32.原始の屍兵
ディダレイが頬を掻くふりをして、急いで目尻を拭った様を目にした瞬間、俺は勝利の余韻から覚めた。
イクシアーナ、リアーヴェル、互いに肩を貸し合いながら立ち上がった“聖女の盾”の三人、リューリカをはじめとした聖騎士たち――周囲を見渡すと、程度の差こそあれ、誰もが皆、安堵したように笑顔を浮かべている。
勝利の喜びと、そこに至るまでの労いが、自然と彼らの間で共有され、互いの結びつきをことさら深めているように映った。
しかし、俺はその輪から外れていた。
あるいはそれは、ディダレイも同じかもしれない、と俺は思った。
(――ジャンデル・ムルバンク。俺の正体を初めて見破った男。第二の彼が現れたとき、俺は再びその者の命を踏み台にするのだろうか?)
実に暗澹たる心持ちになりながら、聖剣を握る己の手をじっと見た。
気づけば、刀身がまとっていた“炎の魔術効果付与”は、その役目を終えたとばかりに消失している。
(――“英雄殺し”の一件が片付いたら、人里離れた山奥で、独り隠遁生活を送るべきなのかもしれぬ)
そのように思案していると、間もなく、こちらに近づいてくるイクシアーナの姿が目の端に映った。
俺が顔を上げると同時に、隣に立つディダレイが、いくぶん慌てた口ぶりで彼女に尋ねた。
「――この近辺に“英雄殺し”の姿はありませんでした。客室のほうに向かったのでは?」
「……いえ、こちらの戦いに加わるまで、私たちは危険とは全く無縁でした」
イクシアーナは不意に立ち止まり、少々怪訝な面持ちでそう答えた。
「――ならば、“英雄殺し”は今どこに!?」
ディダレイが焦りを滲ませた声を発すると、イクシアーナの後方に立つリアーヴェルが、重々しく口を開いた。
「……私もそれを案じていた。しかし、不審な暗黒魔素の気配は、敷地内のどこにも見当たらないのだ」
言いながら、全く信じられないとばかりに、彼女は静かに頭を振った。
そして、こう続けた。
「先ほどまでは、屍兵の放つ瘴気や、聖光魔術によって生じた光の魔素などが、巨大な靄のように混在していたせいで、私の感知力も鈍っていた。しかし、既にその状況は解決した。従って、今ならば“英雄殺し”を見つけることは造作もないと考えたのだが、それらしい気配はどこにも感じられない」
リアーヴェルの言葉に嘘はないのだろうと思いつつ、俺は目を閉じて極限まで集中力を高め、暗黒魔素の気配を探りにかかった。
事実、“英雄殺し”はファラルモに“屍兵”を用いて蘇らせ、さらには“屍兵化の効果を持つ魔術効果付与”さえ使ってみせた。
これほどの魔術を用いたとあらば、当分の間、濃密な魔素が術者本人の身辺から消失することはない。
要するに、暗黒魔素の強烈な発信源たる“英雄殺し”の居所は、現在の状況下ならば、暴き出せて当然と言えた。
さながら、白鳥の群れに迷い込んだ一羽の烏を見分けるがごとく、それは容易いはずである。
にもかかわらず、リアーヴェルの話した通り、それらしい気配は一向に見当たらなかった。
(……あまりに不可解だ。あり得ぬ)
俺は思わずため息を漏らした。
これほど短時間のうちに、魔素の気配を感知させないほど遠くに逃げおおせることは、まさしく至難の業に違いなかった。
“移転の門”を用いて姿をくらましたのならば話は別だが、敷地内には、それを封じる結界さえ施されているのである。
(――とは言え、暗黒魔術封じの結界も破られた以上、それさえ絶対ではない)
俺は再び嘆息した。
こうも簡単に常識を覆されてばかりでは、もはやお手上げというほかなかった。
「……何にせよ、ひとまず襲撃は止んだと判断して差し支えないでしょう」
再びイクシアーナの声が耳に入り、俺はまぶたを開けた。
すると、俺の眼前に彼女は立っていた。
「――ケンゴーさん、心より感謝いたします。あなたは“剣”の務めを見事に果たし、さらには身の危険も惜しまず、私を救って下さいました」
