33.剣の墓標の誓い
「……いやあ、一時はどうなるかと思ったが、なかなか面白い見世物だったぜ」
振り返ると、レジィが満面の笑みを浮かべて立っていた。
俺は彼に大剣を突き返すなり、その横っ面を、いやというほど殴りつけた。
小さな彼の体は、たちまち後方によろけ、盛大に尻もちをついた。
「――おいッ、急に何すんだよッ!?」
切れた唇を手の甲で拭いながら、ゆっくりとレジィが立ち上がる。
「最初から決めていた。全てが終わったら、真っ先にお前を殴ると」
俺は真正面からレジィを見据えた。
「お前は、“天使の園”で罪のない少年を殺めた。それが理由だ」
そう告げると、彼はうつむき、唇を噛みしめた。
そして、ずいぶんと長い沈黙のあと、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……案内したい場所がある。ついて来て欲しい」
レジィの声は、かつてないほどの真剣さを帯びていた。
俺は黙ってうなずき、歩き出した彼の背を追った。
* * *
レジィが向かった先は、屋敷の裏庭の一角だった。
そこに生えた古い大樹の根元に、一本の剣が深々と突き立てられている。
「……これは、俺が命を奪った、あの子の墓標だ」
呟くようにレジィが言った。
彼は目を細め、地上に突き出した剣をじっと見やった。
その刀身には、不思議と汚れは見受けられなかった。
こんなところに立っているのだから、普通に考えれば、風雨に晒されて当然である。
にも関わらず、新品同然の状態に保たれていたのは、おそらく、彼自身が手入れをしていたためだろう。
「もちろん、この下にあの子が眠っているわけじゃない。でも、俺はあの子のナイフをこっそり持ち出して、ここに埋めたんだ」
そう言うなり、レジィはそっと目を閉じ、胸の前で両手を握り合わせた。
俺もそれに倣い、天国での少年の幸福を願った。
やがて、目を開いた俺は、ゆっくりと空を見上げた。
既に始まっていた夕暮れが、空一面を茜色に染め上げていた。
わけもなく、少しだけ泣き出したい気持ちになったが、実際に泣くことはできなかった。
俺の涙は、とうの昔に渇いていた。
最後に泣いたのがいつだったか、もはや思い出すことさえかなわない。
レジィの長い祈りが終わるまで、俺はぼんやりと夕空を眺め続けた。
「……この屋敷に来たのは、約一年前だった。その間に、俺はずいぶんと自分の手を汚した」
ようやく目を開いたレジィが、自身に語りかけるような口調で話し出した。
「ブエタナの信頼を勝ち取るため、俺は罪のない人々を見殺しにしてきた。ときには、自らの手でその命を奪うこともした。でも、それが正しいのだと、信じて疑わなかった。いつの日か、任務を遂行すれば、より多くの人間を救うことができる。だから、それまでの辛抱だと、自分に言い聞かせ続けた」
レジィはそこで言葉を置き、真剣な眼差しをこちらに向けてきた。
「だが、あんたと会ってから、そこに疑いの念が生まれた。あんたは、どんな命も救おうと動いた。たとえば、ガルノガ一家に潜り込んでいた、リューリカという赤毛の女。上層部から同朋だと知らされたが、俺は迷うことなく見捨てた。任務への支障を恐れたんだ」
淡々と語るレジィの声に、微かな震えが混じるようになっていた。
「広間でガルノガ一家の連中とやり合っているとき、ふと窓の外に目をやると、馬に乗って逃げていく彼女の姿が映った。それから、屋敷の使用人たちが揃って出て行くのも見た。彼らに手を差し伸べたのは、あんたなんだろう?」
「たまたまだ」
そう答えると、レジィは必死の形相でこちらを見やった。
「――なあ、教えてくれよ。俺は間違っていたのか? 血も涙もない人間なのか?」
難しい問いかけだ、と俺は思った。
