7.静かな日々の憂鬱
(……しかし、あの女、なかなか尻尾を出す気配がない)
俺はそんなことを考えながら、部屋の窓から昇る朝陽を眺めていた。
今では俺は、ブエタナの屋敷の離れの一室――ひどく小奇麗で、贅の尽くされた調度品がいやに目につく、どこか息苦しい部屋だった――を貸し与えられ、そこに寝泊まりするようになっていた。
用心棒に雇われて、今日で七日目。
その間、ブエタナはほとんどの時間を屋敷の書斎で過ごし、外出も数えるほどしかしなかった。
しかも行先は、ポリージアの貧民街近くにある修道院と決まっていた。
ブエタナは、そこに馬車で大量の食糧を運ぶと、修道女たちに混じり、貧しい人々への炊き出しを進んで手伝った。
ほかに彼女がやったことと言えば、屋敷を訪ねた者たちの対応くらいである。
その中には、大層立派な身なりの者もいたが、それはどちらかと言えば稀だった。
訪問者の大半は、ひどくみすぼらしい恰好をしており、生活に窮しているであろうことは一目で見て取れた。
彼女は、ときにはその者たちに食糧を分け与え、またあるときには書斎に招き、長い時間話し込んだ。
そこでどんな会話が交わされているのか、非常に気がかりではあったが、俺はレジィと共に見張り番を命じられていたため、書斎前の廊下に控えていなければならなかった。
念のため、聞き耳を立てていたものの、書斎の壁は分厚いらしく、盗み聞きは不可能だった。
だが、それでも一つだけわかったことがある。
それは毎回、部屋を出る際の訪問者たちの顔が、入室した際とは比べ物にならぬほど、大層希望に満ちたものへ変わっていた、という点だ。
大方、仕事を斡旋してやっているのだろう、というのが俺の見立てだった。
そんな具合で、用心棒の仕事と言っても、その大半が書斎の前で棒立ちしているに過ぎず、手にする報酬の額を考えると、およそ不釣り合いな内容だった。
「……まるで出番がないが、本当に用心棒など必要なのか?」
あるとき、俺はレジィにそう尋ねたが、返ってきた答えには、なるほどと思わされた。
「そりゃ、あんたのお陰だよ。ブエタナ様が、“傷跡の聖者”を用心棒に雇ったって話は、既に町中で噂になってる。だから、誰も余計なちょっかいを出してこないのさ。もちろん、“今のところは”という条件付きだけどね。少し前までは、たびたび危険な目に遭って、この屋敷もそれなりにピリピリしてたもんさ」
“傷跡の聖者”の名がそこまでの抑止力になり得るとは、我ながら少々意外だった。
だが、並々ならぬ報酬には、そうした事情が隠されていたのだと、ようやく合点がいった。
(――それはさておき、この仕事、案外長丁場になるかもしれん)
やむを得ず、俺はそんな覚悟をし始めていた。
娘たちの消息を掴んだら、わざと面倒事でも起こし、早々に契約を打ち切らせる算段でいたが、それほど都合よく物事が運ばれる可能性は、今では諦めざるを得なかった。
(……となれば、こちらから積極的に動き、何か手がかりを掴まねばなるまい)
そう思い、少しでも可能性がありそうな策を、俺は一つひとつ挙げてみる。
屋敷中の探索、ヴリド爺さんと揉み合いを起こした守衛との接触、ブエタナが使用人に預けている手紙をどうにか盗み読む――やれることはいくらでもあったが、実際問題、どれも実行に移すのは容易ではなさそうだった。
何と言っても、朝から晩まで、常に雇い主に張り付いていなければならないのだ。
日中に自由な時間は存在せず、夜になればなったで、離れに隔離される。
その上、こちらも常時レジィやブエタナに監視されているようなものだった。
少しでも怪しい動きを見せれば、自分の立場を危うくするだけでなく、娘たちにつながる手がかりまで失うことになる。
(……八方塞がりとまでは言わぬが、実に厄介だ)
俺はため息を一つばかりついたのち、窓の傍から離れ、新品同然のベッドに腰を下ろした。
部屋のドアをノックする音が聞こえたのは、そのときだった。
「――誰だ?」
咄嗟に尋ねると、ヘッテです、と返事があった。
ヘッテとは、俺の身の回りの世話を命じられたメイドで、十代後半と見える少女である。
人目を引くような美しさは持ち合わせていないが、はにかんだ笑顔が実に愛らしく、何よりも、必要最低限のことしか口にしないのが好ましかった。
この屋敷に来てからというもの、年齢不詳の美貌の慈善家、やけに妖艶で口うるさいその姪、大剣持ちの餓鬼の用心棒など、どこか常軌を逸した人間とばかり時間を共にせざるを得なかった。
従って、彼女のようなごく普通の人間との関わりは、少なからずホッとした気持ちにさせてくれた。
俺が部屋のドアを開けてやると、ヘッテは「もう朝食の準備ができましたので、お呼びに参りました」と言い、小さなお辞儀をした。
「ところで、それはどうした? 怪我でもしたか?」
俺がそう尋ねたのは、彼女のまとった白いエプロンドレスの裾に、真新しい血痕を見つけたためである。
「……いえ、今朝方鶏を捌いたものですから」
ヘッテはうつむきながらそう言い、額にかかった前髪を、どこか忙しない手つきで払いのけた。
ところが、その日の朝食には、鶏肉を用いた料理は一皿も並ばなかった。
俺はそれを妙だと思ったが、その日の午後にあんな事件が起きてしまったせいで、しばらくの間、その事実を思い返すことはなかった。