10.不吉な骨
「……今日で、試用期間は最後の日だったわね」
屋敷に戻り、玄関ホールを抜けたあと、ブエタナがそう声をかけてきた。
その直前に、レジィは便所に発っており、珍しく俺たちは二人きりだった。
「当然ながら、あなたとは正式に契約を結びたいと考えているの。“天使の園”では咄嗟の機転で私を救ってくれたわね。心から感謝しているわ」
微笑をたたえたブエタナに、俺は黙ったまま会釈をした。
彼女の微笑みは、初めのうちこそ聖母のような気高さと品性を感じさせたが、今では、ただのまがい物としか映らなくなっていた。
“聖母”という仮面の下に、どれほどおぞましい素顔が潜んでいたとしても、もはや、俺が驚くことはないだろう。
「そういうわけで、今日はささやかなお祝いをさせてもらいたいの。私たちの関係が、いつまでも続くように、という願いを込めてね。実を言うと、お店も既に手配してあるわ」
全く興味もなければ、行きたくもない、というのが正直なところだった。
そもそも、あんな事件が起きた直後に“祝い”を開こうとするなど、少々頭のたがが外れているとしか思えない。
だが、今の俺はブエタナの用心棒だ。
彼女が外に祝いに出かけると言えば、好むと好まざるとにかかわらず、ついていかなくてはならない立場である。
「……まあ、あんなことがあったばかりだし、さして気乗りしないのも理解できるわ。でも、それはそれ、これはこれよ。何事も切り替えが大事なの。今晩は楽しむと決めて、思う存分楽しみましょう」
俺は黙ってうなずき、心遣いに感謝する、と言った。
するとブエタナは、たっぷりの間を置いてから、こう切り出した。
「そう言えば、あなたは私たちの“ビジネス”に興味がおありのようね。ルミネラから聞いたわ」
ブエタナはまぶしげに目を細めながら、じっとこちらを見つめてきた。
「チャンスを手にできるかどうか、全てはあなた次第よ。よくよく目を凝らし、頭を働かせ、それを掴み損ねないことね」
俺がうなずいてみせると、ちょうどレジィが便所から戻って来た。
レジィは、ブエタナから外出の旨を聞かされるなり、たちまち破顔させ、「やった!」と小さく叫んだ。
しかし、そんな彼の喜ぶ姿も、今の俺には猿芝居のようにしか映らなかった。
この屋敷の人間は、誰も彼も、己を嘘で塗り固めている者ばかりなのかもしれない。
(――だが、最大の大嘘つきは、この俺自身だな)
思うや否や、不意におかしさが込み上げてきた。
何せ、脱走した死刑囚である人間が、今では聖者を演じているのだ。
これ以上の大嘘など、世界のどこを見渡しても、まずお目にかかれないはずである。
(――それをやってのけている今の俺ならば、この屋敷の者たちを、一人残らず出し抜くくらい、やってやれぬことはない)
自分にそう言い聞かせると、不思議と力が湧いてくる気がした。
ここ最近は思い返す機会さえなかったが、元より俺は、ブエタナ以上の化物など、いくらでも相手にしてきたはずである。
彼女が厄介なのは、単に本性を見せない悪賢さのためにほかならなかった。
(必ずやこの女の化けの皮を剥いでやり、娘たちの消息を掴むのだ)
俺は改めて、固く心にそう誓った。
「……では、出発する前に、お色直しをさせてもらうわ。その間も、廊下で番を頼みます」
そう言って、ブエタナは二階に続く階段を登り始め、俺とレジィがあとに続いた。
* * *
それから、約一時間後。
俺はブエタナ、レジィ、ルミネラと共に馬車へ乗り込み、屋敷を発った。
少しの興味も湧かないので、行先は尋ねなかったが、唯一気がかりだったのは、ブエタナの“お色直し”だった。
彼女はどういうわけか、普段とは比較にならないほど粗末な衣服を身にまとっていたのである。
くたびれた綿のブラウスに、くるぶし丈のロングスカートを合わせ、薄い黄褐色のヴェールで頭を覆っていた。
その美しさはなりを潜め、パッと見では、市井の人としか映らない。
そしてルミネラも、伯母同様、彼女らしからぬ地味な衣装に身を包んでいた。
二人とも装飾品の類は、ただの一つも身に着けていない。
(一般人に扮して、“お忍び”で行くほど美味い店なのだろうか)
ブエタナは、“お店も既に手配してある”と確かに言っていたはずである。
従って、俺はその程度のことしか考えていなかった。
やがて、馬車は走るのを止めた。
外に出ると、御者は「いつもの時間にお迎えに上がります」と言い残し、再びどこかへと馬を走らせていった。
辺りを見渡すと、人気のない路地である。
少し遠くには海が見え、水面には小さく月が映し出されていた。
「……二人とも、しっかり警備を頼むわ」
ルミネラは居丈高にそう言って、ブエタナと並んで歩き出した。
その後、俺たちは人混みに溢れた大通りへ出た。
どうやら、レジィは行先を知っているらしく、彼が先陣を切った。
しんがりは俺が務め、間にブエタナとルミネラを挟む、という配置である。
(今日の午後に殺されかけたばかりで、よくこのような雑踏に身を晒す気が起きるものだ)
往来のそこかしこにたむろしているのは、お世辞にも上品とは言えない人種である。
その大半が、いかにも粗野な顔つきをした、船員か商人と見える連中だった。
ほかに目につくのは、艶めかしい声で客を呼び込む、厚化粧の商売女たちである。
“ポリージアの聖母”には、何もかもが似つかわしくない場所と言えた。
一行は、しばらくその通りを歩いたのち、一軒の商店らしき建物の前で足を止めた。
だが、そこには灯り一つさえともっていない。
目的地は、大衆食堂か何かだと考えていたが、それは見当違いだったようである。
ブエタナはこちらを振り返り、得も言われぬ笑みを浮かべながら、「ここよ」と呟いた。
建物の軒先には、無数の大小の骨が、糸に吊り下げられてぶら下がっている。
それらは夜風に揺られ、不気味なカラカラという音を立て、まるで生きているかのようにうごめいていた。
(……どうやら、既に店仕舞いした精肉店らしい)
俺の脳裏に浮かんだのは、王都の貧民街のほど近くにあった、稼ぎの良くない肉屋である。
その店も、看板代わりと言わんばかりに、同じように軒先に骨をぶら下げていた。
幼い俺は、それをひどく不気味に思い、決して近づかぬようにしていた。
「……こんなところでお祝いとは、ずいぶんと変わった趣味をお持ちのようで」
俺の皮肉に、ブエタナは不敵に口端を歪めてみせた。