29.大礼拝堂の死闘(前編)
穴を抜けた先は、大礼拝堂の中央最奥部に設けられた、祭壇の真横にあたる位置だった。
俺の視界は、部屋の中心を通る通路に踏み出したファラルモの背中を、しっかりと捉えていた。
十分な幅のあるその通路は、出入り口の荘厳な扉に向かって、一直線に伸びている。
そして、その左右には、木製の長椅子が何列にもまたがって配されていた。
(……まさしく天国と地獄だ)
大礼拝堂は、一個の完成された芸術品のごとき広大な部屋だった。
その天井や壁面には、見事な装飾画――地下霊廟に祀られる聖人たちの姿や、聖ギビニア教典の教えをモチーフにしたものだと、以前レジアナスが教えてくれた――が所狭しと描かれている。
今も死闘が繰り広げられている外の廊下とは、あまりに対照的な、神々しさに満ちた光景と言えた。
室内は、息が詰まるほどの静謐さで満たされている。
(――だが、ここもすぐに地獄へ変わるだろう)
そう予感すると同時に、脇に並んだディダレイが、ファラルモの背を射抜くように見据えながらこう言った。
「――奴は我々など眼中にないらしいが、今こそが好機だ。まずは私が、最大火力をもって一撃必殺を試みる」
いくぶん強張ったディダレイの声は、奇妙に誇張されて辺りに響いた。
「ようやく本領発揮だ。先刻は、手加減せざるを得なかったのでな。最初からこうだったら良かったが……」
ディダレイは、実に口惜しそうにそう加えた。
より効果的に魔術が使えていれば、いち早く合流地点に到達でき、ジャンデルの命を救えたかもしれない――俺の耳には、そのように聞こえてならなかった。
事実、屋内で火炎魔術を使うことは、常に火災のリスクと直結する。
加えて、先の廊下のような混戦状態であれば、飛び火で仲間に損害を与える危険性も考慮せねばならない。
左班の前線の兵たちは皆、手にした武器に“炎の魔術効果付与”こそ施されていたが、ディダレイはそれ以外の火炎魔術に頼ることを、極力控えたのだろう。
しかし、この大礼拝堂は、聖堂内では最も開けた部屋である。
これだけの広さがあり、また彼ほどの使い手であれば、火災を引き起こさぬように力を調節することくらい、いとも容易かろうと思えた。
「たとえ一撃で仕留め損ねたとしても、さすがに無事では済まされないはずだ。その際は、隙を突いて一気に攻めかかり、奴の首を落としてもらいたい」
任せてくれと返事をすると、ディダレイは力強くうなずき、手にした剣を背中の鞘に納めた。
それから彼は深呼吸を一つすると、その場に屈み込んで片膝を突き、大きく広げた右掌を床に押し当てた。
次に、彼はそっと目を閉じ、祈りを捧げるように呪文を唱え出した。
強力な魔術であればあるほど、長い詠唱時間が必要になるわけだが、それにしても、ディダレイの詠唱が終わる気配は一向に訪れなかった。
よほど強力な魔術を使うつもりらしい、と俺は思った。
やがて、ファラルモが通路の中ほどまで差しかかったとき、ディダレイは勢いよく目を開いた。
「――煮えたぎる炎よッ!! 休息も慈悲も与えぬ地獄の檻となれッ!!」
呪文の最後の一節を口にするや否や、ファラルモの周囲に次々と火柱が立ち、その姿をあっという間に呑み込んでいった。
俺も初めて目にするが、これこそが噂に名高い“炎の牢”であると、瞬時に悟っていた。
猛火の檻で閉じ込めた敵を、灰と化すまで焼き尽くす、最高峰の火炎魔術の一つである。
(――確かに、これを受けて無傷で済むことはなかろう)
既に天井まで達しかけた火柱が、激しくうねりつつ、互いにぶつかり合うその衝撃によって、辺りには熱風が渦巻いていた。
用心深く通路を進んでゆくにつれ、熱波はますます強さを増していった。
肌を焼かれるのではないかとさえ思え、自然と眉をひそめたほどである。
それでも、俺は自分が巻き添えを喰わずに済む、ギリギリの地点まで到達した。
そして、剣を構えてファラルモの様子を静観した。
すると間もなく、黄金の手甲に包まれた左手が、まるで助けを求めるかのように、炎の間から真っ直ぐこちらに伸びてきた。
(……やったのか!?)
