2.ポリージアの聖母
俺たちが席に着くなり、ルミネラは静かな声で話し始めた。
「私は普段、ポリージアで暮らしているのだけど、“傷跡の聖者”の噂は、私たちのところまで聞こえてきた。だからこうして、はるばる足を運んだというわけ」
ポリージアと言えば、ツヴェルナからさらに南進した先にある大きな港町である。
レヴァニア王国内では、知らぬ者は誰もない、五本の指に入る大都市だった。
「……ところで、用心棒の仕事だと聞いたが」
こちらからそう切り出すと、ルミネラはゆっくりとうなずいてみせた。
「ええ、そうよ。ただ、護衛してもらいたいのは、私ではなく、私の伯母なの。伯母は、少々名の知れた篤志家でね」
「……ルミネラさんの姓は、バルボロと仰っていましたよね。もしかして、その伯母様というのは、“ポリージアの聖母”のことでしょうか?」
ユーディエが驚いたような口調で尋ねると、ルミネラは控え目な笑みを浮かべ、お察しの通りよ、と答えた。
「“ポリージアの聖母”をご存じありませんか?」
ユーディエがそう訊いてきたので、俺は首を横に振った。
「“ポリージアの聖母”ことブエタナ・バルボロ様は、偉大な慈善家です。戦によって住処を失った人々や、生活に困窮している人々を、自分の屋敷に招いて食事を振る舞ったり、仕事の斡旋などをされているのです」
「……だが、用心棒が必要となると、それ相応の理由があるはずだ。名の知れた篤志家が命を狙われているとならば、なおのこと」
疑問を投げかけると、ルミネラはいくぶん神妙な面持ちになった。
「伯母は慈善事業以外にも、いくつかの事業を手がけて成功を収めているの。飲食業や宿泊業、まあそんなところね。要するに、伯母は敵をつくりやすい立場にあるってわけ」
「……しかし、それだけで命の危機に晒されるものだろうか?」
「ポリージアは、国中から大勢の人間が集まる町よ。中には、すぐに暴力に訴えようとする、鼻持ちならない輩もいるってわけ。ところで、あなたは “ガルノガ一家”についてご存知かしら?」
俺はまたも首を横に振った。
これまで気にしたことはなかったが、戦にばかり明け暮れていたせいだろう、どうやら世情には疎い性質らしい。
「“ガルノガ一家”は、古くからポリージアに根付くやくざ者の集まりで、縄張り意識がいやに強いの。彼らは伯母に法外なみかじめ料をふっかけてきたから、まあ、当然跳ね除けてやったのだけど、その件をきっかけに、勝手に逆恨みを始めてね。新参者で成功者でもある伯母を、目の上のたん瘤だと考えてるってわけ。全く、迷惑な話よ」
「……事情は理解した。それで報酬は?」
尋ねると、ルミネラは共犯者を見るような視線を向けてきた。
「規定の指名料に加えて、一日でエギゼル金貨七枚。ただし、最初の一週間は試用期間として、その半額でお願いできればと考えているわ」
あまりの報酬の高さに、俺は自分の耳を疑った。
それは横に座っていたユーディエも同じらしく、彼女は驚きを隠せないと言わんばかりに、両手で口元を覆っていた。
一般的な市民は、エギゼル金貨十枚もあれば、ひと月の生計を立てられる。
それに近い額を一日で稼げるとなれば、あまりに虫のいい話ではないか。
“ただより高いものはなし”とはよく言うが、不自然なほど報酬が高いのも考えものである。
怪しまないわけにはいかなかった。
「でも、試用期間での働きぶりに問題があれば、残念ながら、依頼はその時点で打ち切りにさせてもらうわ。もちろん、そのような心配はしていないけれど」
ルミネラはそこで言葉を切ると、たっぷりの間を置いてからこう続けた。
「――それで、お返事は?」
「……考えておこう」
ひとまず、俺はそう答えておいたが、ルミネラは気に食わなかったのだろう。
ほんの一瞬、その瞳に獲物を狙うハンターのような鋭い光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。
「どこか不満な点があったのかしら? よろしければ、是非ともお聞かせ願いたいわ」
「……生憎、今のところは金に困っていない。それに俺は、根っからの気分屋でね」
そう言ってやると、ルミネラは呆れたように小さな笑い声を上げた。
「――では、もう少しばかり様子を見させていただくわ。私は当分の間、この町に滞在するつもりでいるの。その気になったら、すぐにこちらへいらして」
ルミネラはそう言って、小さな紙片を差し出した。
そこに記された宿泊先の住所は、貴族を相手に商売する、この町で最も高級な老舗宿だった。
「――聖母に聖者。ピッタリの組み合わせだと思うのだけれど。とにかく、良いお返事を期待しているわ」
そんなセリフを置き土産に、ルミネラは意味ありげな微笑と共に席を立った。