1.2.1 海を眺めて、道に迷って
——彼女は狐。人を喰らいし獣の類い。されど、その背中に負うは一人の孤児。其は贄か、或いは猶子か。
「……南に行ったらすぐに大きな水溜まりが見えてきたわけじゃが……ここが暖かい場所かの?ワシには、そうは思えぬ……」
「…………zzz」
狐の姿に戻り、赤子のナツを背中にのせて、それほど高くはない山の稜線を、南に向かって移動すること、およそ7時間。彼女たちの前には、巨大な水溜まり――海の姿が見えてきたようである。
それを見た彼女は、そこまで順調に歩いてきたというのに、急に立ち止まってしまった。海があったせいで、山どころか陸自体が途切れていたので、このまま歩いて行っても南へ行けないことが明らかだったからだ。
その上、気候は、暖かくなるどころか、むしろ逆に寒くなっていたらしい。その結果、狐であるはずの彼女は、こんなことを考えてしまったようである。
「もしや……人に騙されたか……?」
湖の近くにあったナツの故郷の村へと、何年かに1度やってくる旅人たちは、皆一様に、"南は暖かい"と話していたはずだった。だが、今、彼女の目の前には、まるで世界の果てのような広大な水溜まりがどこまでも広がっているだけで、水平線の先にも陸らしき影は無く……。これ以上、どうやっても、南に行けるようには見えなかったのだ。
とはいえ、彼女がそこで思考を止めて、来た道を戻るようなことは無かった。旅人たちの話が正しいと仮定して、アメはこう考えたのだ。
「いや……東か西にしばらく行けば、もしやすると、あの水溜まりの向こうに繋がる道があるのやも知れぬ。問題は、東に行くか、それとも西に行くか……」
あるいは、やはり人に騙されていて、両方ともが行き止まりかもしれない……。彼女はそんなことを考えて、頭を悩ませた。
その結果、彼女は、ひとつの結論にたどり着く。
「やむを得んか……」
背中から伝わってくる小さな鼓動と温もり、そして寝息を感じながら、覚悟を決めたように、そう口にするアメ。
彼女が正しい道を知る手段があるとすれば、この時点では、たった1つだけしかなかった。――すなわち、この先の道のりを知っているだろう人間と接触すること。つまり、南に続く道がどこにあるのか人に聞けばいい、というわけである。
ただ、それをしようとすると、彼女にはやらなくてはならないことがあった。人に話しかける以上、人の姿に変身する必要があったのである。それも、赤子を連れた母子のように……。
「果たして……ワシにできるじゃろうか?」
これまでアメは、人間に化けて、人と接触したことが無いわけではなかった。山道を通る人に声を掛けてみたり、旅人を装って村人に話しかけるなど、面白半分でコミュニケーションを取った経験はあったのだ。
ただそれは、遊びの延長線上。失敗して狐であることがばれたら逃げれば良い、という気軽なものだった。そして実際、彼女が逃げる頻度は、少なくなったようである。
しかし、今回の場合は、今まで通りで良い、というわけにはいかなかった。失敗したときに、ナツを連れて、一緒に逃げられるとは限らないのだから。
「どうすれば良い……」
そんなことを考えながら、山の中の獣道をゆっくりと進み始めたアメ。幸い、海までは少し距離があり、近くに人の村が見えなかったこともあって、覚悟を決めるための時間だけはありそうだった。
それから、海岸線にたどり着くまでの間、アメは、これから起こるかもしれない事態を回避するため方法を、必死になって考えたようである。
◇
……それは、いよいよ山を下れば海に着く、という所までアメたちがやってきた時のことだった。
「……村じゃ」
海岸の砂浜に、木の箱のようなものをいくつか並べ、家の壁に糸のようなものを大量に掛けていた村の姿が、アメの目に入ってきたのだ。
それは漁村。
海を初めて見る彼女にとっては、漁村を見るのもまた初めてで、浜に並べられていた小船を見ても、それが水の上を移動するための乗り物だとは気づかなかったようである。もしも、その事を知っていたなら、彼女は船を奪取して、ナツと共に大海原へと繰り出していたのではないだろうか。それも、どこに陸地があるとも分からない、広大な太平洋へと……。
ただ、アメの無知が幸いして、ナツがリアル非常食になる、などということは無かったようだ。
「まずは村に近寄って、様子を見てみるかの……」
誰に向けるでもなくそう口にすると、山を下り始めるアメ狐。
それからまもなくして、不意に、こんな異変が、彼女を襲った。
「……んがっ?!魚臭っ!」
浜風が運んでくる得も言われぬ魚の臭い。それは嗅覚が敏感なアメにとって、鼻が曲がってしまうくらいに、厳しいものだったようだ。
「なん……何なんじゃ?!この臭い……。鼻が、もげてしまいそうじゃ……」
狐の姿でありながら、涙目になって、悶えるアメ。
すると、そんな彼女の声で目を覚ましたのか――
「んまぁ?」がぶぅ
――と、目の前に生えていた三角形の突起に、ナツが齧りついた。そんな彼女が、必死になって何かを吸おうとしていたところを見ると、どうやら彼女は寝ているうちに、お腹が減ってきていたようである。
「ふむ……そろそろ夕刻かの。ここの夜は寒くなりそうじゃから、しっかりとした寝床でも探s」
「んまんま」もきゅもきゅ
「……腹が減っておるのは分かっておる。じゃがその前に、寝床を探さねば、寒い思いをするのは、毛が生えておらぬナツの方じゃz」
「…………」がりがり
「ふっ……ナツよ。ついにお主は、ワシの堪忍袋の緒を切ったようじゃのう?……今日という今日は、覚悟いたせ!」ズサッ
「きゃっきゃ!きゃっきゃ!」
そして、その場に赤子の笑い声だけを残して、海とは逆の方へと走り去るアメ狐。この日はすでに、かなりの距離を歩いていたので、これから先の道のりについては、明日に持ち越すことにしたようである。
前書きを追加したのじゃ。
……本文の中でも良い気がするのじゃ。