シュレディンガーの死
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何か小さな破裂音のような音がして、目を覚ました。前日までの疲れが溜まっていたのだろうか、昨日の夜に床に就いた記憶も無い。ただ泥のような眠りに沈んでいた。深い、深い砂と水の調和の夢。
布団の中で微睡むのは心地良いが、あいにく朝は出社まで時間が無い。いそいそと体を起こし、気怠げに這いずり出るのに五分。冬だし動きたくないのだが、このままじゃ遅刻してしまう。SEの仕事は時間に甘くない。
時間確認とBGMがてらテレビをつけ、昨晩用意しておいた簡易の食事を口にする。おにぎり二つとベーコン一枚。どちらも冷えきっているが、この際文句は言えない。温めるにしろ、早く起きない自分が悪い。
『今日未明、N市O町の住宅街で、男性が血だらけで倒れていると119番通報があり、雑貨店経営の四谷雄二さんが、駆けつけた救急隊により死亡が確認されました……』
O町っていったら隣町だ。物騒な話である。
僕はようやくおにぎりを一つ食べ終わり、ベーコンを流し込んだ。あと五分以内に家を出ないと、いつもの電車に間に合わない。もう食事はやめにして、残りは帰って来てから食べることにした。
靴のかかとを踏みながら、無人の部屋にいってきます、と声をかける。遅刻しがちなのは学生の頃から変わらないな、と思いつつドアノブを回して外に出て------
「------え」
ばあん。
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嫌な夢を見た。眼を覚ます夢だ。いつもの如く遅刻しそうになって、急いで家から出て、それから。
それからは、よく覚えていない。そこで夢が覚めたのか、それともその先を忘れたのか。兎も角不思議な夢だった。嫌な汗をかいているし、なんだか寒気もする。寝相の悪さで風邪でも引いたようだ。
妙に目が冴えてしまったので、そそくさと布団から出る。食欲も出ないので、朝食は抜きにすることにした。昨晩せっかく用意したが、仕方ない。帰って来て、まだ食欲があることを祈る。
気分を変えようと、テレビをつけた。野球の話題が始まったかと思ったが、すぐにトピックが切り替わる。ここ最近起こっている連続殺傷事件についてだ。
『今日未明、N市にあるO町の住宅街で、男性が血だらけで倒れていると119番通報があり、雑貨店経営の四谷雄二さんが、駆けつけた救急隊により死亡が確認されました。なお……』
「……はて」
聞き覚えのある内容だった……気がした。今日未明の事件であるならば、前もって知っている筈はない。だがO町という地名、それに四谷 雄二という男性の名前にも、何故か聞き覚えがあった。
「やっぱり体調が悪いのかな」
嫌な予感を振り払うようにテレビを消した。まだゆっくりできるのだが、気味の悪さはテレビを消しても消えはしなかった。もう家を出ることにする。
靴をきちんと履き、ドアノブに手をかけて外へ出た。
冷たい風が顔を撫でる。もう本格的な冬が始まったようだ。
鍵をかけて振り返ると、右手の廊下に人影が見えた。紫のフードを被った、背の高い男性が俯いて立っている。軽く会釈をすると、彼は顔を上げ、血走った目を覗かせた。彼はその口を醜く歪ませ------
それは、
傘か、いや、鉄の筒か、いや、
ばあん。
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いま、撃たれた。間違い無く、僕はアイツに撃たれた。布団の中で眼を覚ました時、それは確信に変わっていた。
すぐに飛び起き、テレビをつける。今の時間だと、いつも見ている番組はまだスポーツのコーナーのはずだ。他の局にチャンネルを変えると、幸い連続殺傷事件について流していた。今までに二人が意識不明の重傷、四人が死亡。被害者はみなショットガンで撃たれ_____
鉄製の筒。ショットガン。
あれだ。あれが、そのショットガンだ。
ならば、彼がその連続殺人犯ということになる。夢の中の僕は、この報道の「連続殺人」の犠牲者の一人となったのだ。だがそれは夢であり、僕は目を覚まし、今ここにいる。
「ただの夢------」
そうではないということくらい、僕にだって判っていた。あれは予知夢なのだ。これから現実に起こる出来事を、前もって知らせているに過ぎない。
「け、警察に」
