7.兄と弟
前回に続き、今回もレジアナスの視点で進行します。
「……レジアナス、なんだな?」
ラディウス兄さんの問いかけに黙って頷くと、彼は無表情のままこちらへ近づいて来た――と、次の瞬間、彼は手にしていた白百合の花束を地面に置き、俺の足元に跪いた。
「――済まなかった、レジアナス。この愚かだった兄を許してくれ」
額を地面にこすりつけるようにして兄が言った。俺は途端に言葉を失った。
(――どういうことだ? 担がれているのか?)
疑心暗鬼に駆られる向きもないではなかったが、それ以上に目の前で起きている光景がにわかには信じ難いという思いが、頭の中を支配している。
ラディウス兄さんは元々、三人の兄の中では最も悪知恵が働く性質で、数々の嫌がらせを主導する立場だったから、俺は格別に忌み嫌っていた。ところが今は、まるで別人としか思えない振る舞いを見せている。
加えて、間近で見るその身なりはひどく粗末で、衣服も肩に羽織ったマントもあちこち継ぎ接ぎだらけだった。兄たちはかつて、華美で気取った装いを好んでいたというのにだ。以前の面影など、全くもってなきに等しいではないか――。
「……いきなりどうしたんだよ。らしくないぜ」
心の整理がつかぬまま、その場しのぎの言葉を口にすると、「らしいもらしくないもあるか」と兄は震える声で返した。
「俺はお前に酷いことをしちまった。ずっと後悔していたんだ。今さら都合良く謝罪を受け入れてもらえるとは思っちゃいないが、それでも謝らずにはいられない。本当に済まなかった」
「……分かったから、まずは立ち上がってくれよ。そんな恰好されてたんじゃ、おちおち話も出来ない」
そう促すと、兄はおもむろに立ち上がって花束を拾い上げた。どこか気まずそうに伏せられたその眼の端に、わずかながら涙の跡が光っている。担がれているなどという考えは邪推に過ぎなかったと、俺は密かに己を恥じた。
「『百合の花のように気高くあれ』と父さんはいつも言っていた。だから百合を手向けに来たんだろう?」
そう訊くと、「山で偶然見つけたんだ。父さんが喜ぶと思ってな」と兄はほんの僅か口元を緩めた。
「……山? 兄さんは山仕事で生計を立てているのかい?」
そうと言えなくもない、と兄は答えた。
「稼ぎの大半は国防ギルドの仕事で、主に魔物狩りを請け負っているんだ。その関係上、山にはしょっちゅう足を運ぶ。今日もその帰り道にここへ寄ったんだ」
言い終えるなり、兄は両親の墓前に花を供えた――と、その瞬間、横向きになった兄の右頬に薄らと刻まれた、直線的な刃傷が視界に映り込んだ。
「……その頬の傷、俺が昔つけたものだろう?」
尋ねると、まあそうだが、昔のことは気にするな、と兄は微笑んだ。
「そもそも俺たちが悪かったわけだしな。それにあのときは、幸い誰も大した怪我は負わなかったんだ。思った以上に血が出て、みんなビビっちまっただけさ。お前のことだから、俺たちに申し訳ないと思って家を出たんだろうが、そんな風に深刻に捉える必要はなかったんだ」
思い沈んだような遠い目で、兄は訥々と話を続けた。
「お前がいなくなってから、父さんはずいぶん酒を飲むようになった。それで健康を害しちまったんだ。お前のことが心配で、飲まなければやっていられないみたいだった。つまるところ、俺たちが父さんを早死にさせたようなものなんだ。あの日あんなことを仕出かさなけりゃ、お前が家を出ることもなかっただろうに……」
兄はそこで口をつぐむと、ゆっくりと瞼を閉じ、死者に対する祈りを捧げ始めた。それは彼にとって日常の一部であるらしく、一連の動作の全てに、幾度となく繰り返されてきたような自然さが見受けられた。
(……父さんと母さんの墓が綺麗に保たれていたのは、ラディウス兄さんのお陰だったのか)
ふとそう思うと、長年胸の底にこびりついていたわだかまりが、急に溶け出してゆくのを感じた。まだ対面を果たしていないゆえ、長兄のマシアス兄さん、三兄のミザレス兄さんについては何とも言えないが、少なくともラディウス兄さんならば信ずるに値する、彼は確かに変わったのだ、と俺の直感は告げていた。
