33.奇跡の顕現
「……聖人フラタルの生涯について、イクシアーナには以前聞かせたことがあったかと思いますが、ほかの皆さんはご存知ですか?」
総主教の問いかけに、イクシアーナ以外の面々が、黙ったまま首を横に振ってみせた。
俺と同様、彼らも皆、驚きのあまり声も出ない様子である。
「ご存じないのも、無理はありません。全ては、二百年近く前に起こったことです。そして何より、聖人フラタルに関する文献は、今ではほぼ現存せず、さらには、教会内部の人間でさえ、彼について進んで語る者はいないのですから。悲しいかな、彼はこの大聖堂に、その名を刻むだけの存在となってしまいました」
総主教はそこで言葉を置き、深呼吸を一つばかりした。そしてこう続けた。
「……では、ケンゴーさんのご要望に応え、聖人フラタルの生涯について、お話しさせていただきましょう。“屍兵”の使い手が再び現れた今、彼を深く知ることは、この場の皆さんにとって、何かしらの手助けになるかもしれません。但し、そのためには、彼の生い立ちから聞いていただいたほうが良いでしょう。少々長話となってしまうかもしれませんが、なにとぞご容赦いだきたく思います」
そう前置きして、総主教はよく通る静かな声で語り出した。
* * *
聖人フラタルは、北方のウイユベリ地方に領地を持つ、さる裕福な貴族の家系に生まれた。
彼の両親は非常に信心深く、厳格な性格の持ち主で、嫡男でなかったフラタルに、幼少のころより聖ギビニア教会の司祭となることを望んだという。
しかし、彼は両親の期待に真っ向から反発するように成長していった。
信仰などそっちのけで、魔術を学ぶことにのみ、興味と関心を示したのである。
食前の祈りにさえ加わろうとせず、魔術書ばかり読み耽る幼い彼の姿は、当然のごとく両親を戸惑わせ、その怒りを買った。
フラタルには五歳年上の兄、そして二歳年下の妹がいたが、基本的には二人とも両親に対して従順であり、信仰に対する理解を示していた。
彼だけがただ一人、異端だった。
六歳より通い始めた初等神学校でも、フラタルはまるで敬虔さを見せなかった。
年を重ねるにつれ、授業中に魔術書を隠れ読む、居眠りをする(魔術の探求に没頭するあまり、夜更かしが常習化していたせいだ)といった行為が目立つようになり、教師たちの頭痛の種となった。
そこで、両親と教師たちは結託し、強硬策に出た。
両親は、フラタルの所持する魔術書を悉く取り上げ、焚き火の中に投げ込んだのである。
加えて、学校生活において彼が唯一の救いとしていた、“聖光魔術学”の授業に参加することさえ禁じてしまった。
日々の祈りを欠かさず捧げ、身を入れて授業を受けない限り、魔術と関わることは一切許さない――両親はそう宣言したのだ。
しかし、フラタルは態度を改めようとしなかった。
大人たちの対応を理不尽だと感じ、頑なに反抗の意志を貫き通したのである。
かくして、魔術との関わりを断たれたフラタルは、一層孤立を深め、学校にもろくすっぽ通わぬようになった。
成績は不振を極め、毎年進級を危ぶまれる有様だったという。
彼が初等神学校の最終学年(留年していなければ、十五の年だ)を迎えるころには、自らの心の隙間を埋めるかのように、路地裏にたむろする悪ガキたち――かつての俺自身や、王都の貧民街に暮らす身寄りのない子ども連中が自然と思い起こされた――と付き合うことばかり好むようになっていた。
彼は悪ガキたちと共に、外で盗みを働くことを覚え、そこから得た金で酒を買い、賭け事にさえ熱中し出した。
幼少期、彼が独自に磨いた魔術の腕前は、今では盗みを助けるための一手段に成り下がっていた。
要するに彼は、貴族の子息が身を持ち崩す場合に散見される、一種お決まりのパターンを辿り始めた、というわけだ。
ここまでくると、さすがに教師たちも庇い切れなくなり、フラタルは初等神学校卒業を目前にして、とうとう放校処分を言い渡された。
それを機に、既に冷え切っていた両親との関係は、完全なる絶縁状態に陥った。
また、王都の大学に進み、既に家を出ていた長兄は、こうした事態に無関心を決め込んだ。
心優しい妹だけが、「何か力になれることはないか」と申し出たが、彼は黙って首を振った。
