1.10.6 正体を明かさず、少しだけ後悔して
「た、たぬっ?!」
「ん、んまっ?!」
「あぁ、見ての通り狸さ」
宿屋の女店主の代わりに現れた4本足の獣は、自分の正体を明かした後で、すぐに――
ボフンッ!
――と元の人の姿に戻った。その間、店主の姿を見ていた者はおらず……。彼女は、アメとナツだけに正体が分かるよう、気を配りながら変身したようである。
それから店主は、アメに向かって問いかけた。
「で、あんたは何者だい?……なに、私みたいにこの場で元の姿に戻らなくたっていいよ。もちろん、誰かに言いつけようだなんて思ってないさ。さぁ、言って楽になっちまいな」
「…………(なぜこやつは、ワシの正体を知りたがっておる?知ったところで、利点など何も無いじゃろうに……)」
アメはそう考えながらも、正体を明かすか、明かすまいかで悩んでいた。……相手が人ではない狸なのだから、自分たちの正体を明かせば、宿屋でもう少し自由が効いたり、人に紛れて生活するためのコツを教えてもらえたりするかもしれない。しかし、罠である可能性もゼロではない……。アメの心はその狭間で揺れていたようだ。
何より、彼女のことを一番に悩ませていたのは、店主の意図がまるで見えないことだった。……自分たちの正体を知ることで、相手にはどんな利点があるというのか。あるいは単なる馴れ合いのようなものなのか……。事情を推測するには、情報が足りなすぎた。
故に彼女は、もしものことを考えて、こう対応することにしたようだ。
「……お主が何を言っておるのか、ワシにはさっぱり分からん。ほれ、こやつが獣に……いや、狼に見えるのかの?」すっ
「んまっ!」
本物の人間であるナツを前に出すことで、自分たちは飽くまで人間であって、獣ではない、と主張することにしたのだ。
対する宿屋の女主人は、差し出されたナツの臭いをスンスンと嗅ぐと――
「……臭う」
――と口にして、眉をひそめた。
「ま゛っ?!」がくぜん
「……ナツよ。もしやお主、おしめかの?」
「んんま!」
「違うとな?どれどれ……」すんすん「ふむ……確かに臭いのう。しかし、おしめの臭いではのうて……なんというか……ワシと似たような臭いがするというか……」
「…………」がぶっ
「……ふっ、ナツよ。またお主は身のほどを弁えずに、ワシに牙を剥くと申す……む?そういえばお主、いつの間にか歯が生えたんじゃな?」
「んまんま」
「そうかそうか。これでお主も一緒に同じ飯が食えるのう。シロには赤飯とやらの準備をしてもらわねば!」
と店主を放置して、アメがナツを愛でて(?)いると――
「……そうだ、思い出した!この臭い……狐だね?」
――ナツから漂っていた臭いが何の臭いなのかを思い出したらしく、店主が核心に迫る言葉を口にした。
しかしそれでもアメは認めない。いや、狐の臭いであることがバレることを彼女は最初から予想していたのだ。だからこそ彼女は、きっぱりと断言する。
「狐?こやつが狐じゃと?無いじゃろ……。こやつは間違いなく人間じゃ」
「ふーん、そうかい。じゃぁ、もしかすると……あんたはこの子に化かされてるのかもしれないね。この子からは間違いなく狐の臭いがするんだ。……狸である私が言うんだから間違いないよ」
「いやいや、ワシがこやつに化かされておるなど……」
店主の言葉を聞いたアメの内心は、見せていた反応ほどには乱れていなかった。それでも、まったく動揺していない、というわけでもなく――
「お主……もしや、狐じゃったのか?」
――ナツを顔の前に持ち上げて、正体を問いかけるくらいには、戸惑っていたようだ。噴火のせいで誰もいなくなった故郷の村に1人取り残されていたナツが、間違いなく人間である、と果たして本当に言い切れるのか……。ナツの家族を知らないアメの中では、そんな疑問が浮かび上がってきたようだ。
しかし、それも一瞬のこと。ナツがたとえ狐であっても、人間であっても、あるいは熊であっても……。アメに、ナツとの接し方を変えるつもりは、まったく無かったようだ。
「……ま、何でも良いか」
「?」
「ま?」