僕はスマートフォンで110をタップする。自分でも驚くほど、指先が震えている。
「も、もしもし、た助けてください、あの、銃を持った男が家の前に」
「ががががががががががががががががががががががが」
ぶつっ、と電話が切れる。つー、つー、つー。
繋がったかと思った回線は、雑音だけを垂れ流して切断された。他の連絡手段も駄目だ。携帯の充電も通信状況も問題ないのに、SNSなど外部との連絡ツールがピンポイントで使えない。孤立無援だと悟った頃には、時計はいつもの出発時間を指していた。
今家を出ると、どうなるかは知っている。
このまま家から出なければ、やり過ごせるかもしれない。ここは集合住宅だし、万が一扉を撃ち抜かれれば相応の騒音が響くだろう。近所の人たちが騒ぎを聞きつけて、代わりに警察を呼んでくれてもおかしくない。僕は急いでテレビを切り、生活の音を消す。
かち、かち、かち。
息を潜めると、部屋に響くのは秒針の刻みだけとなった。
かち、かち、かち。
一回目に撃たれたときは、丁度これくらいの時間だっただろうか。二回目はもう少し前、三回目は、もうごめんだ。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かちゃり。
かちゃり。
二度、金属が触れる音が聞こえた。一拍開けて、きぃ、と扉が開く音。
廊下越しに人影が見えた。マスターキーを持っているということは、きっと管理人だ。ちょうど良かった、警察を呼んでもらおう------
違う、アイツだ。どうして。
どうして中に。
ばあん。
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じっとしていても意味がないことがわかった。アイツは何故だかマスターキーを持っていて、問答無用で入ってくる。
紫のパーカーを着た彼------は、矢張り連続殺傷事件の犯人に違いないだろう。
早急にここから逃げる術を考える必要があるが、それよりもまず、僕の頭には疑問が浮かんだ。人生で一番、切実な「どうして」。僕、坂本六朗が、一体何をしたというんだ。なんで、よりによって僕が。
スマートフォンを手に取る。電話はできないが、インターネット自体が通っているのは前回証明済みだ。今までの被害者の一覧を検索する。
第一被害者 川上 一成
第二被害者 二階堂 あや
第三被害者 四谷 明美
第四被害者 三好 健司
第五被害者 大橋 奈々
第六被害者 四谷 雄二
この一覧と自分を比べたとき、パッと思いつく共通点は漢数字だ。まるで狙ったかのような一成の『一』、二階堂の『二』。けれどもその調子で行くと、第三被害者の四谷は『四』になってしまう。規則性は無い。漢数字だけ抜き取ると、こうだ。
第一被害者 一
第二被害者 二
第三被害者 四
第四被害者 三
第五被害者 七(奈々)
第六被害者 四、または二
そしてこれから増える第七被害者がこの僕、六となる。
数字の羅列を何度も睨むが、規則性は一向に見つからない。それに、僕は殺されるほどの恨みを買った覚えもない。報道によると遺体の損壊は著しく、その痕には強い強い怨嗟を感じるほどだという。銃だけでなく、ナイフで殺された被害者もいるらしい。
どうして、はひとまず後回しだ。護身用にと、台所から包丁を取り出す。これは間違いなく正当防衛だ。廊下を進み、覗き窓におそるおそる目を当てた。人気はない。時間はまだあるようだ。
玄関入ってすぐ右脇の壁に、小さな収納スペースがある。普段は靴置きとして使っているが、板を取り外せば人が入れるスペースを作れるだろう。僕はすぐに準備を始め、身を潜めた。息を殺し、わずかに開けた隙間から外の様子を伺いつつ、殺人鬼の襲来を待つ。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かちゃり。
前回より、鍵が回るまでに時間がかかったように思う。つまり、彼がここに来る時間は一定ではないということだ。
かちゃり。
二つの鍵が外れ、薄暗い廊下に朝日が差し込む。ナイフを持つ手が震え、汗で滑る。
「あああああ!!!!!」
何を叫ぶとも無く、大声を出して自分を奮い立たせ、僕は通り過ぎようとする人影めがけて突進した。
ぐっ、と何かに刺さる感触がある。ナイフの鋭利な切っ先は、殺人鬼の手に深々と刺さった。ぶつかった衝撃でか、彼は持っていたショットガンを落とす。
今だ。
