1.1.4 お腹を空かせて、口に含んで
「さーて、困った……」
「おぎゃぁ!おぎゃぁ!」
赤子が身に付けていた布が乾くまでの間、自身の毛皮の中で、彼女のことを抱いていたアメ。そのうちに、いよいよ空腹が我慢できなくなってきたのか、赤子の泣き声が止まらなくなってしまったようだ。
「今なら食え……やっぱり、食えぬ……」げっそり
「おぎゃぁ!おぎゃぁ!」
短い時間の内に、情が移ってしまったのか、アメは、赤子が泣いている様子を見ても、食べる気にはなれなかったようである。いや、泣いている理由がよく分かっていたからこそ、同情して食べれなかった、と言うべきかもしれない。
「仕方ないのう。餌を食わせてやるか。問題は、いかにして、乳を与えるかじゃが……というか、乳でないとダメじゃよな?肉じゃ……まぁ、歯が生えておらぬ以上、噛めぬじゃろうのう……」
逆立ちしても自分から乳は出ないので、アメは、近くにいるだろう鹿から乳を採って、それを与えるつもりでいたようである。
あるいは、近くの人里に人の乳を求めに行く、という手も無くはなかったが……。その人里というのがどこにあるのか、彼女には皆目見当がつかなかったので、その選択肢は取ろうにも取れなかったようである。そもそもからして、村に赤子を連れていって、『乳をくれ』と言ってすぐに与えてくれる者は、そういるものではないはずだが。
そうなると、赤子の口をどうやって鹿の乳のところまで持っていくか、という問題が浮上してくる。まさか、一日に何度あるかも分からない赤子の授乳の度に、鹿を狩ってくるわけにもいかないのだから。
「……鹿のやつら、ワシが近づいただけで暴れだすゆえ、乳を飲ませておる間も大人しくはおらんじゃろうのう……。かといって動けんくらいに痛め付けたのでは、狩るのと大差がないし……」
赤子と共に行動することになってからというもの、極端に独り言が増えた様子のアメ狐。彼女は、自分の独り言にも、そしてその言葉が誰に向けられたものなのかにも気づかずに、話し続けたようである。
「ふむ……仕方あるまい。お主、ここで大人しく待っておるが良い。……そうじゃな。布も乾いておることじゃし、逃げられぬよう、ぐるぐる巻きにしてやろう!」
アメは、そう言うと、口先と前足を使って、赤子のことを布で巻いていった。
そして巻き終わって、赤子が動けないことを確認して、さらには、近くに熊や狼などの肉食獣がいないことも確かめてから、彼女は洞穴を飛び出していったのである。
◇
しばらく経ってから、アメが洞穴へと戻ってくる。そこには無事な赤子がいて、彼女は未だ、元気よく泣いていたようだ。
そんな赤子にアメは――
「…………」
――なぜか仏頂面のまま近づくと、その鼻先――正確には自身の口を、赤子の口へとくっつけて、その中に入っていたものを飲ませようとした。
すると――
「…………」ちゅーっ
――と、アメの牙と牙の隙間から、その中に含まれていた乳白色の液体を飲み始める赤子。
そう。アメは自ら鹿の乳を口に含んで運んできたのだ。それ以外の方法で、赤子が怪我をしないように鹿の乳を飲ませる方法が思い付かなかったらしい。
ちなみに、狐は"エキノコックス"という寄生虫を媒介する宿主として知られているが、彼らは元々、日本にいない寄生虫である。そして、アメは、エキノコックスには感染していない、ということだけは断っておく。
「おぎゃぁ!げふっ……おぎゃぁ!」
「忙しない童じゃのう……」
乳を飲んでいる最中は良かったものの、飲み干した途端、再び泣き始めた赤子。
それを見たアメは、赤子に背を向けると、再び洞穴の外へと出ていった。赤子が満足するまで、鹿の乳を飲ませるために……。
◇
「この非常食。はよ大きくならんもんかのう……」
「…………」すぅすぅ
自身の毛皮の中で、健やかに眠る赤子へと、細めた視線を向けるアメ狐。彼女の今の姿を端から見ると、真面目に人の子を育てている狐にしか見えなかったが、一応彼女は、赤子を食べることを、諦めたわけではなかったようである。とはいえ、その日が来るかどうかは、微妙なところだが。
「……不思議なものじゃ。我が家を失い、"主"の側を離れることになったというのに、寂しさはまる感じられぬ……。それは、こやつのせいなのか、それともこうしている間も、見えぬ"主"がワシの側にいてくれておるおかげなのか……。あるいは……両方かもしれんのう」
赤子の頭の上に、そっと顔を寄せて、うつらうつらと目を細めながら、そんなことを口にするアメ。これから先、自分はどこでどうやって生きていけば良いのか。そして、この赤子をどうやって食べたものか……。それを考えている内に、瞼が重くなってきたようである。
こうして彼女たちの長い一日は、静かに終わりを迎えたのであった。
まぁ、色々と背景的なことを書きたくはあるのじゃが、あえて書かんでおくのじゃ?
あと、誤解がないように言っておくのじゃが、妾とアメは赤の他人なのじゃ?