10.ウイユベリ辺境伯
「――では、その仮面、取っていただけます?」
案の定、イクシアーナはそれを要求してきた。
俺は見せつけるように、しっかりと首を横に振る。
すると彼女は、たちまち表情を曇らせた。
「……なぜです? 何か理由があるのなら、話してみてください」
さて、どうしたものか、と俺は思った。
その場しのぎの返事なら、いくらでも考えついたが、いざイクシアーナを目の前にすると、声を発することは躊躇われた。
「――黙っているということは、そのつもりがないのですね」
イクシアーナは威厳たっぷりにそう言うと、手を伸ばして仮面の下を掴み、力を込めて引き剥がそうとした――が、無論、びくともしない。
「……えッ?」
一瞬、イクシアーナは戸惑いの表情を浮かべたが、それでも諦めず、再び同じ動作を試みた。
しかし、結果が変わるはずはなかった。
彼女は決まり悪そうにうつむき、微かに頬を赤らめる。
そして、体裁を整えるかのように、小さく咳払いをしてみせた。
(――さすがに諦めただろう)
そう思い、ホッとしたのも束の間、腹部に重苦しい衝撃が走った。
みぞおちに、強烈な正拳を叩き込まれたのである。
思わず漏れ出そうになる声を、必死に押し止めつつ、イクシアーナを恨めしく見やると、彼女はひどく申し訳なさそうに視線を逸らした。
その後、彼女は横並びの一同の前に戻り、一人ひとりの顔を厳しい目で見やった。
「――痛かったでしょう?」
イクシアーナはそう問いかけてきたが、俺を含め、誰も返事をする者はなかった。
気まずい沈黙が、直ちに一同に降りた。
「……正直に言いますが、私だって痛かったです。何よりも、この胸が」
やがて、静かに震える声で言いながら、イクシアーナは右手で心臓のあたりを押さえた。
小さく唇を噛んだ彼女の目には、薄らと涙さえ浮かんでいるように見える。
「私が団員に手を挙げたのは、正真正銘、今回が初めてです。そして、もう二度と、こんな真似はしたくありません。だから、皆さん、これからは態度を改めていただけますね?」
一同が、それぞれ同意の旨を口にした。
俺も黙ったまま、恭順の意を示すために頭を下げた。
「――それじゃ、もうこの話はお終いにしましょう!!」
イクシアーナは明るい声で言い、大きく顔を綻ばせた。
すると、その場の雰囲気が一気に華やぎ、一同もつられて笑顔になった。
驚いたことに、ずっと黙り込んでいたネーメスでさえ、今では口元を緩めていた。
(……不思議な女だ)
心からそう思うと同時に、不意に総主教の言葉が脳裏に蘇った。
『訳あって、イクシアーナの背負った運命は、過去の聖女たちと比べても、ことさら辛苦に満ちたものなのです。ゆえに彼女は、他者の理解の範疇を超えた、実に深い苦悩を抱えることとなりました』
正直に言って、俺の目には決してそのようには映らなかった。
一般的な聖女像とはかけ離れてこそいるが、実に面倒見の良く、溌剌とした人好きのする女性――これこそが、新しくイクシアーナに抱いた印象だった。
一見すれば、苦悩などというものにはおよそ無縁に思える。
俺は彼女の背負った運命とやらに想いを巡らせてみたが、当然ながら、それが何であるかなど、分かるはずもなかった。
「ああ、イクシアーナ様、何と素晴らしきお方……」
脇に立つアゼルナが、うっとりとした声でそう漏らした。
そして、おもむろにこちらを仰ぎ見た。
「――あんたもこれで、イクシアーナ様の素晴らしさが分かったでしょ?」
俺は黙ってうなずいた。
特に異論はなかったし、仮に余計な口を挟もうものなら、アゼルナが嚙みついてくるであろうことは目に見えていた。
「イクシアーナ様は、誰に対しても公平なお方なの。そしていつだって、あたしたちに真正面からぶつかってきて下さる。ときに厳しく、ときに優しく」
再びうなずいてみせると、アゼルナは急に思い立ったような顔つきになり、怪訝そうに目を細めた。
「――でも、惚れちゃ駄目よ?」
「心配不要だ。元より住む世界が違う」
そう答えると、アゼルナは深々とうなずき、「よく分かってるじゃないの」と満足げに返してきた。
「……その殊勝な心がけに免じて、少しだけなら、見直してあげてもいいわ」
彼女がそう付け足した、まさにそのときだった。
俺たちの元に、槍と大盾を携えた、若々しい男の聖騎士が駆け寄って来るのが見えた。
「――イクシアーナ様、ウイユベリ辺境伯がご到着いたしました」
彼はイクシアーナの前で足を止めるなり、ハキハキとした口調でそう告げた。
そして、恭しく頭を下げ、再び来た道を引き返していった。
辺境伯――それは、防衛上の要所となる国境地帯を領地に持つ貴族に授けられる爵位である。
北方の広大なウイユベリ地方を治める辺境伯は、かつて隣国ヴァンデミアの侵略を退けた英雄の血を受け継いでおり、国中にその名の知らぬ者はなかった。