この俺自身、かつて贖罪の旅や聖騎士叙任の儀を経て、一種の生まれ変わりを果たしたわけだが、それに類する何かがラディウス兄さんの身にも起こったのではないかと、何とはなしに察せられたのである。そして俺は覚悟を決めた。
「……過去のことは、お互いお相子ということにして水に流そう。それが一番だと思うんだ」
ラディウス兄さんにそう告げると、六年前に止まったままの時間が、ようやく進み出したのだという実感が込み上げてきた。
刹那、兄は即座に目を開くと、信じられないと言わんばかりに大きく頭を振り、「謝罪を受け入れてくれたんだな」と破顔して言った。次いで彼はまじまじと俺の顔を見た。
「……ありがとう、レジアナス。お前の寛大さには、ほとほと頭が下がる」
言いながら、兄は眩しげに目を細めた。
「それからここへ来る途中、カランコエさんに聞いたんだ。お前がポリージアの町を救った英雄レジアナスその人なのだと。実を言うと、前にその噂を耳にしたときから、もしかしたらお前じゃないかと勘繰っていたんだ。レジアナスという名は、どこにでも転がっている名じゃないからな。事実、お前は幼い頃から何でも飲み込みが早かった。才能の片鱗を見せていた」
「ポリージアの件は何というか、巡り合わせの結果なんだ。俺の実力だけでどうこうできたわけじゃない。……それはそうと、ラディウス兄さんのほうこそずいぶん変わったみたいだ」
「それは誉め言葉として受け取っていいのか?」
もちろんと返すと、少しは苦労したからな、と兄はどこか草臥れたように微笑んだ。
「さて、お前さえ良ければだが、お互いに積もる話もあるし、ウチに寄っていかないか? ここから目と鼻の先の距離だから、時間はかからない。ただ昔と違って本当に粗末な家だし、ろくなもてなしも出来ないが……」
そうさせてもらうよ、と俺は迷わず答えた。
今のラディウス兄さんとなら、心穏やかなひと時を過ごせるに違いないという確信めいた予感を、俺は抱いていた――。
* * *
兄の案内に従って歩いてゆくと、ものの数分でこぢんまりとした木造の平屋に到着した。狭くて済まないが寛いでくれ、と兄は言い、きいきい軋む玄関のドアを開く――と同時に、ドアの内側に棒立ちしていた白髪の老女といきなり目が合い、俺はどきりとさせられた。
老女は一言も発することなく、ひどく虚ろな目で俺たちを眺めるともなく眺めていた。
(……何か事情があって、どこぞの親戚を預かっているのだろうか?)
心の中で首を捻った、まさにそのときだった。
「――ただいま、母さん」
兄がそう言ったので、耳を疑わずにはいられなかった。かつて俺を毛嫌いしていた、しかし若々しく美しかったあの継母が目の前の老女だなんて、にわかには信じ難い話ではないか。
継母の年齢は現在、おそらく四十を過ぎたばかりのはずだが、その髪は純白と言って差し支えないほど真っ白く、顔中に刻まれた皺も数え切れぬほどである。時が流れたという一言では片づけられない変貌ぶりと言えた。
「……またずっと玄関に立っていたのかい? この間も風邪を引いたばかりなんだから、休んでいなくちゃ駄目じゃないか」
兄が優しく声をかけると、継母は黙って頷き、居間の奥にある部屋へと下がっていった。彼はその様子を見届けたのち、茶を淹れてくる、と言い残して台所へ向かった。手持無沙汰になった俺は、ひとまず手近な椅子に腰を下ろした。
ほどなくして両手にコップを携えて戻って来た兄は、目の前のテーブルにそれらを並べると、向かい側の椅子に腰を落ち着けた。
「……この家を見りゃ分かると思うが、父さんが爵位返上を命じられたのち、俺たちの暮らし向きは大きく変わった」
兄が苦々しげに切り出し、俺は黙って頷いた。
「おそらくだが、母さんは急激な環境の変化に耐えられなかったんだ。父さんの死、そして息子たちが離れていったことも、ずいぶん堪えたんだと思う。それでああなっちまった」
「……つまり、マシアス兄さんとミザレス兄さんは、この家を出たということ?」
尋ねると、全くの音沙汰なしだ、とラディウス兄さんは答えた。
