16.血の誓約
翌日は、いつものように平和な日常が戻った。
ブエタナには、昼前に外出の予定が一件入っていたが、それも恒例の修道院での炊き出しである。
彼女はそれ以外の時間を、例のごとく書斎で過ごした。
そのため、俺はまたしても、レジィのあくびを眺めながら廊下で棒立ちするばかりだった。
けれども、一切の血を見ずに済んだのだから、御の字というほかない。
そして夕食後、俺は満を持してブエタナの書斎へ足を運んだ。
部屋の前で番をしていたレジィに、身に着けていた武器類を全て手渡し、それから静かにドアをノックする。
「……お入りなさい」
間もなくブエタナの声が聞こえ、俺はゆっくりとドアを開く。
書斎の中は、彼女の表の顔のごとく、実に美しく整然としていた。
木目の床は、ぴかぴかに磨き上げられ、塵の一つさえ残されていないように見える。
奥の壁には、備え付けの暖炉と書棚が並び、その手前には、艶やかな光沢を放つ、木製の書き物机が置かれていた。
中央には、ゆったりとした黒い革張りのソファが二つ、小さなテーブルを挟み、向き合うような格好で並んでいる。
ブエタナは、入口から見て上手側のソファに腰かけていた。
「よく来てくれたわ。さあ、掛けなさい」
そう促され、俺はブエタナの正面のソファに腰を下ろす。
ふと見やると、彼女の手にはどういうわけか、柄に宝飾の施されたナイフが握られていた。
「……それで、大事な話とは」
早速そう切り出すと、彼女はまぶしげに目を細めてこちらを見た。
「昨晩も言った通り、私はあなたを、正式にバルボロ一家の一員に迎えたいと考えているの。改めての確認だけれど、異論はないわね?」
黙ってうなずいてみせると、彼女は微かに口元を緩めた。
「では、“血の誓約”を交わしてもらうわ。要するに、入会の儀式ってところね」
彼女はそう言うと、静かにナイフをテーブルの上に置いた。
「本来ならば、ほかの面々の立ち合いも必要なのだけれど、今回は一家の首領である私が特別に許可するわ。善は急げ、ということよ。感謝なさい」
俺が黙って会釈をすると、彼女は改まった顔つきになり、「では、始めるわよ」と静かな声で言った。
「これから、私は一家の掟を一つずつ述べていく。あなたは、それを復唱なさい」
ブエタナはそこで言葉を置き、十分な間を取ってからこう続けた。
「一つ、首領の命令に背いてはならない」
言われた通り、俺はすぐさま彼女の言葉を声に出して反芻した。
その後、同じ形式のやり取りが繰り返された。
掟は全部で七つあり、以下のような内容だった。
二つ、ファミリーのため、いついかなるときでも働ける準備をしておかなくてはならない。
三つ、ファミリーの一員であることは、一切口外してはならない。
四つ、仲間を欺いてはならない。
五つ、約束は果たさなければならない。
六つ、何かを知るために呼び出された際は、真実以外は口にしてはならない。
七つ、ほかの組織とは、単独で接触してはならない。ただし、信頼に足る第三者の立ち合いがあれば、これを許可する。
七つ目の掟を復唱し終えたところで、「守れるわね?」と念を押すようにブエタナが尋ねてきたので、「当然だ」と答えてやった。
「――では、次で最後よ」
ブエタナはそう言って、机の上に置かれたナイフに視線を落とした。
「このナイフの先で、それぞれ親指の腹を突き、流れ出た血を重ね合わせるの。血の交じりは、永遠に断たれることのない契りの証よ」
ブエタナが、再びナイフを手にしたそのとき、忙しないノックの音が響いてきた。
「……伯母様、入っても良いかしら?」
次いで耳に飛び込んできたのは、微かな焦りをにじませたルミネラの声である。
「今、取り込み中よ。急用かしら?」
「――女たちの移送中に、脱走が起きたの」
それを聞くなり、ブエタナは強く唇を噛み、険しく眉を吊り上げた。
彼女の青い瞳は、不気味なほど微動だにせず、一点の虚空に注がれている。
その顔つきには、もはや“聖母”の面影など、ただの一欠片も残されていなかった。
(……女たちの脱走? 移送中?)