まさに名門中の名門と呼ぶに相応しい家柄である。
ウイユベリ辺境伯とは、実際に顔を合わせたことこそないが、噂に名高い彼について、いくつか聞き及んでいることがあった。
一つ目は、彼が信仰にあつい人物であり、聖ギビニア教会の最大のパトロンであるという点。
そして二つ目は、彼が世にも稀な美男であり、多くの貴族の子女たちから求婚されているらしい、という点だ。
「……辺境伯が? どうしてこんなお昼どきに?」
レジアナスが驚いたように声を発した。
目を細めながら空を見やると、太陽は既に高い南に位置していた。
「あれ? 言ってませんでしたか? 本日は、会食の約束をしていたのです」
イクシアーナがあっけらかんとした口調で言うと、一同に不穏な空気が漂い始めた。
「……ああ、そんなの聞いてないぜ」
レジアナスが睨みを利かせて言うと、アゼルナがそのあとに続いた。
「イクシアーナ様、外出だけはなりません。厳戒態勢が敷かれた大聖堂の外に出るなど、もってのほかです」
彼女にしては珍しく、実に真剣な口ぶりだった。
「――ええ、それくらい、わかっていますとも」
イクシアーナはそう言うなり、穏やかな笑みを浮かべた。
「元より、聖堂内で一緒に食事をとるつもりです。文句はないでしょう?」
「……まあ、確かにそうだけど、会食の支度なんて何もしてないぜ」
レジアナスが悩ましげな声で突きつけたが、イクシアーナはそれを一蹴した。
「特別な支度なんて要りませんよ。私たちが普段とる食事と同じで構わないと、彼自身が申し出てくれたのですから」
「……お言葉ですが、さすがにそれは失礼に値するのでは?」
ネーメスが不安そうに口を開くと、イクシアーナは小さく首を振った。
「彼はそんな人じゃありませんよ。さあ、お迎えに参りましょう」
彼女はそう言うが早いか、そそくさと歩き出した。
俺を含め、残された一同は、やれやれと言わんばかりに顔を見合わせ、それからイクシアーナのあとに続いた。
「……全く、自由なお人だよ」
並んで歩くレジアナスが、ため息交じりにそう言った。
「どうやら、そうらしいな」
俺の返答に、レジアナスはくたびれたような笑みを漏らした。
「でも、それが良いところなんだ。イクシアーナ様は、世間の物差しや一般常識を、まるで気にかけない。公明正大で、何でも自分の頭で考えて、正しいと思ったことだけを行動に移す。だからこそ、相手が辺境伯だろうと物乞いだろうと、決して態度を変えることはない」
「まあ、何と言うか、少々型破りな聖女だな」
そう口にした途端、レジアナスは「言い得て妙だ」とうなずいた。
そして、誇らしげに微笑んでみせた。
「でも、それだからこそ、彼女は慕われてるんだ。俺たちからも、民衆からも」
なるほど、と俺は相槌を打った。
それと同時に、こんな考えが胸中に頭をもたげた。
(――もしかすると、俺を密告した人間は、イクシアーナではなかったのかもしれない)
これといった理由はないが、何とはなしにそんな気がした。
そしてまた、彼女が仮に密告者だったとしても、そこには止むを得ぬ経緯があったのだろうと思うことができた。
今の俺自身もそうだが、人にはそれぞれ胸のうちに秘めた事情がある。
誰が俺を告発したにせよ、そこには相応の理由があったに違いなかった。
(――もはや、誰が密告者だったとしても、別に構わぬ)
俺は初めて心からそう思えた。
それは決して小さくない心境の変化と言えた。
* * *
その後、本来の職務に戻ったレジアナスと別れ、俺たちは大聖堂の正門に至った。
門に面した広い街道には、無駄な装飾の排された、黒塗りの馬車が一台停められている。
その前には、二人の従者に付き添われた、シルクの白いロングコート姿のすらりとした男が立っていた。
男は美しい琥珀色の短い髪と、深みのある灰色の瞳を持ち、すれ違った者が思わず振り返ってしまうほどの端正な顔立ちをしていた。
年のころは、二十代後半といったところだろう。
自信に満ちあふれた佇まいと、その洗練された着こなしから、彼がウイユベリ辺境伯であることは、誰の目にも明らかだった。
「――ご無沙汰しております、イクシアーナ様」
俺たちの姿を認めた辺境伯は、一人前方へと進み出て、恭しい素振りでイクシアーナの正面に片膝をついた。
そして、おもむろに彼女の手を取り、そっと甲に唇をつけた。
「……聖者さん、あのお二人、実にお似合いだと思わないか?」
脇に立っていたトモンドが、小声でそう尋ねてきた。
「まさしく」
そう返しつつ、俺は目の前の絵画のような光景に魅入っていた。
「……ああ、いつ見ても腹が立つ。どうして毎度、あんな気障ったらしい挨拶をしなきゃいけないの? しかも、あの慣れっぷりときたら、間違いなくスケコマシよ」
少し後ろに立つアゼルナが、まるで呪詛をかけるがごとく小声で呟いていたが、俺は何も聞こえぬふりをした。