1.聖女の溜息
今回のお話は、“聖女”イクシアーナの視点で進行します。
また第三章のあらすじを忘れてしまった方は、「登場人物まとめ(第三章終了時点) ※ネタバレあり」をお読みください。そちらで各登場人物が第三章終了時点でどのような状況に置かれていたかを簡潔に紹介しています。
「――すごいわね!!」
川沿いの道に並んだ、たくさんの祭り屋台を目にして、私は思わず感嘆の声を上げました。
燻製肉の串焼き、川魚のフライ、糖蜜つきパンケーキ、搾りたての果物ジュースや果実酒、氷菓子――屋台の看板に掲げられているのは、食欲をそそる品々ばかり。
少し開けた場所では、鎖抜けを披露している大道芸人の男が、道行く人々の目を釘付けにしていました。
視界に映るお祭り客は皆、平和と安息を慈しむかのように、満ち足りた表情を浮かべています。その中には、手を繋いだり、肩を寄せ合って歩く、仲睦まじい恋人たちの姿も数多く含まれていました。
(……もしかすると、私たち二人も同じように見えているのかしら?)
私は気恥ずかしさを覚えつつ、並んで歩くイーシャルの顔をちらりと覗き見ました。
「――私、とっても嬉しいわ。前々から一度、ラヌーズ川の夏祭りに来てみたかったの」
そいつは良かった、とイーシャルは応じましたが、心ここにあらずといった響きが、彼の声に含まれていました。彼はぼんやりと考え込むような顔つきで、じっと足元に視線を向けています。
『ラヌーズ川のお祭りに、警護役として同行して下さらない? 私用で非番の聖騎士を連れ回すのは、少々気が引けますし……』
私はもっともらしい理由を述べ、イーシャルを強引に夏祭りに誘ったのですが、やはり迷惑千万だったのでしょうか。そもそも彼にとってのラヌーズ川は、メローサと決別の禊を済ませた因縁浅からぬ地です。
だからこそ、楽しい思い出で彼の過去を上書きしたいという身勝手な想いを抱いていたのですが、それが却って悪い方向に働いたのかもしれません。
「……あなたはお祭り、好きじゃない?」
思い切って訊ねると、イーシャルは予想もしなかった答えを返しました。
「そういうわけではない。ただ少々悩んでいたのだ。最初は何を食おうかとね。俺は餓鬼の頃から、屋台の味が好きなんだ」
「……何だか可笑しいわ。あなたって、意外に子どもっぽいところがあるのね」
私がクスクス笑うと、イーシャルは呆れたように肩をすくめ、それからゆっくりと微笑みを浮かべました。
「否定はしないが、あんただって同じようなものだろう。ついさっき屋台を見て、子どもみたいに目を輝かせていたじゃないか」
普段のイーシャルは目つきが鋭く、容易に他者を寄せつけないような雰囲気をまとっていますが、笑顔になるとそれが一変します。目尻に温かな皺が寄り、彼が本来内に秘めている優しさが、一気に顔を出したような印象を受けるのです。私は彼の笑顔が好きでした。
「……しかし、こんなに人が多いだなんて想像もしなかったわ。お互いに、はぐれないようにしなくちゃ」
人混みの隙間を縫い歩きつつ嘆息すると、イーシャルは私の前に歩み出て、「ならば、俺の服の裾でも掴んでおくといい」と言いました。
「……それじゃ不安よ。私の手を握っておいて」
咄嗟に口にしたあと、私は自分が何を言ったのかを理解して、急に言葉が出なくなってしまいました。祭りの賑やかな雰囲気が、知らず知らずのうちに私を大胆にして、思いがけない言葉を言わせたのかもしれません。
しかし理由が何であれ、今となってはあとの祭りです。
私は自分の感情と真正面から向き合わなくてはならないと、改めて突きつけられたような心持ちになっていました。
(義勇軍に属していた当時、イーシャルは私にとって、憧れと尊敬の対象でしかなかった。手の届かない、雲の上の存在でもあった。けれど今は……)
長い年月を経て再会し、こうして間近で言葉を交わすようになってからというもの、私の彼に対する想いは、刻一刻と変化しつつありました。
とは言え、神に仕える聖女であり、教会に身を捧げる聖騎士でもある私にとって、その手の感情を明確に意識することは、即ち“破戒”を意味します。従って、自分の感情に気づかぬふりをする以外、術はありませんでした。
そして何と言っても、相手はあのイーシャルです。彼が特定の女性に対して特別な感情を抱く姿を、私は上手く想像することができませんでした。それというのは、メローサという一人の女性の存在が、今なお彼の心に何らかの暗い影を落としているせいなのでしょう。
少なくとも私には、そのように思えてなりませんでした。
(……とにかく、一つ確かなことが言えるとすれば、私の想いは一方通行に過ぎないということ)
従って、その想いを自分の胸に仕舞っておき、彼との関りを断てば済む話なのです。けれども結局のところ、私は我慢しきれず、何かにつけ彼と関わりを持とうとしてしまう――こうした堂々巡りこそ、私の根深い悩みの種の正体でした。
(私の手を握っておいて。イーシャルはこの言葉を、どんな風に受け取ったのかしら?)
胸の中は後悔と不安ではち切れそうでしたが、一方で私は、イーシャルが優しく手を握ってくれるのを心待ちにしていました――が、案の定と言うべきか、彼はうんともすんとも言いません。
気まずい沈黙に耐えかね、勇気を振り絞って顔を上げると、一体どうしたことでしょう、イーシャルの姿はどこにも見当たらなくなっていました。
「――ねえ、イーシャルッ!! どこに行っちゃったの?」
私は恥も外聞もなく、大声で呼びかけていました。
イーシャルはかなり上背があるので、人混みの中でも一際目立つはずです。だというのに、往来を隅から隅まで探しても、彼の姿を見つけることは叶いませんでした。
……やがて空が茜色に染まり出したころ、探し疲れた私は、川べりに独り腰を下ろし、抱えた両膝の間に顔を埋めました。私はあまりの心許なさから、年端もいかぬ少女でもないのに、今にも泣き出しそうになっていたのです――。
* * *
「――イクシアーナ様、ご息災ですか? たった今、ひどくうなされていたようでしたが……」
部屋の扉の向こうから、唐突に声が響き、私はベッドから飛び起きました――と同時に、ようやく気がついたのです。
イーシャルと連れ立って夏祭りへ出かけたのは、夢の中の出来事だったのだ、と。
不意に窓の外を見やると、星明りも月明かりもない夜空が、茫漠と広がっていました。
「……思いがけない夢を見て、少々驚いただけです。心配は要りません」
私は部屋の外の監視役に向かって言いました。
その声は自分のものとは思えないほど、ひどく草臥れていましたが、それも無理のないことです。なぜなら、イーシャルと総主教様が王国政府に連行されたあの日を境に、何もかもが変わり果ててしまったのですから。
(……私はもはや、聖ギビニア騎士団の団長ではない。そればかりか、四六時中監視をつけられ、この部屋から出ることさえままならない)
この事実が、改めて自分の胸に重くのしかかっていました。
そして私は我知らず、底深い溜息を漏らしていたのです――。




