30.聖母の叫び
(――まずいッ!!)
レジィの剣尖が、勢いを保ったまま、真っ直ぐ胴に向かってきた。
俺は存分に体をのけ反らせ、大きく後方に飛ぶ。
(……間一髪だった)
背中にいやな汗を感じつつ、安堵のため息を漏らした。
鎧の表面を斬られはしたものの、無傷で済んだのは、“血の活性”のお陰にほかならなかった。
脚力と動体視力が強化されていなければ、致命傷を負っていたに違いない。
「本気だったのに、仕留め損なっちゃったよ。やるじゃん、あんた」
レジィは感心したような声を出すと、すぐに剣を構え、再び矢のごとく走り出す。
だが、こちらは完全に丸腰だった。
(――何としても、時間稼ぎをしなければ)
そこで俺が選択したのは、無詠唱の“血液爆破”だった。
レジィの傍に転がる死体を、手当たり次第に爆破させ、遮二無二接近を防ぎ続けたのである。
そして、十分に距離をとったのを確認したのち、手近にあった血溜まりから“血の大剣”を錬成した。
それは、ただひたすらに大きく、分厚く、大雑把な一刀で、レジィの鉄塊のごとき大剣を上回る刀身を有していた。
(――これならば、二度と折れることはあるまい)
かくして、態勢を整えはしたものの、その後は防戦一方に追いやられた。
後方に下がったルミネラが、次から次へと鉄球を投げつけ、それを捌くか避けるかすると、その隙を突いてレジィが襲いかかってくる――二人は、馬鹿の一つ覚えのように、この戦法を繰り返すようになった。
ルミネラが当初見せていた、こちらを弄ぶような奇想天外な戦いぶりは、完全になりを潜めていた。
(――本気で、殺しにかかってきている)
そう思わざるを得なかった。
二人が前衛と後衛に分かれたやり口は、実に単純だが、確実性に富んでいた。
こちらが動きを誤れば、その瞬間に、即あの世行きとさえ思われた。
少なくとも、棺桶に片足を突っ込むことにはなるだろう。
おまけに、二人の連携には少しの隙もなく、呪文詠唱のために意識を集中することさえ難しかった。
どちらか一人でも仕留めない限り、敗北は必定と言えた。
これほどまでに死を身近に感じたのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
(……このままでは、埒が明かない)
体力と集中力が次第に消耗していくのを、俺は感じ取っていた。
そして、これこそが二人の狙いに違いなかった。
(――いずれ訪れるであろう、俺のミスを突き、一気呵成に勝負を決めるつもりなのだ)
虎視眈々と、二人がその機会を窺っていることは、容易に想像できた。
だが、それは裏を返せば、次のようにも言い換えられる。
(――こちらがミスをすれば、二人は戦い方を変える)
ほかに打開策が見当たらない今、命の危険は承知の上で、俺は賭けに出ることを決めた。
そのときだった。
「……ルミネラ、レジィ、いつまで遊んでいるつもり?」
部屋の隅で、高みの見物を決め込んでいたブエタナが、そう声を荒げた。
終わりの見えない戦いに、業を煮やしたに違いない。
大層なご身分だと思ったが、その一言で二人が躍起になってくれれば、こちらとしては儲けものである。
だが、そう都合良く事は運ばなかった。
「――伯母様、申し訳ないけれど、黙っていてくれる?」
ルミネラが、ぴしゃりとそう言い放ったのだ。
彼女が伯母に盾突く姿を見たのは、今回が初めてだった。
だが、それだけ本気なのだ、と俺は思った。
(――たとえブエタナに咎められようと、二人が戦い方を変えることはない)
それを確信した俺は、遂に覚悟を決めた。
ルミネラの放った鉄球を、あえてその身に受けたのである。
「……ッ!!」
密かに後方に飛び、ダメージを緩和こそしたものの、その一撃は強烈に左脇腹を打った。
覚悟こそしていたが、あばら骨の二、三本は間違いなく逝った。
そして、俺は演技ではなくよろめき、地面に片膝を突いた。
それは、誠に奇妙ではあるが、真実と虚構が入り混じった、まさに命懸けの演技と言えた。
