13.元剣聖の真価
ゆっくりと檻の前へ進み出ると、傍に立っていた兵士が、慣れた手つきで扉の鍵を開けた。
剣の握りを確かめつつ、檻の中へ踏み入ると、すぐさま扉は閉ざされた。
同時に、奥のほうに立っていた巨大な牛人が、黄色く濁った眼でこちらを見た。
「……グルルルルルゥ」
低い地鳴りのような呻きと共に、牛人は大鉈を頭上に掲げた。
間もなく、巨体を揺すってこちらへ走り出したが、牛のように愚鈍というわけではないらしい。
見る見るうちに加速を強め、その風圧が、一陣の風のごとく頬を薙いだ。
(――速い)
俺は呼吸を整え、剣を構える。
そして、固い鉄の床を蹴り、真正面から牛人へ向かっていった。
「……おいおい、無暗に特攻を仕掛けるなんて正気か?」
「まさか、恐怖のあまり、気が狂ったのではあるまいな!?」
「勘弁してくれよ。こっちはあんたに賭けたんだッ!!」
外野が何やら喚いていたが、所詮は戦いの“た”の字も知らぬ烏合の衆である。
“聞かぬが花”とばかりに、俺はますますペースを上げた。
牛人との距離が、一瞬のうちに縮まる。
凄まじい剣圧を帯びた大鉈が、今まさに、俺の脳天へ振り下ろされようとしていた。
(――今だッ!!)
体を低く倒しながら、思い切り右足を伸ばし、牛人の股の間に身を滑り込ませる。
同時に、ついさっきまで俺がいたはずの空間を、唸るように大鉈が薙いだ。
勢いのままに、俺は地面を背で擦りながら、奴の左足首を嫌というほど斬りつけてやった。
(……これで、多少は威力も削がれるだろう)
足が傷つけば、当然踏ん張りは利かなくなり、威力もスピードも弱体化する。
俺が狙ったのは、まさしくそれだった。
相手は鎧のような筋肉をまとっているのに加え、十分すぎる上背もあるため、急所を狙おうにもリーチが足りない。
従って、まずは四肢を狙い、行動の自由を奪うことを目論んだのだ。
要は、端からある程度の長期戦を見据え、なぶり殺しにすると決めていたのである。
威力に勝る大剣ではなく、小回りの利く片手剣を選んだのもそのためだった。
相手の足元や懐でちょこまかと動くには、そのほうが好都合と言えた。
俺は牛人の股下を通り抜けると、即座に立ち上がって体の向きを変え、相手の背に剣を構えた。
同時に、外野から掌を返したように歓声が上がったが、どうにも我慢ならなかった。
剣の腕は、死地を生き抜くため、そして何よりも、無益な死をばら撒くゼルマンドを討つために磨き上げてきたものである。
下劣な金持ちどもの見世物にされるなど、断じて願い下げだった。
「――グオオオオォォォォーッ!!!!」
痛みのためか、傷つけられた怒りのためか、牛人は激しく咆哮した。
同時に、振り返りざまの横一線の斬撃が、こちらの首元に向かってくる――。
俺は、ギリギリまでそれを引きつけると、手にした剣を上空に放り投げ、勢いよく背を弓なりに反らした。
厚みを持った刃先が、凄まじい速度で眼前をかすめてゆく――俺はそれを眺めつつ、背面から倒れ込むようにして両手を床につき、同時に両膝を胸元まで引きつけた。
次いで、思い切り床を押し上げ、反動を利用して跳ね起きると、計ったように目の前に剣が落下してきた。
あやまたず、その柄をしっかり掴むと、目と鼻の先に、斬撃を振るった直後の牛人の両手首が見えた。
俺は剣先を下に向け、渾身の力でそれらを刺し貫いた。
鮮血が、たちまちのうちに宙に舞った。
「――グッ、グギャオオォォーッ!!!!」
牛人は再び咆哮した。
その声には、隠しようのない苦痛が滲み出ている。
だが、戦意はいまだ衰えていないようだった。
