8.新たな二つ名
「“傷跡の聖者”とは何だ?」
俺はバーテンダーに尋ねた。“傷跡”という文言が、 どうも気にかかった。
「ご存じありませんか? ここ最近、ちょっとばかり話題になっているんですがね」
知らぬゆえ、詳しく聞かせて欲しいと頼むと、バーテンダーは嬉々とした口調で語り出した。
「実は、つい半月ほど前、私の妹が突然姿をくらましたんです。それで、家族総出で探し続けたんですが、一向に見つからず、手がかり一つさえ掴めないでいました。身内が言うのも何ですが、妹は器量が良かったもんですから、何かひどい目に遭わされているんじゃないかと、親父もお袋も毎日わんわん泣いてばかりいましてね。ところが一昨日、ひょっこり戻って来たんです」
それは良かった、と相槌を打つと、バーテンダーは穏やかに表情を崩した。
「何でも、本人の話では、黒いローブ姿の怪しげな集団に誘拐されていたらしいんです。それじゃ、どうやって逃げて来たんだと訊いたら、『勇敢な男が、たった一人で助けに来てくれた』と答えましてね」
黙っていると怪しまれそうなので、「このご時世に、奇特な人もいるもんだ」と合いの手を入れると、バーテンダーは深々とうなずいてみせた。
「実を申しますと、その男ってのは、顔中を布でぐるぐる巻きにしていたそうなんですよ。まるでお客様みたいに。ところで、ウチの妹ってのは、少々好奇心が強い性格でしてね。その男が、明け方に川へ顔を洗いに行ったのを、一緒に救い出された娘たちを誘って、こっそり覗き見したらしいんです」
俺はすっかり閉口していた。
尾行されているなどとは夢にも思わず、川で顔を洗ったついでに、近くの木陰で立ち小便をしたことを思い出したのである。
「そしたら、その男ってのが、短い黒髪で、鋭い目を持った、大層な男前らしくてね。ただ、頬には無数の傷跡があったそうなんです。本人はそれを気にして顔を隠しているのだろうと、妹は話していました。ただ、あれだけ男っぷりが良ければ、傷跡なんてまるで気にならないし、隠す必要なんて全くない、とも言っていましたがね。そんなわけで、誘拐された娘たちは、その男に“傷跡の聖者”なんて名前をつけたらしいんですよ」
俺は愛想笑いを浮かべた。しかし、上手く笑えている自信はなかった。
「“傷跡の聖者”は、娘たちが何を尋ねても、ただただ黙っているばかりで、自分の名すら明かさなかったそうです。そればかりか、せめてお礼をしたいと申し出ても、そんなものは要らないと取り合わなかったんだとか。大した御仁だと思いませんか?」
俺は黙ってうなずいた。もはや適当な言葉は見つからなかった。
「正直に言うと、私は最初のうち、半信半疑で妹の話を聞いていたんです。けれども、そのうち妹以外の口からも、次々と“傷跡の聖者”の話を聞くようになりましてね。それで、とうとう信じないわけにはいかなくなったわけです。要するに、“傷跡の聖者”にお礼がしたいというのが、私のたっての願いなんですよ。ですから、その布を取って、お顔を見せてくださいませんか?」
どうやら、このバーテンダーは、俺が“傷跡の聖者”だと頭から決めつけているらしい。
ほとほと困り果てた俺は、仕方なしにこう言った。
「先に謝っておくが、実を申すと、俺はとんでもない不届き者なのだ。“傷跡の聖者”を演じ、人々から称賛を受けようと、浅ましい心で変装してここに参ったのだ。俺は自分が恥ずかしくて仕方がない。とんだ勘違いをさせて、大変申し訳なかった」
俺は仕方なしに頭を下げた。しかし、バーテンダーはまるで信じていない様子だった。
「と言っても、お客様、さっき“傷跡の聖者”のことは知らないと話していたではありませんか?」
「……ああ、そうだな。だが、さっきのは演技だったのだ。“傷跡の聖者”が自分の噂を聞き及んでいるというのも、興醒めだと思ってな」
「演技にしちゃ、ずいぶんと自然なように思えましたがね」
バーテンダーは疑り深い声で言ったのち、急に大きく目を見開いた。
「そうだ、お客様、良いことを思いつきました。もしよろしければ、ここで一つ、取引をいたしませんか?」
とりあえず言ってみろ、と答えると、バーテンダーはしたり顔でこう提案した。
「お客様は、私にだけこっそり素顔を見せる。すると、先ほどご所望されていた署名の入ったギルドの推薦状が、のちほど手元へ届けられるのです。さらに、私はあなたの正体が誰であろうと、決して口外いたしません。これ以上の詮索もしないと約束します。悪い取引ではないと思いますが、いかがでしょう?」
しばしの間、思い悩んだが、結局は取引に応じることを決めた。
俺は人を見る目には自信があったし、このバーテンダーならば、信用に足る人物だと判断したからだ。
それに、これほどまでに容易く推薦状が手に入るというのも、実に有り難かった。
背に腹は代えられないし、彼に素顔を明かしたところで、俺が脱走死刑囚の“イーシャル”だと見抜かれる恐れもなさそうである。
「……わかった。だが、一瞬だけだぞ?」
俺はそう念押しして、素早く顔の布を解いた。
すると、バーテンダーの目に、たちまち涙が浮かんだ。
「やはりそうでしたか。本当にありがとうございます。可愛い妹を助けて下さって……」
――家族とは、さぞ素晴らしいものなのだろう。
そんな感慨が、唐突に俺の胸を満たした。
天涯孤独の身ゆえ、上手く想像できないところはあったが、それでも、この男が妹を大切に想う気持ちは、何とはなしに理解できた。
「あんたみたいな兄貴を持って、妹さんはさぞ幸せだろうな。“傷跡の聖者”からの伝言だ」
言いながら、俺は急いで顔に布を巻きつけた。
バーテンダーの男は深く頭を下げたまま、しばらくの間、顔を上げようとしなかった。