6.再会の行末
前回に続き、今回もレジアナスの視点で進行します。
中央通りから続く長い坂を上り切ると、塀で囲まれた宏壮な屋敷が視界に入り、俺は安堵の溜息を漏らした。今もなお、昔と同じ場所に我が家が存在していたというだけで、いくらかなりとも心が軽く感じられたのである。物心つく以前、母――俺を産んでほどなく流行り病で亡くなった母だ――と俺が暮らしていたという小さな離れも、そのままのかたちで残っていた。
(――お世辞にも領地経営に熱心だったとは言えない父さんのことだから、落ちぶれていてもやむなしと考えていたが、杞憂だったらしい)
俺がそう感じたのは、庭に生えた木々がきちんと剪定され、芝生も隅々まで均一に刈り込まれていたためである。加えて屋敷の窓も丁寧に磨かれているのだろう、陽の光をまぶしく照り返していた。
俺は胸の鼓動が早まるのを感じつつ、玄関に向かって歩を進めてゆく――。
(……さて、いよいよだ)
分厚いドアの前で立ち止まり、微かに震える手でドアノッカーを鳴らすと、乾いた金属音が辺りの静寂を破る。俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「……はい、どちら様でしょう?」
ややあってからドアが開き、その隙間から年かさのメイドが顔を覗かせた。四十代と見える女性で、やや頬がこけたその顔つきは、どことなく神経質そうな印象である。
「――すみません、こちらはカトルーシュ卿のお屋敷で間違いありませんか?」
カトルーシュという自らの姓を数年ぶりに口にしたためか、はたまた緊張のためか、ところどころ声が裏返りながらも尋ねると、年かさのメイドは不思議そうに首を傾けた。
「……いいえ、ここはラナダス卿のお屋敷です」
「――は?」
すっ呆けた声を出すと、メイドは露骨に怪訝な顔をした。
「……つまり、カトルーシュ卿は引っ越されたと仰っているのですか?」
頭の中は真っ白になりつつあったが、それでも必死に平静を保って念押しすると、メイドは何食わぬ顔でこう言った。
「前領主のカトルーシュ卿でしたら、既にお亡くなりになられましたが」
「……お亡くなりになられた?」
わけも分からず訊き返すと、「せっかくお訪ねになられたのに、お気の毒ですけれど」とメイドは無味乾燥とした声で言った。嘘であって欲しいと願ったが、彼女が嘘を吐く理由も思い当たらない。俺の頭はいよいよおかしくなりかけていた。
「父さんが死んでしまったのに、兄たちは誰もその跡を継がず、ラナダス卿とかいう人物が領主を務めている――つまりはそういうことを仰っているのだと思いますが、意味が分かりません。説明していただけませんか?」
「……まあ、あなた、カトルーシュ卿のご子息でいらしたのね」
メイドが同情心をちからつかせた声で言った――と同時に、名状しがたい怒りが、心の奥底から烈火のごとく湧き上がる。
「――だったらどうしたっていうんです? 早く質問に答えてください」
「……まあ、それが人にものを頼む態度ですか?」
俺の神経を逆撫でするあんたが悪いんだろう、という言葉が喉元まで出かかったが、きつく唇を噛みしめ、ぐっと堪える。冷静さを取り戻すため、俺は頭を振り、深く息を吸った。
「……仰る通り、俺はカトルーシュ卿の息子です。だから父の身に何が起きたのかを知りたいのです。教えていただけませんか?」
口調を改めて訊き直すとメイドは満足そうに頷き、それからこう答えた。
「カトルーシュ卿は王国政府の役人と頻繁に揉め事を起こしたために、爵位の返上を命じられ、代わりにラナダス卿がこの地を治めることとなったのです。その後のカトルーシュ卿の足取りについて、詳しくは存じ上げませんが、とにかく病死されたという噂だけは聞き及んでおります。……それからご婦人とご子息は、今もこの町に住んでいるとか。これ以上のことは分かりません」
メイドは小さく頭を下げるなり、ぞんざいな手つきでドアを閉める。
刹那、俺はその場にがくりと膝を突いた。もはや俺は、自分が何を感じているのか、これから先どうすべきなのか、何一つとして分からなくなっていた。
ただひたすらに、身体から力が抜け落ちてゆくばかりである――。
* * *
――屋敷の前に跪いたまま、どれくらい時間が経っただろう?
