幻からの生還
「どこだいエリーユ?」
幻であるエリーユの声に誘われ、干からびた苔を頼りに暗い洞窟へと足を踏み入れたヨシュア。普段のヨシュアなら気付く筈だった。こんな所にエリーユが来る訳もない事。第一、エリーユはとっくに死んでしまっているのだ。
だが、この時のヨシュアはそんな当たり前の事も考えられないほど、頭の中を幻のエリーユに支配されてしまっていた。きっといる、幼い頃から想いを寄せていた彼女はきっとここにいるんだ。その思いだけが脳内をくるくる回り、純粋なまでに幻を求めていた。
「こっちよヨシュア──私はこっち──」
幻の声がヨシュアを何処に誘っているのか分からない。その身を滅ぼすため、死に追いやりたいのか。それとも心を縛り付け、永遠にこの洞窟で過ごさせたいのか。どちらにせよ、行き着く先に良い事が待っているとは思えない。
冷たい岩肌。頬に落ちてくる水滴。普段は聞こえる事がない足元の砂利を踏みしめる音までが、洞窟の中では良く聞こえる。
勿論、誰かと一緒ならそんな些細な音など掻き消されてしまうだろう。しかし、ヨシュアは今一人。自分が出した音までが鮮明に聞こえるほど、洞窟の中は静かだった。
幻に誘われ、どれぐらい歩いただろうか。暗闇にも目がすっかり慣れてきた頃、ヨシュアは二股の分岐点へとぶつかった。
左の道と右の道。どちらから声が聞こえるかによって、ヨシュアの進む先は決まる。
「ヨシュアー!! 助けて!!」
立ち止まり、声を待っていたヨシュアの元に、左の道からエリーユの助けを呼ぶ声が聞こえてくる。
「大丈夫かエリーユ!! 今行くから待っててくれ!!」
助けを求めるエリーユの声に、慌てて左の道へ進もうとするヨシュア。そこへ、右の道からも誰かの声が聞こえてきてしまった。
「よっちゃーん!! 助けてくれー!!」
「ヨシュア、助けて!! 魔物に襲われてるの!!」
右の道からもヨシュアに助けを求める二つの叫び。
それは、大切な友の声。レメクとメーサの叫び声だった。
「どうして……」
左の道へ進もうとしていたヨシュアの足は止まり、分岐点の真ん中で立ち尽くしてしまう。ここで、ヨシュアの頭からエリーユの幻影が半分消え去っていく。
現実的にあり得るレメクとメーサの危機に駆けつけるか、生きている筈のないエリーユの危機へ駆けつけるか、立ち尽くすヨシュアへ、選択が迫られていた。
エリーユは死んだ。それは分かっていたヨシュアだったが、なんならかの奇跡が起こって、このダンジョンで生きていたのかもしれない。もしも、ここでエリーユの声を無視してしまったら、二度も絶望を味わう事になる。そう思うと、右の道も左の道も選べず、立ち尽くすしかなかったのかもしれない。
「どうしたら良い? 俺はどうしたら良いんだ!? 誰か! 教えてくれ……」
究極の選択を迫られた者はどうするのか。それを表しているのは、膝をつき地面をただ見つめるヨシュアの姿なのかもしれない。
自分の大切な者が二人同時に死に直面し、どちらかしか助けられないなら……どちらも選べない。片方を失ってしまうなら、皆で死ぬ事を選んだ方がマシだ。
今まさに、ヨシュアは選ぶ事が出来ず死にたくなるほどの苦しみを味わっている。その間にも、絶えず聞こえてくる三人の叫び声。
ヨシュアの心の崩壊は、ここから始まった。
一年後──ヨシュアは分岐点の真ん中の壁に背を預け、ただ空虚を見つめたまま動く事なく座っていた。
この一年が過ぎるまで、ヨシュアは何も決断しなかった訳ではない。決死の思いで友を見捨てても同じ道に戻り、消える事ない想い人を見捨てても同じ道に戻って来てしまう。来た道を戻ってもたどり着くのは同じ分岐点。それを何度も繰り返し、ヨシュアはとうとう壊れてしまったのだ。
「ヨシュア!! 助けてー!!」
「よっちゃーん!! 助けてくれー!!」
「ヨシュア、助けて!! 魔物に襲われてるの!!」
「……ははっ! エリーユもレメクもメーサも元気に叫んでる! ははははははっ!」
リピートされ続ける、三人の助けを求める叫び声。この時のヨシュアは、助ける事などとうに諦めていた。逆に元気な声だと自分に言い聞かせ、孤独な世界の糧となっていたのだ。
