23.裏切りの英雄たち(後編)
イクシアーナが沈黙を保っている間、俺はジャンデルを眺めるともなく眺めていた。
(――さすがは“山猫”の嗅覚といったところか。仮説に破綻は見受けられないし、何より、暗黒魔術の使用が露見してから密告される経緯を言い当てたのは、さすがと言うほかあるまい)
だが、彼の仮説全体に対しては、未だ明確な見解を持てずにいた。
それでも、“ジャンデルこそ、誰よりも警戒しておくべき人物だ”という点だけは、はっきりと理解できていた。
ディダレイとは対照的な口数の少なさが、彼の不気味さを一層際立たせていた。
(――彼ならば、やがて俺の正体を突き止めるかもしれない)
今も虎視眈々と周囲を窺う彼の眼を見ていると、そのように思えてならなかった。
やがて、嫌な汗が背中から滲み出すと同時に、不吉な考えが脳裏を過ぎった。
(――あるいは、彼の仮説のほとんどが、正解なのかもしれない。ガンドレールが、一人きりで密告者に復讐している可能性はないだろうか?)
馬鹿なことを考えるな――俺は直ちに自分に言い聞かせた。
だが、薄暗い妄想は不気味な雨雲のごとく、ますます膨らんでいった。
(――ガンドレールは“英雄殺し”を通じて自分の存在をアピールすると同時に、何らかのメッセージを伝えようとしているのでは?)
実を言えば、彼が日記を残しておいたのは、意図的なものではないかと俺は睨んでいた。
自分の足跡を辿って欲しい、見つけ出して欲しい――そう願っているかのではないか、と。
ひょっとすると、その願いは、俺に対して直接向けられたものかもしれなかった。
そう、彼は今のこの瞬間も、俺との再会を待ち侘びている――。
(……いや、そんなはずはあるまい。彼が“英雄殺し”の正体などということは)
自らに言い聞かせつつ、俺は深呼吸を繰り返し、ゆっくりと気持ちを落ち着かせた。
それから、『あなたは“正しい目”を持っておられる』という総主教の言葉を思い返した。
(――俺は、彼を信じた己の“目”を信じる。ただそれだけでいい)
かねてより、俺はガンドレールという人間そのものを信頼し続けてきたのだ。
どんな秘密を隠していたにせよ、それは彼の人間性とは全く別の話である。
危険を承知で俺に助け船を出してくれたのだって、何も特別な感情だけが理由ではないはずだ。
俺に対する人間的信頼がなければ、それは絶対に起こり得なかったと言えよう。
(――だいいち、彼のような男が家族を手にかけ、復讐のための殺人を始めるなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ)
かつて彼が俺を信じてくれたように、俺もまた彼を信じ抜く――今一度、自らに強くそれを言い聞かせた。
そして、わずかの間疑念を抱いてしまったことに対し、心の中で誠意を尽くして詫びた。
(――そうだとも。ジャンデルの仮説は、あくまでも仮説に過ぎぬ)
そもそも、俺が“英雄殺し”ではないという時点で、既に致命的な過ちを犯しているのだ。
根本が瓦解している仮説になど、何の値打ちもないというのが、俺の下した最終的な判断だった。
「……あの、イクシアーナ様、お体の具合でも悪いのですか?」
やがて、沈黙にたえかねたと見えるディダレイが、囁くように呼びかけた。
しかし、イクシアーナは黙って首を振ってみせた。
「――余計なお世話かもしれませんが、何か聞かれて困るようなことがあるのでしたら、一度、警護の方々に外に出ていただいてはいかがでしょう?」
ディダレイの提案に対し、イクシアーナはまたも首を振った。
すると、彼は諦めたように嘆息し、穏やかに口元を緩めた。
「……誤解しないでいただきたいのですが、我々の目的は、あくまでも仮説の検証一点のみです。仮にイクシアーナ様が、イーシャルの罪を知りながら告発せずにいたとしても、そこには止むを得ない事情があったのだろうと重々承知しております。貴方様の過去を必要以上に詮索することは、我々の望むところではありませんし、何を知ったとしても、糾弾は一切致しません。この点だけは、どうかご理解いただきたい」
イクシアーナは神妙な面持ちでうなずき、ディダレイはさらに話を続けた。
