15.誘惑の値踏み
ルミネラは、出入口に積まれていた木桶を手に取り、そのまま浴槽へと近づいた。
そして、桶に汲んだ浴槽の湯で、平然と体を流し始めたのである。
俺はその様を見るなり、黙って浴槽から立ち上がり、出入口へと向かった。
「……待ちなさいよ」
扉に手をかけようとした瞬間、ルミネラが背後から声をかけてきた。
何の用だと尋ねると、彼女は小さな笑い声を立てた。
「今日のご褒美に、一つ良いことを教えてあげる」
言いながら、彼女がこちらへ近寄ってくるのが、濡れた足音でわかった。
やがて足音は、俺の真後ろでぴたりと止まった。
「私はね、ハンサムな男が好きなの」
彼女は悪戯っぽい声でそう言って、焦らすような間を置き、それからこう続けた。
「――でも、ハンサムで強い男は、もっと好き」
しばしの間、俺が黙り込んでいると、彼女は背中の古傷を、指先でそっと撫でてきた。
「ねえ、いつまで背を向けているつもり? 女の裸を見るのが、そんなに怖いのかしら?」
猫撫で声で尋ねながら、彼女は豊満な乳房を背に押し当ててきた。
(……さて、どうしたものか)
本気なのか、悪い冗談か、はたまた何かの企みがあってのことか。
彼女の誘惑の真意を、俺は計りかねていた。
(――だが、誘いに乗るのも悪くはない)
思案の末、達した結論がそれである。
ブエタナとは違い、いくらかなりとも人間味を残したルミネラならば、懐柔できる可能性があると踏んだのだ。
ブエタナ本人を除けば、バルボロ一家の秘密を聞き出す相手として、彼女以上の適任はいない。
(――利用できるものは、何でも利用してやる)
俺は覚悟を決めて振り返り、唐突にルミネラの唇を奪った。
自分のように無骨な輩が、色仕掛けの真似事など、甚だおかしかったが、今は手段を選んでいられるときではない。
「……あッ」
ルミネラはたちまちのうちに俺の背に手を回し、狂ったように唇を貪り始めた。
やがて、彼女は甘い吐息を漏らしながら、俺の下腹部に手を伸ばし始める。
だが、俺は彼女の手に自らの手を重ね合わせ、その自由を奪った。
「俺は急ぐのが嫌いでね。お楽しみは、あとに取っておこう」
そう言って、俺は彼女の指先にそっと口づけをした。
「……あら、そんなこと言っていいのかしら?」
ルミネラは、その顔に恍惚の余韻を残しながらも、微かに苛立った声でそう言った。
「私がその気になるなんて、とても珍しいことなのよ。『あとに取っておこう』だなんて言っても、その機会は、金輪際訪れないかもしれない」
「――訪れるさ。必ずな」
俺はきっぱりとそう告げ、再び彼女に背を向けた。
ルミネラのような女ならば、欲しいものは何でも手に入れてきたはずである。
従って、望むままに全てを与えても、さっさと飽きられてしまうのがオチだ。
それならば、着かず離れずの距離を保っておいたほうが、かえって都合がいい。
「『あのときモノにしておけば良かった』って、いずれ後悔なさい。私は、猫のように気まぐれなんだから」
背後からそう聞こえてきたが、俺は構わず浴場の外へ出て着替えを済ませ、さっさとテーブルへ向かった。
* * *
ほどなく、むくれた顔のルミネラが席に戻り、ようやく会はお開きとなった。
それから俺たちは建物を出て、再び例の路地に行き着くと、馬車は既に迎えに来ていた。
帰り道、ぼんやりと馬車に揺られていると、隣に座っていたブエタナが、俺の耳元でこう囁いた。
「明日の晩、一人で私の書斎に来なさい。大事な話があるわ」
言わずもがな、俺は二つ返事でそれを承諾した。
(――早速、“ビジネス”の手ほどきをする気になったのかもしれぬ)
期待したのは、もちろんそれである。
無論、そこまで都合よく事が運ぶかはわからないが、八方塞がりだった現状に、はっきりと変化の兆しが現れたのは確かである。
その後、帰路では特に変わったことは起きず、俺たちは無事に屋敷へ辿り着くことができた。
離れに戻り、一目散にベッドに向かうと、俺はたちまちのうちに泥のような眠りへと誘われた。