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20.書籍発売記念 エピローグ(中編)

 書籍版『傷跡の聖者』の発売を記念し、本編のその後の物語を公開します。

 今回のお話も引き続き、〝聖女〟イクシアーナの視点で進行します。

 舞台の幕が開くと、イーシャルが送った激動の人生が、めくるめく展開してゆきました。

 貧民街の娼館にて、母親代わりの娼婦たちから、暴力や暴言を浴びせ続けられた少年期。

 姉のように慕っていた年若き娼婦メローサから受けた、筆舌に尽くし難い裏切り。

 無二の戦友たちをことごとく失い、復讐鬼のように戦場を駆け巡った従軍時代。

 〝血操術〟の使用によって身につけた、暗黒魔術の耐性を切り札に、遂に果たしたゼルマンド打倒の偉業。束の間の栄光と、密告によってもたらされた突然の転落。

 お尋ね者になりながらも、〝傷跡の聖者〟として世のため人のために暗躍した日々。

 〝英雄殺し〟こと蘇ったゼルマンドに、単身で立ち向かい、その果てに聖剣に捧げた己の心臓。もたらされた救世。

 再び王国政府に捕縛されるも、決闘裁判で勝利し、自ら掴み取った自由。

 〝賢人会〟筆頭として築き上げた、盤石な平和の世。貧困の廃絶の実現。

 遂に確立された、〝傷跡の聖者〟即ち国家史上最大の英雄という栄誉。

 そして伝説を締めくくる、史上初の生前列聖――。


 鳴り止む気配のない拍手万雷の中、もはや涙を押し留めることができなくなった私は、ひしひしと感じていました。戯曲〝傷跡の聖者〟は、喪失に次ぐ喪失、絶望に次ぐ絶望に立ち向かう、一人の男の物語なのだと。

 もし私が彼だったら、背負わされた運命の重荷に、間違いなく耐え切れなかったでしょう。

 でも、彼は耐え抜いた。ひたすらに、耐えて耐え続けて、ただ真っ直ぐに、決して折れない剣のように、正義の心を貫き通した。

 国中の人々に後ろ指をさされてもなお、誰も憎まず、恨み辛みさえ口に出さず、行動し続けることで自らの正しさを証明してみせた。


 なぜそんなことが可能だったのか、私にはまるで分かりません。

 それでも、一つだけ改めて分かったことがあります。

 それはイーシャルが、喪失や絶望を背負ったからこそ、真実無二の英雄になれたのだということ。

 身も心も常に傷だらけで生きてきた彼は、長きに渡る戦役がこの国に、人々にもたらした癒やし難い傷を、誰よりも深く理解していた。理解していたから、何が必要かを見極め、救世をもたらす大改革を実現できた――そんな風に、私は思うのです。

 どんな苦しみも、悲しみも、痛みも、意味あるものに変えてゆくことができる。どれほど打ちのめされても、人は再び立ち上がることができる――それを自らの生き方で証明したことが、傷跡の聖者が成し遂げた〝奇跡〟の本質なのだと、私は今、改めて感じています。


 戯曲〝傷跡の聖者〟は、希望に彩られた再生と救済の物語でもありました。

 まさに後世に語り継がれるべき、一大叙事詩と言えましょう。

 その作者が、〝白き語り部〟であることに、私は深い感動を覚えていました。


 〝白き語り部〟は、二度目の公開処刑を宣告されたイーシャルを救うきっかけを作った張本人であり、現在は方々から引っ張りだこの人気劇作家です。イーシャルが賢人会筆頭に就いて間もなく、彼は吟遊詩人から劇作家に転身し、あっという間に頭角を現しました。

 その〝白き語り部〟が唐突に私のもとを訪ね、次のように告白したのは、数年前のある日のことでした。


「――君にはいつか言わなければと思っていた。僕が何者であるかを。僕は……ガンドレール・カルソッテだ。ほかでもない、イーシャルを密告した愚かな男だ。彼に合わす顔なんてなかったけれど、それでも彼を救いたかった。だから己の顔を焼いて別人になりすまし、吟遊詩人を演じて真実を伝え広めた。そして協力を誓ってくれた人々を先導し、あの日、中央広場に駆けつけたんだ」


