4.総主教の願い
ほどなく説法を終えた総主教は、人々の拍手を一身に受けながら、警護の兵を引き連れ、迷うことなく俺たちの元に向かってきた。
「……よく連れて来て下さりましたね、レジアナス。あなたがケンゴーさんですね?」
しっかりとうなずいてみせると、総主教は穏やかに微笑んだ。
その目尻と口元に、深く笑い皺が刻まれる。
年のころは、おそらく八十、少なくとも七十はとうに過ぎているように思われた。
しかし、その瞳は空気のように澄んでおり、不思議と老いを感じさせなかった。
それから、彼は背後にいた四人の警護とレジアナスに向かって、「少しの間、ケンゴーさんと二人きりにさせて下さい」と告げた。
「私は昔から、散歩が大好きでしてね。ご一緒にいかがですか?」
仰せのままに、と返事をすると、総主教は「そう固くなる必要はありませんよ」と言い、墓地を取り囲む木立に沿って、静かに歩き出した。
俺はすぐにそのあとを追い、彼と歩調を合わせた。
「ゼルマンド戦役、王国騎士団の腐敗、そして昨今では、“英雄殺し”の出現――この世界は、常に多くの問題を抱えてきました」
総主教は、落ち着き払った声で話し出した。
「しかし、それでも世界が今日まで秩序を保ち続けてきたのは、“作用と反作用”の働きのためです。あるいは、“影あるところに光あり”とも言えましょう。実に不可思議ではありますが、いつの時代も、どれだけ悪行や悪徳が蔓延ろうと、必ずそれに立ち向かう者が現れてきました。たとえば、そう、あなたのようにね」
俺は正直に言って困惑していた。
総主教の言動の意図を、完全に計りかねていたためである。
「ひっそりと正義の旗印を掲げたあなたは、ミードの村で男児を救い、レジアナスと共にポリージアの町さえ救いました。今では、“傷跡の聖者”は、世の人々に確かな希望をもたらす存在となっています。あなた自身が考えるよりも、ずっと多くの人々に。かく言う私も、その中の一人です」
「……総主教様が、俺を?」
驚いて声に出すと、総主教はしっかりとうなずいた。
「そうですとも。イクシアーナの警護をあなたに依頼するという決定を下したのは、ほかならぬ私なのですから」
小さく微笑む総主教を見て、俺の困惑は一層強まった。
「イクシアーナには、少々脆い部分がありましてね。いくつかの出来事が重なったせいで、今の彼女の精神は、張り詰めた弓の弦のごとく、いつ切れてしまうか分からない状態なのです。ですから、彼女の身を守ることはもちろん、ほかの面でも手助けしてあげて欲しいのです」
そう言って、総主教はゆっくりと足を止めた。
彼の視線の先には、木立の中にひっそりと佇む、小さな池があった。
(……イクシアーナが、脆い?)
常に毅然とした態度を失わず、“戦乙女”の二つ名の通り、聖剣を握り締めて堂々と敵に立ち向かってゆく――それこそが、俺の知っているイクシアーナだった。
脆いなどという形容は、まるで似つかわしくない。
少なくとも俺の中では、彼女は正義と強さの象徴にほかならなかった。
「訳あって、イクシアーナの背負った運命は、過去の聖女たちと比べても、ことさら辛苦に満ちたものなのです。ゆえに彼女は、他者の理解の範疇を超えた、実に深い苦悩を抱えることとなりました。そして、それを和らげてくれる誰かを必要としています」
しばしの間逡巡したが、俺は思い切ってこう尋ねた。
「――しかし、どうしてそれが俺なのでしょう?」
「残念ながら、イクシアーナが安心して頼れるほどの人間は、聖ギビニア騎士団にはおりません」
総主教はきっぱりとそう言った。
「聖ギビニア騎士団の聖騎士に任じられることは、一般的には名誉とされています。従って、家督を継げない貴族の次男坊や三男坊ばかりが、こぞって入団を申し込んできます。無論、体裁を取り繕いたいがためにです。そんなわけで、昔からこの騎士団は、少々ねじくれた人間の更生施設のようなものでしてね。それはそれで、良い面もたくさんあるのですが、彼らには決して担えぬ責務もあるのです」
そう言って、総主教はこちらに向き直り、真剣な眼差しを向けてきた。
「だからこそ、あなたのように、外の世界を良く知る人間の力が必要なのですよ。レジアナスをあの年齢で副団長に抜擢したのも、まさにそういった理由からです。しかし、彼はまだ若すぎる。イクシアーナにとっては、まるで弟のような存在ですからね」
言いながら、総主教は澄んだ瞳でじっと俺の目を覗き込んだ。
「ケンゴーさん、あなたは“正しい目”を持っておられる。その目をもって、どうかイクシアーナを導いてやって下さい」
「……総主教様が、そのように仰るのなら」
ほかに答えようもないので、そう返事をすると、総主教は満ち足りた笑みを浮かべた。
「では、そろそろ職務に戻るとしましょう」
そう口にするなり、総主教は来た道を引き返し始めた。
俺は黙って彼と並んで歩き、ほどなくして裏庭に戻った。
「……彼女のことは頼みましたよ、ケンゴーさん。そしていつの日か、是非ともその素顔をお目にかかりたいものです」
別れ際、総主教はそう言って、深く首を垂れた。
こちらも低頭したが、胸中は複雑と言わざるを得なかった。
(――俺を密告したかもしれない人間に、力を貸す、か)
ゼルマンドを討った際、ガンドレールの提案に対し、唯一尻込みしたのがイクシアーナだったという事実は、記憶の中にしっかりと刻み込まれていた。
正直に打ち明ければ、異端魔術審問所に自分を売った張本人が彼女ではないかと、俺は長い間疑い続けてきたのである。
何と言っても、神の名のもとに法と秩序を守るのが聖騎士の務めだ。
普通に考えれば、その旗頭たる人間が、俺の仕出かしたことを見過ごす道理はなかった。
(――やはり、密告者はイクシアーナだったのだろうか?)
できるだけ考えの外に追いやってきた疑念が、再び俺の心に強く持ち上がっていた。
とは言え、仮にそれが事実だったにせよ、全ては過ぎたことであり、もはやイクシアーナを恨んだり、非難するような気持ちは別段起こらなかった。
にも関わらず、彼女と再び顔を合わせることは、ひどく気乗りしなかった。




