53.エピローグ
今回のお話は、聖ギビニア騎士団副団長、レジアナスの視点で進行します。
無我夢中のまま、俺はケンゴーのもとに走り出していた。
ついさっきまで、俺は身動き一つ取れずにいたが、あいつの起こした“奇跡”が生んだ光は、俺の身体を“生命吸収”の影響から解放し、さらに戦いで受けた傷まで癒してくれた。
ケンゴーの精神世界から戻って、それほど時間が経っていないせいか、意識はいくらか朦朧としていたが、それでも俺は、あいつとイクシアーナ様のやり取りを少しも聞き逃しはしなかったし、その後にあいつがやってのけた奇跡も、この目でしっかり見届けることが出来た。
(――分かってはいたさ。ケンゴーほどの男に、やってやれないことは何一つとしてないんだと。でも、本当にその通りだった。すげえよ、あんたは)
俺はただただケンゴーのことが誇らしかったし、何かとびっきりの労いの言葉を――あいつはそんなものを求めるような性質じゃないが、それでも――かけてやりたくて仕方なかった。
そうしないことには、俺の気が済まないのだ。
そしてもちろん、そんな気持ちになっているのは、俺一人だけではない。
少し離れた地点にいるケンゴーの周囲には、既に人垣が築かれつつあった。
(……何にせよ、まずはケンゴーのいつも通りの仏頂面を拝んでからだ)
ケンゴーははっきりと宣言した。たとえ心臓を貫かれようと、絶対に死にはしない、と。あいつが守れもしない誓いを、軽々しく口にする男ではないと、俺は誰よりも分かっているつもりだし、事実として、あいつの言葉を疑うような気持ちは、これっぽっちも抱いていない。
とは言え、ケンゴーの元気な姿をこの目で確かめるまでは、気が気じゃないというのが正直なところだった。
その上、あいつがどんな想いを胸に戦い続けてきたのか、改めて知ったせいもあるのだろう。上手く言葉に出来ない様々な感情が込み上げてきて、今にも泣き出してしまいそうだった。
俺は遮二無二先を急ぎつつも、せめてもの気休め、と言ってはなんだが、ほんの少し先の未来を想像してみる――。
『……何だ、その情けない面は?』
駆けつけた俺の顔を見るなり、こっちの心配なんてどこ吹く風と、ケンゴーは訊ねてくる。実にありそうなことだ。
『心配かけやがって』と俺が返すと、あいつは自信たっぷりに、ぬけぬけとこう言ってのける。
『俺は必ず約束を果たす男だ。いつもそう言っているだろう』
それを聞いた俺は、呆れと安堵がないまぜになったため息をつく。
傍にいるイクシアーナ様は、俺たちのそんなやり取りを目にして、笑顔を見せずにはいられないだろう。
それはきっと、ぜんぜん聖女らしくない、あけすけな笑顔であるはずだ。
そしてケンゴーも、つられて笑顔になるに違いない――。
「……しかし、いつもいつも無茶し過ぎなんだよ、ケンゴーは」
俺は心の中でモヤを吐き出したつもりだったが、どうやら無意識のうちに、実際に口に出していたらしい。
それに気づかされたのは、すぐ後ろから、「同感です」と声が聞こえたせいだ。
振り返ると、頬を上気させて懸命に走るネーメスの姿があった。トモンドも並走している。
「――聖者さんは生きてるさ。間違いない」
トモンドはきっぱり言うと、力強くうなずいてみせた。
「聖者さんは全くもって嘘が似合わんお人だ。『絶対に死にはしない』って言ったんだから、そりゃあその通りなんだろう。だがよ、聖者さんの正体があの“イーシャル”だったとは、さすがに驚いたぜ。通りで強いわけだよ。無理もねえこった」
「……正体を偽っていたのに、嘘が似合わない人とは少々おかしな話です――が、トモンドの言わんとしていることは分かります。僕も全く同じ意見です。彼はきっと、ぴんぴんしているに違いありません」
微かに口元を緩めたネーメスを見て、俺はふと思い返した。
ネーメスの実兄、ディダレイ騎士団長が、戦いのさ中に命を落とした事実を、である。
一見して、ネーメスの様子に少しも変わったところはない。