「ナツはナツであることに変わりはないからのう。しかし、臭うのはいただけん。……ナツよ?そろそろまた、ちゃぷちゃぷするかの?」
「んまんま」
「(おかしいねぇ……)」
仲睦まじい親子(?)のやり取りを見て、店主は首を傾げた。これまでに彼女に人間と獣を見誤ったことは1度も無く、この瞬間も、アメたちが人間ではないという確固たる自信を持っていたのだ。
ところが、自分の方は正体を明かしたというのに、目の前の者たちは、正体を明かすことをかたくなに拒否し、自分たちは人間だ、といい続けていた。それが店主には理解できなかった。なぜ、正体を明かすことを拒むのか……。彼女にとっても初めてのケースだったようだ。
ゆえに店主は、さらに一歩踏み込む。はじめてのケースだったからこそ、アメたちに興味が湧いたらしい。
「……本当に人間なら、悲鳴をあげて逃げていくか、私の正体に驚いて襲いかかってくるか……大体はそのどちらかだと思うんだけどねぇ。差し詰め……あんたが狐なんだろう?」
「…………」
「…………」
「それでその子は間違いなく人間だけど、あんたの臭いが移っちまってるってわけだね」
「…………」
「…………」にたぁ
「……図星だね?」
店主の問いかけに、アメは言葉を失った。図星……。まさにその通りだったからだ。
それでもアメは、正体を明かそうとはしなかった。どうやらアメ自身も、その理由を理解できていなかったようである。単にむきになっていただけか、あるいはナツのことを思ったからか……。
結果としてアメが黙り込んでいると、タイミング良く、その場に助っ人がやって来る。朝起きて雪を見てからというもの、今までどこかに行っていたアオが戻ってきたのだ。
ブゥン……
「……店主様?」
「なっ?!お、お前さん、何なんだい?!今いったいどこから……」びくぅ
「些細なことです。それより、アメ様が困っています。余計な詮索は、お控え下さい」
まるで幽霊のごとくその場に現れたアオ。そんな彼女の登場に、店主は驚きを隠せなかった。
その反応は、アオの登場の仕方に驚いたことだけが原因、というわけではなかったようだ。アオからは臭いも、気配も、息づかいすらも、一切感じられなかったのである。まるで、彼女の形をした人形だけが、突然その場に浮かび上がったかのように見えていたのだ。
結果、店主は、ひとつの結論にたどり着くことになる。
「ま、まさか、お、お化け……?!」
「お化け?いえ、化け狸に"お化け"なんて言われたくないです。私は幽霊なんかじゃありません。れっきとした人間です」
「「「…………」」」しーん
「……どうしたのですか?皆さん。そんな歯にモノが挟まったような険しい表情をされて……」
一斉に何か言いたげな表情を浮かべていたアメたちを前に、納得できなさそうな様子のアオ。
しかし、彼女の登場は、無駄にはならなかったようだ。宿屋の店主が、アメたちの正体の追求を止めたからだ。
「はぁ……まぁいいさ。ここにいる間は人間、ってことにしておくよ」
その言葉を聞いて最初に口を開いたのはアオだった。彼女には、なにやら疑問に思うことがあったようである。
「あの、店主様?なぜアメ様方に正体を尋ねられたのですか?」
その質問に対し、店主は包み隠すこと無く、理由を口にするのだが……。その言葉を聞いたアメたちは、その瞬間、表情を変えることになる。
「ここに来る獣たちは、大抵、海を渡ろうって考えてるからね。あんた方もそうなんじゃないかと思ったのさ。もしそうだったら、手助けできると思っただけだよ。なぁに、ただの老婆心ってやつさ。皆が皆、同じ事をいうもんだから、船渡しを手配するのが習慣になっちまってるのかもしれないねぇ。……まぁ、人間ってなら、不要なお節介かもしれないけど」
その言葉は、アメたちにとって、文字通り"渡りに船"。南の地へ向かう船をこれから探そうとしていた彼女たちにとって、願ってもみない内容だった。
ただまぁ、彼女たちは、自分たちのことを頑なに"人だ"と言い張っていたので、そうすんなりと話は進まなかったようだが。
暑いのに、寒い季節の話を書くのってどうなんだろ……。




