52.決断の刻
「……この老いぼれに手を下すことに尻込みとは、一体どういう了見です、ゼルマン卿?」
そんな声が、どこからともなく聞こえると同時に、俺はまぶたをこじ開けた。
すると、視界に映り込んだのは、完全なる焦土と化した教会墓地の様相であり、さらには、目の前の地面に片膝を突く、一人の老人の姿だった。
ほうぼうが焼け焦げた司祭服を身にまとい、肩で息をしながら、こちらに怪訝な視線を向けているその人物の名を、俺は驚きをもって口にしていた。
「総主教様……!?」
「……ケンゴーさん、なのですね?」
ハッとした顔つきで総主教が訊ね、俺はしっかりとうなずいてみせた。
同時に、精神世界でレジアナスに聞かされた次の言葉が、不意に脳裏に蘇る。
『外の世界では、あんたの身体を操るゼルマンドと、病み上がりで駆けつけてくれた総主教様が戦っている』
急いで視線を巡らせると、聖騎士たち、王国騎士団の兵たちは皆、一人残らず地に伏していた。
俺の身体がゼルマンに奪われたあと、さらなる戦闘が生じた結果なのか、あるいは皆一様に、開戦当初に行使された“生命吸収”の余波を未だ引きずっているのか。
仔細は不明だが、おそらく、総主教は俺がゼルマンの精神支配を破ると信じ、今の今まで、孤軍奮闘し続けていたのだろうと察せられた。
「……ご安心ください、ケンゴーさん。同朋たちは皆、“生命吸収”の影響下にあるだけです。ケンゴーさんが“精神支配”を受けた直後から、私は戦闘に参加しましたが、命を落とした者は、今のところ見ておりません」
総主教は、俺の不安を先回りして汲み取ってくれたのだろう、微笑を交えながら言った。俺は思わず安堵の吐息をついた。
「……総主教様、深手は負っておりませぬか?」
そう訊ね、総主教の傍へ向かおうとした刹那、俺は崩れ落ちるように、地面に両膝を突いていた。
首から下の自由が、まるで利かなかったのである。
同時に、右手に握っていた“血の剣”が滑り落ち、乾いた音を立てて地面とぶつかった。俺は俄かに胸騒ぎを覚えた。
(――取り戻せたのは、現実世界における意志の自由のみだった、というわけか)
俺が精神世界で試みたのは、精神的共鳴によって、己の思念体とゼルマンの思念体を一つに統合した上で、己の精神の強さで相手を凌駕し、肉体の主導権を奪い返す、という一種の荒療治だった。
だがそれは、完璧な成功を収めるには至らなかったらしい。
(……詰めが甘かった。ゼルマンの思念体が、身体の自由までは許すまいと、最後の抵抗を試みているのかもしれぬ)
事実、奴の思念体と思しき、どす黒い靄のようなものが、左胸に僅かながら渦巻いていることを、俺は確かに感じ取っていた――。
「私のほうは幸いにも、致命傷の類は負っておりません。が、どうしましたかな、ケンゴーさん? ご様子が……」
総主教が言い淀んだ刹那、俺の口は独りでに動いていた。
「……ケンゴー? 違う、私は、私は――」
「――ケンゴーさん、お気を確かにッ!!」
総主教の一声で、俺は咄嗟に理解した。
たった今、ゼルマンの意思が表出しかけていたのだ、と。
だが、案ずるな、と俺は己を叱咤した。
何と言っても、精神の強さでは、俺のほうに分があるのだ。
己の意思を強く保ち、ゼルマンがつけ入る隙さえ与えなければ、もう二度と、意志の自由を奪われることはない、という確信があった。
「……もう大丈夫です。総主教様、ご心配をおかけしました」
そう返した刹那、総主教は不意に目を閉じ、ゆっくりと地面に身を横たえた。
「――総主教様ッ!!」
呼びかけたが、返事は得られず、全身からたちまち血の気が引いてゆくのが分かった――が、総主教の肩は、微かに上下を繰り返しており、確かに呼吸は続いている。
また、彼の身体のあちこちには、幾ばくかの刃傷と火傷の跡が残されていたが、確かに彼の言葉通り、致命傷の類は一つも見受けられなかった。
おそらくはゼルマンとの戦いで、病み上がりの肉体を酷使したがゆえ、気を失ってしまったのだろう。無理からぬことである。
「……あとのことは全て、俺にお任せください。総主教様」
そう誓ったのち、思うように動かぬ首を、どうにか後方に向けると、煌々たる青白い光を双眸に宿した“奇跡の兵”の大軍が、教会墓地の入り口に集結している様が、視界に映り込んだ。
腐肉の塊のごとき者。全身の肉がこそげ落ち、ほとんど白骨化した者。死後間もないと見え、まるで生者そのものに映る者――死者の種類は様々だったが、それらは一様に、整然と隊列を組み始めている。
(……進軍が始まらぬうちに、是が非でも、“奇跡の兵”の術を破る方法を見つけ出さねばならぬ。しかし今は、身体の自由が利かぬばかりか、己のほかに頼れる者もない。一体、どうすればいい?)