そう思ったのも束の間、俺の全身は直ちに絶望に支配されていた。
――ゆっくりと炎の檻から抜け出したかつての英雄は、完全なる無傷だった。
(……“炎の牢”をこうも容易くやり過ごすとは、一体どのような魔術で護られているのだ?)
炎の檻が消失すると同時に、俺は聖剣の柄を固く握り締めた。
そして、すぐさまファラルモに向かって駆け出したが、いち早く動いていたのは相手のほうだった。
そのとき既に、ファラルモは大きく前方に跳んでいたのである。
間を置かず、横一閃に払われていた長槍の穂先は、今や俺の銅鎧に達そうとしていた。
予想を遥かに上回る跳力と速さのため、俺は完全に間合いを読み違えていた。
(――しまったッ!!)
気がついたとき、体が宙に舞っていた。
咄嗟に後方に跳び退がりつつ、剣で払いを受けこそしたが、その勢いを殺すには至らず、猛烈に吹き飛ばされたのである。
空中で体勢を整え、両脚で着地しようと試みたが、ままならなかった。
結果、俺は右後方の長椅子に背中から激突し、盛大な音を立ててそれを粉砕した。
今やファラルモは、こちらに向かって猛然と駆け出している。
咄嗟に立ち上がったものの、背中に電流のような痺れと激痛が走り、俺は思わず片膝を突いた。
(……まずい)
そう思った直後、“火球”の魔術が、三発続けてファラルモを襲った。
後方のディダレイが、俺を救おうと無詠唱で放ったに違いなかった。
しかし、それらは奴の体に到達する寸でのところで、突如として黒い靄に包まれ、あっという間に消失した。
“黒き霧の盾”だ、と俺は瞬時に見て取った。
強力な魔術防壁を自動的に作動させる効果を持つ、高位の暗黒魔術である。
(……何としても、槍の間合いから逃れねば)
それが分かっているのに、背中の痺れは未だ収まらず、まるで脚に力が入らない。
(――殺られるッ!!)
一瞬、それを覚悟した――が、奴は俺の眼前を疾風のごとく横切っていった。
先に除くべきは、“炎の牢”の使い手のほうだと判断していたのだろう。
ファラルモとディダレイの距離は、瞬く間に詰まっていった。
(――何としても、彼を助けねば。一人でやり合える相手ではない)
唇を噛みしめ、どうにか立ち上がった俺は、先を行くファラルモの背を睨みつつ、全速力で走り出した。
間もなく、奴は速度を落としながら槍の間合いに入り、ディダレイの正面から五月雨式に突きを浴びせ始めた。
一撃目をかわした瞬間には、既に二撃目が目前に迫っているという、苛烈を極めた攻め具合である。
強い、速い、正確無比――この三拍子が揃っている上に、顔、喉、心臓など、執拗に急所ばかり狙っているのが見て取れた。
まさしく一撃必殺、喰らった瞬間に“屍兵”と化すことが運命づけられている――ディダレイは、それを肌身に沁みて理解していたのだろう。
彼が一切の反撃を諦め、回避のみに専念しているという事実が、その動かざる証拠だった。
(――通常の屍兵には、決して真似できぬ動きだ。今のファラルモは、屍兵でありながら、他の追随を許さない武人と言っていい)
生前の技術はそのままに、屍兵化による筋力の増幅、さらには身体強化の術まで施されているのだ。
まともにやり合って勝てる見込みがないということは、火を見るよりも明らかだった。
先のように、払いを受けただけであれほどこっぴどくやられた例など、事実、一度として身に覚えがなかった。
しかし、俺は絶望や恐れとは全くの無縁だった。
起死回生の一手を、既に見出していたためである。
そして、その実現のためには、ディダレイは元より、共に戦い抜いてきた全ての聖騎士たちの力が必要不可欠だった。
(――皆に感謝せねばなるまい。一人だけの力では、絶対に勝てぬ相手だ)
俺は心からそう思った。そして、声の限りに叫んだ。
「――両班共に、屍兵との戦闘が済み次第、大礼拝堂内へ速やかに移動せよッ!!」
俺はますます速度を上げて駆け、ファラルモの一刀一足の間合いに踏み込んだ。