彼を突き飛ばして、つんのめるように駆け出す。すれ違いざま、金属の光沢が目に映った。見覚えのあるそれはマスターキー。管理人室にあるあの鍵だ。血のついたそれが、彼のベルトに引っかかっている。
驚きで目を見開く。いまの包丁での出血ではない。よく見ると、彼の紫の服にも赤黒い染みがいくつもあった。比較的新しい、最近浴びた返り血だ。
「ああ……そういう、こと」
少し立ち止まったのが仇となる。玄関を飛び出たが間に合わない。廊下を走るその間に、僕は背中に熱を感じる。
ばあん。
一瞬遅れて、音が耳に飛び込む。
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七人目の犠牲者は僕ではない。ここの管理人だったのだ。だから殺人鬼はマスターキーを持っていて、たとえ家の中に篭っていようと襲いかかってくる。
管理人。五島正太郎。
そういえば、一番最初の時、目覚めの合図は小さな破裂音だった。あれが彼が撃たれた際の発砲音なのだとしたら、時間的にも説明がつく。
僕も撃たれた。銃口の奥の暗闇は本能的に不安を煽る。深淵を覗き込む時、深淵も覗き込んでいるという格言を思い出すが、まさにその通りだ。焦点も、集中も、すべて吸い込まれていくような感覚がある。ナイフで刺された被害者もいるようだが、どちらの死に方が良いかと問われれば、そもそも死にたくないというのが答えになる。
ナイフと銃の違いを考えていると、ふと、ある案が浮かんだ。
「……あ」
銃で殺された被害者たちのみに焦点を当てる。すると------
第一被害者 一
第二被害者 二
(四谷 明美)
第三被害者 三
(大橋 奈々)
第四被害者 四または二
第五被害者 五(管理人)
そして第六被害者として、六。
一から六までの綺麗な羅列が、そこにはあった。
名前だ。
例外の二人が何故例外なのか、何故ナイフで殺されたのかまでは分からないが、兎も角取り除いて考えるべきらしい。
かちゃり。
聞きなれた金属音に、背筋がぞくっと凍る。もう来たのか。
「……遅かったな」
強がって、震える声で無駄口を叩いてみる。男はただ顔に笑みを貼り付けたまま、手に持った鉄の筒をこちらに向ける。
一矢報いようとスマートフォンを思いっきり投げつけてみるが、彼は微動だにせずに引き金に手をかける。
いや、
いや、やめ------
ばあん。
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起きた瞬間、上着だけ羽織り、貴重品だけ持って外へ出た。寒さなんかで足を止めてなんかいられない。交番に着いてさえしまえば、少なくとも身の安全は保障される。
そう思って階段をかけ降り、一階に着いた瞬間、思い留まる。僕が目を覚ます合図は管理人が撃たれた時の発砲音だ。つまり殺人鬼は
管理人を殺す
↓
(僕が目を覚ます)
↓
マスターキーを奪う
↓
僕の部屋に侵入する
のプロセスを踏んでいる。管理人室は一階入り口のすぐ隣だ。いま正面玄関を通ろうとすれば、管理人を殺した後の殺人鬼と鉢合わせになってしまう。
急げ。
息を切らして、また階段を駆け上る。二階で廊下を渡り、反対側にあるもう一つの階段を目指すことにした。この集合住宅は横に長く、一階から僕の部屋のある四階までが二つの階段で繋がっている。出口は一つしかないから、殺人鬼が片方の階段を上ってくる間に、もう片方の階段で降りて、外へ出る必要があるのだ。
足音を立てないようにゆっくりと階段を降り、身を潜め、顔だけ出して廊下の向こう側の様子を伺う。一見したところ人影は無い。もう階段を上っていったか、はたまた、まだ管理人室に居るのか。
自分の呼吸と拍動が嫌に耳につく。
「ホント、どうして僕がこんな目に……」
六がつく名前なら他にも居ただろう。どうして僕が。如何して。
……じり。
僕の思考は、背後の雑音によってかき消された。後ろを振り向く余裕はない。転がるように前に飛び出す。
ばあん。
地響きのような振動が体を震わせ、耳がキーンとなって音が遠のく。大丈夫、当たっていない。五感すべての情報が鮮やかに、僕がまだ生きていることを知らせている。
走れ。
走れ、走れ。
追いつかれる。立ち止まるな。外に出さえすれば通行人に助けは求められる。交番はすぐそばだ。人ごみに紛れてしまえば、助かるかもしれない。
出口の自動ドアが開く間すらもどかしい。隙間をくぐるように通り抜け、一心不乱に走る。この集合住宅は細い路地に接しているだけだが、植え込みを右に曲がってすぐは、ここはもう大通り------
