27.剥かれた牙、波の呑み合い
(――まずいッ!!)
そう思うより早く、俺は手にした聖剣を撥ね上げ、死を突きつけるかのごとき一撃を、寸でのところで防いでいた。
それを可能ならしめたのは、数多の死線を潜り抜けてきた経験が、この身に刻んだ生存本能のためか、はたまた、聖剣のもたらした奇跡的な恩寵のためか。
とにもかくにも命拾いした俺は、自らの迂闊さを呪いながら、かつ全ての事情を察しながら、先刻の凶刃を振るった張本人――そう、真向かいで曲刀を構えていたジャンデルを、これでもかと睨めつけた。
すると、彼も憎悪に満ちた眼差しで応えた。
むらなく血に染まった彼の顔が、その不気味さを一層際立たせていたことは、もはや言うまでもない。
“山猫”が牙を剥いたのだ、と俺は思った。
いずれこうした事態が起きてもおかしくないと睨んでいたのは確かだが、それがこれほど早い段階で訪れるとは、さすがに予期していなかった。
「――仕留め損ねちまったよ。腐っても“剣聖”だな」
今の彼の口調は、まさしく傭兵時代のそれだった。
本来の彼が、どこか勿体ぶった、粗野な話し方をする人間だということを、俺はよく承知していた。
たとえ傭兵に身をやつそうが、自分は貴族の生まれであり、有象無象の連中と一緒にされては困る――昔から、そんな含みを、常に言葉の裏に忍ばせているようなところがあった。
再会してから今に至るまで、王国騎士団の参事らしく、ずいぶんと行儀が良くなったものだと感心していたが、やはり猫を被っていただけらしい。
「不自然な仮面、どこか聞き覚えのある声、抜きん出た采配、卓越した剣の腕――俺の“眼”を甘く見たな、イーシャル」
忌々しげに口走るなり、ジャンデルの左頬に残された刃傷から、音もなく鮮血が滴り落ちた。
(――しかし、まんまと騙された。全て彼の狂言だったとは)
事実、ファラルモの姿はどこにも見当たらなかった。
今現在、合流地点の手前の廊下に立っているのは、俺とジャンデル、ただ二人きりだけである。
彼の左頬の刃傷も、自らつけたものであり、俺を欺くための演出に違いなかった。
(――むしろ、頬の傷など安いもので、確実に俺を殺せるならば、腕一本だって躊躇なく斬り落としていただろう)
彼の全身から発せられる、尋常ならざる敵意と殺意が、自然とそのような思いを抱かせた。
イクシアーナ、リアーヴェル、ジャンデル――“イーシャル”の素顔を知る三人のうち、最も多くの時間を共に過ごしたこの男を、誰よりも警戒すべきと知りながら、それを怠ったのだと俺は痛感していた。
聖騎士たちを導く際も、過去の俺を知る者ならば、別人と見紛うはずの熱烈さを示したつもりでいたが(とは言え、そこに嘘はなく、先の指揮ぶりこそ、現在の俺の真実の姿だった)、ジャンデルの目を騙すには、それでも不十分だったらしい。
(――自らの意志で戦うと決めたは良いが、どうやら、夢中になり過ぎていたようだ)
変わりつつある己を歓迎する一方で、俺は普段の注意深さを欠いていたのだろう。
大きな変化は、しばしば痛みを伴うものだと言われるが、それはまさしく真実に違いなかった。
お陰で良い薬にはなったが、その代償はあまりに高くつきそうだと思わざるを得なかった。
これ以上ないというほどの、最低最悪の条件下で正体を暴かれたことは、もはや言うまでもない。
本物の“英雄殺し”を野放しにしたまま、俺自身が四面楚歌に追いやられる状況など、完全に想定していなかった。
「――ようやく再会できて、俺は本当に嬉しいぜ、イーシャル」
言いながら、ジャンデルは見せつけるように舌なめずりした。
「……いや、今のお前は、“英雄殺し”と呼ぶべきだなッ!!」
そう吐き捨てるや否や、彼は恐るべき速さで曲刀を撥ね上げ、左から袈裟に斬りかかってきた。
あやまたずにそれを受けた瞬間、互いの刃から激しく火花が散ったかと思うと、彼は直ちに身を翻し、回転斬りを繰り出していた。
だが、彼の剣筋を知っていた俺は、その動きを事前に読んでいた。
迫り来る刃を正確に打ち払うと、ジャンデルは流れるように一歩前へ踏み出し、小さく前のめりになった。
そのとき既に、彼の曲刀の先端は、地面すれすれに位置していた。
(――右下からの斬り上げだ)