見当さえつかなかったが、俺がようやく我に返ったのは、ある考えを閃いたからにほかならなかった。
(――もしかすると、父さんはまだ生きているかもしれない)
……そう、父が死んだというのは、あくまでも噂に過ぎないではないか。
『その後のカトルーシュ卿の足取りについて、詳しくは存じ上げませんが、とにかく病死されたという噂だけは聞き及んでおります』
あの厭味ったらしいメイドは、確かにこう言ったはずである。
噂が噂に過ぎないのか、真実を確かめねばなるまい、と自らに言い聞かせつつ、俺は急いで立ち上がった。
(――これよりアルデンヘイムの教会へ向かい、司祭に父の墓があるかどうかを尋ねれば、全てが明らかになる)
それが一番手っ取り早く確実な方法に違いなかった。
いても立ってもいられなくなった俺は、気が付いたとき既に、無我夢中のまま駆け出していた――。
* * *
古い記憶を頼りに駆けに駆け、ようやく町外れの教会へ辿り着いたとき、体中汗だらけになっていた。息を整えつつ、ぐるりと敷地内を見渡すと、古びた礼拝堂のすぐ手前に、老いた男性司祭がしゃがみ込んで草むしりをしている様が映った――。
「……あの、すみません!」
手の甲で顔の汗を拭いつつ声をかけると、老司祭は作業を止めて顔を上げ、「何か御用ですか?」と言った。
「……俺、以前ここの領主だったカトルーシュ卿の息子なんです」
そう切り出すと、老司祭はまじまじと俺を見て、おお、と感嘆したような声を上げる。それから慌ただしく立ち上がり、急ぎ足でこちらへやって来た。
「――ふむ、確かに父君によく似ていらっしゃる」
老司祭はうんうんと頷きながらそう言ったのち、深々と一礼した。
「……申し遅れましたが、私は長司祭のカランコエと申します。実を申しますと、私はカトルーシュ卿より、何処かに行方をくらましたという末のご子息について、たびたび聞かされておったのです。それが貴方というわけですな」
「仰る通りです。俺はレジアナスといいます。カランコエさんは父のことをご存じなのですね?」
尋ねると、よく存じ上げておりますとも、とカランコエさんは答えた。
次いで彼は俺がまとっている甲冑に視線を向け、「む! これは聖ギビニア騎士団の支給品ですな」と言うなり唐突に頓狂な声を発した。
「……ということはまさか、貴方が聖ギビニア騎士団副団長のレジアナス様ですか?」
「元副団長です。現在はシエルロワ支部の隊長を務めております」
訂正すると、これは失敬、とカランコエさんは肩をすくめた。
「……いやはや、私も教会関係者の端くれですから、レジアナス様のお噂はかねがね伺っておりました。しかし、そのレジアナス様がカトルーシュ卿のご子息だったとは、思いも寄りませなんだ。かように立派になって、天国の父君もさぞお喜びでしょう」
天国の父君――その一言を聞いた瞬間、俺は絶句した。得も言われぬ寂寥感が、瞬く間に胸中を満たしてゆく。
同時に、父の顔を思い浮かべずにはいられなかったが、その輪郭はどこかぼやけていた。ところどころ剥落したモザイク画のように、今一つはっきりとしないのだ。六年という歳月によって記憶が色褪せてしまったことを、俺は今更ながら痛感せざるを得なかった。
「実は俺、父さんが亡くなったという噂を聞いて、それが真実なのかを確かめるつもりでここへ参ったのです。……しかし、噂は本当だったのですね」
やっとのことでそう言うと、カランコエさんは柔和な笑みを浮かべた。
「もうかれこれ五年ほど前の話になりますかな。父君はお亡くなりになる直前まで教会に足を運び、レジアナス様の無事を祈っておられました。病身であったにもかかわらず、ご家族の制止を聞き入れずに毎日礼拝に通い続けたのです。貴方のことを、心底愛しておられたのでしょう」