しかし、何かにつけ反目し合っていた兄が、死の直前にケンゴーの正体を知り、致命傷を負わせるという一幕さえあったのだから、実際のところ心の内側は、千々に乱れ切っているに違いなかった。
……いや、だからこそネーメスは、ケンゴーの生存を信じ、そこに希望を見出すことで、必死に自分を繋ぎ止めているのかもしれない、と俺は思った。
「――兎にも角にも、ケンゴーさんは王都を救った張本人です。国王様から恩赦を受け、過去の一切が不問に付されるであろうことは、まず間違いないでしょう。彼の偉業の証人となり得る者が、これだけ揃っているのですから」
ネーメスは明るい声で続けた。今やケンゴーを取り囲む人垣は、驚くほどの数に膨れ上がっている。
間を置かず、俺たちのすぐ後ろを走る王国騎士団の集団が、次のようなやり取りを交わしているのが、不意に耳に入った。
「……手配書が回っても、“傷跡の聖者”として、世のため人のために戦い続けていた。あのお方こそ、真の英雄と言えよう」
「ああ、間違いない。そんなお方を罪人扱いして追い回していただなんて、我々は全くもって間違っていた。逆境は人の本性を暴くというが、彼はこれ以上ないやり方で見事な手本を示した。及びもつかぬ存在だよ」
俺たち三人は、自然と顔を見合わせて笑い合っていた。
(――多くの人間が命を失い、大聖堂は瓦礫の山に変わり果てた。しかし、この国は今日を境に、より良い方向に舵を切ることが出来た。誰もが願う明るい未来に、現実が一歩近づいたんだ)
教会墓地に居合わせた全員が、そんな想いを共有していたのではないかと思う。
俄かに活気づき、一層足を速めた俺たちは、満を持して人垣に分け入ると、無我夢中で前へ前へと突き進んだ。
そしてようやく最前列に到達した瞬間、背後のトモンドがぽつりと漏らした。
「……嘘だろ、聖者さん?」
そのとき、俺の瞳が映していたのは、地面に仰向けに寝そべったままのケンゴーの姿だった。
駆けつけた大勢の人間で治癒魔術を施したのだろう、左胸の傷は既に塞がっていたが、深い眠りに落ち込んだように、ケンゴーのまぶたは固く閉じられていた。
その表情には、未だかつて見たことがない、ひどく満ち足りた、穏やかな微笑が湛えられている――。
「……眠っているだけ、ですよね?」
ケンゴーの傍に座り込んでいるイクシアーナ様に訊ねると、彼女は心ここにあらずといった様子で口を開きかけたが、結局は何も言わなかった。しきりに瞬きを繰り返してばかりいる。
俺は藁にも縋る気持ちで、まずはケンゴーの手首、次いで首に手を当てて脈を探った。それから胸に耳を当て、心音を確かめもした。
しかし、一体どうしたことか、何も感じ取ることが出来なかった。何度繰り返してみても、結果は同じだった。
それが意味することを、俺は上手く呑み込めずにいた。……いや、呑み込もうとしたところで、呑み込めるはずがなかった。
「……おい、聞こえてるか? 聞こえてるんだよな?」
ケンゴーの肩を優しく揺すりながら、俺は問いかけていた。
「“英雄殺し”の一件が片付いたら、一緒にエジリオの墓参りに行くって約束したよな? 忘れちまったんじゃないよな?」
しかし、ケンゴーは返事をしない。
どこからどう見ても、眠っているようにしか見えないのに、だ。
「木剣でなら、いつでも相手をしてやる――あなたは、僕にそう言いましたよね?」
ネーメスもまた、ケンゴーの手首を握ったまま、震える声で呼びかけていた。
「約束は、守ってもらわねばなりません。……勝ち逃げは、許しませんよ」
――と、そのときだった。「ちょっとどいて、どきなさいッ!!」という荒々しい声が、人垣の外から響いてきた。
驚いて視線を移すと、人垣の一部がぎゅうぎゅうと前方に押し出され、やがてその隙間から、しかめっ面のアゼルナが姿を見せた。
アゼルナの顔は血と煤にまみれ、身につけた甲冑は、もはや用を成さないほどぼろぼろになっていたが、威勢の良さだけは、相も変わらずだった。