即座に見て取った俺は、僅かに身を反らせ、唸るように撥ね上がってきた剣を外した――が、空を切り裂いて高く掲げられた剣尖は、そのまま雷光のごとき速さで頭上に降ってきた。
「……ッ!!」
渾身の斬撃を剣の腹で受け止めるや否や、凄まじい衝撃が掌に走った。
同時に、金属の激突する、厚みを持った甲高い音が、いやというほど耳奥に鳴り響く。
聖剣でなければ、へし折られていてもおかしくなかった――そう思えるほどの凄絶な一撃だった。
それから、俺たちは二度、三度と刃をぶつけたのち、全く同時に深く踏み込んだ。
互いの剣が眼前で激突し、火花が躍った次の瞬間には、鍔迫り合いの格好となっていた。
今や、血に染まったジャンデルの顔は、息遣いが聞こえるほど間近にあった。
「――お前だけは、俺がこの手で必ず殺す。誰にも譲れねえ」
ジャンデルが押し殺した声で息巻いた。
彼は血走った眼で、舐めるようにこちらの顔を見ていた。
「………」
剣の握りに、一層力を込めつつも、俺は密かに安堵していた。
ジャンデルの意図するところは、あくまでも個人的復讐の優先――彼の一族を没落せしめた、“暗黒魔術”そのものに対する復讐だ――であり、少なくとも今のところは、周囲に俺の正体を報せるつもりはないと見て取ったためである。
「……しかし、世を忍ぶ仮の姿が、“傷跡の聖者”とはな。稀代の天才詐欺師だよ、お前は」
互いに押し合いを続ける傍ら、ジャンデルがさもおかしげに毒づいた。
「――なあ、“屍兵”を使ったのは、ガンドレールなんだろう? お前がここに奴を招き入れたんだ。そうに違いない」
それを否定したところで、聞き入れられるはずがない――私怨にとらわれ、憤怒に歪められたジャンデルの形相が、その事実をいやというほど俺に突きつけていた。
彼にしては珍しく、冷静さを欠いていることは、火を見るよりも明らかだった。
「――教えろよ、なぜ自ら屍兵討伐を申し出た? ガンドレールと合流したいなら、もっと賢いやり方があったはずだ。茶番の目的は何だ?」
ジャンデルがお喋りに夢中になっている間、押し合いは少しずつ俺の有利に傾き、彼はとうとう半歩ばかり後退した。
(――貴様に恨みはないが、ここで倒れるわけにはいかぬ。必ず“英雄殺し”を討ち果たし、生きて戻ると約束したのだ)
彼と戦うことに、密かに躊躇いを禁じ得ないでいたが、俺はとうとう覚悟を決めた。
(――俺は生きたい。生き続けたいのだ。昔のように、いつ死んでも構わないなどとは、今はゆめゆめ思わぬ。変わってゆく己の行き着く先を、俺はこの目で見届けたいのだ)
生き延びるためには、こちらが殺る以外に術はなかった。
事を果たしたあとは始末に困るだろうが、まず考えるべきは、いかにして勝負を制するか、その一点のみである。
相手が正真正銘の本気であり、また一頭地を抜く戦士であることは、ほかでもない俺自身が肌身に沁みて理解していた。
(――だが、一対一の斬り合いならば、分があるのはこちらのほうだろう)
俺はそう見ていた。
確かに単純な身体能力や体裁きでは、ジャンデルと俺はほぼ互角である。
また、過去に戦場を共にしてきたため、相応に手の内を晒し合っていることも間違いない。
……と、ここまでで判断すれば五分と五分だが、俺には鍛え抜いてきた“目”が備わっていた。
実力の伯仲する者同士の勝負を分けるのは、“目”によっていかに勝機を見出すかにほかならない。
決して驕りではなく、その点において、俺は誰よりも勝っているという自負を持つ男である。
流麗でしなやか、かつ速く、何よりも手数が多い――これこそが、俺の知るジャンデルの剣の真髄であり、その点は今も変わっていないと見抜いていた。
動きの無駄を排し、合理的に相手の隙を突き続けるその正確さと巧みさは、さながら、彼が構築してみせた“英雄殺し”の仮説に通ずるものがあった。
だが、それは長所であると同時に短所でもあった。
彼の戦いぶりは、精密機械のごとく計算し尽くされているがゆえ、型に嵌まり過ぎているとも言えた。
そのきらいは昔から認めていたが、現在はより一層それが強まっていることを、自らの“目”が告げていた。
恐るるべきは、その速さと正確さ、そして隙のなさであり、彼の動きを予測すること自体は、決して難しくないのである。