 あまりの驚きに、私は完全に閉口していました。

 でも言われてみれば、そのほっそりとした顎や、どこか憂いをたたえた瞳などに、ガンドレールの面影が確かに見て取れます。


「……イクシアーナさん、君は何度も、僕の書いた戯曲を見に来てくれたね。しかもその度に、面白かった、と明るく声をかけてくれた。僕が誰であるかも知らずにだ。僕は……それがとても心苦しかった。君を欺き続けている自分を、心底嫌悪していた。でも、勇気が出なくて、何も言えなかった……」


 ようやく我に返った私は、深くうつむいたガンドレールに尋ねました。


「――イーシャルは、あなたの正体を知っているのですか?」


「……彼はすぐに気づいたよ。王都の中央広場に駆けつけたあの日、僕の顔を見た瞬間にね。しかも彼は、こんなにも愚かな僕を、こう呼んだんだ――戦友(とも)と」


「安心しました。二人の間に、遺恨はないのですね。それなら、私が言うことは何もありません。これからも変わらず、私はあなたの戯曲のファンとして応援し続けます」


「……ありがとう、イクシアーナさん」


 ガンドレールは薄っすらと涙を浮かべて言い、それから不意に、思い立ったような顔をしました。


「お節介かもしれないけれど……君はイーシャルのこと、一人の男性としてどう思っているんだい?」


「どうって、そんな別に……」


 私が口ごもっていると、ガンドレールは優しく口元を緩めて言いました。


「色恋沙汰に限っては、イーシャルはこの上なく鈍感だ。君から働きかけるしかない。これは心に留めておいて欲しい。僕としても、彼の隣にいるべきは、イクシアーナさん、君であって欲しいと切に願っている。聖者に聖女――とてもお似合いだよ。君たちが若かりし日に義勇軍で出会い、深い絆で結ばれたという話も耳に挟んでいる。すごく素敵じゃないか。誰にも割り込む余地はない」


 恥ずかしくなった私がそっぽを向くと、ガンドレールは屈託なく笑いました。

 その日を堺に、私たちは気の置けない友人同士となり、今では折に触れて手紙をやり取りする仲になっています。


 そんなガンドレールは今や、イーシャルの最大の支援者の一人。

 彼は人気劇作家として稼ぎ出した莫大な金額の大半を、イーシャルに惜しげもなく提供し、彼の理想の実現を陰から支え続けています。

 本来のイーシャルならば、自らの生涯が戯曲化されることなど決して望まなかったでしょうが、それでも実現に至ったのは、二人の特別な信頼関係あってのことだったのでしょう。


 そしてイーシャルの理想の実現を手助けしたのは、もちろんガンドレールだけではありません。

 イーシャルと親交を結んだ者たちは皆、彼の力になることを進んで望みました。


〝賢人会〟の一員でもある総主教様は、イーシャルの良き導き手となっただけでなく、〝血の霊薬〟の普及にも心血を注ぎました。

〝血の霊薬〟は、魔術的素養を開花させたイーシャルが、苦心の末に自ら編み出した〝血操術〟。その効果は、血液を万病に効く治療薬に変化させるという革新的なものです。

 総主教様は教会の癒し手たちに〝血の霊薬〟を習得させると同時に、人々に献血を募り、その血液から〝血の霊薬〟を量産できる体制を構築。各教会の施療室を通じ、病に悩まされている全ての人々に、〝血の霊薬〟が無償で行き届く仕組みを整えました。


 帰郷して領主の座に就いたディダレイさんは、内政面からイーシャルを支えています。 

 彼は理想的な領地経営を行い、自ら手本を示しただけでなく、領主が不当な重税を課すなどの不正を働くことを禁ずる法案を提出。それは〝賢人会〟によって即座に承認されました。

 加えて彼は、領主の不正発見を目的とした監査組織の長にも就いています。清廉潔白を心情とし、かつて王国騎士団の内部腐敗と戦い続けた彼の目の黒いうちは、いかなる領主も不正を働くことなど不可能でしょう。


 他者との関わりを徹底して避けていたリアーヴェルも、今では立派なイーシャルの協力者の一人です。彼女は〝農耕魔術〟の伝道師として、忙しく各地を飛び回る日々を送っています。それは彼女の感謝の表れなのだと、私は推察しています。

 事実、いつだったかリアーヴェルは、次のように語っていました。


「……イーシャルが編み出した〝農耕魔術〟や〝血の霊薬〟は、実に革命的だ。認めるのは少々(しゃく)だが、あやつは魔術界の発展を百年先まで推し進めたと言っても過言ではない。私も大いに刺激を受けた。感謝せねばなるまい」