「……いつまで寝てるのよ。とっとと目を覚ましなさい、ケンゴー!!」
言いながら、アゼルナはケンゴーの前に屈み込み、ぺちぺちとケンゴーの頬を叩いた。
「あんた、私に偉そうに言ったでしょう? 『必ず生き延びろ、これからもイクシアーナ様の力になれ』って。私はあんたに言われた通り、ちゃんと生き延びたわよ。なのにあんた、そのザマは何なの? ……ほら、死んだふりなんかしてないで、何か言い返してみなさいよッ!!」
「――アゼルナ、落ち着くんだ」
俺の傍で、ずっと棒立ちになっていたトモンドが、我に返ったように言った。
するとアゼルナは、無言のまま立ち上がり、くるりとこちらに背を向けた。
「――イーシャル、実に不可思議な男であった」
不意に背後から声が響き、振り返ってみると、リアーヴェル様が腕組みをして立っていた。
ひび割れた眼鏡の奥の目を、どこか眩しげに細めながら、彼女は話を続けた。
「扱える魔術は“血操術”のみ。何よりも頼りにしていたのは、己の剣の腕。そんな男が、“精神支配”と“奇跡の兵”、二つの禁呪を破り、“英雄殺し”――ゼルマンドを討ち果たした。
この目で全てを確かめた今となっても、俄かには信じ難い話だ。ここに迎えられる以前は、“英雄殺し”に対抗し得る者となると、私以外にはいまいと考えていたが、とんだ思い上がりだった」
知らず知らずのうちに、俺はリアーヴェル様を睨みつけていた。
彼女の言葉が、まるで死者に対する手向けのように聞こえたからだ。
リアーヴェル様の人柄を考えれば、他意はなく、ただ思ったことを率直に口にしただけなのだろう。
だがそれでも、やり場のない怒りが、ふつふつと込み上げてくる。
俺はその場に跪いたまま、気持ちを落ち着けようと深呼吸を一つやり、ぎゅっと拳を握り締めた――と、そのとき、黒いローブをまとった人物が、真っ白な長髪を振り乱し、地を這いながら人垣の間から抜け出したのが、視界の隅に映った。
「……嗚呼、イーシャル」
悲哀に満ちた、しかしどこか艶めかしく響くその声は、胸の内に溜め込んだ行き場のない俺の怒りに、たちまち火をつけた。
気がついたとき既に、俺はその男――ほかでもない、王国騎士団の前騎士団長、ガンドレール卿だ――の前に立ちはだかり、行く手を阻んでいた。
「……あんた、どの面下げてここに来た?」
その一言が、俺の口を衝いて出た。
同時に、辺りのざわめきがぴたりと止み、張り詰めた沈黙が降りた。
「――あんたはケンゴーを売った。そして、ゼルマンドにつけ込まれた」
ふと気づくと、俺はガンドレール卿の襟首を掴みかかっていた。
目の前の、恐ろしいほど血の気を失った彼の顔は、己が取り返しのつかない後悔に襲われ、傷つき、打ちひしがれていることを物語っていた。
無理もないことだ、と俺は思った。
(――ゼルマンドに身体を奪われたガンドレール卿は、血を分けた肉親を悉く自らの手にかけたばかりか、意に沿わぬ大量虐殺さえ、この大聖堂でやってのけたのだ。彼こそ、一連の“英雄殺し”騒動の最大の被害者と言っても過言ではない)
頭では、ちゃんとそれが分かっていた。
しかし、この男の身勝手のために、ケンゴーが極刑を下され、その後お尋ね者に身をやつしたのだと思うと、湧き上がる怒りを抑えることが出来なかった。
我知らず、俺はわなわなと震える拳を振り上げていた――。
「……お止しなさい、レジアナス。それは間違った行いです」
穏やかな、しかし有無を言わさぬ口調で俺を現実に引き戻したのは、総主教様の一声だった。
いつの間にか総主教様は、キトリッシュ枢機卿に肩を支えられながら、ガンドレール卿の背後に立っていた。
襟から手を放し、拳を下げると、不思議と怒りは消え失せた。
同時に、ケンゴーが未だ目を覚まさないという現実が、再び重くのしかかってきた。
「――枢機卿から伺いました。ケンゴーさんははっきりと、『必ず奇跡を起こす。絶対に死にはしない』と仰ったそうではありませんか。そして実際に、彼は奇跡を起こしました」