言いようのない焦燥感が、どっと押し寄せてきたそのとき、少し離れた地点で、一つの人影が闇夜に立ち上がったのが、不意に視界に入った。
仄かな月明かりが照らし出す、その人影の正体は、聖剣を杖替わりに身体を支えている、イクシアーナにほかならなかった。
「――イクシアーナッ!!」
叫んだ刹那、心臓が大きな音を立てて鳴った。
同時に、頭のてっぺんを、凄絶なる稲妻で打たれたような感覚に、俺は陥っていたのだった。
『――神の寵愛と憎悪を一身に背負いし者、聖剣に心の臓を差し出し、救国の雄となれ』
かつてイクシアーナが説いた“第二の神託”が、唐突に頭の中に響き渡り、俺は自ずと悟った。
(ゼルマンの狙いである、“奇跡の兵”による王都の蹂躙――それは紛れもなく、神の憎悪に値する行為と言っていい。となればつまり、“神の寵愛と憎悪を一身に背負いし者”という言葉は、ゼルマンの思念体を己の身に宿す、今の俺自身を指し示していたのだ)
俺は思い返さずにはいられなかった。
聖剣“ラングレス”の名が、古の言葉で、“闇なる意思を無に帰す”という意味であることを。
事実俺は、大礼拝堂での戦いにおいて、屍兵化したファラルモが投げ放った槍を聖剣で両断した。そしてその際、槍が帯びた禍々しき魔術効果付与――殺害した相手を屍兵化させる効果を持つものだ――が、直ちに無に帰す瞬間を、この目でしかと見届けたのである。
(――聖剣は、いかなる剣にも断てぬものが断てる。その名の通り、“闇なる意思を無に帰す”力が宿っているのだ。となれば、『聖剣に心の臓を差し出し、救国の雄となれ』という文言は、この国を救う手立てを、抽象的にではなく、現実的に示していたのだろう。何と言っても、俺の左胸には、ゼルマンの思念体が確かに宿っているのだから)
おそらくはイクシアーナも、俺と同様、“第二の神託”の真意を悟ったはずである。
時が来れば、自ずと意味が分かる――これこそが、歴代の聖女たちが代々語り継いできた、“神託”の法則なのだ。
なればこそイクシアーナは、我が身に鞭打って“生命吸収”の余波に抗い、唯一人立ち上がったのに違いなかった。
「――“時”は訪れたのだ。“第二の神託”を実行に移す時が」
確信を持ってイクシアーナに告げると、彼女は曰くありげに顔を背けた。
俺は構わず話を続けた。
「俺の左胸には、ゼルマンの思念体が宿っている。従って、聖剣の力を借り、術者である奴を無に帰せば、“奇跡の兵”の進軍を、直ちに止めることが出来よう。既に承知しているだろうが、これこそが“第二の神託”の言わんとしていることだ。しかし今、俺の身体は、まるで言うことを聞かぬ。思い通りに動けぬのだ」
「……要するに、あなたの心臓を、聖剣で貫けと?」
震える声で訊ねたイクシアーナに、「覚悟はとうにできている」と返すと、まるで俺の意思に呼応したかのように、聖剣の刀身が薄らと白光を帯び始めた。
――と、次の瞬間、整然たる足音が、折り重なるように辺りに響き渡り、微かに地が揺れた。
再び振り返ると、隊列を組み終えた“奇跡の兵”たちが、いよいよ進軍を開始した様子が、俺の目に映った。
「――もはや一刻の猶予も許されぬ。頼む、イクシアーナッ!!」
発破をかけたが、イクシアーナは応えず、心ここにあらずといった顔つきで、ぼそりとこう呟いた。
「……“第一の神託”は、まだ遂げられていなかった。つまりは、そういうこと?」
聖女の犯せし罪、地上に久遠の光をもたらす――この“第一の神託”は、イクシアーナが俺を処刑場から救い出すことで、既にその役目を全うしたかのように思われたが、現実は違ったのだろう。
むしろ、“第一の神託”と“第二の神託”は対の存在であり、それぞれ単一では、真の役目を果たせぬのだと察せられた。
