13.冷血の素顔
「……手紙か。そう言われてみれば、受け取ったような気がしないでもない」
リアーヴェルは腕組みしながらうつむき、ぼそりと独りごちた。
しかし、結局は何も思い出せなかったらしく、すぐに顔を上げてこう言った。
「とにかく、詳しい話は私の書斎で聞かせてもらおう。ついて来たまえ」
リアーヴェルは言うが早いか、くるりとこちらに背を向け、さっさと歩き出した。
彼女のあとを追い、長机の間を縫って工房の奥へ進んでゆくと、やがて半開きになったドアが視界に映った。
ドアにはでかでかと張り紙がされており、『執筆中につき入室厳禁 ※但し緊急時のみこれを除く』という文字が並んでいる。
「……少々汚いが、遠慮せず入ってくれ」
ドアの横に立つリアーヴェルに促され、俺たちはその先に足を踏み入れようとした――が、一同揃って棒立ちとなった。
(……ッ!?)
リアーヴェルの書斎は、少々どころの汚さではなかった。
床の全面が、開きっぱなしの本と紙屑で、一分の隙もなく埋め尽くされていたのである。
それらを踏んづけない限り、歩き進むことが不可能な状態だった。
ほかに目につくものと言えば、わずかばかりの家具類――紙屑が散乱した書き物机、毛布や衣服の散らばったソファ、死体のように横倒しにされた本棚たち――だけである。
強盗に踏み入られたとしても、ここまで荒らされることないだろうという、実に見事な荒れっぷりだった。
「なぜ入らない? 本くらい踏んでも構わん」
リアーヴェルは事もなげに言うと、俺たちを追い越して室内に至り、堂々と書き物机の上に乗ってあぐらをかいた。
椅子は一つも見当たらなかったが、それがないのはどう考えてもおかしい。
哀れにも、きっと部屋の中で迷子になってしまったのだろう。
「……何と言うか、逆に感心せざるを得ないわ」
イクシアーナはため息交じりに呟き、ずかずかと部屋の中へ踏み込んでいった。
そして、ソファの前で足を止め、そこに載った毛布と衣類をどけ始めた矢先に、小さく声を立てた。
「……あの、私の手紙、ここにありましたけど」
少々苛立ったような声で言いながら、イクシアーナはくしゃくしゃになった書簡を掲げてみせた。
無論、封はされたままである。
「そうか。では、こちらに放り投げてくれ」
ぶしつけなリアーヴェルの言葉に、イクシアーナは思わず睨みを利かせた。
次いで、呆れたように嘆息すると、すぐに書き物机の前まで進み、リアーヴェルに書簡を手渡した。
「……と、とりあえず、俺たちも中に入るか」
トモンドが口火を切って書斎に踏み込み、俺を含めた三人がそのあとに続いた。
俺たちは本と紙屑の海をそろそろと渡り、四人並んで壁際に立った。
「私が手紙を読んでいる間、君はこれを読んでいてくれ。あとで感想を聞かせて欲しい」
イクシアーナがソファに腰かけるなり、リアーヴェルは革紐でくくられた分厚い紙束を彼女に放って寄こした。
イクシアーナはあやまたずにそれを受け取ると、その表紙をじっと見やった。
そこには、丸みを帯びた癖のある文字で、『猿でもわかる!同時詠唱』と大きく記されている。
リアーヴェルは、いくつもの魔術指南書を手がける人気作家の顔も持っており、その分厚い紙束は、現在執筆中の新作原稿に違いなかった。
(……ひどいタイトルだが、おそらく売れるだろう)
俺はそう予感した。
異なる魔術の同時詠唱が可能な者は、魔術の使い手全体の一割にも満たない。
そしてまた、リアーヴェルが最大三つまで同時に魔術を発動できるという事実は、多くの人々が知るところである。
まさに同時詠唱のスペシャリストである彼女が、その秘訣をつまびらかにするとなれば、誰もがこの本を手に取りたいと願うだろう。
かく言う俺も、その例外ではなかった。
“血操術”の同時詠唱が可能になれば、戦術の幅は格段に広がる。
「……手紙、読み終えたぞ」
やがて、リアーヴェルが真剣な声音で言い、それから真っ直ぐにイクシアーナを見つめた。
「私の知らぬ間に、ずいぶんと大変なことが持ち上がっていたようだ。しかし、それよりもまず、新作の感想を聞かせて欲しい。私としては自信作なのだが、どうだろう?」
これ見よがしに嘆息するイクシアーナを見て、俺は気の毒に思った。
その口ぶりから察するに、どうやらリアーヴェルは、一連の“英雄殺し”にまつわる騒動について、何一つ知らなかった様子である。
その上、これほどまでのマイペースぶりを見せつけられたら、ため息は禁じ得ないだろう。
「……もちろん、まだ冒頭部分しか読めていないけれど」
イクシアーナはそう前置きをして話し出した。
「内容に関しては、けちのつけようがない。完璧よ。ちょっと読んだだけで、自分もすぐに同時詠唱を習得できるんじゃないかと思えたくらい。ただ一点、このタイトルだけはどうかしています」
「……分からないな。個人的には気に入っているのだが」
リアーヴェルは首を傾げながら言った。
「人間よりも遥かに知性の劣る猿でも理解し得る、という喩えは、それほど悪いものとは思えない。まあ無論、実際には猿になど理解できるはずもないが」