そう聞くや否や、一筋の熱い涙が頬を伝った。
父君は本当に素晴らしい領主様でした、とカランコエさんは話を続けた。
「戦役に加えて不作も重なっておったものですから、父君は領民からの徴税を望まず、ご自身の資産でその穴埋めをして下さいました。そればかりか、政府の役人が理不尽な増税を要求してきた際も、我々のためを思って最後まで首を縦に振らなかったのです。昨今まずお目にかかれないほど気骨のあるお方でした」
「……そうか。だから父さんは政府に睨まれ、爵位を取り上げられてしまったのですね」
例のメイドの話を思い出しつつ尋ねると、カランコエさんはふさふさした白い眉をぴくりと動かし、それからどこか申し訳なさそうに頷いた。
「しかし驚きました。父さんはいつもフラフラとどこかへ出かけてばかりでしたから、てっきり遊び人の類だと考えておりましたが、思い違いだったのですね」
そう伝えると、「能ある鷹は爪を隠す、というやつですな」とカランコエさんは応じた。
「父君は遊び歩いているふりをして、つぶさに領内を見て回っていたのですよ。あれはきっと、領民を警戒させぬようにとのご配慮だったのでしょう。事実、『放蕩貴族だと思われていたほうが何かと好都合だ』などと仰っておりましたからな」
俺は得も言われぬ感慨を抱いていた。
父に対する誇りを感じると同時に、その背中から何も学ぶことができなかった、という悔しさが急に込み上げてきたのである。
「……しかし、現領主のラナダス卿ときたら、王国政府に媚びへつらい、我々から搾り取れるだけ搾り取ろうとする。父君とは全くの正反対でしてね。実に困ったお方ですよ」
カランコエさんは苦々しく嘆息し、それからこう続けた。
「ではそろそろ、カトルーシュ卿のお墓へご案内いたしましょう」
いそいそと歩き出したカランコエさんの背を追って、俺もまた歩き出した。
(……六年前のあの日、家を飛び出さなかったとしたら、今頃どうなっていただろう?)
整然と立ち並ぶ墓石の間を歩く傍ら、不意にそんな疑問が頭をもたげたが、俺はすぐに打ち消した。今となっては、総主教様やケンゴーと出会えなかった人生など到底考えられない。聖人フラタルが遺した『正しい行為が常に正しい結果をもたらすとは限らない。その逆も真なり』という言葉の通りだ、と俺は思った。
「――さて、こちらが父君のお墓です」
カランコエさんは立ち止まってそう言うと、こちらに向き直って一礼し、来た道を戻っていった。誰かが掃除してくれているのだろうか、父さんの墓は建てられたばかりと見まごうほど綺麗に磨かれていた。さらにその隣の墓石には、俺を産んだ母の名が刻まれている。こちらも父の墓と同様、整然とした美しさを保っていた。
(――ただいま、父さん、母さん)
俺は心の中で呟き、それからゆっくりと瞼を閉じた。
(アルデンヘイムを去ってから、色々なことがありました。恥ずかしい話、一時は盗賊家業に手を染めもしましたが、総主教様とエジリオのお陰で何とか真っ当に立ち直れたんです。それからケンゴーという得難い仲間もできました。思いがけない数々の出会いに、俺は救われてきたんです。だから心配しないでください。今は難しい時を過ごしていますが、それでも何とか上手くやっていけると思います)
天国の両親に一通りの報告を終えた、そのときだった。
「……レジアナス、なのか?」
背後から声がして咄嗟に振り返ると、二十歳そこそこと見える長身の青年が立っていた。亜麻色の長髪を一つに束ねており、その肩には大きな弓をかけ、右手には白百合の花束を抱えている。そして俺と同じ、琥珀色の瞳の持ち主だった。
「――ラディウス兄さん?」
我知らず、俺は次兄の名を口にしていた――。