聖女たるイクシアーナが、俺の心臓を、聖剣で貫くという一種の罪を犯す――“救国”は即ち、かようにして成就されると、二つの神託は告げていたのではなかろうか。
しかしながら、彼女の側からすれば、真なる“聖女の罪”を犯すことは、到底気が進まぬのに違いなかった。
『――あなたは義勇軍時代、この私を危険から救い、人生を生き直すきっかけを与えてくれた大恩人なのですから』
以前、イクシアーナにそう言われたことは、今もはっきりと覚えていた。
だが、ほかに打開策がない以上、是が非でも、彼女を説得しなければならぬ、と俺は思った。
「――イクシアーナ、俺の目を見ろッ!!」
声を張り上げると、イクシアーナはびくりと肩を震わせたのち、恐る恐る顔を上げた。俺は彼女の顔を直視しながら、思うに任せて話し出した。
「あんたの脱軍を手助けしたときのことだ。別れ際、『このまま一緒に逃げよう』とあんたは言ったが、俺は応じなかった。『俺には、これといった夢も志もない。ほかの生き方も思いつかない。だから、一緒に軍を抜けることは出来ない』。そんな風に返事をしたはずだ。
だが、あれは本音ではなかった。口に出す勇気がなかっただけで、俺にも夢はあった。誰もが傷つけ合うことのない世界。困ったときは、当たり前のように、人々が互いに肩を貸し合う世界。子どもたちが、ただ笑って、毎日を過ごせる世界――まるで夢物語だが、そんな世界を見てみたいと、俺は心のうちで密かに、しかし強く願っていたのだ。その想いが、今日というこの日まで、俺に剣を握らせ続けた。
正直に言えば、俺は戦場で生きることに耐え難い苦痛を感じていた。人々が相争い、傷つけ合い、血を流す姿を、目にするのが嫌だった。ほかの生き方を選べるあんたたちが、心底羨ましいとも思った。だがそれでも、己の振るう剣によって、ほんのわずかでも、戦を早く終わらせることができるかもしれぬと、偏に信じ続けた。
――分かってくれ、イクシアーナ。俺は古き戦いの世に、完全なる終止符を打ちたいのだ。そしてそれこそが、俺が夢見た世界を実現するための、確かな一歩目となる。“奇跡の兵”たちに、王都を蹂躙させては絶対にならぬのだ」
王都の古宿で出会った、頑固で口こそ悪いが、気っ風の良いマダム。彼女を補佐する、思いやりに溢れたミス・ミーゴ。そして、俺と同じ名を持つケンゴー少年。さらには、貧民街の路地裏で、歯を食いしばって日々を生き抜いているであろう、かつての自分と同じ境遇の孤児たち――守りたいと願う者たちの姿を思い浮かべながら、俺は思いを込めて言葉を継いだ。
「人々の命が、生活の営みが奪われることを、断じて許してはならぬ。この想いは、お前だって同じはずだ。そうだろう、イクシアーナッ!!」
「……だから、私にあなたを殺せと?」
静かな怒気を含んだ声で言うなり、イクシアーナは覚束ない足取りで、こちらに近づいて来た。
月明かりを受けた彼女の顔は、不自然なほど青白く、その右頬には、一筋の涙のあとがついていた。
「あなたはいつもそうやって、自分ばかり犠牲にしようとする。それでは駄目なの。全く進歩してないじゃないッ!!」
目の前で立ち止まり、声を荒げたイクシアーナに、俺は咄嗟に反論した。
「自分を犠牲にしようだなんて想いは、俺にはこれっぽっちもない。ほかでもない俺自身が、見たい世界を見るために、為すべきことを為す――これの何がおかしい? そして何より、あんたは重大な勘違いをしている」
そう指摘すると、イクシアーナは困惑したように眉をひそめた。
「――俺がこれまで、さんざ死に損なってきたことは、あんたも分かっているはずだ。そう、たとえ心臓を貫かれようと、俺は死ぬつもりなど毛頭ない。自分が見たいと願う世界を、この目で確かめずに死んでどうするッ!!