過去にやり合った際、レジアナスも精密機械のごとき戦いぶりを示したが、ジャンデルとは対照的に、彼には柔軟さが備わっていた。
レジアナスの剣は、敵を殺めるという目的において精密なだけであり、臨機応変に手を変えることができた。
だからこそ、俺はブエタナの屋敷で彼に素顔を暴かれたと言っていい。
だが、ジャンデルにはレジアナスのような柔軟さはなく、全ての動作が、また剣筋そのものが、単に精密機械のようなのだ。
技術に自負があるからこそ、自らの型に固執するのだろう。
少々肝を冷やした場面こそあったが、事実、俺は彼の攻撃の全てを読み切っていた――そう、俺にはジャンデルの動きが、手に取るようにわかるのだ。
(――相手の素顔をよく知っているのは、何もお前だけではない。そして、自分でさえ気づいていないだろうが、お前は少々感情的になっている)
そこに勝機があると確信した俺は、膝をたわめて力を溜めた。
「――うおおおッ!!」
俺は小さく吼えた。
そして存分に地を蹴り、前方へ飛び出すように強くジャンデルを押しやった。
彼はわずかに後方によろめきつつも、待っていましたとばかりに強烈な前蹴りを見舞ってきたが、それも当然、予測の範囲内だった。
そのとき既に、俺は次なる攻撃に移っていた。
真後ろへ跳んで蹴りを避けつつも、ジャンデルの頭上を目がけ、聖剣を振り下ろしていたのである。
「……ぬッ!!」
微かに呻きながらも、彼は並ならぬ速さで曲刀を振り上げ、その腹でしっかりと斬撃を受け止めていた。
さすがだ、常人には真似できぬ反応速度だ、と俺は唸った。
しかし、それは俺の望んだ通りの動きでもあった。
「――うおおおおおッ!!」
不利な態勢となったジャンデルに、俺は烈火のごとく剣を打ち込んだ。
一撃、二撃、三撃――続けざまに、全身全霊の力を注ぎ、真上から叩き潰すかのような斬撃を見舞った。
だが、ジャンデルも見事だった。
先と同様、剣の腹で悉くこちらの攻撃を防いでみせた。
防戦する傍ら、彼は必死に後方に退がって距離をとり、何度も態勢を整えようと試みたが、その暇は一切与えなかった。
こちらも、すかさず間合いを詰め続けたのである。
四撃、五撃、六撃――決して手を緩めず、なおも斬撃を浴びせ続けたが、やはりジャンデルはあやまたずに受け続けた。
そして執拗に退がり続けた。
その過程で、彼の顔が奇妙に歪んでいくのを、俺は見逃さなかった。
相手の隙を突くことを好み、主導権を握りたがる彼にとって、ここまで一方的に押し込まれるのは、まさしく我慢ならない展開だろう。
加えて、その相手が怨敵である俺とあらば、ことさらに不快なはずである。
彼がこちらの隙を突き、必ず主導権を奪い返しに出るであろうと、俺はさらに確信を強めた。
気づけば、俺たちは地下霊廟へ続く一本道の手前まで差しかかっていた。
俺の息も、わずかに上がり始めている。
そして七撃目だった。
俺の繰り出した渾身の斬撃は、遂に空を切った。
ジャンデルが、軽やかな身のこなしで後方に跳び、間一髪のところでかわしてみせたのである。
ここに至るまで、彼が退がり続けたのが奏功し、ほんのわずか、互いの距離が開いていたせいだった。
彼は精密機械のごとく、微量な間合いのずれを読み取っていたのである。
なればこそ、剣で防がずとも回避できる、という判断を下せたのだろう。
今やこちらの剣尖は、地面に到達せんばかりの位置にあった。
胴も頭も、完全にがら空きである。
不敵な笑みを浮かべたジャンデルが、早くも眼前に躍り出るのを、俺の瞳は映していた。
彼の両手に握り締められた曲刀は、既に高々と振り上げられている。
――万事休すだ。
……などとはゆめゆめ思わない。
なぜなら、ここに至るまでの全てが、俺の描いた筋書き通りだったのだから。
「――えええいッ!!」
気迫に満ちたかけ声と共に、真正面からジャンデルの曲刀が振り下ろされた。
目にも止まらぬ速さだった。
仮面ごと頭蓋を叩き割り、確実に相手の命を奪い去った――と、ジャンデルは思っただろう。
だが実際には、俺は右足を引きつつ左後方に体を反らせており、一撃必殺の刃を外していた。
――同時に、ジャンデルの右肘から先が、血飛沫と共に宙を舞った。
彼の曲刀が空を切り裂いた刹那、俺は既に狙いを定め、真上に聖剣を滑らせていたのである。