聖女然とした笑みをたたえたイクシアーナが、真っ直ぐにこちらを見つめながら言った。
「――礼には及びません。それが役目ですから」
彼女を呼び捨てにした先の反省を活かし、俺は言葉遣いを改めて言った。
無論、声を発することに躊躇いはあったが、今の俺には、彼女を無視することはできなかった。
(――五体満足で生き永らえることができたのは、ほかでもない、イクシアーナの下した団長命令のお陰なのだ)
改めてそれに感謝しつつ、俺は言葉を続けた。
「しかし、約束したにもかかわらず、“英雄殺し”を討つどころか、その姿を認めることさえ叶いませんでした。力及ばず、申し訳なく存じます」
深く頭を下げると、イクシアーナは間を置かずにこう返した。
「……止めて下さい。謝る必要などありません。何よりあなたは、一番大事な約束を果たしてくれたのですから」
それを聞いて、俺は驚かずにはいられなかった。
聖堂内の兵たちを指揮し、ファラルモを含めた全ての“屍兵”をあるべき状態に還し、さらには“英雄殺し”を討ち取る――俺が必ず果たすと宣言し、一番大事な約束だと認識していたのは、無論これである。
だが、イクシアーナにとっては違ったのだ、と俺は思った。
聖剣を借り受ける際、彼女とは、確かにもう一つの約束を交わしていた。
『――生きて戻って、必ずご自身で私に返して下さい。約束ですよ』
俺は妙な心持ちだった。
戦いに出向く際、かように生存を期待された例など、果たしてあっただろうか、と。
『――戦場では常に、一人でも多く敵兵を殺せ。敵兵を二人以上殺しておけば、こちらには必ず“お釣り”がくる。義勇兵の死の価値は、常に“お釣り”の多さで決まると思え』
義勇軍時代、上官たちは事あるごとにそう口にした。
当時、生存は二の次、戦果さえ稼げばそれで良し、という風潮が、至極当然のものとして受け入れられていた。
だが、聖ギビニア騎士団においては、全く違う価値観が根付いているのだろう、と俺は思った。
戦い抜き、そして生き残れ。そのために剣はある――イクシアーナは、兵たちにそのように説いてきたのではないだろうか。
少なくとも俺には、そんな風に思えてならなかった。
「――約束通り、お返しいたします」
俺はイクシアーナに向かって首を垂れ、聖剣を両掌に載せて差し出した。
すると、彼女は満足気にうなずいてそれを受け取り、腰の鞘に収めた。
「――私はあなたの存在を、大変心強く感じています。これからも、変わらず私の“剣”でいて下さいますか?」
イクシアーナが真剣な面持ちで尋ねてきた。
その声には、心なしか切迫した響きが感じられた。
「――“英雄殺し”が討ち果たされるそのときまでは、必ず」
わずかに思案したのち、俺はそう答えた。
それが今口にできる、精一杯の言葉だった。
イクシアーナは微笑みを浮かべたのち、隣のディダレイに視線を移した。
「それから、ディダレイさんにも、何と感謝を申し上げて良いものか……」
「いえ、礼など不要です。元より、こちらが好きで首を突っ込んだこと」
ディダレイは、どこか気もそぞろといった様子で答えた。
ジャンデルの死について、改めて想いを巡らせているのかもしれない、と俺は思った。
「そうだとしても、力を貸して下さったことに、変わりはありません。それに……」
イクシアーナはそこで言葉を置き、周囲に並び立つ聖騎士たちの顔を、ぐるりと見回した。
「ほら、御覧下さい。兵たちの顔つきが、別人のように勇ましく様変わりしています。これもきっと、あなた方のお力添えのお陰なのでしょう」
彼女の言葉に、俺たちは黙り込むばかりだった。
見事に生き残った三十三名の聖騎士たちの姿は、今は亡きジャンデルの存在を、ことさら強く思い起こさせるところがあった。
