32.三つ数えろ
俺とレジィは、共にブエタナの書斎へ向かい、そのドアの前に立った。
「――ブエタナ様、中にいらっしゃいますか?」
レジィが呼びかけると、やや間を置いてから返事があった。
「……あなたがここに来たということは、あの者を生け捕りにしたのね?」
それを聞くなり、レジィは満面の笑みをこちらに向けてきた。
「仰せの通りです」
必死に笑いを押し殺しながら、彼が答えた。
「……よくやったわ。お入り」
二人揃って中に踏み入ると、ブエタナは深々とソファに背をもたせ、ワインをあおっている最中だった。
逃げも隠れもしなかったのは、自分の命運が尽きるなどとは、露ほども考えていなかったからだろう。
「――また会ったな」
そう声をかけると、ブエタナはグラスを床に落とした。
小さく乾いた音と共にそれは砕け、彼女の足元に破片が散った。
「……レジィ、これはどういうこと?」
そう尋ねる彼女の顔は、ゾッとするほど青白かった。
「どういうことって言われても。まあ、見た通りだよ」
言いながら、レジィは銀十字のペンダントを懐から取り出し、ブエタナの眼前に突きつけた。
彼女はそれだけで全てを察したらしく、諦めたような笑みを口元にたたえた。
「……で、私にどうしろと?」
「俺たちの望みは一つ。南部総督とのつながりを明らかにする証拠だ。断ったら、どうなるか想像はつくよな?」
有無を言わせぬ口調でレジィが詰め寄ると、ブエタナは唇を噛み、ゆっくりと窓の外に目を移した。
長い沈黙の後、彼女は重々しい口ぶりで、わかったわ、と囁くように言った。
「……でも、その前に葉巻を吸わせてちょうだい。気を静めたいのよ。たったの一口でいいから」
「――駄目だ」
レジィがぴしゃりと言い放つと、ブエタナは小さく嘆息し、ソファから立ち上がった。
そして、部屋の奥に置かれた書き物机に向かい、その抽斗から鍵束を取り出した。
次いで、足を向けたのは、机の後方に位置する本棚だった。
彼女はその前に立つと、縁に手をかけて静かに真横に滑らせた。
奥に隠されていたのは、黒塗りの大きな金庫である。
彼女はそれを鍵で開け、中から書類の束を取り出し、こちらに放り投げた。
レジィはそれを拾い上げると、食い入るような視線を注ぎつつ、せわしなく紙をめくり出した。
「……総督と取引した際の契約書よ。直筆のサインもある」
ブエタナはそう告げると、書き物机の前に置かれた椅子に座り、荒々しい手つきで抽斗から葉巻を引っ張り出した。
彼女はナイフを用いて吸い口を切り落とすと、急いでそれを咥え、卓上の火打石を用いた点火器で火をつけた。
葉巻の先から、次第に立ち昇ってゆく青白い煙を、彼女は眺めるともなく眺めていた。
「――本物だ。間違いないッ!!」
やがて、レジィが歓喜に満ちた声を上げた。
同時に、ブエタナが抽斗に手を忍ばせつつ、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「悪いけれど、あなたたちに引導を渡されるのだけはご免よ」
言いながら、赤く発光する小さな球体を取り出し、顔の高さまで掲げてみせた。
ブエタナの表情には、満ち満ちた恍惚の色が浮かんでいる。
「……私の手にしているもの、何だかわかるわよね?」
それは、“封魔焼夷爆弾”と呼ばれる代物だった。
扱い方は簡単で、手投げ式の爆弾と同様、導火線に着火して対象物に投擲するだけである。
だが、魔力によって増幅されたその破壊力は、凄絶の一言に尽きた。
この部屋など、瞬時に跡形もなく吹き飛ばされ、辺り一帯はすぐさま炎の渦に呑まれるだろう。
そもそも、“封魔焼夷爆弾”は、攻城兵器として用いられるのが基本なのだ。
屋内で起爆させれば、屋敷そのものが崩潰しかねない。
「――二人とも、道連れにしてあげるわ」
咥えた葉巻の先端を、そっと口づけするように、導火線と触れ合わせた。
たちまち着火した導火線は、勢いよく縮み出す。
俺とレジィは、同時に顔を見合わせた。