「――残念だけど、遂にお終いだね」
つまらなさそうに言いながら、レジィが間合いに踏み込み、狂ったように剣を打ち込んできた。
止めを刺しに来たことは、火を見るよりも明らかだった。
俺は歯を食いしばり、必死にそれに喰らいつく。
互いの剣が触れ合うたび、激しい火花が散った。
まるで、命そのものをぶつけ合っているような感覚だった。
踊るように、何度も剣を重ねる傍ら、背後に死の影を感じ続けた。
死の剣舞、と俺は思った。
それほどまでに、斬り合いは凄絶を極めた。
だが、同時に手応えを感じてもいた。
遠距離から鉄球を放てば、レジィさえ巻き込みかねない――そんな状況が続くように仕向け、見事成功させたのだ。
そして、遂にその瞬間がやってきた。
後衛に位置していたルミネラが、機は熟したと見たらしく、背後から迫ってくるのを目の端に捉えたのである。
しかし、俺はそれに気づかぬふりをした。
あくまでも、レジィとやり合うだけで手一杯、という体を装い続けた。
やがて、ルミネラが背後に立ったのを、俺は気配で感じ取った。
レジィの剣を捌きつつ、ちらと後ろを見やると、彼女は既にモーニングスターを高々と頭上に振り上げていた。
「――さようなら。愛を込めてこれを送るわッ!!」
俺は咄嗟に頭上に剣を振り上げ、全身全霊の力で鉄球を受け止める。
あばらに激痛が走り、思わず膝を折りそうになるが、血が滲むまで唇を噛み、自らを奮い立たせた。
結果、どうにか踏み止まったが、無論、胴体はがら空きである。
瞳の中には、最後の一太刀を浴びせようと、大剣を振りかぶったレジィの姿が映っていた。
死の影を、さらに色濃く感じながらも、極限まで意識を集中させた。
これより先は、生きるか死ぬか、二つに一つだった。
「――うおおおおおおおおッ!!」
俺は力の限り咆哮した。
そして、全身をばねのように弾かせ、力任せに鉄球を跳ね飛ばした。
一方、レジィの放った渾身の袈裟斬りは、既に左肩に到達しかけていた。
俺は剣の軌道と速さを見極めながら、小さく後方に飛ぶ。
剣尖は易々と鎧を裂き、さらには肩から胸にかけての肉を抉った。
鮮血が、盛大に眼前に散った。
――だが、俺はまだ生きていた。
死なない程度に斬らせることに、成功したのである。
「血よッ!! 矢の雨となって全てを貫けッ!!」
朦朧とする意識の中、自らの血を媒介に血操術を唱えた。
鋭い血の刃が、放射状に拡散し、近距離からレジィとルミネラを強襲する。
(――肉を斬らせて、骨を断つ)
俺の狙いは、まさにこの一言に尽きた。
二人を前線に誘い出し、あえて一太刀を我が身に受ける。
それも、相手に仕留めたと思わせるような、強烈な一撃を、だ。
だからこそ、その一撃のあとには、逃れようのない隙が生じる。
「……あ、ああッ!!」
体中を裂かれたルミネラが、苦悶に満ちた声を発し、よろめきながら後退した。
一方、レジィは咄嗟に大剣を盾替わりにし、その陰に身を隠していた。
だが、あれほどの近距離から、全ての血の刃を防ぐことは不可能である。
深手を負わせたことは間違いなかった。
「――うおおおおおおおおッ!!」
俺は目を見開き、再び吼えた。
まだ意識を失うわけにはいかなかった。
「――血の剣よ、地を這いずる蛇となれッ!!」
詠唱するや否や、血の大剣が生き物のようにうごめき出す。
それは鞭のようにしなって伸び、半死半生のルミネラに足元から絡みつき、その体をきつく締め上げた。
そして、大蛇の牙のごとき鋭い先端で、彼女の喉を深々と喰い破った。
「……あ、お、伯母様、さっきは、口答えして、ごめんなさい」
喘ぐように、途切れ途切れに言葉を発しながら、ルミネラは遂に絶命した。
「……ルミネラ、私の可愛いルミネラ」
椅子から立ち上がったブエタナが、呟くように言った。
「――い、いやあぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
偽りの聖母の狂ったような叫びが、部屋中に激しく響き渡った。