百人の命と、一人の命をかけられた天秤――つまるところ、レジィの目の前には、いつもそのようなものが置かれていたのだ。
どちらか一方を選ばざるを得ないとしたら、確かに百人のほうだろう。
だが、その決断を下すたび、胸には激しい痛みと自責の念が積み重ねられてゆく――想像を絶する重圧を、レジィはその小さな肩に、たった一人で担ってきたのだ。
神でさえ逃げ出したくなるほどの重圧に違いなかった。
「……正しいと言い切ることはできないが、間違っていたわけでもない」
慎重に言葉を選びつつ、俺は話し出した。
「確かなことが言えるとすれば、お前は一生背負わねばならない十字架を背負ったということだ。罪を贖うことはできても、消すことはできない」
「まるで他人事だな。さっきは、俺のことを、これでもかってくらい殴ったくせに」
レジィはじろりと俺を睨みつけ、それから拳を握り締めた。
「そうすべきだと思ったから、そうしたまでだ」
そう答えると、レジィがこちらに詰め寄り、俺の鎧の胸板を小突いた。
「……何だよ、その言い草は。どうせ俺のこと、人でなしだと思って、上から見下しているんだろう?」
「それは違う」
諭すように言い聞かせたが、レジィは激しく首を横に振った。
「口では何とでも言える。でも、心の中では、みんな俺を軽蔑するのさ。騎士団に戻れば、表では称賛されるだろうが、裏ではこそこそと陰口を叩かれるに決まってる。ブエタナの傍に一年も居続けて、どれほどの悪事に手を染めたんだろうってな。その光景が、今からでも目に浮かぶよ」
レジィはそこで言葉を切り、きつく唇を噛みしめた。そしてこう続けた。
「だが、何を言われたって、俺は黙っているしかない。実際、悪事に手を染めたのは、本当のことだからな。どうせ、“聖者”と有難がられているあんたには、俺の気持ちなんて、一生かかっても分かりっこないだろうけど」
「……分かるとも」
そう答える傍ら、俺の脳裏に浮かんだのは、磔にされたかつての自分が目にした光景だった。
飛び交う民衆の嘲笑と怒号が、まるで昨日のことのように、ありありと蘇ってくる。
(――どれほど犠牲を払ったところで、必ずしも報われるとは限らない)
それは、身をもって知らされた一つの真理だった。
そして、そんな俺だからこそ、言ってやれることがあった。
「お前は自らを犠牲にし、罪を背負いながらも、多くの人々をその手で救った。それは動かしようのない真実だ。たとえ、人々がその価値を正しく認識できなかったとしても、真実は太陽のごとく不滅だ」
言いながら、俺は真っ直ぐにレジィの瞳を見据えた。
彼の目尻には、微かに涙が滲んでいた。
「お前は単身この屋敷に潜り込み、バルボロ一家の経営する賭博場と売春宿の場所を全て突き止めた。さらには、ブエタナを支援した有力者たちの名簿まで完成させた。リューリカがそれを教えてくれた」
全く大した奴だ、と改めて思った。
誰にも真似できないような芸当を、十五にも満たぬと見える少年が、たった一人の力で成し遂げたのである。
「遠からず、囚われた女たちは救い出され、バルボロ一家の拠点も残らず潰されるだろう。そして、南部総督を始め、悪漢たちには悉く罰が下される。この町は、綺麗さっぱりと浄化されるんだ。それをやってのけたのは、一体誰だ?」
問いかけると、涙ぐむレジィの瞳が、大きく見開かれた。
「いいか、よく聞け、レジィ。お前は隠れた英雄だ。この町を救ったんだ。だから、誰に何を言われようが、堂々と胸を張れ。お前は頑張った。十分過ぎるほどに頑張った。そして、これからも多くの人々の力になり続けろ。お前の背負った罪を清めるためにも」
「……何なんだよ、急に聖者面しやがって」
レジィの目から、遂に大粒の涙が溢れ出した。