その後、フラタルは二年ほど自堕落な生活を送ったのち、もう二度と帰らぬ決心をして、家を飛び出した。
家族の留守を狙い、家中の宝石類、貴金属類、さらには容易に持ち出せる金目の品ならば、なりふり構わず鞄に詰め込んだ上で、である。
しかし、妹の部屋の品々にだけは、一切手をつけなかった。
成長するにつれ、互いに言葉を交わすことは少なくなっていったが、それでもフラタルと妹の間には、多くを語らずとも人並み以上に理解し合えるところがあった。
何と言っても、二人は幼少のころ、共に宮廷魔術師になろうと約束し合った仲だった。
幼かった妹は、フラタルの影響を大いに受け、自然と魔術の虜になったのである。
そして、とうの昔にその道を諦めた兄とは違って、彼女が今なお魔術に対する情熱を失わず、両親に隠れてそれを学び続けていることを、彼は密かに聞かされていた。
あえて口には出さなかったが、陰ながら妹を応援していたフラタルには、彼女を裏切るような行為だけは、決してできなかったのである。
それからのフラタルの暮らしについて想像することは、誰にも難しくないだろう。
遠くの地に身を移し、家から盗んだ品々を全て金に換え、放蕩の限りを尽くしたのである。
しかし、そんな生活がいつまでも続くはずはなく、やがて金は底を突いた。
このままでは、俺の人生は取り返しのつかぬことになる。少しは真面目にならねば――そう痛感した彼は、働き手が不足していた農場やら炭鉱やらで、過酷な労働に従事した。
そして、そこから得られる雀の涙ほどの報酬で、その日暮らしを送るようになった。
行く先々の町で、最も安価で粗悪な宿が、常に彼の住処となった。
五年ほどそうした日々を送った果てに、フラタルはとうとう肺を病んだ。
高熱に浮かされ、咳は絶えず、吐血を繰り返した。
もはや働くことは不可能であり、医者を呼べるほどの持ち合わせもなく、宿賃の支払いさえ滞るようになった。
もう支払いは不要だ。その代わり、死ぬなら他所で死んでくれ――宿の主人に、にべもなくそう告げられ、彼はベッドから叩き出された。
そして、這うように宿を出て、風雨をしのげる橋の下に向かった。
あとは独り、寂しく死を待つのみ――彼はそう覚悟を決めた。
全ては自らの愚行が招いた結果なのだと、彼自身が誰よりも承知していた。
しかし、フラタルは生き延びた。
彼を救ったのは、ほかならぬ、たった一人の妹だった。
目に大粒の涙を溜めた彼女が、今わの際のフラタルの前に、突如として現れたのである。
彼女は優しく兄を抱擁すると、すぐさま医者の元へと運んだ。
* * *
「……当時、フラタルの妹は、国内随一の名門、“王立魔術学校”に通う学生でした。彼女は休みを得るたびに、“転移の門”の術で各地を巡り、必死に兄を探し続けていたのです。その健気な姿勢は、ほかの家族の心を動かし、やがて長男や両親さえも、進んで彼女に力を貸すようになりました。その結果、遂にフラタルらしき人物の目撃情報を得ることができ、奇跡的な邂逅がもたらされたのです」
総主教はそこで短く沈黙し、小さく微笑んでみせた。
それから、すぐに言葉を続けた。
「妹のお陰で、辛くも一命を取り留めたフラタルは、心を尽くして彼女に感謝を述べ、涙さえ流したと伝えられています。また、彼は自らの手記の中で――細かしい言い回しは、多少違っているかもしれませんが――次のように振り返っています。
『過去に妹と紡いだ絆が、私の命を救った。また、彼女は熱心に両親を説得し続け、遂に魔術の道へ進むことを認めさせることができた、と教えてくれた。おそらく、聡明な妹は、愚兄を反面教師にしたのだろう――彼女がそう思わせてくれたことで、私は心さえも救われた。過去の自らの過ちにも、ほんの少しは意味があったのだ、と』。
……それはそうと、伝え忘れておりましたが、彼の妹の名は“メローサ”と言いました。そして、彼女の存在が、その後のフラタルに“屍兵”を生ませるきっかけを作ったのです」
総主教がそう口にした瞬間、俺は戦慄を覚えた。
自然と封じてきた過去の記憶がまざまざと蘇り、直ちに絶望が全身を支配した。
メローサ――それは俺にとって、忘れたくても忘れられぬ女の名だった。
そして、俺の知るメローサは、決してフラタルの妹のように、慈しみ深い人間ではない。