「付け加えておきますと、王国騎士団を動員し、フラタル大聖堂の警備にご協力させていただくことも、やぶさかではないと考えています。この説が単なる仮説でなくなれば、“英雄殺し”――そう、イーシャルとガンドレールが揃ってここに現れるという我々の予測は、確信に近いものに変わります。仮説が仮説のままで終わるのか、その域を脱するのかは、イクシアーナ様のご意見にかかっているのですよ」
先ほど仮説を披露していた際とは打って変わって、まるで赤子をあやすかのような口調だった。
押して引く、威圧と懐柔――表現は何でも構わないが、ただそれだけの単純なやり口に違いなかった。
だが、その手法は今日に至るまで、実に多くの成果――有用な証言の数々を引き出すことだ――をもたらしてきたのだろうと思えた。
ディダレイの瞳に宿った自信に満ちた輝きが、それを裏付けていた。
「――さあ、何も難しいことはありませんよ。イクシアーナ様の目の前で、イーシャルは暗黒魔術を使ったのか? ガンドレールはかん口令を布いたのか? はたまた、告発者はご自身だったのか? ひとまず、その三点さえ教えて下されば、仮説の大筋は検証可能です」
ディダレイが優しく問いかけると、イクシアーナは深呼吸を一つしたのち、ようやく口を開いた。
「……王国騎士団が力を貸して下さるというのは、確かに心強い話です」
俺は密かに身構えつつ、あとに続く言葉を待った。
(――彼女がどう答えるかは予想もつかないが、できれば耳にしたくないものだ)
内心そう願っていたが、遂にそれを知るべきときが来たのだという思いも、同時に抱いていた。
(――仮にイクシアーナが告発者であったなら、俺は何を思うのだろう?)
考えてみたが、まるで分からなかった。
やがて、彼女は深く息を吐き出し、その瞳に強い光を宿した。
とうとう覚悟を決めたのだ、と俺は見てとった。
「分かりました。お話ししましょう。私は――」
彼女が言いかけた、まさにそのときだった。
騒がしい音を立てて客室のドアが開き、濃紺のローブに身を包んだ、中年の修道女が飛び込んできた。
「――イクシアーナ様ッ!! ……た、大変ですッ!!」
修道女が、肩で息をしながら言った。
彼女の顔は、まるで死人のごとく青ざめている。
「その、大英雄が、……ファラルモ様が蘇ったのです。それを聞きつけた聖騎士たちが様子を窺いに向かったところ、次々に殺められたと報せがありました。ああ、何と恐ろしいことでしょう!!」
修道女の言葉は、直ちに部屋中の人間の表情をかき消した。
深い眠りについていたリアーヴェルでさえ、今ではしっかりと目を覚ましている。
次いで修道女は、驚くべき事実をもう一つ告げた。
「そればかりか、ファラルモ様の手にかかった聖騎士たちまで蘇り、かつての仲間に襲いかかったと……」
絶望――ただ一つ、その文字だけが、俺の脳裏に刻まれていた。
その場に居合わせた全ての者も、それは間違いなく同じだったろう。
(――何者かが、“屍兵”の術を再び地上に蘇らせた)
言わずもがな、その何者かは、“英雄殺し”に違いなかった。
ファラルモを蘇らせ、さらには彼が殺めた人間たちを、片っ端から“屍兵”と化しているのだろう。
“英雄殺し”はファラルモの傍にいる――俺はそう確信した。
(――正真正銘の化物だ。“英雄殺し”は)
ゼルマンドだけが扱うことのできた、禁忌の秘術である“屍兵”を、暗黒魔術を封じる結界を張り巡らせた敷地内で、嘲笑うかのごとく使ってみせたのである。
結界をものともしない魔術の使い手など、未だかつて聞いたことがなかった。
(――しかし、ファラルモよ、お前もまた、盛大に予想を裏切ってくれた)
イクシアーナ、リアーヴェル、ガンドレール、ファラルモ――思い返してみれば、俺はこの四人に、何らかのかたちで悉く裏切られたことになる。
良い意味でも、悪い意味でもだ。
だが、俺も人のことをとやかく言える筋合いはなかった。
俺自身、とことん周囲を欺き、誰もが驚く秘密をひた隠しにしてきたことは、もはや言うまでもない。
そして、そんな俺だからこそ、誰よりも分かっていることがあった。
(――かようにして周囲を欺くなど、ファラルモは決して望んでいなかったはずだ)
“英雄殺し”に対する怒りをたぎらせながら、俺は自然と拳を握り締めていた。