12.血塗られた晩餐
過去に様々な魔物と対峙してきた俺でさえ、このような魔物を目にしたことはなかった。
首から上は、戦槍のごとく先の尖った角を持つ、猛々しい雄牛。
足先も蹄の形状をしていたが、この二つを除けば、肉体はまさしく人間のそれである。
ところどころが豊かな体毛に覆われた茶褐色の肌を持ち、鋼のように分厚い筋肉を全身に帯びている。
その上、何もかもがでかい。
背丈は、優に俺の三倍を超えている。二階建ての家ほどの高さと言えた。
手にした鉈も、体に見合った大きさで、途方もない代物である。
騎兵など、易々と馬ごと斬り伏せてしまえるだろう。
(……先ほど、“賭札”がどうのとかのたまっていたな)
大方、魔物同士に殺し合いでもさせる気だろう、と俺は訝しんだ。
人間相手では、どこからどう考えても賭けが成立し得ない。
何にせよ、実に悪趣味な見世物が始まるであろうことは、想像に難くなかった。
「では、皆様方には早速、この人外の恐ろしさをお目にかけましょう!!」
蝶ネクタイの男が得意げに声を張ると、部屋の奥のほうから、「いやだ、止めてくれッ!!」と悲痛な叫びが聞こえてきた。
やがて、フルプレートで武装した兵士によって檻の前に引きずり出されたのは、下着姿の小太りの中年男である。
(……まさか!?)
俺は、その男に見覚えがあった。
間違いなく、ブエタナの経営する孤児院“天使の園”の院長である。
兵士は、腰に下げていた鍵で檻の入口を開けると、その中に容赦なく院長を蹴飛ばした。
次いで、素早く入口に鍵をかけると、檻の隙間から、餞別とばかりに自分が手にしていた剣を放り投げた。
「……ああ、ああ、ブエタナ様、どうぞお許しくださいッ!!」
院長は格子にしがみつき、涙と鼻水で顔を汚しながら叫んだ。
「――これでも、温情ある措置よ。感謝なさい」
衆目を一身に集めたブエタナは、実に穏やかな声でそう告げた。
「あなたの監督不行き届きのために、私は死にかけた。にもかかわらず、こうして挽回のチャンスを与えてあげたのよ。それがわからないとでも言うの?」
「一体、これのどこが、チャンスだと言うのですかッ!?」
院長の絶望を帯びた問いかけに、ブエタナは偽りの聖母の微笑で応じた。
「その怪物を討ち取れば、一切を水に流すと約束するわ。これまで通り、院長の椅子に据えておいてあげる」
ブエタナの声には、何の躊躇いもなかった。
“天使の園”で顔を覗かせた冷徹さを、彼女は今、はっきりとここに示していた。
「運命はいつだって、自分の手で切り拓くもの。さあ、剣を取りなさい。果敢に立ち向かうのよッ!!」
何人も、彼女の意見を覆すことは許されない――肌身でそう感じさせるほど、有無を言わせぬ口調だった。
院長は諦めたのか、うつむき、肩を小刻みに震わせながら、ゆっくりと格子から手を離した。
そして、足元に落ちていた剣を拾おうと、身を屈め、手を伸ばした瞬間、一帯が異様な静寂に包まれた。
「……あッ」
ぽつりとそう言ったのと同時に、院長の脳天に巨大な鉈の刃先が食い込んだ。
唐突に背後から振り下ろされた無慈悲な刃は、まるで木こりが薪を割るかのように、あっさりと彼の股の下まで到達した。
断末魔を上げる暇どころか、おそらく自分の死に気づく暇さえなく、彼は二つに裂かれた肉塊へと変わり果てていた。
「――何という膂力ッ!! 何という凄まじさッ!!」
蝶ネクタイの男のいやに甲高い声が、会場の沈黙を破る。
同時に、低い地鳴りのような音と共に、檻の床の一部が下方向へと開いた。
院長の屍肉は、仕掛け床の先に続く底深い闇の中に、あっという間に呑み込まれていった。
「それでは、いよいよ本番に移ります。本日の挑戦者は……」
蝶ネクタイの男はそこで言葉を切り、たっぷりと間を置いてからこう続けた。
「――各所で小さな奇跡を起こし続けた元傭兵、“傷跡の聖者”こと、ケンゴー氏ですッ!!」
告知されるや否や、会場に割れんばかりの拍手が鳴り響く。
俺は、真向かいに座っていたブエタナを思い切り睨みつけた。
「……これが、あんたの言う“祝い”か?」
「その通り。これこそが、あなたに与えられた祝福であり、最後の試練よ」
ブエタナはそう言うと、陰鬱な笑みで口元を歪めた。
「私の正式な用心棒となり、一家の“ビジネス”を学びたいのなら、自らの力を証明しなくてはならない。当然のことよ」
「……心に刻んでおきなさい。これが伯母様の流儀なの」
ご丁寧に解説を加えてくれたのは、ほかならぬルミネラだった。
「伯母様は、才能に恵まれた者に対してチャンスを与えることを惜しまない。身分、年齢、性別、血縁、全て関係なしでね。私だって、血縁があるから取り立ててもらったわけじゃないわ。今の地位は、全て実力で掴み取ったもの。それはレジィだって同じよ」
姪の言葉に、ブエタナは満足気にうなずき、それからこう言った。
「私は“結果”しか求めないの。さしずめ、純然たる実力主義者ってところかしら」
「……上等だ。あんたの言う“結果”とやら、示してやろう」
俺は覚悟を決めて立ち上がった。
是が非でもブエタナとのゲームに勝ち、“ポリージアの聖母”の本性とその悪行の全てを、白日の下に晒してやるのだ、と。
そして必ずや、消えた娘たちの手がかりを掴まなくてはならない。
「……そうそう、一つ言い忘れていたけれど、この戦いにはルールがあるの。より参加者と観客にスリルを味わってもらうための、特別なルールがね」
ブエタナは人差し指を空に突き出し、ひどく愉快そうに言った。
「防具の類は、一切身に着けることは禁止。持ち込める武器も、たったの一つだけ。それから、魔術の使用も認めないわ。と言っても、あなたにはその適性がないようだから、心配は要らないでしょうけれど。こちら、守っていただけるかしら?」
薄々勘づいていたことではあったが、この女の問いかけは、いかなる場合においても、自分の意見に相手を従わせることだけを目的としていた。
そんな質問の体をなさない質問にうんざりとしながらも、俺は黙って兜と鎧を脱いだ。
それから、両手剣と片手剣を見比べたのち、片手剣を手に取った。
死臭の立ち込めた檻へと向かう道すがら、俺は改めてこう気づかされた。
文字通り、自分の命そのものに値札をつけてこの仕事を受けていたのだ、と。
だが、恐れは少しも湧いてこなかった。
かつての“剣聖”の血が騒ぐのを、俺は密かに感じ取っていた。