実に聞き捨てならない言葉である。
ルミネラの言い草から読み取れたのは、彼女が女たち――おそらく、ミードの村の娘たちのように、嘘八百で集めたのだろう――をまるでモノのように扱っているということだった。
薄々勘づいてはいたが、一家の“ビジネス”は、やはり人身売買の類であると、俺は確信を強めた。
「悪いけど、“誓約の儀”は一旦中断よ」
ブエタナは表情を欠いた声でそう告げると、すぐさまドアに向かって「お入り」と声を荒げた。
「……全く、手間かけるんじゃないわよ」
ひどく苛立った声で言いながら、ルミネラは赤毛の女と共に部屋の中に入ってきた。
赤毛の女は、二十歳そこそこと見え、背に回した両手を、きつく縄で縛られている。
肩ほどでまでの髪は、揉み合いでも起こしたのか、ひどく乱れ切っていた。
身に着けているのは、薄手のブラウスとロングスカートで、どちらも土埃で汚れている。
察するに、貧しい村娘といったところであろう。
「おそらくだけど、この女が脱走の首謀者よ」
ルミネラはそう言うと、赤毛の女の髪を掴み上げ、力任せに床へ押し倒す。
「魔術で護衛を気絶させて、ほかの三人の女たちを逃がしたの。既に追手は差し向けたけど、まだ見つかったという知らせは受けていないわ。全く、よくやってくれたわよね」
ブエタナはそれを聞きながら、深いため息を漏らした。
「……南部の外に出られたら、少々面倒なことになるわ。あなた、最近たるんでいるのではなくて?」
ブエタナは、きつく姪を睨みつけながらそう口にした。
「……まあいいわ。それで、この娘の処分はどうするつもり?」
「ミンチにして、家畜の餌にでもするわ」
ルミネラはこともなげに答えると、床に伏した女の顔を、思う存分蹴りつけた。
「でも、その前に、口を割らせる必要がある。自分がどこに連れて行かれるのか、どうやらご存知だったようだし。それに、女たちが逃げた先にも、心当たりがあるかもしれないわ」
「――そうなさい。速やかに済ませて、報告を頼むわ」
ブエタナは、実に冷ややかな声でそう告げた。
「わかったなら、とっとと出てお行き。私たちは“血の誓約”の最中だったのよ」
赤毛の女を見やると、その肩は微かに震えていた。
だが、彼女の瞳には、自らの運命に逆らうかのように、強い意志の炎が宿っている。
(――さあ、どうする?)
俺は自らに問いかけた。
こちらが何か行動を起こさない限り、目の前の赤毛の女は、確実に殺されるだろう。
俺に与えられた選択肢は、決して多くはない。
一つ目は、なりふり構わず赤毛の女を救うというものだ。
テーブルの上のナイフを使ってブエタナを人質に取れば、赤毛の女を屋敷の外に連れ出すことも、決して不可能ではない。
だが、そんな無茶を仕出かせば、屋敷中が大騒ぎになるのは火を見るよりも明らかである。
せっかく築いたバルボロ一家との関係は、全て水の泡となり、消えた娘たちの足跡を追うこともできなくなるだろう。
そればかりか、赤毛の女も、俺自身でさえも、五体満足で逃げ切れる保証はない。
何と言っても、部屋の前にはレジィが控えているのだ。
(……血操術さえ使えれば)
一瞬、そんな思いが脳裏をかすめたが、俺はすぐに打ち消した。
密告の恐れがある以上、赤毛の女も含め、屋敷中の人間を皆殺しにする覚悟がない限り、決して手を出すべきではない。
二つ目の選択肢は、黙って見過ごす。ただそれだけだ。
赤毛の女を見殺しにすれば、一家の信頼を失わずに済むし、やがて娘たちの消息につながる手がかりを得られるかもしれない。
要するに、一人の人間の死を、大事の前の小事にすぎないと考えるというわけだ。
こうして二つの選択肢を並べてみると、当然ながら、前者をとるのは現実的とは言えなかった。
失うものが、あまりに大きすぎる。
(……だが、本当にそれでいいのか?)
俺は、まさしく岐路に立たされていた。