1.6.5 放流して、破裂して
「……何をしておるのかのう……ワシは……」
頭上にあった木の葉の隙間から、ちらほらと見え隠れする無数の星々。しかしそれは、真っ暗な森の中を照らし出すほどには明るくなく……。そこを歩くアメの目には、森の中の景色がはっきりと見えていたわけではなかった。それでも彼女が、足をもつれさせることなく、まっすぐに歩けていたのは、長い人生の間で培われた勘のためか、あるいは、視覚に頼らずに歩く方法を身に付けていたためか。
そんな彼女は、見慣れた夜空を見上げながら、何やら考え込んでいたようである。ただしそれは、生きた鮭を腕に抱えて、川に向かって歩いているという、今の混沌とした状況を対象としたものではなかったようだ。
「……変わったのはワシの周りの世界か、それともワシ自身か……。なんとも、むずがゆいのう……」
一人でいることが当然だと思っていた日常に、いつの間にか同行者が増えて、そのせいか、見慣れたはずの世界が、大きく変わって見える気がする……。そんな人生で初めての経験を前にして、アメには何か思うことがあったらしい。
アメがそんなことを考えながら、森の中を歩いていると――
ザァー……
――という、川のせせらぎが、彼女の耳に入ってくる。
「さて。さっさとこやつを川に放して、ナツを暖めに戻ろうかのう……む?いや、なぜワシが、ナツのところに戻らねばならぬ!あやつはワシの非常食なんじゃから、あやつのため、と考えるのはおかしいじゃろう。……いや、そういうことか。ワシは、シロたちに、ナツが食われるやも知れぬと恐れておるんじゃな?ふむ……。そう考えると、やはり急いで戻らねばならぬやもしれぬ!シロのことじゃ。あやつ、下手をすれば、ワシの見ておらぬところで、ナツの鍋を作って食ろうてしまうやも知れぬ。待っておれ、ナツよ!いますぐに帰ろうぞ!」
と、そんな独り言とは思えない大きさの呟きを口にすると、アメは歩く速度を大きく速めた。
その結果、せせらぎの音が暗闇の向こう側から急速に近づいてきて……。ついに彼女は、川へと到着することになる。
それからアメは、2メートルほどの土手を器用に降りると……。滑らないようにフキの葉で包み込んでいた鮭を、包みごと川へと浮かべて、そして彼へと告げた。
「ほれ、鮭よ。お主の生まれ故郷じゃ。川の中に戻るが良い。というか、早う行くのじゃ。ワシは忙しい!」
そう言って、まだ手元にいた鮭を、後ろから川の深みへと押し出すアメ。
そして彼女は、来た道をまっすぐに、明るい方へと戻ろうとするのだが……。
その直前、川の方から――
バシャバシャ!
――という大きな水の音と共に、こんな声が聞こえてくる。
「お、溺れっ?!」
「ん?今、何か聞こえたような気がしたが……うむ。気のせいじゃな。さてと。早う帰るか……」
と、アメは一人納得するように呟くと……。自分のことを待っているだろうナツたちのところへと戻るために、歩き始めた。その際、彼女が、川の方へと視線を向けようとしなかったのは、本当に"声"がよく聞こえていなかったためか、あるいは聞こえていて敢えて無視したためか……。
◇
そして次の日の朝。
「はぁ……。どうしてこうなるのじゃ……」
「いやむしろ、聞きたいのは、こっちの方でしゅ」
「アメさん、憑かれやすい体質なのかもしれませんね……」
「んまんま」
アメたちが目を覚ますと、そこには――
「…………」ちーん
――乾燥した鮭トバが転がっていた。
いや、正確には、乾燥しつつあっただけで、彼はまだ辛うじて生きていたようである。そう。昨晩放流したはずの鮭が戻ってきていたのだ。なお、どうやってアメたちに気配を察知されずに近づいてきたのかは不明である。
「この鮭しゃん、よっぽどアメしゃんのことが気に入ったんでしゅね」
「あまり考えられないことですが、ここまでくると、そうとしか思えませんね……」
「いやワシではのうて、シロかアオを訪ねてきた可能性もあるじゃろ……。まぁ、さすがにナツに会いに来た、ということは無いと思うがの?」
「んまんま」だらぁ
「まぁ、待つのじゃ。ナツよ。こやつを食らう前に、少々、聞かねばならぬことがあるからのう」
アメがそう口にした瞬間――
「えっと、アメしゃん?ちょっとそれ、無理だと思いましゅよ?」
「そうですよ。お魚さんがしゃべるとか無いですって。おとぎ話でもあるまいし……」
「んまんま」
――彼女の言葉を聞いていたシロたちは、皆一様に、鮭が喋れるわけがない、と思っていたようである。どうやら彼女たち――主にシロは、鏡という物の存在を知らないようだ。
ただ、アメがそれを気にすることは無かったらしく……。彼女は昨晩のことを思い出しながら、その口を開いてこう言った。
「おそらくじゃが、こやつ、喋れるぞ?さらに言うなら、多分、鮭ではないじゃろう」
「……?!まさか……ドジョウしゃn」
「いや、ドジョウでもないと思うがの?さて……鮭よ。お主は何者じゃ?答えられるのは分かっておる。お主が昨晩、川で溺れておった時の声を、ワシが聞き逃すと思うてか?」
と、鮭に対して問いかけるアメ。
すると鮭は、ピタッ、と死んだように固まるものの……。一手に受ける皆の視線に耐えきれなくなったのか、しゃべるとは思えないその口をゆっくりと開いて、こう言った。
「……ドジョウです」
「……!やっぱり、ドジョウしゃn」
「そういう冗談はこれで終いじゃ。正直に答えねば、お主が明日の日の目を見ることは無いじゃろう。まぁ、本当にドジョウじゃとするなら、余計に生きていられぬと思うがの?」
「……さすがは姐さんでさぁ。あっしはイワナ。実は、姐さんに惚れ込みまして……」
と、鮭が、自身のことをイワナだと名乗った瞬間だった。
「たわけっ!魚が川で溺れるわけがなかろう!」
アメ狐が、怒った様子で――
ドンッ!
――とキツネパンチを鮭に振り下ろした途端――
ボフンッ!
――と鮭が、まるで中に小麦粉の入った風船のように、白い煙を撒き散らしながら破裂したのである。
その様子を見たシロたちは――
「「うわぁ……」」
「んま……」だらぁ
と、引き気味に複雑そうな表情(?)を浮かべていたものの……。しかし、次の瞬間、その表情は大きく変わることになる。
なにしろ、その煙の中から――
「……ふむ。やはりか」
「…………」ぐったり
――力無く地面に伏す、子ギツネの姿が現れたのだから……。
……書くのをサボっていた訳じゃないんですよ?
この先の話をどういう風に展開していくかで悩んで……結局、3回くらい書き直したんです。
そうしたら、3週間経っちゃって……。
申し訳ないと思っています。




