8.元剣聖、決闘の流儀
「――それでは、始めッ!!」
トモンドが声を張り上げると同時に、ネーメスが左足を前に出し、頬の真横に剣を構えた。
その切先は、真っ直ぐにこちらへ向けられている。
“雄牛”と呼ばれる基本の構えの一つだった。
一方、俺は自然体である。
軽く足を開いて立ち、脱力した両腕をだらりと垂らしたまま、相手の出方を窺った。
ネーメスがゆっくりと走り出したのは、気持ちの高ぶりを静めるかのように、一呼吸の間を置いたあとのことだった。
俺はその場を動かず、さらに速度を上げて疾駆するネーメスをじっと眺めていた。
突き、斬り上げ、薙ぎ払い、袈裟斬り――神経を研ぎ澄ませ、相手の構えと挙動に注視さえすれば、繰り出される攻撃が何であるかを見抜くことは、決して困難ではない。
鍛え抜いてきたこの眼を、信じるだけで良かった。
(――来る)
互いの距離が詰まったかと思うと、瞬く間にネーメスが間合いに踏み込んだ。
その瞬間、ほんのわずかだが、両手首が下方向に返されるように傾くのを見た。
(――左下方向からの斬り上げだ)
咄嗟に見て取った俺は、直ちに姿勢を深く落とし、膝に力を蓄える。
相手の剣尖が、唸るように下へ弧を描くのを見やりつつ、強く大地を蹴った。
全身のばねを余すところなく駆使した、全身全霊の跳躍だった。
同時に、相手の剣尖が、地面すれすれの位置に到達する。
俺の胴体を目がけ、凄まじい速さで刀身が撥ね上がる、まさにその寸前だった。
だが、怯む必要はなかった。俺は既に、深く、低く相手の懐に潜り込んでいた。
鎧を身に着けたままであれば、これほど速くは動けなかっただろう。
そして、ネーメスの握る剣の柄を、右の拳でいやというほど突き上げた。
「……ッ!?」
ネーメスが、声にならないような声を微かに上げた。
同時に、大剣は彼の手をすっぽ抜け、小さく中空に舞い上がる。
狙い通り、それはくるくると弧を描きつつ、こちらの頭上へ向かってきた。
俺は思い切り右手を伸ばし、瞬時にその柄を掴み取る。
そして、ネーメスの首元を目がけ、切先を突きつけた――。
「――俺の勝ちだ」
そう告げると、一瞬の静寂のあと、周りを囲む人垣からどよめきが上がった。
その中でも、一際大きく目立って聞こえたのは、トモンドの声だった。
「――すげえよ、ホントにすげえよ、聖者さんッ!!」
まるで、無邪気な幼子のようなはしゃぎぶりだった。
「伝説の“無刀取り”をこの目で拝めるだなんて、まさに眼福ッ!!」
無刀取り――剣術書や騎士道物語にのみ記される、この世に使い手なしと謳われた、幻の技術である。
これを完成させたのは、義勇軍時代のことだった。
俺の剣の腕が評判になるにつれ、決闘を挑む者が絶えなくなったのが、そもそものきっかけだった。
彼らを綺麗さっぱり諦めさせるには、別次元の強さを見せつけてやる以外、術がなかったためである。
一見、不可能な芸当に映る“無刀取り”だが、いざ取り組んでみると、その原理が実に単純であることに気づかされた。
いかなる速さにもついてゆける動体視力と身のこなし、磨き上げられた実戦勘、己の技術に対する絶対的自信――長きに及ぶ鍛錬の末、既にこれらを兼ね備えていた俺は、何ほどのこともなく体得できた。
「――『参った』と言え。約束は果たしてもらう」
そう突きつけると、ネーメスは強く唇を噛みしめ、得も言われぬ目でこちらを見た。
だが、次の瞬間には既に、瞳の中でぎらついた炎が燃え上がっていた。
目の前の俺、そして何よりも、自分自身の不甲斐なさを乗り越えなくてはならない――そうした激情が、まざまざと表情に刻まれているのを、俺は即座に見て取った。
紛うことなき、敗北を知った男の顔である。
(――今までよりは、少しはマシな顔つきになったらしい)