今の状況を手放しで喜ぶことは、決してできない――そんな想いを、俺とディダレイは、確かに共有していたように思う。
「……あの、ところで、ジャンデルさんは?」
物言わぬ俺たちの様子から、何かを感じ取ったと見えるイクシアーナが、微かに震える声で尋ねた。
しかし、俺もディダレイも、ただただ口を閉ざし続ける以外、術を持たなかった。
いつしか、張り詰めた静寂が辺りを満たしていた。
「――我々は、ジャンデルを失いました」
長い沈黙ののち、ディダレイは自らに語りかけるように話し出した。
彼の顔からは表情が失われ、その瞳は一点の虚空に注がれている。
イクシアーナは驚きを隠せないとばかりに目を見開き、両手で口元を覆っていた。
「彼は禍々しい瘴気を宿した槍に貫かれ、“屍兵”と化したのです。戦いに際し、誰しも死の覚悟を持つのは当然ですが、“屍兵”に身を堕とすことに関しては、その限りではありません。誇り高き戦士の最期としては、あまりに惨過ぎる仕打ちと言えましょう」
ディダレイはそこで強く唇を噛み、静かに拳を握り締めた。
気づけば、彼の瞳には、強固な意志の輝きが蘇っていた。
「……ジャンデルの無念を晴らすためにも、必ずや我が手で “英雄殺し”を捕らえねばなりません。一つでも多くの証拠を掴むため、早急にファラルモ様の遺体を検分させていただきたいのですが、構いませんか?」
ディダレイは英雄の骸に目を向けつつ、決然とした口調でイクシアーナに迫った。
彼女は「もちろんです」と答え、それからリアーヴェルに向かってこう告げた。
「――あなたもぜひ、調査に協力してあげて下さい」
リアーヴェルは黙ってうなずき、ディダレイはイクシアーナに一礼した。
「――それは心強い。願ってもいないことです」
そう言うなり、彼はリアーヴェルと共にファラルモの亡骸へと向かった。
かくして、二人は“分析”の術を詠唱し、ファラルモにかけられていた魔術の洗い出しにかかった。
その傍ら、俺はイクシアーナの求めに応じ、先の戦いの報告を行った。
報告が済むと同時に、彼女は祭壇脇の壁に空いた大穴に目を向け、その先に横たわる、元の骸に還った聖騎士たちの姿をしばし眺めた。
次いで、彼女は“魔力探知”の術を用いたのち、トモンドを呼び寄せ、次のように命じた。
「――念のため、この場の聖騎士たちを率い、地下霊廟の様子を探りに行って下さい。新たに暗黒魔術が用いられた様子はありませんが、用心しておくに越したことはありません。安全が確保でき次第、すぐに同朋たちを弔いましょう」
横でそれを聞いていた俺は、妙に落ち着かない気持ちになり、自ら帯同を願い出たが、イクシアーナにきつく睨まれた。
「……ケンゴーさんは少し、お身体をお休めになって下さい。団長命令ですッ!!」
有無を言わせぬ彼女の口調に、俺は止むなく引き下がった。
* * *
トモンドたちが発って間もなく、ディダレイとリアーヴェルの“分析”が終了した。
二人は早速、残っていた面々――イクシアーナ、ネーメス、アゼルナ、そして俺だ――を呼び寄せ、その結果を子細に語り始めた。
「――まず一つ明らかになったのは、ファラルモに“時間術”の一つである“時限発動”がかけられていたという点だ」
そう切り出したのは、リアーヴェルだった。
“時限発動”とはその名の通り、一定の時間が経過すると、“併用していた魔術が自動的に発動する”という効果の術である。
また、“時間術”は“屍兵”ほどではないにせよ、その習得は実に困難であり、ほとんど使い手が存在しないことで知られていた。
「つまり、棺が大聖堂に運ばれたのちに、ファラルモにかけられていた“屍兵”が自動発動するよう仕組まれていたわけだ。また、“屍兵”と同時に、ほか二つの暗黒魔術が起動していたことも判明した。身体能力を向上させる“暗月の祝福”と、魔術防護壁を生む “黒き霧の盾”だ」
いくぶん神経質な手つきで眼鏡の位置を直したのち、リアーヴェルはこう続けた。