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飛び起きる。
死ななかった。僕は殺人鬼の追跡をかわし、大通りへと出た筈だ。
だが結果として、それは夢となった。死んだら夢となるわけではないようだ。それはただ目覚めの条件に過ぎず、ただ通りに出ただけでも目覚めはやり直される。いわば、場外の概念があるのだ。この建物と隣接する路地、という狭い空間でのみ、僕は逃げることが許されている。まるでゲームかなにかのようだ。ただし、僕の命がかかっているゲームだが。
逃走は禁止。制限時間も不明。勝利条件は分からず、ただただ逃げるしか無い鬼ごっこ。
この命のやり取りは、永遠に続くようにも思われた。この地獄がいつまでも続くのかと思うと、捉えどころのない恐怖が襲ってくる。正気が音を立てて削れていくような感覚。虚脱感と悪寒が全身を包み込む。頑張っても生き残れるのか判らない。頑張らなければ、僕はいつまでも殺され続ける。
頑張って…………殺人鬼を、僕が殺してしまうのはどうだろう。
準備を整えて、かち、かち、かち。先ほどと同じように靴置きに身を潜める。かち、かち、かち。秒針の音に、やけに敏感になってしまった。この音だけが、彼が来るまでのタイムリミットを思い出させるのだ。それさえ気にしなければ、いつもと同じ朝だというのに。かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かち、かち、かち。
かちゃり、かちゃり。
到着は、いつもよりも少し早かった。マスターキーが早く見つかったか、それとも管理人が早く殺されたのか。
ひた、ひた。
ひた、ひた。
ワックスがけされた廊下をゆっくりと、素足が通る音がする。
ひた、ひた。
……………………ひた、ひた。
……ひた。
ひた。
時折立ち止まりながらも、殺人鬼は廊下を進んでいく。いま逃げるという選択肢もある。だがどこに逃げるというのだろう。僕はこの建物の中で、この殺人鬼と向き合うしかないのだ。覚悟を、決めろ。
……………ひた、ひた、ひた。
音はちょうど、リビングに辿り着いたころ。今だ。
僕は扉をゆっくり開け、そろりそろりと廊下に出る。殺人鬼はこちらに背を向け、リビングルームの中に僕の姿を探している。
「し、死ねぇぇぇぇェェッ!」
これじゃどっちが殺人鬼かわからない。でも、やらなきゃ殺られる事だけはわかる。声を振り絞り、勢いをつけて胸の中心部を狙った。
背中からどん、とぶつかるようにして、構えた包丁を持つ手に力を込めた。包丁の柄が背中に当たるまで深々と突き刺すと、一拍空けて、赤い血がだらだらと流れてきた。赤い、ぬるりとした、温かい感触。
「うわぁあ!」
素っ頓狂な声をあげ、僕は包丁から手を離す。血だ。血。人の血。
…………やった。
張り詰めていた緊張感が一気に解け、どっと安心感が溢れ出す。腰の力が抜け、僕はその場にへたり込む。
深々と包丁が刺さったままの男は、ゆっくりと片膝をつくと------
にやり、と口元が歪んで。
どうして、
どうして、死んでいない。
ばあん。
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なぜ死んでいない。心臓を刺されて、即死ではないにしても致命傷のはずだ。重い銃を持ち、あまつさえ撃つ体力がどこに残っているというのか。
もう、無理だ。勝てない。隠れよう。正面きって戦うにしては相手が強すぎるし、こちらの状況も不利すぎる。隠れて待ち続ければ、僕以外の「六」を探しに行くかもしれない。その人には申し訳ないが、僕は、死にたくない。
リビングに隣接する和室、その奥の襖を開けて、その中に潜り込む。冬とはいえ、中に空気が篭って暑くなるから、冷蔵庫から氷枕を持ち出して一緒に入れた。ここで何日も息を殺し続ければ、もしや。
押入れの中には少しの布団と段ボールぐらいしか無く、人が一人入るには十分なスペースがあった。薄暗い中に入り、静かにうずくまる。耳を塞いだ。時計の音は聞こえない。
ひた、ひた。
来た。
ひた、ひた。
ひた、ひた。
ひた、ひた。
しばらく、無音が続いた。自分の呼吸音が無駄に大きいような気がする。手を当てて抑えるがどうも気になる。拍動さえも、襖を隔ててアイツに聞こえているような錯覚に陥る。