「……いやはや、ヤキが回ったな」
レジィが、絶望を滲ませた声で言った。
「――諦めるのは、まだ早い」
俺は迷わず、“血の大剣”をブエタナに投げ放った。
だが、彼女は満ち足りた表情を浮かべたまま、それを避けようともしなかった。
自分が死んだところで、俺たちの運命は変わらない――全身でそう物語っているかのようだった。
俺は声を大にして叫んだ。
「――血の剣よ、元の姿に還れッ!!」
大剣は、直ちに中空で液状と化し、血しぶきとなってブエタナに降りかかった。
葉巻と導火線の火、そしてブエタナの表情――それらが、一瞬のうちに消えてなくなった。
「……なぁレジィ、一つだけ教えてくれ。この女はもう用済みか?」
尋ねると、彼は力強くうなずいた。
「証拠は既に手に入れた。これ以上聞き出すことは、もはや何一つとして残っていない」
その答えに、俺はいたく満足した。
俺はゆっくりと歩を進め、書き物机を蹴り倒し、ブエタナの前に立った。
「すっかり忘れていたが、用心棒を務めた分の報酬、まだ受け取っていなかったよな?」
そう問うと、ブエタナはこくりとうなずいた。
「……いくらでも弾むわ。言われた通りの額を支払う。私には、それだけの貯えがあるのよ。さあ、遠慮せずに言って御覧なさい。その代わり、命だけは見逃して欲しいの」
ブエタナの顔は、底知れぬ恐怖によって醜く歪み、まるで老婆のごとく変貌していた。
俺は、心の底から彼女を哀れんだ。
「――金は要らん。その代わり、三つ数えろ」
そう言って睨みつけると、ブエタナはひどく困惑した表情を浮かべた。
「……それに従えば、助けてくれるのよね? はっきり教えてちょうだい」
俺は彼女の質問を無視した。答えてやる義理はない。
「――三つ数えろ、と言ったんだ。拒否権はない」
さらに語気を強めると、ブエタナは諦めたように嘆息した。
「……いち」
彼女が言い終えた瞬間、俺は「剣を」とレジィに叫ぶ。
「――ほらよッ」
彼が放った大剣の柄を後ろ手に掴むと、直ちにブエタナの右肩口を一閃した。
剣尖は、易々とその肉を裂き、激しい血しぶきが舞い上がる。
右腕一本が、そっくりそのまま斬り落とされ、静かに床に転がった。
「……あ、あ、う」
ブエタナは、呆けたように口を動かしながら、自分の右腕を見下ろしていた。
「――今のは、あんたが食い物にしてきた女たちの分だ。残りは二つ。さあ、数えろ」
ブエタナは、目に涙をあふれさせながら、小さく首を横に振った。
「駄目だ。言う通りにしろ」
剣先を喉元に向けると、ブエタナは全身をわなわなと震わせ、両膝を床についた。
「……に」
そう口にしたの同時に、ブエタナは失禁した。
次いで、彼女は我に返ったような顔つきなり、必死に立ち上がろうともがき始めた。
だが、俺はその頭を思い切り押さえつけ、力づくで動きを封じた。
そして今度は、左肩口を目がけ、容赦ない斬撃を叩き込む。
「――これは、“天使の園”の子どもたちの分」
言い終えると同時に、ブエタナの左腕が、付け根から丸ごと床に落ちた。
血だまりに囲まれた彼女は、赤子のように口をぱくぱくとさせながら、声を上げずに喘いだ。
じっとその様を見やりつつ、再び剣尖を喉元に突きつけると、彼女は覚悟を決めたように目を閉じた。
「……さん」
力ない声を聞くなり、俺は深々と床に剣を突き立てる。
そして、右の拳に、ありったけの怒りと力を込めた。
脳裏には、“天使の園”で無念の死を遂げた、あの少年の顔が浮かんでいた。
(――これは、お前の分だ)
ブエタナの顔面に、渾身の正拳を叩き込むと、盛大な血しぶきが上がった。
彼女の鼻は、おかしな方向に折れ曲がり、砕けた前歯が二本、音もなく床に転がった。
「……すまない。三では数が足りなかったようだ」
言いながら、俺は剣を引き抜き、力いっぱい柄を握り締める。
「――腐り切った、てめえの頭に、別れを告げろ」
ブエタナの首が、宙に飛んだ。
この女のために命を散らした全ての者に贈る、せめてもの手向けだった。