総主教様は柔和な笑みを浮かべながら、誰に向けるでもなくそう言った。
「我々の教典の中に、聖者の蘇りの逸話が数多く記されていることは、皆さんならば当然ご存知のはずです。今はただ、ケンゴーさんの言葉を信じて待ちましょう」
総主教様の言う通りだ、と俺は自らに言い聞かせた。
そしてすぐさま、両手で自分の頬を思い切り引っ叩くと、ようやく頭がまともに回り始めた気がした。
ご無礼をいたしました、とガンドレール卿に詫びると、地面に座り込んだ彼は、力なく首を振り、「謝る必要はない。君の言ったことは全て正しい」とか細い声で言った。
すると総主教様は、ガンドレール卿の肩を優しく叩き、凪のように穏やかな笑みを浮かべた。そして覚束ない足取りで、ケンゴーのすぐ傍まで歩み寄った。
「ケンゴーさん、あなたほど立派な方を、私はほかに存じ上げません。今日という日まで、よくぞこんなに傷だらけになりながら、戦い抜いて下さいました。聞こえておりませんでしょうが、まずはとにかく、お礼を言わせてください」
そう言うなり、総主教様はケンゴーに向かって深々と頭を下げた。
王国騎士団兵も含め、その場に居合わせた者は皆、残らず総主教様に倣った。
しばしの間、深く厳かな沈黙が、辺りを満たした。
「……さて、ケンゴーさんがいつ目を覚ましても良いように、一刻も早く、身体の休まる場所へ移して差しあげましょう」
総主教様が沈黙を破った、そのときだった。
「――いえ、その必要はございません」
唐突に声が響き渡り、ぎょっとして顔を上げると、色鮮やかな緑のローブをまとった魔術師風の男が、総主教様の真正面に立っていた。
灰色がかった髪を持つ、色白の若い男で、目は糸のように細い。
さらに男の右手に握られた、真っ赤な宝玉が埋め込まれた杖の先端は、ケンゴーの首元に突きつけられている。
男が今までどこに身を潜めていたのか、いつの間にこちらに接近したのか、皆目見当がつかなかった。
少なくとも俺は、男の足音に気がつかなかったし、気配さえ感じ取れなかった。“転移の門”の術が使用された形跡もない。
何らかの魔術を用いて人目を欺いたのだろうが、あまりにも巧妙過ぎる。
何者かは分からないが、男が相当な手練れであることに、疑いの余地はなかった。
「……おっと、申し遅れましたが、ボクは宮廷魔術師団の長、エインズメリー・ドローデールと申します。以後、お見知りおきを」
男はケンゴーに杖を向けたまま、道化じみた口調で名乗り、かたちだけといった風に小さく会釈した。
エインズメリー・ドローデール――宮廷魔術師団の頂点に立つ男の名は、魔術界に明るくない俺でも当然聞き及んでいた。国防の要と言われる“結界術”に精通し、魔術師としての実力も、リアーヴェル様に次ぐものだと専らの噂だった。
その上、ドローデール家は言わずと知れた、魔術界で権勢を振るう屈指の名門である。
だが、それがどうした、と俺は思った。
「――おい、その杖をどけろよ、クソ野郎」
迷わず言葉をぶつけると、「ま、ご理解くださいよ」とエインズメリーはへらへら笑いながら言った。
「正直に言えば、ボクだってこんな面倒事は御免なんです。でも、一足先に行って、この男の身柄を抑えておくように命じられたものですから」
「……一体、誰のご命令ですかな?」
総主教様が訊ねると、「今に分かりますよ」とエインズメリーは返し、曰くありげに笑みを浮かべた――と、その直後、数え切れないほどの騎兵と歩兵が、瓦礫の山と化した大聖堂の敷地内に、どっと雪崩れ込んだ。
実に不可解だが、とうの昔に援軍要請を出していた王国騎士団本隊が、今頃になって到着したらしい。
加えて、人の跨った巨鳥の群れが、大軍の頭上を悠々と通過しながら接近しつつあった。こちらは宮廷魔術師団と見て、まず間違いなさそうだった。
宮廷魔術師たちは、国内最大の猛禽類“エピケルスス”を使い魔として使役するのが、古来からの習わしなのだ。
(……まさか、王国騎士団と宮廷魔術師団が、総出でケンゴーを捕らえに来たってのか?)