襖を少しだけ開け、様子を伺おうとも思ったが、怖くなってやめた。それに、身じろぎ一つしようものなら、すぐ見つかるような気がして。
ひた、ひた。
また足音が始まった。
ひた、ひた。
ひた、ひた。
素足の通る音がする。
if{
b ck round-c lor(#6666 6);
even if (f nc
}
「……え」
しまった、つい声を。
慌てて口を閉じるがもう遅い。バレた。やばい。また殺される。
でも、今間違いなく、視界の端に何かが映った。一瞬だったが僕には見えた。間違いない。そして、それが意味するところは------
ばっ、と大きく襖が開け放たれ、光とともに、薄汚れたジーパンとむき出しの素足が視界に映る。せめて一矢報いねばと氷枕を投げつけるが、動じない。普通冷たいものが足に当たったら吃驚するだろうが、と毒づき、
今回も駄目だった。ぐいっと、有り得ない方向から彼の首がのぞきこんでくる。
ばあん。
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目が覚める。あと十五分足らずで殺人鬼がやってくる。
僕はぼうっと、天井の染みを眺めていた。
朝、こんなに頭を使ったのはいつぶりだろう。こんなに走り回って、こんなに隠れて、こんなに危ないものを振り回して。
「…………死にたくないなァ」
死にたい、という言葉を無責任に消費してきた人生だった。だがこの言葉は、いま僕の全身に沁みわたっていく。この言葉を噛み締めていられるうちは、僕は生きている。
四階から屋上へ通ずる階段は、背の低い柵で閉じられている。僕はそれを跳び越え、頂上を目指した。青空が見たかった。
スマートフォンを取り出し、時間を確認する。残り五分ほどで彼は僕の部屋を訪れるだろうし、ここが見つかるのも時間の問題だろう。
包丁は持ってきていない。使う必要がないからだ。今回は、生き残る為の目覚めではない。次、目覚めた時に生き残る為の、布石だ。
一番端っこ、建物の角ギリギリに立つ。人が立ち入ることを想定していないからか、柵はない。繆と冷たい風が吹きつけ、髪を揺らす。落ちないように気をつけないと。足が震えて立つのが難しい。
すぐにとん、とん、と音が聞こえてきた。階段を一段ずつ踏みしめる音。紫のフードが姿を現す。不気味な笑みを張り付けた顔は陰ってよく見えない。、
彼が、
アイツが、来た。
「さて、殺人鬼さん……」
じわりじわりと近づいてくる彼に、僕は挑戦するようにひきつった笑みを浮かべる。
「どう、追いかける?」
意を決して、大きくジャンプした。僕の身体は重力に抗うことなく落下し、植え込みに着地した。実際は着地などという大したものではなく、半ば地面に打ち付けられたようなものだが、衝撃は木々が緩和してくれた。すぐに這いずり出て、空を見上げる。屋上に見下ろす人影。彼だ。
が、様子がおかしい。空中に向かって歩き続けている。まるでそこに見えない壁があるかのように、ショットガンを構え、同じところで足踏みをしている。屋上から足を踏み外すことない。それはまるで、そこから飛び降りる動作が、まだ想定されていないように。
しばらく彼は虚空に向かって歩いていたが、少し経つと諦めたのか、踵を返して視界から消えた。
矢っ張り。
僕は足に感じる痛みを堪えながら、僕は笑いが止まらなかった。
楽しいのではない。でも一つ、わかったことがあるのだ。まこと理不尽な死を繰り返しているわけだが、その意味が。その理由がようやく解った。
自動ドアが開き、殺人鬼が近づいてくる。ああ、でも、やっぱり死にたくな------
ばあん。
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殺人鬼が来て、僕は殺される。確かに僕はそのとき死んだ。
だが、それを確認するのは誰だろうかという問いには、僕は答えられない。
殺人鬼の動きは無駄がなく、攻撃してもほとんどが意味をなさない。生き残る可能性は絶望的だろう。警察が僕の死体を見つけるまでもなく、僕の死は決まったようなものだ。
だがしかし、もし、もし生き残ったら? 偶然が偶然を呼び、結果として僕が助かることがあるかもしれない。そんな目覚めがあるかもしれない。だがこの建物は外部と隔絶されている、ある種の箱の中の世界なのだ。誰かが箱を開けないと、僕が生きていることは伝わらない。言い換えれば------
僕は、箱を開けるまでは、生きているかもしれない期待を残しているのではないか?