(――彼女は、正真正銘、“悪女”にほかならなかった)
気づけば、俺は固く目を閉じ、深呼吸を繰り返していた。
あの日の出来事については、何も考えまい。ただ忘れ去るのみ――それが今日という日に至るまで、ひたすらに守り通してきたルールだった。
これからも、それは変わらないのだ、と俺は自らに言い聞かせた。
(……そうだ、“メローサ”という名は、別段珍しいものではない。単なる偶然、単なる運命の悪戯に過ぎないのだ)
直ちにそう結論づけ、過去の記憶に力づくで蓋をし、俺はどうにか落ち着きを取り戻した。
「――医師に処方された薬と、妹の必死の看病の甲斐もあり、フラタルはすぐに小康状態となりました。そして、彼女の説得に応じ、静養のため、五年ぶりの帰郷を果たしたのです」
間もなく、総主教はそう話し出し、俺は再び真剣に耳を傾けた――。
* * *
フラタルが久々に対面を果たした両親は、どちらもひどく老け込み、以前とは見違えるほどやつれていた。
「よく帰ってきた」とだけ父は言い、母と家に戻っていた長兄は、黙って涙を流した。
彼らはフラタルを責めも咎めもせず、過去に家中の金品を盗んだことにも、一切触れようとしなかった。
ただひたすらに、静かな笑顔と抱擁をもって、フラタルを受け入れた。
そして、家族の大いなる変化に直面した彼は、はたと気がついた。
自分がかつて抱いた憎悪や反抗心といったものは、既に心の中から消え失せていたのである。
この五年で、俺はひどく疲れ果て、ずいぶんと傷つきもした。実に意外だが、それは彼らも同じだったのではないだろうか――何とはなしに、フラタルにはそう察せられたのだった。
身体が癒えたら、再び魔術の道を志してはどうか。今ならば、父も母も反対しないと思う――妹はそのように提案したが、フラタルは黙って首を振った。
今では、自分が昔のような情熱や意欲を抱けなくなっていることを、彼は承知していたのである。
俺は人生における最良の時期を、虚しく浪費してしまったらしい――実を言えば、帰郷するずっと以前から、彼はそうした思いに捉われていた。
然るべき時期に、正しい姿勢で物事と向き合わねば、人間の可能性というものは、掌からぽろぽろとこぼれ落ちてしまう。
それと同時に、静かな死のような諦めが、否応なく我が身を覆ってゆく――。
しかし、妹は自分とは違い、そうした人生の真理を、自然と理解していたのだろう、とフラタルは思った。
なればこそ、両親の反対にも屈せず、前途洋々の未来を手にすることができたのだ、と。
今ではフラタルは、ただただメローサを敬服するばかりだった。
彼女は、あふれんばかりの才覚を手にしながらも、謙虚さや公平さ、他者への思いやりといった美徳を失っていなかった。
そして何よりも、こんな愚かな兄を進んで探し出し、その命を救ってくれたのだ、と彼は深く感じ入った。
その後、体調を取り戻したフラタルは、誰に言われるでもなく、地元の小さな教会に足を運び、下働きをさせて欲しいと頼み込んだ。
次いで、夜間の神学校に通いたいと両親に頭を下げ、驚きを隠せない彼らから、その許しを得た。
フラタルは当時の心境について、以下のように手記に残した。
『人生の岐路に立った私は、この先も故郷の地に留まり続け、静かに時間が過ぎてゆくことのみを願った。しかし、己の心に限っては、遥か遠くへ向かわせることを望んだ。私が再び信仰の道に足を踏み入れたのは、それが自分とは最も縁遠いものだったせいだ』。
かくして、フラタルは雑用係として早朝から夕暮れどきまで教会に勤め、その後は夜間学校に通うという日々を送り続けた。
そうした生活を四年ほど経て、彼は隣町の教会の助祭に任じられた。
またそれは、妹のメローサが“宮廷魔術師になる”という幼少期の兄との約束を、見事に果たした直後のことでもあった。
* * *
「――聖ギビニア教会の助祭となったフラタルは、常に礼儀正しく、勤務態度も非常に真面目だったと伝えられています。そして、一年の研修期間を終え、晴れて司祭への昇格を果たしました。彼は静かに自らの職務を愛し、多くの信徒たちから慕われたそうです」
わずかに遠い目をしながら、総主教はそう言った。
