2.移ろう冷血(前編)
今回のお話は“冷血”リアーヴェルの視点で進行します。
「――リアーヴェル様、お怪我の具合はいかがですか?」
そう言いながら、背の高い赤ら顔の青年職工が、盆に水薬を載せて運んで来た。一月ほど前に雇ったばかりの男だと記憶しているが、彼の名までは思い出せなかった。魔術に関連しない事柄の場合、私の記憶力は途端に覚束なくなるのだ。
「……うむ、ずいぶんと良くなったようだ」
ベッドから身を起こし、私は差し出された水薬を一息で飲み干す。
案に違わず、耐え難いほどの不味さで、不意に込み上げてくる吐き気をぐっと堪えねばならぬほどだった――が、調剤の指示を与えたのはほかならぬ私自身であり、誰にも文句は言えない。
(――しかしまあ、致命傷は負わずに済んだのだから、不幸中の幸いだったと言えよう)
……そう、私は教会墓地で“英雄殺し”ことゼルマンドとやり合った際、奴が放った漆黒の稲妻をもろに受け、全身に大火傷を負わされたのである。
私は治癒魔術に長けていないゆえ、戦闘後に教会の腕利きの癒し手から施療を受けはしたものの、体中に生じた水ぶくれや電流斑はなかなか癒えず、ここ数日は間断なき痛み、果ては悪寒と高熱にまで苦しめられる羽目になった(私もその一人だが、イーシャルのように暗黒魔術の耐性を持たぬ者は、暗黒魔術による創傷が癒えにくいのだ)。
そんなわけで私は、この魔導具工房の窮屈な屋根裏部屋のベッドで、寝たきりで過ごさざるを得なかった――が、職工たちが甲斐甲斐しく看病を続けてくれたお陰で、今では痛みも熱も大方引いている。
(……かれこれ一週間近く寝込んでいた勘定になる。そろそろ動き出さねば)
思いつつ、私はベッドから身を起こし、着替えとマントを持って来てくれ、と青年職工に頼んだ。すると彼は目を丸くして「外出されるのですか? まだ早いのでは」と怪訝な声で言ったが、心配は不要だ、と私は答えた。
もう少々休んでいたいのはやまやまだが、こうして起き上がれる程度に回復したからには、一刻も早くイクシアーナに会いに行く必要があった。
『――乗り掛かった舟だ。遠慮なく私を頼って欲しい』
生死不明のイーシャルと総主教が王国政府に連行された直後、私はイクシアーナにそう言った。打ち明けた話をすれば、教会と王国政府の諍いに首を突っ込むなど御免被りたい、という思いもないではなかったが、ひどく青ざめた顔をして、少女のように震えていたあの晩のイクシアーナを放っておくことは出来なかった。
ありがとう、そうさせてもらうわね、とそのとき彼女は答えたが、どうしたことか、今日に至るまで音沙汰なしなのだ。職工に代筆を頼み、「その後の様子を教えて欲しい。出来る限り力になりたい」としたためた手紙を送りもしたが、やはり返信はないままである。私はそれが気がかりでならなかった。
(――間違いない。今ごろイクシアーナは、かつてないほど頭を抱えていることだろう……)
職工たちの話によれば、王国政府は既に『イーシャルと総主教の身柄を拘束した』というお触書を公布したという。しかもそこには、イーシャルが“英雄殺し”事件の容疑者であり、総主教には彼を幇助した嫌疑がかかっている、ともしたためられていたそうだ。
イーシャルが真の“英雄殺し”ゼルマンドを討った現場には、王国騎士団も居合わせたのだから、彼が王都を死のあぎとから救った張本人であるという事実は、王国政府とて無論承知済みのはずである。にもかかわらず、イーシャルに“英雄殺し”の濡れ衣を着せ、あまつさえ総主教にも罪の片棒を担がせようとしているのだから、全く道理に適っていない。
“英雄殺し”の正体が死に損なったゼルマンドだったと公表すれば、世の人々の不安を悪戯に煽ることになる――それならばいっそ、イーシャルに全ての罪を被せ、真実を歴史の闇に葬り去ったほうが好都合とでも考えたのだろうか。
兎にも角にも、王国政府がイーシャルに“英雄殺し”の汚名を着せた以上は、彼が無事に存命していたとしても、極刑を免れ得ぬことは明々白々と言えた。
(――イクシアーナにとってイーシャルという男は、義勇軍時代の大恩人なのだ。よって彼女が、王国政府のイーシャルに対する仕打ちを許せるはずはなかろう)