これから何が起きようとしているのか、もちろん全貌を掴めたわけではない。
だがもし、王国政府が本当にケンゴーの身柄拘束を試みようとしているならば、その理由は、たった一つしか思い浮かばなかった――。
「……国家の存亡のかかった戦いが、決着したあとに姿を見せるとは、我が国の騎士団も魔術師団も、とんだ腰抜けらしい」
皮肉たっぷりに口火を切ったのは、リアーヴェル様だった。
「……おや、いやに絡むじゃないか、リアーヴェル」
エインズメリーはそう言うと、ちらとリアーヴェル様を見やり、不敵な薄笑いを浮かべた。
さもありなんという話だが、二人は旧知の間柄らしい。
大方、王立魔術学校時代の同輩だったとか、そんなところだろう。
「ゼルマンドがこの敷地内に留まっている限り、一切の助太刀は不要だと、端から決め込んで静観していたに違いない。同じ王都間の移動で、これほどの時間を要するなど、到底考えられる話ではない」
リアーヴェル様は、冷ややかな声でぴしゃりと指摘した。
「察するに、聖ギビニア騎士団とゼルマンドが共倒れになれば、願ったり叶ったりだとお前たちは考えたのだろう。周知の通り、ポリージアの一件以来、教会の存在は王国騎士団にとって目の上のたん瘤となっていた。ゆえに墓地の掘り起こしに参加した同朋たちさえ、見殺しにしかけたわけだ。度し難いほど腐り切っている」
「……忠告してあげるけど、妄言は慎んだほうがいいよ。ま、何にせよ、一介の魔道具工房の主に過ぎない君に何を言われたところで、痛くも痒くもないけどね」
エインズメリーが不快げに吐き捨てると、リアーヴェル様は急に腹を抱えて笑い出した。
「……いやいや、失敬。お前が負け犬の遠吠えの見本のようなことを言うものだから、つい可笑しくなってな。しかし無理もないことだ。事実お前は、万年次席の負け犬だった。ただの一度として、この私に勝つことが出来なかった」
リアーヴェル様の言葉は、エインズメリーにとって、越えてはいけない一線をいとも容易く越えるものだったらしい。
驚くほど大きく見開かれた彼の目が、その事実を物語っていた――と、次の瞬間、彼の右手から杖がすっぽ抜け、瞬く間にリアーヴェル様の手元に引き寄せられた。
「……なかなか良い品じゃないか。隙だらけの持ち主とは大違いだ」
リアーヴェル様はしげしげと杖を見つめながら、ゾッとするほど冷たい声で言った。“冷血”の二つ名らしからぬ挑発は、ケンゴーを危険から遠ざけるための芝居だったのだと、俺はようやく思い当たった。そのときだった。
「――これはこれは総主教様。お久しゅう御座います」
よく通る低い男の声が響き、人垣が一瞬のうちに崩れ去った。
すぐさま視線を移すと、そこに佇んでいたのは、漆黒の巨馬に跨る、金色の甲冑姿の壮年の大男――そう、“レヴァニアの金獅子”こと、ゴグリガン・グレベル総長その人だった。
二つ名の由来は、獅子さながらの勇猛果敢な戦ぶり、そして鬣を思わせる黄金色の豊かな長髪で、言わずもがな、王国騎士団の頂点に君臨する傑物である。
さらに彼の真後ろには、見覚えのある女性騎士が、白馬に騎乗して控えていた。
王国騎士団参与の“剣姫”こと、レイニエラ・ファランギスである。彼女とは、会議のために王城に登城した際、一度だけ顔を合わせたことがあった。
王家に縁あるファランギス家の息女であるレイニエラは、ブロンドの巻き髪を肩まで垂らした容姿端麗の長身で、一見すれば、近づき難い“社交界の華”といった雰囲気を醸している。
しかしその実、彼女はガンドレール卿やディダレイ騎士団長にも匹敵する剣の腕の持ち主であり、ゆえに“剣姫”の異名を持つに至ったという――。
「……一つお聞かせ願いたい。ケンゴーさんの身柄を拘束せよを命じたのは、総長殿ですかな?」
総主教様が訊ねると、仰せの通りに御座います、と総長は答えた。
それから彼とレイニエラは揃って下馬し、総主教様のもとに真っ直ぐ歩き進んだ。
道すがら総長は、ケンゴーの身を案じ、傍で様子を見守っていた王国騎士団兵たちに向かって、各々退がれ、と厳しい口調で命じた。
