1.1.3 食べ損なって、頭を抱えて
「きゃっきゃ!」
「く、食えぬ……!」
炎の川から逃れるようにして山の中へと入ったまでは良かったものの、そこで赤子を下ろして、大きな口を開けて、そしてその首元にかじりつこうとして……。しかし、アメには、それができなかった。
「こやつ一体、何を考えておる……。泣き叫べばその首の根を噛み千切ってやるところなのに……なぜ笑っておる……」
「きゃっきゃ、きゃっきゃ!」
自身が覗き込む度、嬉しそうに声を上げる赤子。大体いつも空腹だったアメは、赤子のことを一思いに食べてしまいたかった。
だが、何度も大きな口を開けて、赤子に噛みつこうとしても、その顎が閉じることは無かったようである。それが何故なのか分からず、アメは途方に暮れてしまったようだ。
「見れば見るほど腹が減るのう……。食えぬなら、せめて、味でも見てみるかの……」
ペロッ……
「きゃーっ!」
「これは絶対にうまい気がする……」
そんなことを口にしながら、赤子の額を何度か舐めて、その味を確かめるアメ。対して、赤子の方は、アメに舐められる度に、歓喜の声を上げていたようだ。
「はぁ……仕方ない……。非常食にするかの……」
まるで狐とは思えないため息を吐くと、アメは再び赤子を牙に引っかけて、その場から移動することにしたようだ。
というのも、その場を離れなければならない理由があったからだ。
「(風向きが変わる……次第にこちらに向かって、"主"から吹き出た煙が流れてくるじゃろう……)」
長い間、湖の上や山の間を流れる風を眺めてきたアメにとって、数刻後の天気を予想することは、至極簡単なことだった。そんな彼女の経験が、湖の方から、火山性のガスと灰が漂ってくることを、察知したのである。
「(さて、どこに行ったものか……。こやつも非常食とはいえ、飯を食わせねば、弱って死んでしまうじゃろうからのう……。皮と骨を食っても腹は膨れんし……。肥らせてから食うにしても……ん?そいや、こやつ、何を食うんじゃ?)」
これまで、一度たりとも、子育てどころか、主たる湖以外に恋をしたことすら無かったアメ。そんな彼女には、人の赤子を育てる方法が、思い付かなかったようである。尤も、狐が人を育てるなど、本来はあり得ないどころか、不可能なことなので、育て方が分からなくても無理はないのだが。
「(仕方ない……。とりあえずは、子を育てる鹿たちから、乳でも搾り取って与えるかの……)」
そんなことを考えながら、どこか疲れたような様子で、山の中を進むアメ狐。
一方で、彼女の口に咥えられていた赤子の方は、アメの歩きに合わせてたゆたんでいる内に、いつしか眠ってしまったようである。
◇
そして、夜が明けた。
「おぎゃぁっ!おぎゃぁっ!」
「よーしよし、食ってやろう!」
「きゃっきゃ!きゃっきゃ!」
「…………」
山の中に適当な洞穴を見つけて、そこで一晩を明かしたアメと赤子。朝になって目を覚ました赤子が、時折、泣き声を上げていたところを見ると、どうやらお腹が減ってきたようである。
そして、それ以外にも、もうひとつ。泣いていた理由があったようだ。
「ふむ……臭う……」
どうやら、赤子は布の中で、排泄をしたらしい。
「……まったく。人というものは、綺麗好きではなかったのか?主も人なら、自分で綺麗にするがよい」
そう毒づきつつも、アメは赤子を包んでいた布を器用に剥がし始めた。非常食とはいえ、臭い食料は食べる気になれなかったらしい。
「ふむ……メスか……」
布を剥がした先に、雄なら付いているはずの器官がついていないことを確認しながら、アメは汚れた布を赤子から剥がして、その場においた。
すると――
「……くしゅっ」
――と、小さく、くしゃみをする赤子。身体を包んでいた布を剥がしたことで、身体が冷えてしまったらしい。幸い、寒い季節ではなかったので、すぐに衰弱してしまうようなことは無さそうだったが、毛の無い人の赤子のことを慮って、アメは頭を悩ませてしまったようだ。
「困ったのう……。布は汚れておるし、かといって川で洗って乾く前に再び巻いたら寒いじゃろうしのう……って、ワシは非常食に対して、何を考えておるんじゃ……」
誰に宛てるでもない独り言を口にしつつ、赤子が身体に巻いていた布を再び咥えて、洞穴の外に見えていた小川へと、彼女は向かった。
そして川の中へと布を咥えたままの鼻先を入れて、何度か首を振り……。布から汚れが落ちたのを確認してから、彼女は再び洞穴へと戻る。
すると、そこから――
「(……む?おらぬ?)」
――こつぜんと赤子の姿が消えていたようだ。
「(逃げた……訳ではないじゃろう。かといって何者かに横取りされた気配もなかった……。どういうことじゃ?)」
赤子に何が起こったのか分からず、首を傾げるアメ。
そんな時――
「きゃっきゃ!きゃっきゃ!」
――と、聞き覚えのある笑い声が響いてくると共に、ギュッ、と尻尾を掴まれる感覚が伝わってきた。
その瞬間――
「?!」びくぅ
――と、全身の毛を逆立てながら、振り向くアメ。
するとそこには、アメの尻尾を両手でつかみながら、満面の笑みを浮かべる赤子の姿があったようだ。
「どうやって……まぁ、良い。お主……ワシの尻尾を弄んだ報い、受けるが良い!」
「きゃっきゃ!きゃっきゃ!」
「ぐっ……!く、食えぬ……!」ギリギリ
しかし、どんなに力んでも、笑みを浮かべる赤子には、牙を立てることができず……。
結局、ここでも食べることを諦めたアメは、赤子を器用に自身の背中へと乗せると、再び洞穴の方へと向かって戻っていったのであった。