当然僕はその時既に、生きているか死んでいるかのどちらかだ。だがそれは、箱の外の人間にとってはどうでもいいこと。箱を開けた時、ようやく僕の生死は彼ら《・・》の目に触れる。
「……見てるんだろ」
見慣れた天井に向かって呟く。返事は、無い。
この世界で生かされて殺される僕だからこそ判ることがある。おそらく、この死は避けられない。生き残る術などないのだ。だがそのゼロが、ゼロであることを拒んでいる人がいる。それは彼らであり、そして、僕だ。
殺人鬼の訪れまでが、いやに長く感じる。こんなに時間あったっけ。だったら他にも、色々試せたな。廊下を水浸しにしてみるとか、ベランダ伝いで隣の部屋に入ってみるとか、熱湯を入れたヤカンを投げつけてみるとか。
でももう遅い。もし、殺人鬼を退けることが出来る答えがあるのだとしても、それを見つけ、実行するのは僕じゃない。僕はここで仮初めの命を終え、また新しい僕が目覚める。そこに慈悲はなく、ただ繰り返す夢と現があるのみ。
「もうちょっと高い建物に住んでたらなあ」
殺人鬼を墜落させれば殺せただろうか。八方ふさがりなんかじゃない。目を凝らせば、生を望めば、選択肢は山ほどあった。
かちゃり。
「ご苦労さん。僕には無理だわ。次------」
ばあん。
......save
何か小さな破裂音のような音がして、目を覚ます。
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「ダメです。十回一セットでもう五回やってますけど、『第六被害者』が生存するルートが有りません」
眼鏡をかけ、白衣を着た若い男性が、VRゴーグルを外して呟く。
「ちッ……。四と五は天地がひっくり返ったって無理だ。第六で生存方法を見つけないと、マズい」
彼の声に、若い女性が刺々しい口調で応える。髪はぼさぼさだが、彼女も白衣を着、自分のパソコンを睨んでいる。
「あー。一応何度か攻撃に成功してるんですけども」
「それは結構。実際そういう報告は有る」
「まあでも包丁じゃ無理っぽいです。手を刺そうが心臓を刺そうが、構わず撃ってきます。生命力が異常過ぎますよ」
「それが、これまで得られた全情報をもとに導きだした、奴の頑強さだ。……他は。何か無かったのか?」
女性の声に、少し苛立ちが含まれる。
「そうですね。最後のセットの十回目で、第六被害者「六朗」モデルが、『自分が仮想世界に居る』と気付いたくらいでしょうか。彼は明らかに、僕らの存在に気付いていました」
青年の声を聞き、女性はほう、と眉をひそめる。
「それはどうして?」
「さァ。記録は消しました。自分がロボットだと気付いたロボットなんて、良い未来を迎えたためしがないんですから」
「さァじゃ困る。こちとら命がかかってるんだ。どうした、処理落ちでも見たか?」
「あんなに強けりゃ、見たくないもんまで見えますよ。とはいえまさか、第四の壁までは越えないでしょう」
「知ったことか。相手は時間も空間もお構いなしに超越するんだ」
女性はそう言い放つと、苛立たし気にテレビの電源を入れた。
『数字事件に進展です。ご存じの方も多くいらっしゃると思いますが、今日未明、『三』が発生しました。ご冥福を、お祈り申し上げます…………。先月より発生している『一』『二』両事件と同様の手口であるとの情報も入っていますが、いまだ詳細は不明です------』
「……殺人鬼は同時多発的に現れ、ただ一人の例外なく、名前に特定の数字の入った者を殺している。一、二と来て、死のカウントダウンは今日でとうとう三だ。だがまだもがく時間はある。何万回でも何億回でも、鑑識と科捜研が調べあげた殺人鬼の行動パターンを全部叩き込んで、生き残る方法を探し出すのが、私達の仕事だ」
「……分かってますよ、七瀬センパイ。数字殺人の犯行に見せかけて、恨みで誰かに殺されないように気をつけてくださいね」
「承知しているとも。そもそも、シミュレーションの過程にダミーの殺人記録を入れるよう指示したのは私だぞ? 実際問題、怨恨による見せかけ犯行は多いはずだからな。もう、収拾などついていないが…………。君も気をつけることだ。秀才は恨みを買いやすいからな、六波羅」
二人は顔を見合わせ、苦笑する。三、四、五、六、七。この数字の羅列が、今ほど恨めしく思ったことは無い。
「さて、僕はまだ六で粘りますよ。三、四、五とどうも上手くいかないけど、これより後ろは下がれない」
「お互い武運を祈ろうじゃないか」
六波羅と七瀬はゴーグルをかぶりなおすと、エンターキーに手を伸ばす。
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error 初期化失敗
また、目覚めだ。あるかも分からない生の可能性に賭け、観測されるまで生きながらにして死に続けるしかないのか。
あと何度、正気を保てるだろう。
僕は覚えている。