「マシアス兄さんは、父さんの死後、傭兵になると言って家を飛び出したんだ。腕っぷしには多少覚えがあったからな。そしてミザレスは、大きな儲け話があるとかで隣国のヴァンデミアに行っちまった。あいつは算術に長けていたし、何かの商売を始めるつもりだと言っていたよ。そして最も平々凡々な俺がこの家に残った。
……実を言うと、母さんが玄関口に立っていたのは、マシアス兄さんとミザレスの帰りを今も待ち続けているからなんだ。尤も二人とも家を出たきり便りの一通さえ寄越さないんだから、その望みは限りなく薄いけどな。しかし母さんも気の毒だよ。体に染みついた習慣を繰り返しているだけで、今じゃどうして自分が玄関口に立ち続けているのか、その理由さえ覚束ないという有様だ」
言いながら、兄は小さく頭を振った。
「とは言え、今日の母さんは調子が良いほうなんだ。一応話が通じたからな。ひどいときは何を話しかけても反応を示さない。いきなり奇声を上げたり、暴れ出すことだってある。仕事から帰って来たら、家中の食器が割れていたなんてこともあった」
「ラディウス兄さん、一人きりで継母さんを支えてきたんだ。……それは、とても、とてもしんどかったね」
やり切れない思いを言葉にすると、「確かにしんどい部分もあったが、そればかりじゃない」と兄は相好を崩した。
「お陰で俺は、人の痛みを理解できるようになった。少しは成長したのさ。だが反面、我が身を呪わずにはいられなくなった。かつて俺は何の躊躇いもなくお前を苦しめていたが、それがいかに愚かな行いだったか、身に染みて分かったからだ。
……俺はせめてもの償いとして、ここ数年、お前の無事と幸せを毎日教会で祈り続けた。おそらくお前とはもう二度と会えないのだろうと、悔やんでも悔やみきれない思いを抱えながらだ。しかし今日、こうして思いがけず再会を果たすことができた。……本当に、本当に良かった」
兄はそこで口をつぐむと、目尻に溜めた涙をさりげなく拭い、「さて、俺ばっかり話しちまったし、今度はお前の話も聞かせてくれよ」と言った。俺は頷き、ケンゴー以外には進んで口外することのなかった己の過去について、ぽつりぽつりと話し始めた。
家を出たあと、盗賊稼業でどうにか食いつないだこと。王都でスリに失敗したのち、エジリオに捕まって総主教様と引き合わされ、泣きながら己の罪を自白したこと。その後、エジリオと共に贖罪の旅に出て、人々にお金を返して回ったこと。生まれ変わった俺が、教会のために全てを捧げる覚悟を決め、命がけの潜入捜査に臨んだこと。その果てに、ケンゴーの助力を得てポリージアの町を救ったこと。しかし、その過程で“天使の園”の少年の命を奪うという過ちを犯し、今なお苦しんでいること――これらの経緯を包み隠さず話したところで、兄は両手で顔を覆い、声を押し殺して泣き始めた。俺はやむなく話を切り上げ、彼が泣き止むのを待った。
「……神はどうして、これほどの試練をお前に与えたのだろう?」
やがて泣き止んだ兄は開口一番、呟くように言った。分からない、と俺は答えた。
それから考え込むような間を置いたのち、兄は再び口を開いた。
「しかし兎にも角にも、お前がその試練に屈することはなかった。ときに煩悶し、身を貫くような苦しみに直面しても、決して前進することを止めなかった。我が弟ながら、何と偉大な存在だろうか。俺とは違って、お前は父さんの最良の部分を受け継いでいるように思えてならない。俺はそれがたまらなく嬉しい」
「……大袈裟だよ、兄さん。俺は俺なりに精一杯やってきた。ただそれだけのことさ」
そう返したが、兄は静かに首を振り、決して大袈裟なんかじゃない、と言った。そしてこう続けた。
「――レジアナス、お前はカトルーシュ家の誇りだ」
家族を捨て、天涯孤独で生きてゆく覚悟を決めたこの俺が、カトルーシュ家の誇り――今一つ実感は湧かなかったが、それでもなお、心の奥底がカッと熱くなるような思いがした。……と、そのときだった。突如、何者かが家のドアを激しく叩いたのである。
「……レジアナス隊長、こちらにいらっしゃると伺いました。緊急事態ですッ!!」
間を置かず聞こえてきた、ひどく切迫した声の主は、タレサールにほからならなかった。ラディウス兄さんと俺は、思わず互いの顔を見合わせていた――。