「……とにかく、この“猿”という部分は訂正すべきです。読み手の尊厳に関わるわ」
イクシアーナが、ぴしゃりとそう言い放った。
「なるほど、確かに猿と人間は近しい面がある。それならば、『畜生でもわかる!同時詠唱』はどうだろう? 豚や牛などの畜生であれば、猿よりもさらに知性に劣るという印象が強まる。これは悪くない」
リアーヴェルが嬉々としながら話すのを聞いて、イクシアーナは深いため息を漏らした。
「……悪いのは、あなたの頭と理解力だと思うわ、リアーヴェル。というか、もうこの議論は止しましょう。あなたの本なんだから、タイトルくらい好きなようにおつけなさい」
リアーヴェルは小さく肩をすくめ、「つれない返事だ。まあ別にいいが」と呟いた。
「それで、手紙の返事はどうなの? 私たちと一緒に大聖堂に来て、“英雄殺し”を迎え撃つために力を貸してくれる?」
リアーヴェルはニヤリと笑ってみせ、握っていた羽根ペンを耳にかけた。
それからこう続けた。
「――もちろんだよ、イクシアーナ。ほかでもない君の頼みだ。それに、そんな物騒な輩にこの工房に踏み込まれては、たまったもんじゃない。今すぐ大聖堂へ向かおう」
リアーヴェルは机の上からひょいと飛び降りると、本と紙屑の海をかき分け、その中からすぐに古木の大杖を見つけ出し、右手に握った。
次いで、空いた左手でイクシアーナの手元から『猿でもわかる!同時詠唱』の原稿をむしり取った。
「これで準備完了だ。着替えなどはそちらで用意を頼む」
「……でも、急にここを留守にして大丈夫なの?」
イクシアーナが不安げに尋ねると、リアーヴェルは自信満々の笑みを浮かべた。
「心配は無用だ。我が工房では、自主性に富んだ極めて優秀な人材のみを雇っている。今現在も、経営はほとんど任せきりだ。要するに、私は名ばかりの代表に過ぎないのだよ。元より不在のようなものだ」
「……何て言うか、リアーヴェル様ってすげえな。超越してる」
左脇に立つトモンドが、小声でそう話しかけてきたので、俺は黙ってうなずいてみせた。
「ところで、うっかり聞きそびれていたが、後ろに控える彼らは何者なのだ?」
言いながら、リアーヴェルは俺たち四人の顔を順繰りに見た。
「あら、ごめんなさい。リアーヴェルは初めて会ったのですもんね。それでは皆さん、自己紹介をお願いします」
イクシアーナに促され、ネーメスが最初に口を開いた。
「イクシアーナ様の専属警護隊“聖女の盾”が一人、ネーメスと申します。以後、お見知り置きを」
「同じく“聖女の盾”、アゼルナです」
「同じく“聖女の盾”、トモンド。よろしく頼んますぜ」
それぞれが名乗りを上げ、残るは俺一人となった。
別に声を発するくらいならば問題なかろう――特に、リアーヴェルは決して俺の声など覚えていまい――と思うのだが、いざ二人を目の前にすると、少なくない緊張を覚えた。
俺はわずかに逡巡したのち、思い切って口を開く。
「……ケンゴーだ」
低くしゃがれた、別人のような声をでっち上げ、小さく会釈をした。
ひどく馬鹿げているようにしか思えなかったが、やむを得なかった。
「聖者さん、風邪でも引いたか?」
トモンドがひどく心配したように尋ねてきたので、俺は黙ってうなずいた。
「……体調管理がなっていない証拠です」
右脇に立つネーメスが、軽蔑の眼差しを向けながら小声で囁いた。
決闘以来、彼が話しかけてきたのは初めてだったので、俺は密かに安堵した。
「ちなみに付け加えておくと、こちらのケンゴーさんこそ、噂に名高い“傷跡の聖者”です。今は“聖女の盾”と共に、私の警護を務めていただいています。いくらあなたでも、彼の話は耳にしているんじゃないかしら?」
イクシアーナがそう尋ねると、リアーヴェルは「おお」と小さく声を上げた。
「聞いたことがある。確か、“ポリージアの聖母”の元に、単身で乗り込んだ物好きだとか。誰に命じられるでもなく、わざわざ身を危険に晒すとは、実に理解しがたい行動原理だ。だが、それゆえ興味深い観察対象にもなり得る」
俺は肝を冷やした。
彼女のような人間に探求心を持たれるのは、ただひたすらに末恐ろしいことだった。
「それはそうと、こちらもまだ名乗っていなかったな。既に知っているだろうが、我が名はリアーヴェル。よろしく頼んだよ、諸君」
言い終えるなり、彼女は“移転の門”を詠唱し出した。
やがて、その足元から青白い光が放射状に広がってゆき、本と紙屑だらけの床に複雑な文様の魔法陣が浮かび上がった。
「――フラタル大聖堂へ、いざ行かん」
妙に勇ましい口調で言い残し、リアーヴェルの姿がフッと消えた。
「……では、私たちも行きましょう」
イクシアーナが魔法陣の上に身を移し、俺たちもそのあとに続いた。
(――しかし、これがリアーヴェルの素顔とは、実に驚かされた)
大聖堂へと転移する傍ら、俺は心の中で苦笑を漏らした。
彼女もイクシアーナ同様、ゼルマンド討伐で共闘した際は、単によそゆきの顔を見せていたに過ぎないのだろう。
英雄たちは皆、悉く俺の予想を裏切るのが好きらしい。