25.不屈の男
意識を取り戻したとき、目の前には暗闇が広がっていた。
だが、夜というわけではないらしい。
星も見えず、闇の深さは均一である。
目隠しをされているのだろうと、すぐに思い立った。
加えて、全身にわずかな揺れを感じる。
馬の蹄の音も聞こえてきた。
(……ヴァンデミアへ運ばれる道中、というわけか)
頬は、木板らしきものと接触していた。
おそらく、荷車か何かに寝かされているのだろう。
身体を動かそうと試みたが、案の定、自由は利かなかった。
両手首が、背に回された状態で、きつく縄で縛られている。
両足も当然、縄で拘束されていた。
おまけに、布の猿ぐつわまで噛まされている。
さすがに衣服は着せられているようだったが、少しの慰めにもならなかった。
(一体、どれだけの間眠っていたのだろう?)
考えてみたが、まるでわからない。
頭の中には、囚われの身になったリューリカの姿が浮かんでいた。
(……とにかく、何とかして今の状況を脱さねば)
そう思い、俺は芋虫のように身をよじらせ、匍匐前進を始める。
すると間もなく、額に木板がぶつかった。
そこで今度は、進行方向を変えて進んでみる。
そんな試行錯誤を繰り返しているうちに、やがて、額にチクリとした感触を得た。
肩先で探ってみると、それが木板から飛び出した釘であるらしいとわかった。
しめたとばかりに、俺は釘の先端を自分の肩にうずめる。
そして、そのまま肩を上方向に動かし、存分に肉を裂かせた。
鈍い痛みと共に、ゆっくりと血が流れてゆく。
俺は傷口を床面に向け、血溜まりをつくった。
(……だが、問題はこのあとだ)
俺は嘆息せざるを得なかった。
猿ぐつわのために、血操術の詠唱は不可能である。
無論、無詠唱で魔術を使うこともできるが、それは俺のように適性のない者にとって、至難の業と言えた。
いかなる魔術も、言霊の力を借りなければ、その効力は十分に発揮されない。
おまけに、視覚さえ確保できていない状態ときた。
(しかし、ほかに打つ手がない以上、試さないわけにはいかぬ)
俺は意識を集中させ、脳内に血溜まりのイメージを思い描いた。
次いで、そこから一滴の血を浮かび上がらせる。
それを何度か丁寧に繰り返してゆくと、やがて数滴の血液が宙に浮かんだ。
俺はそれらを結合させ、小さな刃へと変化させる。
イメージに狂いはなく、現実でも同様のことが起きているという手応えがあった。
(……ここまでは上出来だ)
俺は一呼吸置いたのち、刃を自らの顔へ向ける。
そして、それが目隠しと猿ぐつわを切り裂く軌道をイメージした。
「……ッ!?」
どうにか声を出さずに済んだが、案の定、力の調節を誤ったらしい。
血の刃は、目隠しと猿ぐつわだけでなく、深々と俺の顔面まで薙いだ。
顎から額にかけて裂傷ができ、おびただしい量の血液があふれ出す。
だが、それと同時に、視界に光が差し込んできた。
何度か瞬きして目を慣らし、そろそろと周囲を見回す。
すると、俺がいたのは、幌つきの荷台の中であることがわかった。
荷台の開かれた入口の先に、一人で馬を走らせる男の御者の背中が見える。
「――血よ、全てを貫く刃となれ」
俺はすぐさま詠唱して“血の刃”を生み出すと、それを自在に操って縄を破った。
そして続けざまに“血の刃”を飛ばし、無防備な男の背を刺し貫く。
「……うぐッ」
男は低い呻きと共に、御者台から転げ落ちた。
やがて、馬車につながれた二頭の馬は、ゆっくりとその歩みを止める。
「――血よ、剣となって我が手に宿れ」
顔の裂傷が生んだ血溜まりを用い、俺は“血の剣”を創出した。
刃こぼれの心配が要らぬ上、微塵も重さを感じさせない、実に頼りになる得物である。
“血の剣”を手にした俺は、周囲を警戒しながら御者台へ出た。
すると、馬に跨った甲冑姿の兵士が、左右から一人ずつ飛び出し、正面に回った。
どちらも、右手に槍を、左手には大盾を構えている。
警備のために配され、馬車と並走していたのだろう。
「……まさか、あの状況から逃げ出すとはな。おい、どうするよ?」
左の兵士が、右の兵士に問いかけた。
「傷を負わせて、生け捕りにするほかあるまい」
二人の兵士は目を合わせ、馬上から同時に槍を突き出してきたが、俺はその穂先を“血の剣”を振るって斬り落とした。
深紅の液状の刃は、鋼鉄に勝る切れ味を有しているのだ。
「ちょっと待て、この男の手にしている剣……」
「――まさか、暗黒魔術の使い手かッ!?」
二人がひるんだ隙に、左の馬の鼻っ柱を斬りつける。
すると馬は、激しい嘶きと共に高く前足を掲げ、背中の兵士を勢いよく地面に振り落とした。
「――貴様、よくもッ!!」
今度は右の兵士である。
槍から剣に持ち替え、馬上から斬りかかってきたのだ。
だが、俺は後方に身を引いてその一撃をかわし、“血の剣”を投げ放った。
「……小賢しい真似をッ!!」
右の兵士は咄嗟に盾を構えたが、それも無駄な足掻きでしかなかった。
“血の剣”はいとも容易く盾を粉砕し、兵士の胸部を鎧ごと貫いた。
俺はすぐさま、馬上で果てた相手から“血の剣”を引き抜く。
そして、起き上がろうとする左の兵士に斬撃を浴びせ、その首を刎ね飛ばした。
その後、注意深く辺りの様子を伺ったが、ほかに手勢はいないようだった。
安堵のため息をついた俺は、身にまとっていたぼろ布を破り、それで顔中を覆うと、きつい結び目を作った。
(……この先、素顔を見られるのは不都合だ)
そう考えたのは、無論、血操術で存分に暴れる覚悟を決めたからだった。
次いで、殺した兵士の鎧を奪い、我が身にまとった。
(――どうか間に合ってくれ)
俺は馬車につながれていた馬の一頭を解き放ち、その背に跨って走り出した。
祈るような気持ちで来た道を駆け戻ってゆくと、間もなく、ブエタナの屋敷を視界に捉えた。
馬ならば、二十分足らずで到着できる距離である。
意外にも、俺が眠りに落ちていたのは、わずかばかりの間だったらしい。
(――そうだった。あの鎮痛剤は、日持ちがしないのだ)
その事実を思い返すなり、自然と笑みがこぼれる。
俺が口にしたときには、副作用の睡眠効果も、かなり弱まっていたに違いなかった。
(――どうやら、ツキに恵まれているらしい)
俺は強く馬の腹を蹴り、ますます速度を上げた。