敵は、よろめくように数歩後退すると、今度は大鉈を下段に構えた。
そして、左肩を前に突き出した態勢のまま、再び突進を始めたのである。
「――グアオォォォーッ!!!!」
俺はしっかりと牛人を見据えたまま、その場を動かなかった。
相手との距離は、瞬く間に詰まってゆく。
地面すれすれにあった刃先は、やがて鉄の床を力強く滑り、激しい火花を散らした。
(――来る。左下方向からの斬り上げだ)
俺は慎重にタイミングを計って地面を蹴り、体を真っ直ぐ伸ばした状態で、右前方の宙に跳んだ。
すると、へそのすぐ下の空間を、勢いよく刃がかすめてゆく――。
無論、まともに食らえばひとたまりもないが、一撃目、二撃目と比べ、確かに剣筋が衰えていたのを、俺は見て取った。
(――あともう一押し、というところか)
難なく刃を飛び越えた俺は、前回りの受け身をとると、そのまま相手の懐近くで立ち上がり、即座に低く身を屈めた。
そして、股下を駆け抜けながら、今度は右足首に斬撃を見舞ってやると、牛人は遂に膝を折った。
「……嘘だろ? あの男、一体何者なんだ!?」
「人間業とは、とても思えぬ」
「化物だ。信じられねえ……」
観客たちのざわつきをよそに、俺はますます神経を研ぎ澄ませた。
牛人は大鉈を杖替わりに立ち上がると、すぐにこちらへ向き直り、構えの姿勢をとる。
一方、俺は両手を広げた姿勢のまま、ゆっくりと敵に向かって歩き出した。
しばしの間、牛人はこちらを凝視したまま、その場に留まっていた。
斬れと言わんばかりの俺の態度に、少なからず戸惑ったのであろう。
だが、所詮は本能に従うだけの獣と同じである。
やがて、牛人は両手足から血を撒き散らしながら猛進を始め、あっという間に眼前へ躍り出た。
「おい、さすがに死んじまうぞッ!!」
「……あいつ、今度は何するつもりだ!?」
「馬鹿な真似は止してくれッ!! こっちはあんたに賭けてるんだッ!!」
外野の忠告などお構いなしに、俺は両手を開いた格好で静止していた。
(――来いッ!! 見切ってやるッ!!)
牛人は黄色く濁った眼を見開き、力の限りに咆哮した。
同時に、水平に倒された大鉈の刃が、俺の左の横っ腹を目がけて繰り出される。
――その瞬間、俺は強く床を蹴って飛翔した。
ジャンプの最高点に到達すると同時に、両膝を胸へと引き寄せる。
すると、足の裏の真下を、分厚い刃が滑ってゆく――それは、踏み台にするには、まさにおあつらえ向きと言えた。
瞬時に分厚い刀身に立った俺は、そのまま全速力でその上を走り抜け、牛人の右手首へ到達した。
次いで、丸太のごとく太い腕を駆け登ると、その先に、巨岩ほどの肩先が見えた。
俺はそれを力いっぱい蹴り、高く宙に舞う――。
牛人は、何が起きているのかまるで理解できていない様子で、ゆっくりとこちらを仰ぎ見た。
落下が始まると同時に、俺は両手で頭上に剣を掲げ、切先を真下に向ける。
そして、牛人の首の右上部に、深々と刀身をうずめた。
全身全霊の力を込めた一撃である。
勢いよく舞い上がった鮮血が、驟雨のごとく全身に降りかかってきたが、まるで意に介さなかった。
俺は敵の肩を足場にして、そのまま上方向へと剣を走らせる。
首筋、頬、そして濁った瞳――順繰りにそれらを斬り裂いたあと、高く振り上げた刃を、脳天目がけて思い切り突き立ててやった。
「――グギャァァァァァッ!!!!」
断末魔の叫びを上げながら、牛人はゆっくりと前方に崩れ始める。
俺は頃合いを見計らって肩から飛び降ると、空を切って刀身にまとわりついた血を払った。
やがて、鈍く重苦しい轟音と共に、牛人は地へ伏した。