「そうだ、それでいい。ガキはガキらしくしているのが一番だ。お前は少々大人過ぎる」
両手で顔を覆ったレジィが、俺の胸にもたれかかってきた。
「無理に背伸びをすることも、ときには必要だ。だが、そればかりしていると、自分を見失うことになる。そんな風にはなるな」
レジィは黙ってうなずき、激しく嗚咽を漏らし始めた。
彼が泣き止むまでのずいぶんと長い間、その小さな肩を、俺はしっかりと支え続けた。
「……俺は決めた。良いことを思いついた」
やがて、レジィが顔を上げて言った。
表情に明るさが戻ったのを見て、俺は密かに安堵した。
「あんたを、聖ギビニア教会の聖騎士に推薦する。今回の一件を報告すれば、その願いは必ず聞き届けてもらえるはずだ」
「――冗談は止せ」
呆気に取られつつもそうたしなめると、レジィは途端にむくれた顔になった。
「誰が冗談を言うもんか。俺は完全に本気だ。実際に剣を交えて、二度とやり合いたくないと思った相手は、嘘偽りなくあんたが初めてだ。あんたほどの腕利きは、いまだかつてお目にかかったことはない。頭のたがは少々外れているが、実力、度胸、判断力、どれを取ってもピカ一だ」
頬を上気させたレジィが、一気にまくし立てた。
「……あんたに勝てるとすれば、そうだな、聖ギビニア騎士団の中ならば、イクシアーナ様くらいのもんだろう。もちろん、俺は除いてな」
「与太話は、その辺にしておけ」
俺は呆れ返りながら言った。
聖者の次は聖騎士になるなど、考えただけで頭が痛くなる。
だいいち、“イーシャル”の顔を知るイクシアーナの下で働くなど、できるはずがなかった。
「……どうしても申し出を受けないというのなら、俺にも考えがある」
そう言って、レジィはニヤリと笑った。
「あんたが暗黒魔術の使い手だということは、決して誰にも口外しない。その代わり、あんたは聖ギビニア騎士団に入る。悪くない取引だと思うけど、どうだい?」
俺は閉口させられた。だが、同時に分かりきってもいた。
「その取引は成立しない。なぜなら、どんな状況に置かれたって、お前は俺を売ったりはしないからだ」
「……ちぇ、何でもお見通しか。せっかく良い考えだと思ったのに」
レジィは口を尖らせて言ったきり、長い間押し黙った。
やがて、彼は思い詰めたような顔でこう口にした。
「なあ、本当に駄目なのか? さっきも言ったけど、俺は冗談で言ってるんじゃない」
「……お前の気持ちはよく分かったが、それでも駄目だ」
そう告げると、レジィはうつむき、再び目に涙を浮かべた。
俺は少なからず胸が痛んだが、止むを得ないことだった。
たとえ天地がひっくり返っても、彼の申し出を受けることは不可能である。
その代わり、俺は自分にできる精一杯を口にした。
「――しかし、お前自身や、お前の大切にする人が大きな困難に陥ったときは、必ず力を貸そう。それくらいなら、約束してもいい」
「……本当か? 本当だな?」
慌てて目元を拭いつつ、レジィが念を押してきたので、俺はうなずいてやった。
「聖者の名の元に誓おう」
そう答えると、レジィは満足したように顔を綻ばせた。そしてこう言った。
「――すっかり言いそびれてたけど、俺の本名はレジアナスっていうんだ」
彼が差し出してきた、小さくも頼もしい手を、俺はしっかりと握り返した。
「これからもよろしくな」
真っ白な歯を剥き出しにして、レジアナスが微笑みかけてきた。
そこに正真正銘の少年らしさを見出した俺は、なぜか救われたような心持ちがした。
上手く笑える自信はなかったが、それでも俺は微笑みを返した。
「またいつの日か会おう、レジアナス」
「……うん、必ずな」
大剣を担ぎ、証拠の書類を携えた、誇らしげな彼の背中を見送りながら、俺は不意に目頭が熱くなるのを感じた。
どうやら、涙はまだ、乾いていなかったらしい。