18.掲げられた十字架
離れにワインを取りに行った俺は、その帰り道、厨房でグラスを二つ借り受け、再び地下室へと戻って来た。
「……こんな部屋でレディを待たせるなんて、感心できないわ」
ルミネラは三角木馬にもたれかかった格好で、実に退屈そうな声で言った。
彼女の足元には、ぎゅっと唇を噛みしめた赤毛の女が横座りしている。
俺は飾りだけの謝罪を述べると、二つのグラスになみなみとワインを注ぎ、その一方をルミネラに手渡した。
「では、乾杯だ」
俺が音頭を取り、互いのグラスの縁を合わせると、小さく乾いた音が鳴る。
しかし、ルミネラはワインに一切口をつけぬまま、唐突に俺の胸へとしなだれかかってきた。
「どうした? 飲まないのか?」
耳元でそう囁くと、彼女は小さく鼻で笑った。
「……ずいぶんと焦らすのね。傭兵時代に培った腕前を、早く披露なさいよ」
今に見せるとも、と俺は答えてやったが、掌にはじっとりと汗が滲んでいた。
(――是が非でも、このワインをルミネラに飲ませなくてはならぬ)
俺の頭の中にあったのは、その一点のみだった。
* * *
――今から遡ること、十数分前。
急いで離れの自室に戻った俺は、荷物を入れていた布の背負い袋から、すり鉢といくつかの薬草類――ツヴェルナの町を出る際に買っておいた品だ――を取り出し、テーブルの上に広げた。
次いで、すり鉢に入れた薬草類を剣の柄で潰し、出てきた汁を指で混ぜ合わせた。
そうして間もなく出来上がったのは、即席の鎮痛剤である。
かつて、俺は何度となく戦場でこれを調合し、重傷を負った仲間に飲ませたことがあった。
ただし、この鎮痛剤は、副作用として強烈な眠気と意識の混濁が生じるため、取り扱いには十分な注意が必要だった。
事実、これを口にした者は皆、途端に呂律が回らなくなり、あっという間に深い眠りへと落ちていった。
無論、俺自身も服用したことがあり、その副作用の強さは経験済みだった。
一定量を摂取すれば、効果が現れるまでに一分とかからない上、半日は目を覚まさないという代物である。
俺はそれを、ルミネラから貰い受けたワイン瓶の中に、慎重に注いだ。
* * *
――ルミネラを眠らせた隙に、赤毛の女の身を自由にし、事情を聞き出した上で逃がしてやる。
それこそが、俺の目論見だった。
――赤毛の女が連れて行かれようとしていた場所は、一体どこだったのか。
――なぜ、彼女は事前にそれを知り得たのか。
これらの疑問に対する答えは、ブエタナへの報告事項であると同時に、俺自身が知りたいことでもあった。
(彼女の口から有益な情報を得られれば、ミードの村の娘たちを含め、バルボロ一家の歯牙にかけられた者たちを、一挙に救えるかもしれぬ)
俺はそれを期待したのだ。
赤毛の女をどうやって逃がすかと、それに対する弁明は、後々考えれば済む。
だが、ルミネラに傍にいられては、女が素直に口を開くとは考えにくい。
(――だからこそ、眠ってもらわねば困る)
俺は覚悟を固め、一気にワインを口に含むと、ルミネラをひしと抱き寄せた。
そして、その唇を奪うや否や、口移しでワインを飲ませてやったのである。
「……んッ」
ルミネラは俺の背を叩き、抵抗の意を示したが、それもわずかな間しか続かなかった。
ほどなくして、彼女は大人しくなり、俺の胸へと倒れ込んできた。
狙い通り、ルミネラが深い眠りについているのを確認したのち、俺はそっと彼女を床に寝かせた。
それから、口内に残っていたワインを吐き出し、赤毛の女へと向き直った。
「安心しろ。今に自由にしてやる」
俺は腰に下げた片手剣を引き抜くと、女の腕を縛った縄を切り落としてやった。
「……本当に助かりました。何とお礼を言っていいものか」
赤毛の女は、ゆっくり立ち上がると、こちらに向かって深々と頭を下げた。
そして、乱れた髪を整えたのち、思いがけぬことを口にしたのである。
「やはり、潜入していたのは、あなただったのですね」
俺は首を傾げざるを得なかった。
女の口ぶりは、俺がバルボロ一家に近づいた目的を知っているかのようである。
「“傷跡の聖者”の噂は、前々から耳にしていました。だから、あなたがブエタナの用心棒に雇われたと聞いたときは、妙だなと思ったんです。でも、こうしてお会いできて、全て合点がいきました」
「……あんた、一体何者なんだ?」
尋ねると、女は静かにはにかみ、次のように答えた。
「私はリューリカ。聖ギビニア騎士団から派遣された聖騎士です」
聖ギビニア騎士団――それは、王国内における最大の教派“聖ギビニア教会”に所属する、私兵の集団である。
そして、その頂点に君臨するのは、ゼルマンド討伐の際に共闘した、“戦乙女”ことイクシアーナにほかならない。
「これが、その証拠です」
言いながら、リューリカは胸元に手を忍ばせ、銀の十字架を取り出した。
そして、それを俺の眼前に掲げたのである。
(……二つの剣が組み合わさった十字架だと?)
それはまさしく、聖ギビニア騎士団に所属する聖騎士の証であった。
イクシアーナが、同様のものをペンダントとして首に下げ、後生大事にしていたのを、俺は目にしたことがあった。
正直に言って眉唾だと思っていたが、リューリカの話は紛れもない真実のようである。
「あなたも、私と同じ聖騎士なのですよね?」
そう尋ねるリューリカの声には、強い確信が込められていた。
どうやら、彼女は俺に対し、何らかの大きな勘違いをしているらしい。