二人は総主教様の前に立つと、恭しく頭を垂れた。
「事の次第をお話しさせていただきましょう。我々は援軍要請を頂戴したのち、直ちに王城を発って大聖堂の周囲に布陣致しました」
総長はおもむろに話し出した。
「しかしながら、“英雄殺し”の正体があのゼルマンドとあらば、兵数で押し切れる相手では御座いません。慎重に事を構える必要がありました。ご存知の通り、我々王国騎士団は、ただでさえゼルマンド戦役で多くの兵を失ったばかりです。私は指揮官として、兵の命を粗末に扱うことだけは、是が非でも避けねばなりませんでした。
従って我々は、使い魔の眼と耳を借りて教会墓地の戦況を仔細に探り、攻め入る好機を窺ったのです――が、その折に図らずも、“傷跡の聖者”ケンゴーの正体が、お尋ね者の“イーシャル”であると知りました」
言い終えるのを見計らったかのように、暗い夜空から小柄な鷲が急降下して、総長の右肩にとまった。彼の使い魔なのだろう。
「全てを見届けなさったのならば、話は早い」
総主教様はにこやかに微笑みながら、繰り返しうなずいていた。
「我々教会の総力をもってしても、“死者の王”に傷一つ負わせることさえ叶いませんでした。おそらくはあなた方とて、それは全く同じだったでしょう。しかしイーシャル殿は、たった一人でこの教会墓地に赴き、臆さず真っ向からゼルマンドに戦いを挑みました。そして死力を尽くした戦いの果て、遂に打ち破ったのです。それを可能にしたのは、ほかでもない、彼自身の心の強さでした」
総主教様は言葉を置くと、なおも目覚める気配のないケンゴーを、気遣うように見やった。それから再び口を開いた。
「お尋ねしますが、イーシャル殿を除いて、王都の人々を死のあぎとから救えた者が、この世のどこにおりましょう? “傷跡の聖者”は歴史に名を刻むべき、唯一無二の英雄です。これは一点の曇りもない真実です。総長殿とて、その証人の一人ではありませんか」
「――いえ、我々の見解は全く異なります」
総長は迷う素振りもなく即答した。
「いかなる功績を挙げようと、イーシャルが禁忌を犯した罪人であり、脱走した死刑囚であるという事実は、断じて看過されるべきものでは御座いません。
その上、この男が秘めた暗黒魔術の才は、“死者の王”を魅入らせるほど強大なものでした。事実イーシャルは、再現不可能と言われた“奇跡の兵”の詠唱を実現してみせたのです。この男が命を拾うか否か、それは“神のみぞ知る”ですが、法と秩序の番人である我々としては、かように危険な人物を放っておくことは出来ませぬ」
「……理解出来かねますな」
総主教様の声は、相手をなじるような刺々しい響きを含んでいた。
総主教様がこれほどはっきり負の感情を露わにした姿を目にしたのは、正真正銘、今回が初めてだった。
「“奇跡の兵”の詠唱はあくまでも、ゼルマンドの意志によるもの。イーシャル殿の意志は一切関与しておりません。だいいち、イーシャル殿はとうに、己の力と正しく向き合う術を知り抜いております。彼が今、こうして救国の雄となった事実が、その何よりの証ではありませんか。一体全体、彼を危険だと見做さねばならない理由が、どこにあるのでしょう?」
総主教様の問いかけは、両者の間に張り詰めた緊張感を生じさせ、それは見ている側にも伝染した。
既に俺たちを完全包囲した王国騎士団本隊、そして上空に控える宮廷魔術師団の存在が、その緊張感に一層拍車をかけていた。
「……私と総主教様は、立場が異なります」
長い沈黙の末、総長は重々しく口を開いた。
「私は法と秩序を何よりも重んじます。かような人間が、先刻の問いにいかなる答弁をしたところで、総主教様のご理解を得られるとは存じませぬ。私に出来ることと言えば、騎士の矜持にかけて、己の信念を貫き通すことのみ」
総長は隣のレイニエラに目配せすると、決然と声を張り上げた。
「――イーシャルを捕らえよッ!!」
レイニエラが腰の剣を引き抜くと、俺たちを包囲していた王国騎士団本隊もそれに続いた。さらに上空の宮廷魔術師団も、一斉にこちらに杖を向けた。