 リアーヴェルは〝農耕魔術〟の体系化、その魔術教本の執筆などにも精を出し、元々高かった名声を一層高めることになりました。

 また人々と触れ合う機会が多くなったことが奏功したのか、彼女がたびたび見せていた奇矯(ききょう)な振る舞いは、今ではほとんど見受けられなくなりました(それはそれで、なぜだか寂しい気がしてしまうのは、私だけでしょうか?)。


 レジアナス、ネーメス、トモンドの三人もまた、聖ギビニア騎士団を旅立ち、イーシャルとともに国のために奔走する道を選びました。

 中でも目覚ましい活躍を見せているのは、ほかでもないレジアナスです。


「――俺はケンゴーが取り戻してくれたこの国の平和を、一生かけて守っていきたい」


 自らそう申し出たレジアナスを、イーシャルは〝平和維持軍〟の最高司令に任じました。

 当時まだ十代だったレジアナスには、さすがに荷が重すぎる、といった懸念の声が多数寄せられたものの、イーシャルは次のように反論し、それらを一蹴しました。


「レジアナスは、ポリージアの町を救った真実の英雄にほかならない。彼こそ、この国の未来を背負って立つ男だ。自らが最高司令の立場に相応しい存在だと、彼はすぐに証明してみせるだろう」


 その言葉に、嘘は一切含まれていませんでした。

 イーシャルの背中を誰よりも間近で見、その薫陶(くんとう)を深く受けたレジアナスには既に、人を導く才覚が十分過ぎるほど備わっていたのです。

 〝平和維持軍〟を激励訪問した際、久々に対面したレジアナスは、ときに厳格に、ときに慈しみ深く仲間たちに接し、強固に隊をまとめ上げていました。その姿は実に頼もしく、次代の英雄という評判に相応しいものでした。

 かつて彼とともに〝贖罪(しょくざい)の旅〟に出たエジリオは、若き〝平和維持軍〟最高司令の姿を、天国から満面の笑顔で見守っていることでしょう。

  

 レジアナスと同じ志を持って〝平和維持軍〟に加わったネーメスは、イーシャルの推薦を受け、隊の武術指南役という大役を任されました。イーシャルとの決闘に破れて以来、剣の道に一層邁進するようになっていたネーメスには、まさしく適任と言えましょう。

 一時は険悪な仲だったレジアナスとネーメスが互いに手を取り合い、〝平和維持軍〟を盛り立ててゆくその姿に、私は深い感銘を受けました。

 今では〝平和維持軍〟は、賄賂が一切通じず、犯罪者には全く容赦がないという評判を確立するに至り、国内の犯罪率は著しい減少の一途を辿っています。

 余談ですがネーメスは、ディダレイさんと雪解けを果たし、二人でお酒を飲み交わすほどの仲になったのだそうです。彼が手紙でそれを知らせてくれた際、私は思わずその場で小躍りしてしまいました。


 〝人道支援庁〟の役人に転身したトモンドは、人々や仲間たちから大いに慕われ、充実した日々を過ごしています。〝人道支援庁〟はイーシャルの提唱によって新設された、貧民や難民の生活再建を支援する行政機関です。トモンドの明るい人柄や面倒見の良さが、遺憾なく発揮されているであろうことは想像に難くありません。


 そして私は、イーシャルが賢人会筆頭に就いたのとほぼ同時期に、次代の聖女への代替わりを告げる神託を授かりました。古来より聖女は、おおよそ十年周期で世代交代していますので、いずれその日がやって来ることは前々から覚悟していました。

 でも、いざ実際に直面してみると、私は戸惑いを覚えずにはいられませんでした。

 第二の人生をどう歩むべきか、皆目見当もつかないという思いでいっぱいだったのです。


「――イクシアーナ、あなたは今や、一人の自由な女性です。後悔を残さぬよう、心の望むままに従いなさい。もし教会に残りたいというのなら、もちろん大歓迎ですが、ほかに求める道があるのなら、その実現のために、私はいかなる力添えも惜しみません」