壊れた心は自分で治す事も出来ず、ただ誰かの助けを待つしかない。抜け出せない暗闇に、ヨシュアの白い肌が溶けかかっていた。
何時までこんな事が続くのか。この暗闇から逃げ出せる手立てはあるのか。そんな事を何万回も考えて答えが出なかったヨシュアは、考える事さえ放棄し、ただただ冷たい壁に背を預けるだけだった。
そんな時、いつもとは違う声が洞窟に響く。それは突然で唐突に、ヨシュアの壊れた心に強引に入り込んできた。
「ヨシュア様! ヨシュア様、大丈夫ですか!? 起きろぉぉー!!」
その声は今までに聞いた事がないパターンだった。だが、なんだか暖かい気持ちになる声だと、微かにヨシュアの心が疼いたのは確かだ。
「ヨシュア様! 起きないなら口付けしても宜しいですよね!? ……頂きま──」
「ダメだ!! ……あ、あれ?」
暗い洞窟に居た筈のヨシュアは、明るい光が差し込む光景に戸惑いを隠せなかった。しかし、戸惑いの原因は他にもある。
近すぎるほど顔を寄せた女性と目が合ったのだ。その顔は無断で口付けをしようとしていた事に気付かれてしまい、ばつが悪そうな表情をしていた。
「お、起きたのですね! 良かったですわ!!」
「どうしてララちゃんが居るの? それにしても、酷い夢を見ていた気分だ……」
ばつが悪そうな顔をしていたのは、ララだった。何故ここに居るのか。どうして来てしまったのか。色々問いたいのは山々だが、酷く気分が悪いヨシュアにとって、そんな質問をするのも億劫な心境だった。
「大丈夫ですか? 気分が優れないのでしたら、これをお飲み下さい」
顔色が悪いヨシュアに水筒を差し出すララ。ヨシュアはその水筒を迷う事なく受け取ると、流しこむように渇きを潤した。
「はっー! ありがとうララちゃん。起こしてくれて」
「えっ? ……ああ、はい。どういたしまして」
ヨシュアのお礼は水筒をくれた事ではなく起こした事。もう少しでその唇を奪えたのにと思っていたララにとって、そのお礼はあまり嬉しくはなかった。どちからというと、後少し起きるタイミングを遅くしてくれれば、とさえ思っていたぐらいだ。
だが、ヨシュアからしたら絶望的な状況を救ってくれたララには、感謝してもしきれないほどの思いだったのだ。
しかし、そんなヨシュアの脳裏に、ふと嫌な想像が過る。かなりの時間を過ごした気がするが、まさか外の世界に大変な事が起こっているではないか。そのせいで、ララがここまで来てしまったのではないのかと。
「ララちゃん! 外は大丈夫なのか!? もしかして、何かあったのか!! エルフ里は無事なのか!?」
「落ち着いて下さいヨシュア様。安心して下さい何も起きてませんよ。何か起きる筈もありませわよ。だって……外から私が入って来たのは、ヨシュア様達の少し後ですもの」
その答えは、ヨシュアにとって衝撃だった。自分が絶望を感じていた時間は、ダンジョンの外では僅かなものだったのか。自分は夢であんな長い時間を過ごしていたのか。頭の中は疑問が埋めつくしヨシュアの表情を強張らせる。
「ララちゃん。俺は眠っていたんだよね?」
「うーん……どうなのでしょう。寝ていたというより、どこか遠くを見て呆けていたという方が正しいかもしれないですわね」
「そ、そうか……」
ララの言い方だと、自分は眠っていた訳ではない事を悟ったヨシュア。という事は、あの永遠にも感じた時間は現実だったのだと、嫌な現実を突き付けられた。
受け入れ難い事実に、遠くを見つめるヨシュア。
しかし、ララは更に信じ難い言葉をヨシュアへ告げた。
「ヨシュア様……あそこで空気とイチャついてる女と、見えない何かと遊んでいるレメクさんも、目を覚まさした方が宜しいでしょうか?」
ララの言葉で後ろを振り返るヨシュア。そこには、確かに空気とイチャイチャしているメーサと、見えない何かと子供のように遊んでいるレメクの姿があった。
ここでようやく、ヨシュアは事実を受け入れる事が出来た。きっとあの二人も、自分と同じで幻想にとりつかれているのだと。




