を一つしたのち、思い切ったように口を開いた。


「――それでは、ずいぶんと遠回りしてしまいましたが、かつて私とあなたの間に起きた出来事を聞いていただけますか? それを思い出していただかない限り、私の感謝の気持ちも、上手く伝わらないでしょうから……」


 俺は「構わない」と答えた。

 その出来事とやらには、「“神託”は必然である」と彼女に思わせるだけの何かが示されているのだ。

 それを知りたいと願うのは、当然の心理と言えた。


「……そう仰っていただけて、安心しました」


 彼女は安堵のため息をついたのち、どこか躊躇いがちに言葉を継いだ。


「――前にお話しした通り、義勇軍に潜り込んだ私は、男のふりをしていました。短く切り落とした髪を、染料で黒染めして、です。要するに、今の私は、当時の私とそっくりな外見なんです。……ほら、こうやって再び目の前にして、何か思い当たるふしはありませんか?」


 しばしの間、俺は記憶の糸を手繰り寄せてみたが、それらしい心当たりは何一つとして浮かんでこなかった。

 残念ながら、何も思い出せないと伝えると、「今はそうだとしても、私の話を聞いているうちに、きっと思い出してくれると思います」と彼女は言った。

 そして、わずかに遠い目をしながら、胸のうちに秘めていた過去を語り始めた――。



 *   *   *



 ――今から七年ほど前のある日。

 イクシアーナは年かさの義勇兵の男に、正体が女であるという事実を勘づかれてしまったという。

 隠れて衣服を脱ぎ、胸に受けた戦傷の手当てをしていたところを、運悪く見られてしまったのだそうだ。


「――この秘密だけは、絶対に口外しないで欲しい」


 彼女が懇願すると、意外にも男はあっさりとそれを承諾し、すぐにその場を立ち去った。

 ほっと胸を撫で下ろした彼女は、自らの幸運に感謝したが、案の定と言うべきか、それだけで事態は収まらなかった。


 イクシアーナの身に危険が迫ったのは、その日の晩のことだった。

 野営地に張ったテントの中で、彼女がほかの少年兵たちと雑魚寝していると、突然、何者かに肩を揺さぶられたのである。

 驚いて目を覚まし、暗闇の中に薄ぼんやりとした人影を認めた瞬間、彼女はその何者かに口を塞がれた。

 同時に、首元にチクリとした痛みが走る。

 それが刃物の切先がもたらす痛みであると気づくのに、時間はかからなかった。

 直後、熱く湿った吐息が、彼女の耳にかかった。


「……騒ぐんじゃないぞ。従わなかったら殺す」


 何者かがそう囁き、彼女はハッと思い当たった。

 声の主は、自分の秘密を知った同朋の男だ、と。

 しかし、それを知ったところで、彼女はどうすることもできなかった。

 今や死を突きつけられ、声を上げることさえ叶わぬ状況なのだ。


「……さっさと立て。物音を立てずにだ」


 男が押し殺した声でそう告げ、イクシアーナは黙って立ち上がった。

 同時に、男は左手で彼女の口元を覆ったまま、素早く背後に回った。

 ようやく暗闇に慣れた彼女の目は、自らの首元に突きつけられているのが、男の右手に握られた短剣であると見て取った。


「……今からここを出て、俺たちのテントに来てもらう。楽しいこと(・・・・・)をしようじゃないか」


 男は囁きつつ、イクシアーナの首に短剣の先を軽く押し当てた。

 すると、わずかに皮膚が破れ、血が流れ出すのが分かった。

 彼女は男の望むがまま、寝息を立てている少年兵たちの合間を縫い、絶望に向かって一歩、また一歩と踏み出していった。

 そして、遂にテントを抜け出した、そのときだった。

 彼女の足元に何かが転げ落ち、小さく乾いた音を立てたのである。

 薄らとした月明かりに照らし出されたそれは、男が手にしていたはずの短剣だった――。



 *   *   *



「――ふと気づくと、私の身体は自由を取り戻していました。驚いて後ろを振り返ると、あなた(・・・)が男の右腕を捻じり上げていたのです」


 そう言って、イクシアーナはまじまじと俺の顔を見た。


「あなたはこてんぱんに男をやっつけ、極めつけにその指を何本かへし折り、『もう二度と同じ真似はしない』と誓わせた上で逃がしてやりました。正直に打ち明けますが、見ていてあれほど痛快だったことは、ほかに記憶にありません」


 彼女はそこで言葉を置き、悪戯っぽく微笑んでみせた。

 それから、すぐにこう続けた。


「……そう、自分の身に良からぬことが起きるのを恐れていた私は、必ずあなたと同じテントで眠るようにしていたのです。そしてあなたは、私の願った通り、当たり前のように助けてくれた」