「……司祭となってから約三年、フラタルは己の人生において、最も平穏な時期を過ごしました。彼は休みのたびに実家に足を運び、家族と過ごす時間を慈しみました。そして、宮廷魔術師として王城に勤めるメローサとの交流を、何よりも大切にしたそうです。二人は失った時間を取り戻すかのように、頻繁に手紙のやり取りを交わしました。そのうち、今度は彼のほうが妹に影響され、魔術に対する興味を再燃させました。少しでも妹の力になれればと、久々に魔術書を手に取ったことがきっかけで、彼は再びその探求に引き込まれていったのです。無論、職務に差し支えがない範囲で、ですが」
総主教はそこで口をつぐみ、そっとまぶたを閉じた。
そして、再び目が見開かれたとき、そこには覚悟を定めたような深みのある光が宿っていた。
「――しかし、運命は否応なく、フラタルに大いなる変化を迫ります。そう、それは王国歴1189年のことでした」
「……ということは、“ジャーガンディアの侵攻”があった年ですね」
ディダレイの言葉に、総主教はしっかりとうなずいてみせた。
そして、その後のフラタルの運命について、どこか重々しい口ぶりで語り始めた――。
* * *
ジャーガンディア――“不浄帝”ダウダミラ三世が、過去に一代で築き上げた、南方の一大帝国の名がそれだった。
王国歴1189年、ダウダミラ三世は、冬の終わりと同時に大々的な北方遠征を開始した。
その第一歩として、服従を拒んだレヴァニア王国に対し、二十五万の大軍を送り込んだのである。
ジャーガンディアの軍勢は、その圧倒的兵力によって、迎え撃つ王国軍を次々に打ち破り、王都に向かって破竹の進撃を続けた。
その傍ら、彼らはひたすらに家々を焼き、財産を略奪し、悉く女たちを強姦し、赤子から老人に至るまで虐殺した。
一刻も早く、被侵略国から“降伏”の言葉を引き出すため、暴虐の限りを尽くすのが、ダウダミラ三世のやり方だった。
ゆえにこの男は、“不浄帝”の異名を持つに至ったのである。
侵略が始まると同時に、フラタルの周囲もにわかに騒がしくなった。
今しばらくの間は、北方のウイユベリ地方が戦場と化す恐れはなかったが、当然のごとく民は震え上がり、教会に救いを求めて殺到した。
かつては比較的静かだったフラタルの勤める小さな教会も、その例に漏れなかった。
今では、平和と王国軍の勝利のために、夢中で祈りを捧げる人々の姿であふれ返っていた。
「――神父様、教えて下さい。神はなぜ、私たちを試されるのでしょうか?」
そのような疑問を、信徒たちは事あるごとにフラタルに投げかけた。
既に一端の司祭となっていた彼は、教典の一部を自在に引用しつつ、精魂込めて悩める人々の不安を和らげ続けた。
神がもたらした試練を耐え抜くことは、我々にとって成長の機会であり、その先には、命の冠が約束されて云々――とまあ、そういったところだ。
しかし、彼は内心では信徒たちと同様の疑念を抱いていた。
ジャーガンディアの兵によって、戦いに参じた兄が無残に殺された、嫁に行った娘が凌辱されて殺された――そのような話を耳にするたび、彼は抉られるような心痛を覚え、少しずつ、しかし確実に、信仰が揺らいでいくのを感じた。
そんなある日、フラタルの家族の元に、一通の手紙が届いた。
中に封じられていたのは、妹のメローサの死が記された、黒い縁取りの報せだった。
* * *
「――国命を受けたメローサは、ポリージアをはじめとした軍事上の要地を回り、当地の魔術師たちに結界術の指導などを行っていたそうです。そして、その際にジャーガンディア軍の奇襲を受け、自ら勇敢に戦い、その命を散らしたと伝えられています」
今では総主教の声から、はっきりと苦渋の色が窺えた。
それから彼は、大きく息を吐き出し、丹念に言葉を選ぶような口調でこう続けた。
「……それを知ったとき、フラタルがどのようなことを感じたのかは、当時から今に至るまで、誰にも正確なところは分かりません。彼の死後に発見された唯一の手記にも、それを知る手がかりは残されておりませんでした。妹の死を境に、彼は手記を綴ること自体を止めてしまったのです。よって、これよりお伝えする内容は、基本的には他者の証言をまとめることで得られたものです。場合によっては、事実の羅列のように聞こえるかもしれませんが、その点については、前もってご承知いただければと思います」