イクシアーナが強い義憤に駆られ、何か早まった行動を起こしはしまいかと、私は強く案じていた。平時の彼女は常に聡明な判断を下すが、ことイーシャルが関わってくると、その限りではなくなる。事実、“英雄殺し”騒動の渦中、彼女は警護の目をかいくぐって脱走を図り、イーシャルと外で密会するという危険を冒したが、これが最たる例と言えよう。
加えて、総主教までもが今や人質同然の立場なのだ。王国政府がいかなる筋書きを目論んでいるのか、仔細は分からぬにせよ、総主教の身の安全を出しに、教会に何らかの揺さぶりをかけてきてもおかしくはない――。
(だというのに、イクシアーナが便りの一通さえ寄越さぬのは、一体どういう了見だろう? まあ彼女のことだ、私に迷惑をかけまいと遠慮しているだけかもしれんが……)
嘆息すると同時に、私の胸中を奇妙な感慨が満たした。
(考えてみれば、他人事でかようにやきもきさせられるなど、未だかつてなかったことだ。“冷血”と呼ばれたこの私も、変わりつつあるということか……)
言わずもがな、私の二つ名である“冷血”は、私自身の他者に対する無関心ぶりに由来している。いつからそう呼ばれ出したのか、正確なところは分からないが、まず間違いなく、王立魔術学校に入学したあとのことだろう。
当時の私は、周囲から“開校以来の天才”などと騒ぎ立てられたために、生徒たちのみならず、教師陣からも過ぎた畏敬の念を持たれ、また同時に強い敵愾心を抱かれもした。とりわけ、先日相まみえたエインズメリー・ドローデールという男――現宮廷魔術師団長だ――からは、思い出したくもない数々の嫌がらせを受けたものである。
そうした雑音に辟易させられた私は、誰彼構わず冷たくあしらうようになり、何人とも打ち解けることがないまま、半ば隠遁者の如き学園生活を過ごした。厚顔不遜もいいところだが、他者と関りを持つことは時間の無駄にほかならないと、当時の私は疑いの余地なく信じていたのだ。
卒業後、自ら魔導具工房を開いて主となったのは無論、自由な生き方を求めてのことだったが、人付き合いの範囲を限定できる、という側面を重視した結果でもあった。己が経営者の立場にあれば、共に働く人間を選別できるし、気に入らぬ顧客を撥ねつけることもできる。煩わしい人間関係を、出来得る限り遠ざけることを私は望んだのだ。
……と、万事そのような調子で生きてきたゆえに、イクシアーナという存在は、私にとって一種の衝撃だった。
初めて彼女と面識を持ったのは、ゼルマンド奇襲作戦時が初めてであり、そのとき彼女に抱いた印象は「私とは対極に位置する人間だ」という一点のみだった。
有り体に言えば、彼女は美し過ぎた。申し分のない人格を備えているとの噂も聞き及んでいた。ゆえに奇襲作戦時、私は進んで彼女に話しかけることはしなかったし、互いに挨拶を交わしたかどうかさえ記憶にない。共闘したとは言え、赤の他人も同然の関係だったと言えよう。
にもかかわらず、イクシアーナはどういうわけか、ある日ひょっこり、この工房を訪ねて来た。彼女は土産に持参した焼き菓子をこちらへ差し出すと、「一緒にお茶をしましょう!」と言い、あっけらかんと笑ってみせたのである。
正直に言えば、特別な理由も見当たらない彼女の訪問を、私は微塵も歓迎しなかった。よって私は、魔術書が散らばって足の踏み場もないほど混沌としている書斎にあえて彼女を招いた。
それは無論、こんな部屋には長く滞在できまい、一刻も早く立ち去れ、というメッセージのつもりだった――が、彼女は嫌な顔一つしないどころか、さも楽しげに世間話を切り出しつつ、独りでに書斎を片付け始めたのである。掃除婦のごとくせっせと働く聖女の姿を目にするのは、さすがの私も気が引け、嫌々ながら片付けの手伝いを自ら申し出たほどだった。
帰り際、笑顔で手を振るイクシアーナを見送りながら、「気まぐれの訪問だったのだろう。片付けに懲りて二度と来るまい」と思ったのだが、ふたを開けてみれば、彼女はその翌週も翌々週も私のもとへやって来た。
そして、少しは掃除しろだの、飯はちゃんと食えだの、母親じみた小言を言いながら、再び散らかった書斎を片付けたり、私や職工たちのために手の込んだ食事を作ったりと、毎度毎度世話を焼いては帰って行った。それが少しも押しつけがましくなく、彼女自身、心底楽しんでいる様子だったから、私は戸惑いを覚えつつも嫌な気はしなかった。さらに彼女は魔術知識も豊富だったゆえ、私が好む魔術談義にも自然と花が咲いた。