(――ケンゴーを渡してなるものか。絶対にだ)
俺は即座に剣を構えた。イクシアーナ様、“聖女の盾”の面々をはじめ、傍にいたほかの聖騎士たちも皆、迷わず王国騎士団に刃を向けている。
リアーヴェル様もまた、一触即発の雰囲気を醸しながら、エインズメリーと睨み合っていた。
今回ばかりは、いかなる争いも好まない総主教様でさえ、俺たちを制することはしなかった。とは言え、目の前で繰り広げられる光景が受け入れ難いらしく、ケンゴーの傍に立ったまま、思案するように固くまぶたを閉じている。
そしてガンドレール卿だけが、ただ一人立ち上がることもせず、膝を抱えて地面に座り込んでいた――。
「暗黒魔術の使用者に力を貸す者は、悉く死罪――それがこの国の法であることは、当然理解していらっしゃるはずです。にもかかわらず、我々に剣を向けるとは、全てご承知の上でのことと受け取って構いませんね?」
レイニエラが最後通牒を突きつけた、まさにそのとき、異様な熱気を背後に感じた。咄嗟に振り返ると、とぐろを巻いた炎の大渦が急接近していた――。
「……“炎の加護の盾”をッ!!」
イクシアーナ様が詠唱の号令をかけた。
俺たちは指示に従って、“炎の加護の盾”――防火障壁を生じさせる基礎的な魔術だ――を一斉展開し、襲い来る猛炎を何とかやり過ごした。
直後、ネーメスがぽつりと呟いた。
「……兄上」
俺は自分の耳を疑いながらも、ネーメスの視線を辿った。
するとその先には、剥き出しになった上半身に、惨たらしい火傷を負った男が、左手を突き出した格好で立っていた。
月明かりに目を凝らすと、男の右手首はそっくり失われ、さらにその肉体に、禍々しい文様の入れ墨が刻まれているのが分かった。顔の左半分に受けた火傷はとりわけ酷く、左眼は完全に潰れていたが、残った右眼は異様な光を漲らせている。
まさしく地獄の業火に焼かれた、奈落の住人のごとき相貌に変わり果てていたが、男の正体は間違いなく、ディダレイ騎士団長その人だった。
生きていたのだ、と俺は思わず息を呑んだ。
(……そう言えば、王国騎士団の中には、暗黒魔術の耐性を高める“加護の入れ墨”を施す者がいると聞いたことがある)
“加護の入れ墨”を施す際は、巨額の費用、幾度もの施術、さらには常人には耐え難い肉体的苦痛を伴うため、実際に試みる者はごく少数しかいないという噂だった。
しかし、ディダレイ騎士団長がこうしてゼルマンドの魔手から己の命を守り通したところを見ると、“加護の入れ墨”の効果はてきめん、代償を払う価値は十分にあるらしい――。
「……いないッ!! 聖者さんがいないッ!!」
トモンドが焦燥し切った声を上げ、ぎょっとして視線を移すと、ケンゴーがいたはずの場所に、消えゆく“転移の門”の魔法陣が見えた。
「――杖は返してもらったよ、リアーヴェル」
頭上からエインズメリーの声が聞こえた。
急いで上空を見やると、“エピケルスス”に跨ったエインズメリーが、大事そうに杖を抱えたまま、リアーヴェル様に向かってこれ見よがしに舌を出していた。
「……ッ!?」
そのとき、エインズメリーが得意げになっていた理由はほかにもあったのだと、俺はようやく気がついた。
……そう、奴の使い魔の腰部に、ぐったりと身を横たえるケンゴーの姿が、はっきりと見えたのである。
どうやら、ディダレイ騎士団長の奇襲によって生まれた隙を突き、“転移の門”によってケンゴーを移動させたらしい。
「――とにかく、これでどちらが本物の負け犬か、はっきりしたね」
エインズメリーは勝ち誇ったように吐き捨てると、人を小馬鹿にするようにひらひらと手を振り、そのまま使い魔と共に王城の方角に飛び去って行った。
俺は全身の力がたちまち抜けてゆくのを感じた。
「これで最大の目的は果たしました――が、あなた方が揃いも揃って我々に抵抗の意を示した事実は消えません。この場で斬られるか、大人しく縄をかけられるか――残された選択肢は、二つに一つです」
レイニエラが酷薄な顔つきで告げると、これ以上事を荒立ててはならぬ、と総長が制した。
「……とは言え、ここまで大事となっては、これにて一件落着とはいきませぬ」