* * *
妹の葬儀が終わった翌日、フラタルは直属の上司である教区長の元を訪ね、「神経衰弱に陥ったため、当分の間、仕事を休ませて欲しい」と願い出たという。
フラタルの死人のごとく青ざめた顔、そして異様に輝く落ち窪んだ眼を見て、上司は二つ返事で休暇を承諾した。
この様子では、まともに職務につけるはずがないと、一目で見て取ったのである。
フラタルが仕事を休み始めた二日後、懇意にしていた一人の同僚が、様子を見に彼の住まい――勤務先の教会のすぐ近くの借家だった――を訪ねたが、一向に返事はなかった。
おそらく、家族の元に戻ったのだろう――同僚は当然のごとくそう考え、今度はフラタルの実家に赴いたが、突然の訪問は、彼の家族をひどく困惑させた。
「息子は、こちらには帰っておりません。勤めに出ていたとばかり思っていたのですが……」
フラタルの母親は、憔悴しきった顔でそう話したという。
以降、忽然と姿を消した彼の足取りは、杳として掴めなかった。
失踪から約三週間後、フラタルが姿を現したのは、国の南西部に位置するヴァレリア渓谷だった。
そこでは、ジャーガンディアの軍勢を食い止めようと、レヴァニア王国軍の兵士たちが決死の戦いを繰り広げていた。
最初にフラタルと遭遇したのは、王国軍の下士官で、トネルという男だった。
このとき、深手を負っていた彼は、後方の安全地帯まで退却していた。
トネルの率いた隊は、奮戦虚しく壊滅状態に陥り、幾人かの兵卒と共に、敗走を余儀なくされたのである。
周囲には、彼と同様、多数の負傷兵が存在し、癒し手たちは魔術を用いて必死の治癒を試みていた。
空にはいつしか、不気味なほど色鮮やかな夕陽が昇っていた。
間もなく、傷の手当てを受けたトネルは、近くに積み上げられた無数の兵士たちの遺体を、不意に見やった――と同時に、骸の山の前に立ち尽くす、一人の男の姿を認めた。
漆黒のマントに身を包んだその男は、一心不乱に何事かを呟いていた。
男から、ただならぬ気配を感じ取ったトネルは、狂人だろうか、と訝しんだ。
そして、自然と立ち上がり、誘われるように男の元へと近づいていった。
そのときだった。
――骸の山が小さく蠢き、そこから一人、また一人と人影が立ち上がったのである。
トネルが目を凝らして見ると、それらは紛うことなき、王国軍の死せる兵士たちだった。
その中には、彼が自らの目で死を確認した同僚の姿さえあった。
――俺は奇跡の顕現を見た、と瞬時にトネルは悟った。
世の理を覆し、黄泉からの復活を遂げた兵たちは、騎士がその主人に忠誠を誓うがごとく、男の前に跪いていた。
しかし、恐ろしいとかおぞましいなどといった印象は、微塵も抱かなかった。
むしろ、トネルは蘇った兵たちの瞳が宿した、鬼火のごとき蒼い鮮烈な光を見て、我が身が震えるほどの神聖さを感じていたのである。
「――あなたは、一体何者なのです?」
男の背後に立ったトネルは、無我夢中のまま、そう尋ねていた。
「……妹を殺されし兄」
背を向けたままの男は、ぽつりと呟いた。
そして、短い沈黙を挟んだのち、こう続けた。
「――祖国と平和を守りたいと願うあまり、禁忌を犯せし者」
男の声は深く静かだった。
にもかかわらず、そこに込められた、凄絶なる気迫とほとばしる激情の渦に、トネルはすぐさま圧倒された。
気がついたとき、彼も蘇った兵たちと同様、奇跡の発現者たる男に向かって跪いていた。
近くに居合わせた、トネル以外の兵たちも、皆揃ってその場に膝を突いていた。
* * *
「――フラタルが編み出し、のちに王国軍を圧倒的勝利に導くその秘術は、“奇跡の兵”と名づけられました」
言いながら、総主教は天井を仰ぎ見た。
そこには、蒼い瞳の兵たちに囲まれた、一人の男の装飾画が描かれていた。
顔中に髭を蓄えた、黒い長髪の男で、漆黒のマントをなびかせている。
その鼻筋は高く通り、尋常ならざる眼力を宿していた。
この人物こそがフラタルなのだ、と俺は直ちに見て取った。
「……国難を救った奇跡の秘術が、やがて“屍兵”などという禍々しい呼び名に変わってしまうなど、当時の人々は、誰一人として予想し得なかったでしょう」
深い眼差しをフラタルの天井画に注ぎつつ、総主教はそう言った。
俺は固唾を呑み、話の続きを待った。