「既に瘴気が失われていたせいで、今回“分析”することは叶わなかったが、ファラルモの槍にかけられていた“屍兵化の効果を持つ魔術効果付与”も、先の三つの魔術と同時に発動したと見て間違いないだろう」
「……そうなると、一つ気がかりな点があります」
イクシアーナが、考え込むように腕組みしながら言った。
「それほど強力な魔術が、事前に重ねがけされていたのなら、ファラルモの遺体やその棺は、おびただしい量の暗黒魔素を帯びていたはずです。それこそ、魔術の才がある者ならば、誰でも感じ取れるほどに。しかし、実際は私自身を含め、誰も気づくことができませんでした。これは一体、どういう訳なのでしょう?」
「――仰る通り、それが最大の疑問点です」
ため息交じりにそう答えたのは、ディダレイだった。
「ファラルモ様の遺体には、何らかの結界が施された痕跡がありました。おそらくは、これが仕掛けられた時間術や暗黒魔術の感知を防いだのではないか、と考えています。しかし、それさえ単なる仮説に過ぎません。はっきりとした理由が、我々には掴めていないのです」
ディダレイは、もうお手上げだとばかりに嘆息してみせた。
次いで、リアーヴェルが再び口を開いた。
「……ほかにも、分からないことはたくさんあった。たとえば、その一つが、ファラルモにかけられていた“屍兵”だ。“屍兵”であることに間違いはないのだが、通常のそれとは何かが異なっていた。こちらについても、現段階では明確な解答を導き出せていない」
リアーヴェルの声は、微かに苛立ったような響きを帯びていた。
彼女にとって、魔術分野において“分からないことがたくさんある”という状況は、あまり前例がないのだろうと察せられた。
「ファラルモが身にまとった“骨の鎧”についてもそうだ。あれは、この私も存在を知らなかった魔術で、まともに術式を読み解くことさえできなかった。唯一、屍兵化したファラルモの肉体が、一定の損傷を受けた時点で自動発動する仕掛けになっていたことだけは理解できた。しかし、それ以外はさっぱりだ」
小さく唇を噛みながら、リアーヴェルが言った。
「……要するに、今までの話を整理すると、“英雄殺し”は端から聖堂内に存在していなかった可能性がある、ということかしら?」
イクシアーナが疑問を投げかけると、「まさしく」とディダレイが答えた。
「此度の襲撃は、“英雄殺し”本人がこの場に姿を現さなくとも、十分成立できたと言えましょう。奴がファラルモ様を殺害したあと、事前に全ての術を遺体に施しておけば、それだけで済む話なのですから」
そう語ったディダレイに、リアーヴェルは突如として険しい視線を向けた。
「――ひょっとすると、今回の襲撃は、“英雄殺し”とは別人の犯行なのかもしれない」
何やら含みのある言い方だ、と訝しみつつ、俺は彼女の話の続きを待った。
「今朝の定例会議で、私は次の事実を知った。ファラルモの葬儀は、生前の功績を讃え、特例的に王室礼拝堂で行われたのだ、と。そして、王室礼拝堂は、レヴァニア城の敷地内に設けられている。よって、ファラルモの遺体が敷地内に運ばれてから大聖堂に移されるまでの間に、何者かの手によって細工されたとも考えられる」
「その間、レヴァニア城に出入りできた全ての者に、襲撃を企てた嫌疑がかかる――リアーヴェル様は、そう仰りたいわけですね?」
わずかに眉をひそめつつ、ディダレイが尋ねた。
「……私はあくまでも、可能性の一つに言及しているに過ぎない。ところで、城内に運ばれたファラルモの棺は、どこの誰が警備を担当していたのだろう? 放っておいたなどということは、さすがに考えられないが」
リアーヴェルにしては珍しく、言葉の端々にあからさまな棘が感じられる言い方だった。
先の通り、自分の魔術知識を超えた出来事に直面していることに、余程手詰まりを感じているのか。