 おぼろげながら、俺は記憶が蘇ってくるのを感じていた。

 言われてみれば確かに、少年兵に淫らな行為を働こうとする下劣な輩を、返り討ちにしてやったことがあった、と。

 だが、それは一度や二度で済む話ではなかった。

 ゆえに、現段階で分かったのは、彼女がそうやって助けた者の一人だった、という事実に過ぎない。

 そのうちの一体誰なのだろう、と訝しみつつ、俺は彼女の話の続きを待った。


「――私が感謝の意を伝えると、『何かトラブルに巻き込まれているのか?』とあなたは心配そうに尋ねてくれました。


 しばし悩んだ末、そうだと正直に答えると、あなたはこんな風に言いました。『それなら、これを機に軍を抜けるのも一つの手だ。今回は運良く力になれたが、次に同じようなことが起きたとしても、必ず助けてやれるという保証はない。さっきの奴だって、逆恨みして何らかの報復行為に出る可能性は、十分にあり得るだろう。とうに知っていると思うが、ここは本来、あんたみたいなガキの居場所としては相応しくない。自分の身の安全を、何よりも優先すべきだ』と」


「……なるほど。それで俺はあんたが脱走するのを手助けした、というわけか?」


 尋ねるや否や、イクシアーナは感心したようにうなずき、「あなたは実に優秀な“逃がし屋”でした」と言った。


 逃がし屋――その単語は俺の耳に、ひどく懐かしく響いた。

“逃がし屋”とは要するに、相応の報酬を受け取る代わりに、軍の脱走を望む者の手助け――実行の際に、先導役や見張りの目を欺く役を務めることだ――をする者たちのことである。

 元より脱走兵が多かった義勇軍では、ある時期から、夜間の見張りの増員などの策を講じ、それを厳しく取り締まるようになった。

 中でも敵前逃亡を図った者は、上官たちに私刑を加えられ、無残な最期を遂げるのが常だった。

 ゆえに、そうした状況を逆手に取って、“逃がし屋”なる副業が盛んになったのである。

 かくいう俺も、そのうちの一人だったが、まるで稼ぎにならなかった。

 というのも、逃がした者の大半が、文無しの少年兵だったせいである。

 当時の俺は仕方なく、一種の代価として、彼らに身の上話をするように求めた。

 娼館と義勇軍での生活が全てだった俺は、想像の及ばぬ世界の一端や人の営みを知ることを、日々の退屈の慰めとしたのである。


「――『俺は“逃がし屋”の仕事を、一度として失敗したことはない』とあなたは言いました。『だから、ここから逃げたいと望むなら、安心して任せてくれていい。それに今回は特別、謝礼金もチャラにしてやろう』と」


 イクシアーナが再び話し出すなり、俺は苦笑を漏らした。

 当時の自分の不遜な態度が、まざまざと目に浮かんだせいである。


「それを聞いた瞬間、私は思いました。あなたという人ならば、毎回同じようなことを言って、一度も謝礼金なんて受け取っていないのだろうと」


 訳知り顔で言った彼女に対し、俺は黙って肩をすくめた。

 すると彼女は、自分には何もかもお見通しだ、と言わんばかりの微笑を口元にたたえた。


「――あなたの申し出を、心から有難く感じる反面、私は頭を抱えました。それというのも、戦火で家族と故郷を失った私に、ほかに行く当てなどなかったからです。しかし内心では、そろそろ潮時だろうとも感じていました。何と言っても、隠し通してきた男装の秘密がばれてしまったのです。あなたの助言通り、身の安全のためには、このまま義勇軍に留まることが最善とは思えませんでした。当時の私は、今のように強くはなく、我が身に降りかかる火の粉を、全て払いのけるだけの力は持ち合わせていませんでしたから……」


 イクシアーナも当然ながら人の子であり、決して宗教画から抜け出てきた人物ではない――失われた家族や故郷が存在したという過去が、はっきりとそれを物語っていた。

 俺は微かに狼狽し、心痛を覚えていた。  


「――悩みに悩み抜いた末、『脱走は臆病者のすることだ。ここに留まる』と返事をしました。当時から私は負けん気が強い性格でしたし、あなたに対するちょっとした見栄もあったのだと思います。……でも、本心では逃げたいと考えていることを、あなたは見抜いていたのでしょう。あなたは努めて明るい口調で、こんなことを言いました。


『この義勇軍には、危険を冒してまで敵の首級を挙げ、腕っぷしをひけらかすような輩がよくいる。だが、それは見せかけだけの強さでしかない。本当に強い人間というのは、とにかく生き続けて自分の志を遂げる奴なんだ。それほど多くはないが、俺はそういう奴らを何人か知っている。脱走の手助けを頼んで来る連中の中に、そういう奴がときたま混じっているんだ。ちゃんと夢とか志を持って、ここを去っていく奴がさ。俺はそういう奴らの身の上話を聞くのが好きなんだ』。