 総主教様に励まされた私は、十年以上の歳月を過ごした我が家同然の聖騎士団を退団し、勇気を振り絞ってイーシャルに会いに行きました。


「――あなたの助手として、私を雇ってください。あなたが理想を実現してゆく姿を、私は一番近くで見守っていたいのです」


「……そうか。ならば頼んだぞ〝野ねずみ〟」


 イーシャルは素っ気なく言いました。

 私としては、もう少し何かこう、気の利いた言葉を期待していなくもなかったのですが、彼の反応は当然と言えば当然でした。

 なぜならそのとき、私の隣に立っていたアゼルナが、彼に敵対的な視線を向けていたからです。

 誰よりも私を慕ってくれていたアゼルナは、私が退団を表明した際、「それじゃ、私も辞めます!」とその場で即決し、今後は私の付き人になると宣言しました。


「アゼルナはこれまでも〝聖女の盾〟として尽くし続けてくれたのですから、私としては、自分なりの道を歩んで欲しいと願っているのですが……」


 そう言って翻意を促しましたが、アゼルナは頑として聞き入れず、「イクシアーナ様の付き人になれないなら、死んだほうがマシです! もちろん無給でご奉仕しますから!」とまで言い切りました。

 私としては、彼女を無碍(むげ)に扱うこともできませんし、最終的には止むを得ず要望を聞き入れました。


 そんなわけで、私とアゼルナはこの五年間、ともにイーシャルを傍で支え続けてきました。

 思い返せば、不満を述べ続けるアゼルナを(なだ)めてばかりだったような気もしますが……。


「私はイクシアーナ様に尽くしたいのに、実際のところはケンゴーの仕事の肩代わりばっかりしてるんですけど、どうにかなりませんか? しかもクソ忙しいですし。こんなの、思ってたのと違う……」


「そんなこと言われても、私はイーシャルの助手ですし、アゼルナはその私の付き人なのですから……。さあ、美味しい紅茶を淹れてあげますから、もうひと頑張りしましょう!」


 こんなやり取りを、何百……いや何千回と交わしはしたものの、幸いなことにアゼルナの勤務態度は至極真面目で、イーシャルもずいぶんと彼女を頼りにしていたように思います。

 彼は間違いなく、国中の誰よりも多忙でしたが、どんなときでも私たちの体調を気遣い、必ず週二日の休日を取れるように配慮してくれました。申し分のない給与まで支払ってくれました。

 ぶっきらぼうながらも、ことあるごとにねぎらいの言葉をかけてくれました。

 義勇軍時代と同じように、彼の優しさを間近で感じることができて、私はただただ幸せでした。


 そして私は、イーシャルの理想を現実のものにするため、日々最善を尽くし続けました。

 彼が想い描いた理想は、私の理想そのものであり、人々の理想そのものでもありました。

 不可侵条約の交渉、〝農耕魔術〟の普及、無償の教育機関や人道支援庁の設立、寄付金や寄進された土地の管理――関わる政務は多岐に及び、困難や障害は常につきまといましたが、それでもやり甲斐に満ちた充実の日々を送ることができました。

 世の中がどんどん良くなってゆくという確かな手応えと喜びが、常にそこにありました。

 でも何より、自らの理想を現実に変え、どんどんと明るくなってゆくイーシャルの顔を一番近くで眺められたことが、私にとって最大の喜びでした。


 ふと気づくと、万雷の拍手は鳴り止み、辺りは静けさに包まれていました。

 本日の主役であるイーシャルが、遂に舞台上に姿を見せたためです。

 彼は自らの列聖に対する感謝の意を手短に述べたのち、どこか重々しい口ぶりで切り出しました。


「……さて、急な話になるが、皆に伝えておかねばならないことがある。待望されていた選挙制度の整備も滞りなく済んだゆえ、今後〝賢人会〟の議員は選挙によって選出されることになる。

 遠からず第一回選挙を実施できる見込みだが、俺に出馬の意志はない。過去五年で、この国には優秀な人材が数多く育った。よって後進に道を譲るつもりだ。いかなる組織にも、新陳代謝は欠かせない。それに俺は、ひとまず為すべきを為したとも感じている。今後は一歩引いた立場から、この国を支えてゆくつもりだ」


 私は驚きを隠せませんでした。イーシャルが〝賢人会〟筆頭を退くだなんて、完全に寝耳に水だったからです。

 優秀な人材が数多く育ったのは確かだけれど、イーシャル以上の適任なんているはずがない。

 だいいち、これほどまでに大事な決断を、どうして事前に相談してくれなかったのでしょうか?

 いくつもの複雑な想いが、私の胸中に渦巻き始めていました――。

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おお…懐かしい名前が次々と… 書籍版購入しました。読み進めているところです。 更新を楽しみに追いかけていた頃を思い出しつつ…
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