はたまた、今回の襲撃に対し、特別に思うところがあるのか。
リアーヴェル本人でない限り、正確なところは誰にも分からないが、彼女の感情がかき乱されているということだけは、傍目にもよく理解できた。
「――リアーヴェル様も、ずいぶんと剣呑な物言いをなさる。まるで王国騎士団員の中に、今回の襲撃を目論んだ犯人がいるとでも言わんばかりだ」
ディダレイが不快感を露わにそう返すと、リアーヴェルはくたびれたように頭を振ってみせた。
「……済まない、先の発言には少々語弊があった」
言いながら、彼女は深々と嘆息した。
「正直に告白するが、今の私はどうかしているらしい。ファラルモの遺体に細工した術者の腕前と才覚は、正真正銘、規格外の一言に尽きる。その事実を目の当たりにして、混乱しているのだろう」
リアーヴェルの声は、ひどく憔悴した響きを帯びていた。
滅多に見られないであろう、普段のマイペースぶりを完全に失った彼女の様子が、その場の全員の表情を直ちに曇らせた。
「こんなことをやってのける相手に、太刀打ちする術がまるで見当たらないのだ。ファラルモにここを襲わせたのも、その者にとっては、ほんの遊び程度に過ぎない――私には、そのように思えてならないのだ」
リアーヴェルが口をつぐんだ途端、辺りを鉛のように重苦しい沈黙が呑み込んだ。
彼女の言葉は、各々が心の中に抱いていた不吉な予感に、はっきりと輪郭を与えるだけの力を備えていた。
おぞましい災いを招くしるしのようなものが、さながら罪人が焼印を捺されたかのごとく、己の運命に刻まれたのではないかと、俺は密かに案じた。
そのときだった。
――固く閉ざされていた大礼拝堂の正面扉が、ゆっくりと開いた。
部屋の中に入ってきたのは、十名ほどの警護の兵を引き連れた総主教だった。
彼は真っ直ぐにこちらへ近づくと、「よろしければ、ここで何が起きたか、詳しくお聞かせ願えませんか?」と尋ねてきた。
イクシアーナは神妙な面持ちでうなずくと、今しがた終わった死闘と、その後にファラルモの遺体を“分析”して得た結果について、簡潔に説明し出した。
話を聞いているうちに、総主教の顔つきはだんだんと変化していった。
空気のように澄んでいた瞳に陰りが差し、顔中に刻まれた深い皺が、不自然なほど際立っていったのである。
イクシアーナが話し終えると同時に、総主教はおもむろに歩き出し、ファラルモの骸の前に立った。
そして、宙に両手を突き出し、即座に“分析”の魔術を詠唱した。
「――確かにこれは、ゼルマンド戦役時に見られた“屍兵”とは、少々趣が異なっています。おそらくですが、原始の“屍兵”により近いのかもしれません」
総主教は静かな声でそう告げると、ゆっくりと両手を下ろし、こちらに向き直った。
「……原始の“屍兵”により近い!?」
リアーヴェルが驚いたように繰り返すと、総主教はしっかりとうなずいてみせた。
「――今や人々の記憶からすっかり失われておりますが、聖人フラタルは、世に初めて“屍兵”の術を編み出した張本人です。もうずいぶんと昔の話になりますが、私は彼が生んだ原始の“屍兵”について、文献で学んだことがありましてね」
“聖者”と称される類の人間が、暗黒魔術に手を染めた先例があった――その驚くべき事実を知った途端、己の頭に、宿命的な楔を打ち込まれたような衝撃が走った。
聖人フラタルとは、言わずもがな、この大聖堂の名の由来となった人物である。
――どのような運命が、聖人フラタルをして、混沌の元凶となった暗黒魔術を生ませたのか?
――なぜ、忌々しき“屍兵”の生みの親が、今なお聖人に名を連ねているのか?
これらの疑問は、俺の心を深く捉えて離さなかった。
「……聖人フラタルの生涯とは、一体どのようなものだったのでしょうか?」
気づけば、俺は総主教に向かってそう尋ねていた。