 それから、あなたはこう続けました。『要するに、逃げることは恥でもないし、臆病者のすることでもないってことだ』と。私はその言葉に励まされ、翻意して脱走を決意し、あなたに手助けを頼みました。ほかに行き場がなくとも、どうにかなるはずだ。自分の居場所くらい、自分で作ってやれないことはない――そう腹をくくったのです」


 昔の俺は、ずいぶんとお喋りだったらしい――何とも言えぬ羞恥の念を抱きつつ、俺は彼女の言葉に一層真剣に耳を傾けた。


「――脱走は難なく成功し、その後、あなたは私を野営地近くの小さな村まで送り届けてくれました。別れ際、あなたがこう言ったのを、私は昨日のことのようにありありと思い出すことができます。『あんた、よく見てみると、良い面構えをしているんだな。きっと、心のうちに秘めた何かがあるんだろう。俺もいつの日か、そんな風になれればいいんだが』。


『このまま僕と一緒に逃げよう』。ふと気づくと、その言葉が口を衝いて出ました。『君は強くて優しい人だし、きっとどこでだってやっていける。一度義勇軍から離れて、自分の可能性を色々と試してみたらどうだろうか』。それは心から滲み出してきた、自然な想いでした。そして何より、あなたという人が傍にいてくれたら、どれだけ心強いかと感じていたのです。


 でも、あなたは首を振り、笑顔でこう言いました。『残念なことに、今の俺にはこれといった夢も志もない。どうしても見つからないんだ。あんたの気持ちは嬉しいが、ほかの生き方なんて、ぜんぜん思いつかない。だから、俺は戻るよ。同じ場所に留まるしかないんだ。だが、心配は要らない。俺は俺で、この先も何とかやっていく。あんたも達者でな。俺の分まで立派になれよ』と。


 それを聞いて、私はたまらなく悲しい気持ちになりました。急に込み上げてきた涙を堪えながら、『ありがとう。君も元気でね』と返すのが精一杯でした。私は自分の無力さを呪いました。あなたの恩義に報いたくても、当時の自分にできることなど、何一つとして思い浮かばなかったのです」


 イクシアーナは静かにうつむき、瞳から大粒の涙を流し始めた。

 そして、俺はとうとう思い出していた。


「――当時のあんたは、仲間内で“野ねずみ”と呼ばれていた。間違いない。そうだろう?」


“野ねずみ”の仇名の由来は、“小柄ですばしこく、いつ見ても土埃や泥で顔中が汚れているから”だったと記憶している。

 今にして思えば、顔の汚れを保つことは、彼女の美しさを隠し通すためのカムフラージュだったのだろう。


「……やはり、覚えていてくださったのですね」


 弾かれたようにさっと顔を上げ、彼女は震える声でそう言った。


「忘れるものか。俺は“野ねずみ”を、……いや、あんたのことをずっと覚えていた。あんたとまともに話したのは、あの日が初めてだった。にもかかわらず、そこで交わしたやり取りは、不思議と心の中に留まり続けた。あいつは元気にやっているだろうか、もしかすると今頃は、大層立派な奴になっているかもしれない――時折そんな風に思い返すだけで、俺はずいぶんと励まされてきた」


 言いながら、不意に目頭が熱くなるのを、俺は確かに感じていた。


「……しかし、驚いた。あの“野ねずみ”が、まさか聖騎士たちの長になっていたとは。おまけに聖女でもあり、俺の命の恩人でさえある。もはや、わけが分からない。まるでおとぎ話の世界のようだ」


 イクシアーナは涙を拭いながら、小さな声を立てて笑った。

 そしてこう言った。


「――あのあと、あなたと別れた村からそう遠くない町で、私は見習いの修道女となりました。その傍ら、いつの日か、あなたのように強くなれればと願い、より一層剣の稽古に励むようになったのです。そして、色々な偶然や幸運が重なった結果、聖騎士に任ぜられ、今に至るというわけです」


「――本当に、大したもんだよ、あんた」


 率直な感想を伝えると、彼女は屈託のない笑顔を浮かべた。

 同時に、記憶の中の“野ねずみ”の顔が、目の前の彼女の顔に、ぴたりと重なり合った。


「……今の私があるのは、あなたのお陰です。だからこそ、“野ねずみ”は、あなたに恩返しをしたのです」


 言い終えるなり、イクシアーナは目を伏せつつ、おずおずと前に踏み出した。

 俺もそれに合わせて自然に歩み寄り、そっと抱擁を交わした。

 そして、温かく濡れた頬が、しっかりと胸につけられた瞬間、俺は至極当然の事実に思い当たった。


(――今の彼女は、美しく成熟した女性であり、あの瘦せっぽちの“野ねずみ”ではないのだ)


 俺は静かに彼女から身を離した。

 これ以上長く抱き合うのは、かつての戦友同士が再会を喜んで交わす抱擁としては、おそらく不自然だろうと感じられたのである。

 不意に夜空を見上げると、雨は既に上がっていた――。

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