ネーメスの尊大な虚栄心を、粉々に打ち砕く――実を言えば、これこそが俺の最大の狙いだった。
危険を冒してまで丸腰で挑んだのも、圧倒的な敗北感を演出するためにほかならなかった。
しかし、それは何も、相手を辱め、貶めることが目的ではない。
ネーメスが今のような態度を改めなければ、いずれ途方もないツケの支払いを迫られるであろうことは、火を見るよりも明らかだった。
なればこそ、俺はあえて高い壁として立ちはだかり、変化のきっかけを与えることを望んだのである。
余計なお世話だと言われればそれまでだし、荒療治には違いなかった。
けれども、真っ向勝負によって味わわされた敗北感や屈辱感には、どこか清々しいものがあるということを、俺は身をもって知っていた。
事実、俺自身とて若かりし日には、戦場で対峙した猛者に、数え切れないほどこっぴどくやられたものだった。
そのたびに、自らの弱さを認め、驕りを捨てざるを得なかった。
言い訳が利かないためである。
いくらかなりとも、俺がマシな人間になれたのだとすれば、その経験が役立ったというほかあるまい。
ネーメスに必要なのは、まさに同じ種類の経験なのだろうと、俺は彼と会ってすぐに気がついた。
彼は周囲から大事に守られ、ちやほやされて育ったお陰で、本物の敗北の味を知らずに大人になったに違いなかった。
「……参った」
やがて、必死に絞り出したかのような、微かに震える声で、ネーメスが言った。
次いで、彼はトモンドの脇に並ぶレジアナスに向き直った。
「――副団長、先ほどの発言は取り消します。僕の非礼を、お許し下さい」
聞いているこちらが苦しくなるような、ありとあらゆる感情を呑み込んだ、深く静かな声だった。
やや間を置いて、彼が頭を下げると、「もういいよ。気にすんな」とレジアナスが明るく返した。
「――昨日の敵は、今日の友」
言いながら、レジアナスは真っ白な歯を剥き出しにして微笑んだ。
「俺とケンゴーは、互いの思い違いもあって、一度は真剣に斬り合った仲だ。でも、今はそうじゃない。心強い味方だ。あんたとも、そんな風になれればと思ってる」
ネーメスは目を細めてうつむき、小さくうなずいた。
「……あんたの剣筋、悪くなかった」
そう声をかけつつ、大剣の柄を差し出してやると、ネーメスはゆっくりと顔を上げた。
そこには、驚きに満ちた表情がはっきりと浮かんでいた。
「そのまま腕を磨き続ければ、いつの日か、本物の名誉を手にできるだろう。家名なんて関係なしにな」
ネーメスは剣を受け取るなり、俺の顔をじっと覗き見た。
そして、よく理解できないといった風に、小さく首を振った。
「あんたにその気があるのなら、いつでも相手をしてやる。ただし、この次はお互い木剣だ」
そう告げると、ネーメスは黙って背を向けた。
すると、見計らったようにトモンドがこちらに駆け寄り、強く俺の両手を握り締めた。
「――聖者さん、俺はあんたに惚れたぜッ!! すっかりぞっこんだッ!!」
嬉々として言うなり、彼はアゼルナに満面の笑みを向けた。
妙に冷めた面持ちの彼女は、レジアナスの横に腕組みしながら立っていた。
「アゼルナ、これでお前も分かったろう? 聖者さんの素晴らしさがよォ!!」
トモンドが問いかけると、アゼルナはぴくりと眉根を動かした。
「……はぁ? 馬鹿言うんじゃないわよッ!!」
苛立ちを隠さずに彼女が声を上げた、まさにそのときだった。
「――ちょっと、聞きましたよ。あなたたち、決闘してたんですってぇ!?」
人の群れをかき分け、勇み足でこちらに向かってくる、一人の女性の姿を俺は視界に捉えた。
「……ッ!?」
壮麗な白金の甲冑、腰に帯びた見事な聖剣、左右に揺れる長い銀髪、そして、何もかも見通すかのように透き通った緑色の瞳――そう、ほかでもない、イクシアーナその人だった。