14.悪魔の歓迎
「――今宵は、まさかまさかの挑戦者の勝利ですッ!! 皆様方、盛大な拍手をッ!!」
蝶ネクタイの男が、声の限りに叫ぶと、割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こった。
中には、怒号や罵声も混じっていたが――その声の主どもは、牛人に賭けていたに違いない――俺にとっては、何もかもがどうでもいいことだった。
ひどく疲れ果てた俺は、足早に檻から出て、一目散に席へと向かった。
牛人の返り血によって、全身が血みどろとなっていたが、当然ながら、着替えは持って来ていない。
だが、もとをただせば、全てはブエタナの仕組んだ茶番のせいである。
(……構うものか)
そう思いながら席に着くと、俺以外の三人には、既にメインディッシュが供されていたようで、ブエタナはまさにそれを堪能している最中だった。
ルミネラは平らげてしまったあとらしく、皿は空になっていたが、レジィの前に置かれた魚料理だけは、ほとんど手がつけられていない。
俺の残した前菜は、そのまま置かれていたが、それを口にしようという気は、やはり起こらなかった。
「……あなたには、感謝を言っておかなくちゃね」
間もなく、ルミネラが頬を上気させながらそう口走った。
「私も伯母様も、ケンゴーの勝利に賭けていたの。お陰で、良い小遣い稼ぎになったわ」
ひどくうっとりとしたその口調に、俺は寒気さえ覚えた。
人命を弄ぶ賭けに興じながら、食事に舌鼓を打つような女の感謝など、ただひたすらに虫唾が走るばかりである。
返事をする気はさらさらなかったので、じっと黙り込んでいると、今度はレジィが訝しげな目をこちらに向けてきた。
「……あんた、一体何者なんだよ。本当に、ただの元傭兵なのか?」
「そうだとも。ただの元傭兵だ」
きっぱりそう告げると、レジィはたちまち眉をひそめた。
「レジィ、お前は戦場に出たことはあるか?」
尋ねると、彼は小さく首を横に振った。
「俺くらいの奴なんて、いくらでもいたさ。お前が知らないだけで」
「……白々しい。そんなの信じられるわけないだろ」
レジィは呆れたようにため息をついたが、俺は嘘を言ったつもりはなかった。
事実、ゼルマンドに奇襲をかけた際、国中から集められた精鋭は、いずれも俺に引けを取らぬ猛者たちばかりだったし、敵陣にもそれと同等の手練れが揃っていた。
もっとも、そのうちの大半が命を落としたが、俺がこうして無事に生き残れたのも、たまたま暗黒魔術を会得していたからに過ぎない。
「……あなたのために拵えたメニュー、楽しんでいただけたかしら?」
やがて、一人黙々と食事を続けていたブエタナが手を休め、そう尋ねてきた。
「いいや。あんたとは違って、ロクに駆け引きもできないような輩だったからな。実に退屈させられた」
そう答えてやると、ブエタナは「今日くらいは無礼講を許しましょう」と言って、大きな笑い声を上げた。
「……何にせよ、実に見事だったわ。あなたは、私が望んだ以上の“結果”を示した」
言いながら、ブエタナは口元についた僅かな血――メインディッシュの肉から流れ出たものだろう――を白いハンカチーフで拭った。
(……!?)
その姿を目にした瞬間、俺の背筋に戦慄が走った。
出し抜けに、ブエタナが先刻発したセリフが思い返されたためである。
『メインディッシュに関しては、私は殺したての新鮮なものを、血の滴るようなレアで』
『……ただ、今日の肉はちょっとばかり脂身が多いから、それは除いて、赤身だけをいただこうかしら』
殺したて、今日の肉、脂身が多い――それらの言葉は、二つの肉塊へと変わり果てた、哀れな小太りの中年男の姿を想起させた。
そう、“天使の園”の院長その人である。
(――まさか、食ったのではあるまいな?)
もちろん、確証はない。
だが、俺はどうしても、その可能性を否定しきることができなかった。
何よりも、“今日の肉はちょっとばかり脂身が多い”という部分がいやに引っかかる。
これは、事前に食材となる肉の質を知っていない限り、決して出てこないセリフと言えた。
「――ようこそ、バルボロ一家へ。歓迎するわ」
例のごとく、ブエタナが偽物の聖母の微笑を浮かべたのを見て、俺は微かな吐き気を覚えた。
「どうしたの、ケンゴー? 顔色が悪いわよ?」
ルミネラが不安そうに尋ねてきたが、彼女の顔を見るなり、ますますひどい気分になった。
俺の勘が正しければ、ルミネラの胃袋にも、院長の一部が収まっているということになる。
「……少々、疲れただけだ」
長い沈黙の後、俺はやっとのことでそう答えた。
するとルミネラは、風呂に浸かって綺麗さっぱり返り血を洗い流し、体を休めたらどうかと持ち掛けてきた。
聞けば、この建物の中には、大人数用の浴場まで設けられているという。
係の者に着替えも用意させるとのことだったので、俺は二つ返事でそれを承諾した。
一刻も早くこの席から離れたかった俺にとって、願ってもいない話である。
* * *
(……風呂に入るだなんて、一体いつぶりだろうか?)
俺は白い湯気の立ち昇る大浴場に、心地よく肩まで浸かっていた。
熱い湯が、ほどよく身体と心をほぐしてくれたお陰で、いくらか気分はまともになっていた。
ほかに誰一人として客はなかったが、それというのも、ルミネラが係の者に申しつけ、貸し切りを命じたためである。
要するに、血まみれの入浴客がいては、ほかの者に迷惑がかかる、ということだろうが、俺にとってはこの上ない好都合と言えた。
大理石の浴場を、たった一人で独占できる機会など、人生に何度も訪れるものではない。
(しかし、とんだ一日だった)
“天使の園”での一件、院長の無残な死、牛人との闘い、食人の疑惑――これまでの安穏な日々が嘘としか思えないほど、血生臭い出来事ばかりが身に降りかかってきた。
それも、その全てがわずか半日の間に起こったのである。
だが、どうにかそれらをやり過ごしたお陰で、俺は正式にバルボロ一家へ迎えられる運びとなった。
(遅かれ早かれ、一家の“ビジネス”について知る機会はやって来るだろう)
俺はそれを確信していたが、同時に真実を知ることに対する幾ばくかの恐怖もあった。
何と言っても、聖女の仮面を被った悪魔が考えついた金儲けの手段である。
十中八九、耳をふさぎたくなるようなものに違いなかった。
しかし、それが消えた娘たちの手がかりになるだろうということも、また確かである。
(――それだけが、唯一の希望だな)
そう思いながら、俺は深々とため息をついた。
真実に近づくことは、即ち一家との関わりを深めてゆくことでもある。
そうなれば、ますます血生臭い出来事と対峙する機会も増えるであろう。
加えて、彼らの悪事に手を貸すつもりもない以上、今後は一層知恵を働かせなくてはならない。
自分自身が犯罪者になり下がらぬためには、より慎重に立ち回る必要があった。
(……相当骨を折らねばなるまい)
またも、俺は底深いため息をついた。そのときだった。
「――湯加減はどうかしら?」
言いながら、一糸まとわぬ姿のルミネラが、浴場に踏み入って来たのである。