これは“逆波”と呼ばれる、誘い技の一種だった。
まず、空振りして隙を見せ、頭を打たせるように仕向ける。
次いで、敵が剣を振り下ろしてきた瞬間を狙い、斬り上げによってその腕を断つという剣技だ。
決まれば、逆まく荒波に相手を飛び込ませるがごとく、雌雄を決することができる。
ジャンデルが一芝居打ったお陰で、俺も一度は危険な波に引きずり込まれたが、最終的には“逆波”で呑み返してやった、というわけだ。
普段ならば、かような誘いに乗ってこないであろうジャンデルを、まんまと引っかけることができたのは、入念に下準備を積み、自然な流れの中に“逆波”を組み込んだためだった。
そして何よりも、彼を追い詰め、心の乱れを増幅させていたのが、成功の要因だった。
ジャンデルの剣の型、戦いにおける傾向、平常とは異なる心理状態――あらゆる意味で鍛え抜いてきた自らの“目”が、事前に全てを見極めていたからこそ、可能ならしめた結果と言えた。
「………」
ジャンデルは大きく目を見開いたまま、信じられないとばかりに微かに首を振った。
それから、床に転がった曲刀を左手で拾い上げ、直ちに後退し出した。
だが、その足取りは実に重く、“山猫”とは思えぬほどの鈍重な逃げ足だった。
剣の扱いに慣れぬ左手一本では、もはや敗北は必定である。
死に対する恐怖が、目には映らぬ足枷となっているのだと、俺は密かに見て取った。
間もなく、ジャンデルは逃げることさえ放棄した。
一本道の長廊下に至るなり、こちらに向き直り、はたと足を止めたのである。
表情を欠いた彼の顔は、異様なほど青白く、両肩はだらりと下げられていた。
左手に握られた曲刀の剣尖も、諦めたように真下を向いている。
既に駆け出し、彼との距離を詰めていた俺は、今まさに、一足一刀の間合いに踏み込まんとしていた。
同時に、ジャンデルが微かに口元を歪める。
そこには、隠しようのない冷笑の影が刻まれていた。
彼は声の限りに叫んだ。
「――団長―――――――ッ!!!!」
次に続く言葉が何なのか、俺は察しがついていた。
(――自らの死と引き換えに、せめてこちらの正体を明かしておくことを、この男は望んでいるのだ)
そうとしか考えられなかった。
その願いが果たされたとき、怨敵がどのような表情を浮かべるのか、目の前で自ら確かめたい――そんな一心で、わざわざ足を止め、こちらの接近を許したに違いなかった。
陰鬱な喜びを、冥途の土産に持ってゆく腹積もりなのだろう。
(――今わの際まで喰えぬ奴よ。だが、そうはさせぬッ!!)
覚悟を決め、最後の一太刀を浴びせようと、大きく剣を振りかぶった。
そして、再びジャンデルが口を開きかけた、そのときだった。
――俺が彼に手を下すことは、もはや不要となっていた。
おびただしい量の鮮血が、激しく宙に舞い散った。
その一部が、俺の仮面に降りかかると同時に、ジャンデルは口からあぶくのように血を吐きながら、小さく断末魔の叫びを上げた。
「……が、あ、ああッ!!」
彼はゆっくりと膝を折った。
実に禍々しい、黒い瘴気を帯びた槍の穂先が、その心臓を深々と突き破っていた。
「――ッ!?」
ジャンデルの背後に立った、その堂々たる体躯の人物を視界に映すなり、俺の脳裏にこんな言葉が浮かんだ。
(――“死の渡り鳥”の二つ名は、彼自身の不吉な運命さえも予言していたのだ)
両手に構えられた朱槍、王国騎士団に与えられた黄金の壮麗なる甲冑、短く刈られた黒い髪、飢えた狼を思わせる荒々しい面立ち――そう、俺より早くジャンデルを手にかけた張本人は、ほかでもない、死を渡ってきたかつての英雄ファラルモだった。
今なお、彼はかつての面影の多くを留めてこそいたが、元はむらなく赤銅色に日焼けしていたその肌は、薄暗い灰色に様変わりしていた。
太く凛々しい眉の下では、赤く濁りきった目が、不気味に輝いている。
紛うことなき“屍兵”と化したファラルモとの対面は、束の間、俺を放心させた。
「……ヴウウッ」
ファラルモが低く呻きつつ、おもむろに槍を引き抜くと、絶命したはずのジャンデルの体は、びくびくと激しく痙攣し出した。
それが死後硬直によって引き起こされるものとは全く別であると、俺は目にした瞬間に悟っていた。