……だいいち、俺はゼルマンに誓ったのだ。愚かな夢想家にしか描けぬ、より良い未来を、必ずこの国に築いてみせると。この誓いだけは、何があっても果たさねばならぬ。ゼルマンは許されざる過ちを犯したが、それでも奴が世に公正さを望み、より良い未来を願ったことは確かなのだ。俺は奴の意思を継いだ以上、こんなところで死ぬわけにはいかぬ」
イクシアーナは信じられぬと言わんばかりに、小さく首を振り、それから重々しく口を開いた。
「……あなたの覚悟は、十分に理解しました。しかし、心臓を貫いてなお、生き続けられる人間なんて、この世のどこにも存在しないのです。私たちは、何か別の策を見出さねばなりません」
その必要はない、と俺は返した。そして、言葉を選んで話を続けた。
「今、俺は信じているのだ。かつて受け入れることの出来なかった、己の二つ名を。最初は馬鹿げた名だとばかり思っていたが、今は違う。人々が俺に与えてくれた二つ名は、不思議と力を与えてくれる。
“傷跡の聖者”――そう、聖者とは、奇跡を起こす者に与えられる呼び名だ。聖女ならば、それくらい知っているだろう?」
訊ねると、イクシアーナは澄んだ緑色の瞳を大きく見開いた。
「約束しよう。必ず奇跡を起こしてみせると。俺は“奇跡の兵”を止める。ここで死にもしない。絶対にだ。
俺は信じると決めたのだ。己の二つ名を。己自身を。何よりも、この俺が戦友たちと共に歩んできた全ての道のりを。俺はこれより起こす奇跡のために、今日という日まで、生き永らえてきたのかもしれぬ。そう思えるほどだ」
俺はイクシアーナの瞳を見つめながら、想いを込めて締めくくった。
「イクシアーナ、俺を信じろ。俺は必ず約束を果たすッ!!」
「……そこまで言うのでしたら、信じましょう。あなたの言葉を。“傷跡の聖者”の二つ名を。確かにあなたは、一番大切な約束はいつも、必ず果たして下さいました」
イクシアーナは、凪のように落ち着き払った声で言うと、聖剣を両手に構え、その柄を固く握り直した。
彼女の覚悟が定まったことを確信し、静かに目を閉じると、辺りに深い静寂が訪れた。
――しかし、いくら待てども、その瞬間はやって来なかった。
「やっぱり、出来ない。出来るわけ、ないじゃない……」
やがて涙交じりの声が聞こえ、驚いて目を開くと、まぶたを赤く腫らしたイクシアーナの顔が、真っ先に映り込んだ。
聖剣を手に棒立ちしたまま、小さく肩を震わせている彼女の姿は、まるで幼い少女のようだった。
「――ふざけるんじゃないわよッ!! 何が神託よッ!!」
イクシアーナは大声で叫ぶと、不意に天上を睨めつけ、力一杯、聖剣を地面に叩きつけた。
神の巫女たる聖女の、神に対する反逆――これ以上は考えられぬ“聖女の罪”を目の当たりにした俺は、面喰らいながらも、言いようのない痛快を覚えた。
神託に翻弄され、懊悩し続けたイクシアーナは、最後の最後に、神の意思ではなく、己の意思を貫くことを選んだのである。
そして俺は、密かに己を恥じた。“神託”という大義名分を笠に着て、彼女に無理を強いたのではないかと問われれば、それを真っ向から否定することは出来ない。
「――そうだ、それでいい、イクシアーナ。人は己に正直に生きるべきだ。相済まなかった」
そう口走った刹那、俺の目に飛び込んできたのは、地面にぶつかり、勢いよく跳ね返った聖剣の切先だった。
そして、俺はハッと気がついた。
根こそぎ奪われていた身体の感覚が、確かに戻っていることに。
(――偶然なのか、神の導きというやつなのか。……いや、どちらも違う。ゼルマンが、“奇跡の兵”を止めるために、力を貸してくれたのだ。俺の想いに、あの男は呼応したのだ)
無論、確証などなかったが、俺はそう信じて疑わなかった。