総長は一旦言葉を置くと、思案するように俺たちの顔を見回した。
それからこう続けた。
「こんなことを口にするのは本意ではありませんが、皆様方には取り調べを受けていただく必要があります。神託が下ったことを何故秘匿していたのか? あるいは“傷跡の聖者”の正体を知りながら、警護に雇ったのではないか?――私の中に湧いたいくつかの疑問、疑念を晴らしていただかねばなりませぬ。従って、戦いの直後にぶしつけなお願いで恐縮には存じますが、このまま我々と共に王城までご足労いただきたい」
「……ならば、私を連れてお行きなさい」
すぐさま名乗りを上げたのは、総主教様だった。
「“傷跡の聖者”をイクシアーナの警護としてここに呼んだのは、ほかでもない私です。私一人が王城まで出向けば、それで事足りるでしょう。私以外の者には、休息と傷の手当てを優先してもらわねばなりません。それで構いませんね?」
「……承知仕りました。ご協力に感謝申し上げます」
総長が深々と頭を下げた。
同時に、得も言われぬ悪寒が、俺の全身を通り抜けた。
ひょっとすると、これが総主教様との今生の別れになるのではないか――何故かは分からないが、そんな気がしてならなかった。
「……総主教様、俺も一緒に参ります」
咄嗟に申し出ると、イクシアーナ様もまた、お供させてください、とすがるように言った。しかし、総主教様は首を横に振り、「留守の間は頼みますよ」と言って微笑んだ。
「――立て、ガンドレール。そこにいるのだろう? お前にも話を聞く必要がある」
総長が有無を言わさぬ口調で告げると、ガンドレール卿は幽霊のように音もなく立ち上がり、ふらふらと歩き出した。
総長は険しい眼差しをガンドレール卿に向けつつ、懐から取り出した巻物をレイニエラに手渡し、頼んだ、と声をかけた。
彼女は総主教様とガンドレール卿を傍に呼び寄せると、受け取った巻物を迅速に読み上げた。
瞬く間に、彼女の足元に青白く輝く転移の魔法陣が浮かび上がり、三人は揃って光の中に消えていった――。
「……イーシャルを、一体どうするつもりです?」
イクシアーナ様が詰問するような口調で訊ねると、「ご安心を。我々はあの男の存命のために、最善を尽くす所存です」と総長は答えた。
それから彼は忙しげに馬に飛び乗ると、では、これにて、と言い残して駆け出した。
俺たちを包囲していた数多の兵も、剣を収めて引き揚げを開始した。
(……存命のために、最善を尽くす?)
その言葉に、俺は違和感を覚えていた。
脇に立つイクシアーナ様も、それは同じらしく、彼女は足元をじっと見つめたまま眉をひそめていた――と、そのときだった。背後から、唐突に声が聞こえた。
「――イーシャルに相応しいのは、“英雄としての死”ではありません」
振り返ると、そこに立っていたディダレイ騎士団長と目が合った。
彼の残った右眼には、燃えるような憎悪が苛烈にゆらめいていた。
修羅、と俺は思った。
微かに息を乱しながら、ディダレイ騎士団長はこう続けた。
「あの男に相応しいのは、“罪人としての死”。ゆえに不本意ながら、然るべき時が来るまで、我々は奴を生かさねばならぬのです」
言葉を失った俺は、その場に呆然と立ち尽くしていた――。
“傷跡の聖者”をお読み下さり、どうもありがとうございます!
ずいぶん長い時間を要してしまいましたが、たくさんの読者の方々に温かく見守っていただいたお陰で、自分の作風を貫きながら、無事に第三章の完結を迎えることが出来ました。この場を借りて、心より御礼申し上げます。
さて、“傷跡の聖者”は、次章が最終章となります。生死不明のイーシャルは、どのような運命を辿るのか? 彼の仲間たちは、何を想い、いかなる行動を起こすのか? 全てが明らかになり、物語は遂にフィナーレを迎えます。楽しみに待っていて下さい。
また、物語も一区切りつきましたので、皆様のご感想をお聞かせいただけたら幸いです。作者にとって、大きな励みとなります!
では引き続き、“傷跡の聖者”をよろしくお願いいたします!