……と、このような次第で私たちは少しずつ打ち解けてゆき、いつしかイクシアーナの訪問は、私にとって歓迎すべきものへと変わっていた。ときに私は、執筆途中の魔術教本の原稿を彼女に読ませ、進んで感想を求めるようにさえなった。これまで自分以外を頼りにしてこなかったこの私が、である。
『リアーヴェルは自分の中の最良のものを、惜しみなく他者に与えていると思うの。事実、あなたが手がけた魔術教本や魔導具のお陰で、たくさんの人々の生活が豊かになっている。これってとても素敵なことよね』
あるとき、イクシアーナにそう言われ、私はむず痒さを覚えた。
元より天邪鬼な性質である私は、「魔術の才を活かす以外に、生き方を知らないだけだ。別に褒められる謂れはない」と反論すると、彼女は妙に嬉しそうに笑った。そしてこう続けた。
『前から思っていたのだけど、リアーヴェルは私が尊敬している人と、よく似ているところがあるの』
今にして思えば、彼女の尊敬している人物とはまさしく、イーシャルを指していたのだろう。私にとっての魔術が、彼にとっては剣だったと考えれば頷ける話だ。さらに彼の態度や物言いは、私に負けず劣らずぞんざいである――。
(――イクシアーナは私にイーシャルの面影を見て、親近感を抱いたのだろうか)
そんな風に思わないでもないが、それはまあ、どうでもいいことだ。
きっかけが何だったにせよ、最も大切なのは、私とイクシアーナが互いに友人と呼び合える間柄になったということ、その一点のみだ。無論、私にとってはただ一人の友人である。よって、今まさに窮地に陥っているであろう彼女に、私が手を差し伸べぬ理由はないのだ。
(――さんざん書斎を掃除してもらった借りも、この辺で返しておかなくてはな)
思いつつ、私はベッドから立ち上がり、サイドボードに立てかけていた杖を手に取る。同時に、屋根裏部屋から階下にかかる梯子がぎしぎしと鳴った。先刻、着替えとマントを頼んだ例の青年職工が戻って来たのだろう。
「――なあ君、私はこれより、イクシアーナに会いに行って参る。皆にもその旨伝えておいてくれ」
梯子から顔を覗かせた青年職工にそう言った瞬間、彼は頓狂な声を上げた。そして頬を紅潮させたまま、視線を足元に向けた。
(……彼は一体、何に驚いたのだろう?)
心の中で首を捻ったその瞬間、私はようやく、自分が下着姿であることに思い当たった。これではイクシアーナに小言を言われるのも無理はない、と私は苦笑を漏らした――。
* * *
その後、身支度を整えた私は、“転移の門”を詠唱し、フラタル大聖堂へと向かった。
無論、イクシアーナがそこにいるという確証はなかったが、今や大聖堂は見渡す限り瓦礫の山と化しているのだ。となれば当然、瓦礫の撤去や整地作業にあたっている者がいるだろうし、彼らに話を聞けば、イクシアーナの所在は容易に掴めるはずだと考えたのである。
かくして、首尾よく正門付近に転移すると、案の定、敷地内の方々に聖騎士やら修道士やらの姿が見受けられた。彼らは皆、巨大な建物の残骸を魔術で粉砕したり、手押し車で瓦礫を運搬するなどして懸命に働いている――と、そのときだった。
「……あの、すみません、リアーヴェル様でいらっしゃいますよね?」
背後から声がして振り向くと、純白のローブをまとったお下げ髪の少女が立っていた。年のころは十二、三といったところだろうか。何やら見覚えのある顔のような気もしたが、確信までは持てなかった。
「確かに私はリアーヴェルだが、君は……?」
「――私はイクシアーナ様の侍女でございます。以前何度かご挨拶させていただいたことがあったのですが、覚えておいででしょうか」
うむ、と私は頷いた。言われてみれば、確かにそうだったと合点がいったのである。
「差し出がましいご質問かもしれませんが、リアーヴェル様はイクシアーナ様をお訪ねになられたのではありませんか?」
その通りだ、もし君がイクシアーナの所在を知っているならば教えてもらいたいと返すと、年若い侍女はにわかに表情を曇らせた。
「……実を申しますと、イクシアーナ様が今どこにいらっしゃるのか、私どもにも全く分からないのです」
侍女が俯き、陰りを含んだ声で答えた瞬間、私は否応なく予感させられた。
彼女はただ単に、イクシアーナの不在を告げているわけではないらしい、と――。