束の間、急に込み上げてきた様々な想いが、走馬燈のごとく、脳裏を駆け巡る――。
(――憎悪の刃を向け合った俺とゼルマンでさえ、こうして共に手を取り合うことが出来た。やはり、“必ず道はある”のだ。苦難や過ちは、これから先も俺たちを待ち受けているだろうが、それでも必ず、物事をより良い方向に変えてゆくことが出来る。
俺もまた、亀のように遅い歩みだったが、少しずつ、より良い方向に己を変えてゆくことが出来た。かけがえのない人々との出会いが、互いに交わした言葉の数々が、通わせ合った想いの一つひとつが、それを可能ならしめた。思い返せば、たった一人きりでは、決して歩き通すことの出来ぬ、長い長い道のりだった。
きっとこの国も、俺と同じように、幾星霜の時間を重ねながら、少しずつ前進を続け、より良い現在に至ったのだろう。ならば、歩み続けることさえ忘れなければ、いつの日か必ず辿り着けるはずだ。人々が互いに肩を貸し合い、子どもたちがただ笑って毎日を過ごせるような、誰もが願ってやまない未来に――)
気がついたとき既に、俺は聖剣の刀身をしっかりと両手で掴んでいた。
そして、己の心臓に向けた切先目がけ、一切の躊躇なく倒れ込んだ。
「――未来への道を拓く。奇跡を起こすぞ、ゼルマンッ!!」
我知らず叫んだと同時に、聖剣の切先が心臓を喰い破り、背中へ抜け出たのが分かった。
一拍の間を置いて、宙に飛び散った己の鮮血が、眩き白光を放ち始める。
その白き光は、瞬く間に輝きを強め、広がり、また重なり合い、辺りを覆い尽くした――。
「……!?」
振り返ると、瓦礫の山を歩き進んでいた“奇跡の兵”たちが、一斉に動きを止め、恭しく地面に片膝を突いた様が、視界に映った。
――と、次の瞬間、死者たちの体から、青い鬼火のような光が、一斉に飛び出した。
およそ一万に及ぶであろう青い光の大群は、一つひとつが互いに競い合うように、凄まじい速度で、天高く駆け昇ってゆく――。
(……還ったのだ、元の骸に)
確信するなり、口からおびただしい量の鮮血が零れ出し、俺はのけ反るように地面に倒れた。
同時に、周囲を取り巻く匂いや音、さらには左胸の痛みさえも、急速に遠のいてゆくのが分かった。
ふと見やると、イクシアーナは俺の胸に治癒魔術を施しながら、必死の形相で何かを語りかけていたが、もはや聞き取ることは叶わなかった。
為すべきは為した、案ずることは何もない、とイクシアーナに言ったが、果たして、思った通りに言葉を発せられていたのか、定かではない。
(……しかし、何と温かく、心地良い光だろう)
辺りを満たした光は、まるで春の陽光そのものだった。
義勇軍時代の春先のある日、戦友たちと共に、川原に寝転んで日向ぼっこをしたときのことが、不意に脳裏に蘇る――。
(――はて、これは夢なのか、幻なのか?)
俺が唐突にそう思ったのは、いつの間にか目の前に、ゼルマンが立っていたからである。
彼は長い白髪を風になびかせながら、微動だにせず、じっと俺を見下ろしていた。
何かを伝えようとしているのではないかと、俺もまた、ゼルマンから目を逸らさずにいたが、結局のところ、彼は一切の言葉を発さぬどころか、引き結んだ口元を動かすことさえしなかった。
――しかし、俺はこの目で、しかと見届けた。
光の残滓の中に、ゼルマンが溶けるように消えゆく瞬間、ほんのわずか、彼は微笑んだのである。
束の間、何かの見間違いではなかろうかと勘繰ったが、俺は直ちにそれを打ち消した。
(――かつて表情を失ったゼルマンは、再び表情を取り戻し、最後にもう一度、微笑むことが出来たのだ)
俺はそう信じた。そして俺もまた、精一杯の微笑みをゼルマンに返し、ゆっくりとまぶたを閉じた――。